木曜日, 11月 11, 2004

イランに留学している清水さんからの投稿。(D)

ずいぶんとポストの間があいてしまいました。ひとはやはり、自分の周囲半径何メートルのことに追われだすと、努力しないと想像の及ばない遠い国や人々の間で起きていることに対して、気がまわらない状態におちいってしまうということなのでしょうか。日々のいくらやっても終わらない仕事の数々、私的な心配ごと、あるいは逆にお祭り騒ぎの興奮などが、今日明日に直接影響を及ぼすことのない遠くの出来事への思考を遠ざけます。

大桑さんの前回のポストに、今年の夏、イスラエルに投獄されているパレスチナ人たちによるハンガー・ストライキがあったけれど、世界はアテネ・オリンピックに夢中で、なんの注目も集めなかったとありました。ひとりの人間が抱えこめる問題の種類と総量の限度、日常でつながっていない事柄への興味の持続と切実感。一筋縄ではいかないことだと思います。もし自分が、自分の暮らす社会にたいして関心(や不満)を持てなくなったら、良い悪いの判断を停止したら、その時点で、イスラエルやパレスチナ、あるいはイラクやチェチェンで起こっていることに対しての関心も跡形もなく消えることでしょう。世界で起きていることへの反応や関心は、その人が日常をどのように生きているかの反映でもあると思います。

さて、前回の大桑さんのポストからは、パレスチナの人々はグロスマンが本を書いた時点(最後の部分の2年前)から、ずいぶん変わったのではないか、という意見が書かれていました。それが状況を改善できない自分たちの政府への不満から起きていることだったとしても、少なくとも生活レベルでは、イスラエルへの対立感情が弱まっているのではないか、という見方だったと思います。

今日、アラファト氏が亡くなったという正式のニュースが流れました。パレスチナの人々は自分たちの行く末を心配しているのか、それともホッとしているのでしょうか。アラファト後のパレスチナは和平の方向に動いていきやすい状態になっていくのでしょうか。

このページに設けた専用メールアドレスに、イランに留学生として住んでいる清水さんから投稿をいただきました。いただいたのは9月中旬のことで、掲載が大変遅れましたが、今回やっとご紹介することができます。

清水さんのメールを読んで印象的だったのは、イスラムは基本的には旅の宗教であり、ムスリムたちは土地への執着が少ない人々ではないか、という視点でした。(土地への執着については、わたしと大桑さんの間でも、最初のころに随分議論された問題でした。)そういうムスリムたちが、なぜパレスチナにおいては、民族国家の設立にこだわるのか、その原因はどこからくるものなのか、そのように考えておられるようでした。

清水さんは、メールの中で、イランという同じムスリムの世界に住んでいるとはいえ、イランの人々はアラブの人々とは異なるメンタリティーを持っていること、パレスチナで起きている戦闘状態はテレビで見ているけれど、やはりイランとイスラエル/パレスチナでは、どこか遠い出来事として受けとめていること、などの注釈を加えています。

以下に清水さんの了承を得て、投稿のテキストを転載しますので、お読みください。(大黒)

 ずっと以前から気にかかり、しかし目の前にある忙しさに取り紛れ、調べることをしていなかった問題に、大桑さんのブログに接したことでもう一度目を向けることができました。そして、「グロスマンを読みながら」を興味深く読ませていただきました。

なぜ、アラブ人がパレスチナに執着しなくてはいけないのか、平和的な共存は可能なのかという問題は、中東に関わるようになった大学生の頃からずっと頭の片隅にこびりついていました。

私は現在イランに留学生として住み、暮らしています。

以前から不思議に思っていたこと、そして私の個人的な印象と疑問についてお話しさせてください。

イスラームがジハード=神の道において戦うことがムスリムの義務であるとしているために、ムスリムが住み着いた土地をイスラーム化する傾向にあったことはその通りだと思います。

私はイランで、13世紀にイスラーム世界を広く旅して回った一人の神秘主義者が残した作品を元に、イラン人の倫理観について分析しています。

この研究を通して、また実際にイランという国に住んでみて思うのは、イスラームは基本的に旅の宗教なのではないかということです。

古典文献に出てくるムスリム(アラブ非アラブを問わず)たちも、また現代のイランに住むムスリムたちも、実に気軽に他の土地へ移住し、あるいは長期の旅に出て行きます。こうした文献と実際のイラン人を見ていると、土地に対する執着はムスリムにとって本来、非常に薄いものなのではないかと思われてなりません。もちろんこれは、都市部の住人にとっての話で、土地に縛られる農民はまた別なものかもしれませんが。

彼らの書くものから、あるいは今を生きるイラン人からは、自分の故郷は故郷として愛しているが、そこは何が何でも帰らなくてはならない土地ではない。帰りたくなったら帰るし、それができなければそれはそれで仕方がない。そういう考え方が随所に見られるのです。滞在した先でもムスリムであり続ければ良いだけ。

十字軍の当時、エルサレムをその手にしていたアラブ人たちが、なぜキリスト教徒が攻めてくるのか理解できずにいたことも、文献の中からは読み取れます。

彼らは書いています。「巡礼に来たいなら来ればいいじゃないか。どうしてエルサレムがキリスト教徒だけのものでなければないのだ?どうしてムスリムを閉め出さなければならないのだ?」

マジョリティーとしての傲慢さと、イスラームがそう規定しているということから、同じ町に住むキリスト教徒やユダヤ教徒に対してさほど親切ではなかったであろうことは、文献からも、そして実際にイスラーム世界に住んでいて容易に想像できます。しかし、基本的に、彼らが一緒に住むことは、あるいは国境を接して住むことはイスラームの教義の上からは何の障害もないはずです。

こうした文献上、イスラーム教義の上からの理解と、本来ムスリムが持っている性質を考えると、今、イスラエルあるいはパレスチナの地で起こっていることに理解しがたい部分を感じるのです。

ユダヤ人とユダヤ教徒の歴史や思想については初歩的なことしか知りませんので、ここでは触れませんが、イスラエルが出してきた妥協案を振り払ってまで、なぜアラブ人がそこまで一片でも多くの土地をイスラエルからせしめなくてはならないのか、私には理解しがたいのです。

現在難民となっている人々の多くは、出稼ぎ労働者としてやってきた人々であることはご指摘の通りです。農民ではない彼らには、経済的理由を除けば、土地に執着する理由はないように感じるのです。彼らは本来、そこに住む権利と働く権利、信仰の自由を保障されれば、統治者がどの民族でありどのような宗教を持っているかはそれほど重視しないはずでもあります。もちろんムスリムであれば最も良いのですが。

イスラームが本来持っていた自由な気風をゆがめてしまったナショナリズム、あるいは原理主義に名を借りたイスラーム至上主義を恨めしく思わずにはいられません。

それほど豊富ではない体験と文献からの印象記のようになってしまい申し訳ありません。

しかし、なぜ、彼らが「民族国家」の設立にこだわらなければならないのか、その概念を植え付けたのがいったい何ものなのか世界全体が考えてみなければならない問題であるように思うのです。これはパレスチナを超えて、世界各地で起こっている紛争を考えてみることでもあると思います。

お聞きしてみたいことは次の点です。

現在のイスラエルでは、大きく右派と左派の間で対アラブ政策に対する見解が大きく違っているということですが、この右派と左派の間での歩み寄りは可能なのでしょうか?

首相暗殺という手段に出てしまうくらい両派の溝は深いように見えるのですが、もし、万が一にでもアラブ側が妥協をしてきた場合、イスラエル国内の意見をまとめることはできるのでしょうか?

現在の状況ではアラブ側が妥協してくるとは思えないのですが、是非この点をお聞きしたいのです。

ここからは全く、私と友人の個人的な話です。

私には宗教的に、非常にまじめな友人が何人もいます。彼らに聞いてみたことがあります。「現在イスラエルで起こっていることをどう思うか」と。

彼らのほとんどは、ばかばかしいの一言に尽きると言っています。

彼らはイラン人ですので、アラブのやっていることに対して批判的ということもありますし、アラブがエルサレムを手に入れたところで、自分たちが自由に巡礼できるようになると思っていません。(メッカへの巡礼を見れば明らかです)

彼らの一人が私に言いました。

「預言者は、聖戦に参加するには両親の許可が必要だと言っているのよ。まず父親が賛成しなくてはいけない。父親が亡くなっているのなら母親が賛成しなくてはいけない。こう言っているわ」

「でも、周囲の状況で賛成せざるを得ないんじゃないの?」

「それは確かだと思う。でも、誰かがそれを教えなきゃいけないんじゃないかしら。今、彼らに必要なのは、武器じゃなくて教育だと思うのよ。イラン政府はパレスチナに武器やお金を援助したと宣伝しているけど、そんなことでこの状態が終わるわけがないってことは私たち自身が体験しているわ」

「イラクとの戦争のこと?」

「そうよ、あの戦争末期、子供たちが民兵として戦争に行って、イラクの戦車に自爆攻撃を仕掛けたりしたわ。でも、そんなことで戦争なんて終わらなかった。ホメイニー師が決断をすることで終えることができたのよ(※)。彼は国民がうんざりしていることや、国自体がもう限界に来ていることを分かってそうしたんだと思うの。アラファトでも誰でも、ホメイニー師を見習うべきだわ」

理想論にすぎず、優等生的な意見かもしれません。しかし、誰かがパレスチナの指導者たちに「苦杯を飲む」決断をするよう勧めるべきだという彼女の言葉に、私は納得しました。

(※)戦争末期、現在のイラク国内に占領地を持ち、多少なりとも有利な条件を持っていたにもかかわらず、国際社会の調停を受け入れ、占領地を全て手放し、戦争を終えることに同意した。その際に「苦杯を飲む決断をした」と述べている。

つたなく、長い文章になってしまい申し訳ありません。

しかし、毎日のように、パレスチナの殺し合いの映像を見ていると、いらいらと心の片隅が落ち着かないのです。

戦闘が終わったところでそれは終わりではなく、始まりにすぎないのだと思います。それでも、始まりに至るため、イスラームにおける数少ない「妥協」が行われるよう願ってやみません。

イスラーム倫理を研究する者として、イスラーム原理主義者たちの唱えるイスラームが、預言者の唱えたイスラームだとは思えないのです。

お二人の対話がこれからどのように発展するのか、楽しみにしております。

清水直美

金曜日, 10月 08, 2004

大衆の思いと混乱、そして光 (O)

グロスマンはこの本の終わりに、国際社会の介入も国際的な軍隊の派遣をも含んだ援助によって、イスラエルとパレスチナの和平を実現とすることもありえると書いています。しかし、イスラエルの先日のテレビでは、イスラエル軍のヘリコプターから撮影された国連の救急車へとミサイルのようなものがパレスチナ人によって運ばれている映像が繰り返し流れ、こちらではかなり大々的に取り上げていました。イスラエル軍の専門家はこれはミサイルだと認識しましたが、当然国連はそんな事はあり得ないと反論し、一個人の私には実際にこれがミサイルなのかどうなのかは解りかねてしまいます。でも、ハマスなどのイスラエルへの攻撃を国連が補助しているのではないかとの疑惑をイスラエルが訴えたことは過去にも度々あり、それに加えてこれまで国連はイラク、イラン、スーダン、北朝鮮などの大量殺戮のあった他のどの国よりもイスラエルの行為に対して批判的で、したがってイスラエルの多く人々はこの土地の問題への国連の介入を望んではいません。そして他の仲介役になれる国々、EUやロシアなどはこの土地の解決に関与する意味が見当たらず、米国に反発するためにアラブ諸国に対してほほ笑みかけます。

イスラエルが現在考えなくてはならないのは、ガザ地区からのイスラエルの町に向けられたミサイル攻撃に対してであり、イスラエル側にとってはこの国連の救急車の一件は非常に重要な事だったのでしょう。シャロン首相の一方的なガザ地区からの撤退の決断の結果、イスラエルとパレスチナ問題の焦点をガザ地区に当てる事となって、パレスチナ側はシャロン首相のガザ地区撤退の決断を受け入れて交渉を始めることよりも、さらにイスラエルを攻撃する道を選んだように思います。彼らはオスロの後でも同じようにバスに自爆犯を送り込み、またキャンプ・ディビッドの後にはインティファーダを起こしました。パレスチナ側はイスラエルの行為には、すべて暴力によって答えるという道をとってきたこと、そして正直言ってそれについてイスラエル側はとても混乱しているようにさえ感じられます。そしてイスラエルがその存在を保つためにはパレスチナの町や村に兵士を置き、チェックポイントを置いて道を遮断し、しかしそのためにパレスチナの大衆の生活を苦しめる事になりました。

イスラエルの大衆はこの状態をどう思っているのか、私自身そのことについて常々疑問に思ってきましたが、先週のエルサレム・ポスト紙(イスラエルの英字日刊紙)である記事を見つけました。エルサレム・ポスト紙のトップ・ジャーナリストであるカロリン・グリック氏は、西岸地区のサマリアにいるイスラエル軍の指揮官(彼女の近しい友)が個人的に行なったあるミロイムの兵士*¹とのインタヴューについて語っていたのですが、以下がその兵士の発言です。(エルサレム・ポスト紙の原文を日本語訳しました。)

「私は西岸・ガザ地区はパレスチナ側に渡すべきだと主張するために、自分のユニットがガザ地区に設置されていた過去の3年間は兵役を拒否しましたが、その後パレスチナ側はイスラエル側がどういう行為をとろうともイスラエル人を殺すのだということに気がついたのです。このことに気がついてからは何をどう考えていいのか悩み、妻はイスラエルから他の土地へ移住したいと嘆きましたが、私は今は戦う時だと決断したのです。私はイスラエルはパレスチナに国家を与えるべきだと思う反面、キャンプ・デイビッドでそれを一度提案したにもかかわらず、受け入れるどころかイスラエルを攻撃に掛かった事実から、パレスチナ側はそれを本心からは望んでいないと思っています。でも、イスラエル軍が西岸・ガザ地区に駐屯する事が、彼らの正気を失わせるのかもしれないとも。それでも彼らは私たちが何をしようとも関係なく、私たちを殺すでしょう。だからこちらも戦い続けなければならないのです。彼らは決して私たちをほおっておきはしないでしょう。私は混乱しています。ここへ戦いに来ました。それが私のしなければならない事だから。でも実際にはそれが正しいかどうかは私にはわからないのです。」

ケレン・イェダヤというイスラエルの映画監督はカンヌで賞を受賞した際のスピーチで、「イスラエルは300万人のパレスチナ難民を奴隷のように留めている責任があり、とても恥ずかしく思う」と発言しました。そして一般の左派の人々は入植地に住む入植者を見るとパレスチナの子供たちを思い浮かべ、彼らが入植者を毛嫌いすることへと導きます。またしても、混乱、と言うべきでしょうか。この映画監督や左派の人々は、彼らもまたこのイスラエル・パレスチナ問題の一部を担っていると考えがちです。ケレン・イェダヤが現在安心して自由にこの土地で映画を製作できるのは、彼女が言うパレスチナの奴隷をイスラエルの兵士がそこに留める事によってではないのか、左派の人は兎にも角にも入植者を非難する事で、彼らの住む家がもしかするとこの土地にかつて住んでいたアラブ人の家だと言う事実に目を伏せているのかもしれない。パレスチナ難民の問題は最初の入植地が建てられる20年前に起こっているにも関わらずに。

また、入植者には二つの考え方があります。一方のグループは宗教シオニストのグループで、彼らはイスラエル政府や軍が立ち退きを申し立てても、神に守られていると言う理由を持ち出して、入植地から去ることはないでしょう。そのもう一方のグループはもう少し柔軟な考え方で、イスラエル政府が立ち退きに当たっての補助金を支払うのを、そしてどこか新しい場所で再出発する事を今か今かと待ち望んでいます。

グロスマンは2年前にこの本の最後の部分を書いていますが、今その部分を読み返してみると、それが2年前ではなくてまるで2日前に書かれたような感覚に襲われます。つまり、あれから何も変わってはいないのと言う事なのでしょうか。グロスマンはあの当時、希望を見出せませんでしたが、でも私は希望の光はトンネルの向こうに見えていると思うのです。それがほんのかすかな光であったとしても。パレスチナの大衆はあれから変化してきたように感じます。4年も続く争いで、彼らは疲れています。そしてごくごく普通の生活を取り戻したいと切望しています。今年の夏にイスラエルに投獄されているパレスチナ人は、世界から注目を集めるためにハンガー・ストライキを起こしたのですが、これまたタイミング悪く、世界はアテネ・オリンピックに夢中で、パレスチナの人々はストライキにはほとんど関心を示さずに、あるアラブの国のテレビ局が行ったアラブ版スター誕生に出演したパレスチナ青年が優勝するかもしれないと、スター誕生物語に夢中になっていました。そこで、パレスチナ政府とハンガー・ストライキを起こした人たちの家族は、このストライキに人々の関心を集めようと躍起になりましたが、大衆はもうそんな事には無関心で、そのテレビ番組のために西岸地区の町々には巨大なスクリーンが設置され、人々はその前に集まりました。さらに2週間前に西岸地区では、パレスチナ政府によってインティファーダ4周年記念を祝う集会が計画され、主催者は何万人という大勢の人が集まるだろうと予想していましたが、実際に集まったのはたったの100人足らずでした。パレスチナの大衆が政府の汚職や、政府が彼らの生活をいつまでたっても向上させない状況にうんざりしているのことの表れではないでしょうか。それでも肝心のパレスチナ政府はこの事実を認めたくはないようでした。

そして東エルサレムに住むイスラエル国籍のアラブ人たちは壁の向こうのパレスチナ側には行きたくはないのでしょう。彼らはイスラエル国籍のアラブ人のジャーナリストに、どうしたらユダヤ人の住む地区に家を買うことができるのかと尋ね、ユダヤ人の地区に住居を購入し、そのジャーナリストに「住居を売ってくれたユダヤの人や近所の人たちは、アラブ人が近所に住む事についてなんら否定的な反応はなかった」と伝えました。そしてまだ壁の建設の始まっていない村々からは、数千というアラブの人々がエルサレム周辺に引っ越しをして来ています。

イスラエルのベストセラー作家で平和運動家でもあるアモス・オズは数週間前に、「この過去1、2年でイスラエルとパレスチナの大衆の間では、お互いの国家を持つことについて受け入れる姿勢が見えてきている。まだこのことがお互いの将来を確実に保障したいう訳ではないにしろ、非常に大切な変化である。そうやって僕たちは毎日一歩一歩進んで行くのだ。」と語っています。 (大桑)


*¹:一般成人の男性は、約一年に一度、ミロイムと呼ばれる3週間ほど兵役につく制度があります。この兵士は過去3年間のミロイムを拒否したと言う事です。

木曜日, 9月 16, 2004

絶望までたどりつき。これも理解の一歩か。(D)

2回にわたる大桑さんの長文のテキストをポストされた時点で読み、その後プリントして読み、これを書く前にまた読み直し、としてみて、わたしの中に澱のように溜まっていき、そこでうごめいていること、そのことについて今回は書いてみようと思います。それは実りの少ないがっかりさせられる事実です。

結局のところ、少なくとも政治(家)レベルで言うと、パレスチナにしろ、イスラエルにしろ、和平など今のところどちらも望んでいないのだ、ということがよくわかりました。またこの土地を取り囲む重要なキーを握る(あるいは当事者としての)アラブ諸国にしても、和平とは水と油の思惑があるのだな、ということが。

誰にも望まれず、誰にも利益をもたらさない「和平」という思想、考え方。

あまりに悲観的、あまりに絶望に満ちた結論でしょうか。

いえ、これをまだ結論とは呼びたくありません。ここに、この絶望に今、わたしがたどり着いたこと、それはもしかしたら、大桑さんが立ち続けてきた地平やそこから見ている風景に、少しだけ近づいたということなのかもしれない、そんな風に思ってみたりします。

実際、この対話を始める前のわたしはと言えば、お決まりのように「パレスチナ、イスラエル双方の歩み寄りによって、和平は実現するはず。なのに両方とも歩み寄ろうとせず、それぞれより多い利益を手にするために、妥協をしようとしない」という風に、思ってきたのです。

今回、大桑さんの長い長い詳細にわたる(大桑さんによれば、ごくかいつまんだ粗筋となるのですが)解説を読んで感じたのは、それとは少し違う想いでした。上に書いたことがまったく間違ったこととは思いませんが、このような書き方、思い方ではあまりに単純すぎる、理想論すぎる、ということが少しではありますがわかってきたということです。そうわたしを思わせた記述の中から、パレスチナ難民に関するものを上げてみたいと思います。

●パレスチナ難民の創出に関するアラブ諸国の責任について:
わたしはこれまで、パレスチナ難民とは、主としてイスラエル軍の侵攻、入植によって生み出された事態と思っていた。しかし以下のような事実を知ると、この問題はアラブ諸国の思惑なしには起こりえなかったことがわかる。

1)
1948年のイスラエル建国直後(正確には宣言のその日)に、アラブ諸国6ヵ国がイスラエルに攻め入り第一次中東戦争がはじまる。当時のイスラエルのアラブ人の多くが、この軍隊に参加。その後この戦争の間、70万人のアラブ人が国外に逃れ出る。
2)
400万人に達したパレスチナ難民は、アラブ諸国が難民創出プランを実行し、イスラエル国家の存続を揺るがすために、国連の関与する難民救済機関への援助を拒否することで生まれた。

アラブ諸国にとって、パレスチナ難民という存在は、なくしてはならない、自己の正当性をプロパガンダしていくためにも、必要な存在であった(ある)という想像ができる。難民によって利益を得るものがいる限り、その存在をなくすことは難しいだろう。

●パレスチナ難民の創出に関するイスラエルの責任について:
イスラエルの右派政治家たちは、もし300万人のパレスチナ難民を受け入れるなら、この国がもはやユダヤ人国家として存在し得ないことを恐れている。

ユダヤ人のみによる純粋国家を強く望む、という排他主義があることは否定できない。この考え方は、過去のもの、つまり今の世界にとってはもう実現不可能な思想ではないかと思えるのに。ユダヤ人だけでなく、どこの国にとっても。ただ心情としてはわからなくはない。今の日本人だって、中国から5000万人くらいの移住がここ何年間の間にあって、人口の半分近くが中国人となった場合、平安な気持ちではいられないだろうし、多分、中国人を第2級市民として扱うだろう。イスラエルのパレスチナ人への扱いのように。

以上がパレスチナ難民の問題について、今回理解したことです。
もうひとつ、強く感じたことのひとつに、メディアの問題がありました。
メディアを通じて発信されるさまざまなニュース、そのソース、そこにもさまざまな思惑にまみれた情報や使いわけされた声明があり、わたしたちはテレビや新聞のニュースさえ、まともに受け取っていては目をくらまされるという現実があるのだ、ということに改めて、強く、気づかされました。

たとえば、パレスチナの政治家たちのメディア戦略として、英語による欧米への訴えかけとしては「和平」を、アラブ語によるアラブ諸国への呼びかけとしては「イスラエル破滅」を、という使い分けを実行している、というような例です。こういうことはイスラエル側の報道にも多分にあることでしょう。

独自の情報網などもたない(言語に長けていれば、インターネットを通じて、個別に情報に当たりそれを総合的に見て判断し、その中にあるウソを見抜き、とできるかもしれませんが)、普通の人間にとっては、もう信じるに足るものを見つけることや信じるに足るか判断すること、そのこと自体が難しく、絶望してテレビや新聞から目をそらすしかないのかもしれません。それがいやだったら、第一歩として、自分で少しでも各情報に当たれるよう、アラビア語からヘブライ語、ペルシア語など中東の各言語、さらにヨーロッパの諸言語も含めて、できるだけ多くの言葉を身につけて、翻訳を通さなくとも情報にアクセスできるよう武装(!)することを考えた方がいいのかもしれません。

1948年のイスラエル建国宣言にはじまったと思われる、現在のこの土地の紛争には、世界の国々が「世界」という認識を俯瞰としてはっきりと持ち、国際関係の中における自国の位置づけや優位性を一大重大事として、国家主義を強力に押し進めてきたことと無縁ではないだろうという気がしています。イスラム教徒のもともとの考え方とは別に、現在のアラブ諸国のイスラム国家主義のもとにおいては、排他主義が横行しているように。あるいは、イスラエル国家(とくに右派政治家)にとって、何百万というパレスチナ難民をかかえ込まなければならない自国は、ユダヤ人国家として態(体)をなさないし、イスラエルとは言えない、というようにこれまた強力な排他思想のように。双方がこのように思っている間は、二つの国家を新たに創出することさえ、難しいことのように思えてしまうのです。

ここまで来て、もう一度、グロスマンの本にもどってみようかと今思っています。最初に読んだときと、どう印象が変わるのか。最初に読んだときに感じたグロスマンの苦悩が、今、どう感じられるのか。そんなことを検証しつつ。(大黒)

水曜日, 9月 01, 2004

それぞれの思惑 (O )

私がはじめてイスラエルの地に足を踏み入れてから、すでに15年近い時間が過ぎました。ここ6年ほどの在イスラエルで、しかもここ数年のイスラエル国内での争いを身をもって感じる生活の中で、これまでに書いてきたこと、または個人的には、アラブまたはイスラエル側と、どちらか一方の政治的な立場はとってきていません。ここまでここで、大黒さんと一緒に書いてきたことの意味は、アラブ・イスラエルのどちらが良い悪い、また非があるかないか、卵が先か鶏が先かというような水掛け論的なものではなく、この問題の解決の方向付けには何を正しく理解することが必要か、そしていかにしてそられを解決できるのかに焦点を当てています。

この過去の120~130年間、この土地では、統治者の交代や多くの争いが起こりました。もしこれらの起こったこと全てを書こうと思えば、非常にたくさんの時間と紙が必要になります。ですから、ここでは読み手に解りやすいようにそのなかでも最も重要な事に絞っていく事にします。

1948年の独立戦争によってアラブ・イスラエルの難民の問題が初めて発生しまし、そして1967年の6日間戦争では入植地(Yesha)の問題が起こりました。 ダニエルさんが先日の手紙に書かれたYeshaというこのヘブライ語の言葉は、Judea(ユダ)とSamaria(サマリア)を省略したもので、この6日間戦争の結果、イスラエル政府は東エルサレム、イェシャ、ガザ地区、北部のゴラン高原、そしてエジプトのシナイ半島を攻め落とし、それぞれを違った目的の為にコントロールしたのですが、その中でも東エルサレムはイスラエルの一部となり、そこに住むアラブの人々は個人の自由選択によって、イスラエル国籍を取得できその国民としてのすべての権利を得ることができました。

イェシャとシナイ半島ではイスラエル政府は入植地を建設をしはじめ、ゴラン高原は軍事的にとても重要な場所としてイスラエル国防軍(IDF)の基地などが設置されました。今日の欧米の政治家や多くの人々は、イェシャの入植地が中東和平の鍵を握っていると思っているようですが、果たして本当にそうなのでしょうか。入植地は左派によって建設がはじめられ、それを右派が引き継ぎ、そして右左両派のイスラエル政府は、このイェシャやガザ地区がイスラエルの一部になることはあり得ないと解っていました。それはつまり、イェシャやガザ地区をイスラエルの一部にすることによって、約300万人のパレスチナ難民を受け入れなければならない訳で、現在、西ヨルダンから地中海にかけての土地には、ほぼ同じ数のパレスチナとユダヤの人々が住み、もし仮に西岸地区(ウェスト・バンク)がイスラエルの一部になった場合、イスラエルの右派の政治家たちは、この国がユダヤ国家として存在しい得ないことを、非常に恐れているからなのです。

このようなイスラエルのユダヤ国家としての存在の継続の重要性が、パレスチナの人々との分離フェンス(または壁)の建設、そしてガザ地区からの撤退などシャロン首相らが一方的に行っている理由とも言えると思います。またこの分離フェンスの建設やガザ地区撤退のその他の理由としては、米国のブッシュ大統領が提案したロード・マップ計画など、米国からのかなりの圧力があり、このロード・マップ計画はイスラエルがエルサレムの大部分と軍事的重要地を失うことになる、1967年当時の国境へ戻すというものでした。ちなみに、世界中でイスラエルだけがはっきりとした国境を持たない国だということを知っている人は少ないでしょう。イスラエル国議会はこれまでに、東イスラエルの国境が一体どこであるかということを、公に発表したことはありません。壁の建設が1967年の国境地区より外側にされているという理由として挙げられるのはもちろんセキュリティーですが、それと同時に政治的理由としてはアラブ諸国とパレスチナ側との将来的な交渉ための既成事実として、すでに存在する国境を持つということが目的と言えると思います。

そして、イスラエル政府が西岸地区とガザ地区に入植地を建設する理由は、土地を和平と交換すること、これらの地区をパレスチナの人々に返還することによって和平を得るということだと言えます。イスラエルの右左両派の政府はこれらの地区を返還するつもりは多分にありますが、この問題においての右左両派の考え方の違いは、これらの地区のどれほどの面積を返還し、またその引き換えに何を受け取るかです。左派は和平のためには、これらの地区の全てを無償で返還してもよいという態度で臨んでいますが、右派はできる限り少量の土地ならば返還してもよいが、その引き換えに完全なるセキュリティーの確保、つまり、パレスチナ側がすべてのテロリストを逮捕するということを条件として望んでいます。ガザ地区の入植地には7500人のユダヤ人入植者しか住居していないのでそれほどの問題もなく入植地から去り、それについて一世帯あたりに支払われる補助金で彼らは新しい土地に移転することは容易なことです。しかし、西岸地区やイェシャの入植地では27万人の入植者を抱え、彼らの多くは宗教的シオニズムのイデオロジーの夢と共に、アメリカなどの海外から移住して来たのです。「ここを去るよりも、戦って殺されるほうがましだ」と、彼らはよく口にします。そのような信念を持った彼らをその土地を去るようにするということは、なかなか容易なことではありません。そこで、恐らくイスラエル政府は、西岸地区のこれらの入植地の一部分をパレスチナ側に返還し、残った入植地の主な部分と同面積の土地を他の場所に与える方法をとるだろうと思われます。

グロスマンが言うように、パレスチナ・イスラエルの双方が妥協するということが和平への道なのですが、イスラエル側はこれまでに過去において、そして現在においても妥協をする準備がある程度できていますが、パレスチナまたはアラブ側には、過去にも、そして現在にもそのつもりが見受けられないのではないでしょうか。誰か相手がいて対話する時に、まず最初にしなければならないことは、相手の存在を認めるということだと思います。そして相手の生きる権利をも。しかし、現在までほとんどのアラブ諸国、そしてパレスチナ側はイスラエルの持つ権利というものについて認めたことがありません。

多くの人々が中東問題という言葉から、パレスチナ・イスラエルの争いを思い浮かべると思いますが、果たしてそんな小さな事ではなく実際には全アラブ諸国とイスラエルの問題と言えるでしょう。ここ数年においてはこの問題はどんどんと大きくなりつつあり、現在の主な争いはイスラム原理主義と日本を含む欧米世界との争いなのではないでしょうか。

ここで、中東と北アフリカの地図を見てみましょう。イスラム教の国を緑色、イスラエルを赤色で塗ってみます。するとどうでしょう。イスラエルはこれらのアラブ諸国の背中に突き刺さったナイフのように見ることができ、これがアラブ諸国が考えるイスラエルの存在と言えます。宗教としてのイスラム教では、常に他の一神教(主にキリスト教やユダヤ教)の人々がイスラム教の土地の一部に、同等レベルではなくしかしセカンド・クラスの市民として住むことを認めてきています。しかし、これらのキリスト教徒やユダヤ教徒が、かつて過去において、または現在においてイスラム教徒の土地であった場所に国を持つことを許可していません。

イスラム哲学においては、世界は二つに分けられています。その一つはイスラムが支配する土地、そしてもう一つは非イスラムの土地であり、それらの土地はいずれはイスラム教徒の土地になる運命にあるというもので、その成功への道はジハッド(イスラム聖戦)と呼ばれるものです。そして、このジハッドにおいてイスラム教徒の人々が行える最大の事とは、自らの命を捧げて殉教者となるという事です。そしてかつてイスラムの支配下であった土地に非イスラムの国を作ることは、神の加護を失ってしまうことと信じられているために、それは到底許されることではありません。これらの理由によって、すべてのアラブ諸国(つまりイスラム教徒の国々)はイスラエルの存在を認めることはありません。もしも、あるアラブの国の政治家がイスラエルの存在を認めてしまえば、もはや彼の生命の保証はされないといってもよいでしょう。1978年、エジプトのサダト首相はイスラエルとキャンプ・テービッドの合意調印をしますが、それを理由にサダト首相はあるイスラム原理主義者によって暗殺されています。また、ヨルダンの王も同じ理由で亡くなっていますし、1993年にはそれと同じことがイスラエルのラビン首相の身にも起こりました。ラビン首相は極右派のユダヤ人青年に暗殺されています。

イスラム教徒の人々は他の宗教徒、特にキリスト教徒やユダヤ教徒の人々に対し敵対心を持っているという訳ではなかったとすでに書きましたが、現在のアラブとイスラム教徒の国家主義においては、キリスト教徒やユダヤ教徒の人々がイスラムの世界に住むことを認めてはいないのです。ちなみにイスラム教の法では、イスラム教徒は非イスラムの国に住むことはできますが、それにあたってはその国をゆくゆくはイスラムの国にするということが前提に置かれてのみです。 ここまで書いたイスラム教とアラブ諸国の価値観は、実際にはもっと非常に複雑なものですが、今回はできるだけ簡潔にしました。

世界中のメディアはパレスチナ・イスラエルの争いを大々的に取り上げますが、西岸地区とレバノンから追放されたキリスト教については、ほとんど誰も取り上げていません。1993年のオスロ合意以前にイスラエルが管理していたベツレヘムは、80%がキリスト教徒の町でしたが、オスロ合意以後にパレスチナ側がこの町を管理し始めてからは、キリスト教徒の数は20%以下にまで減ってしまいました。彼らはイスラム教徒たちによる圧力、そして、同じキリスト教徒として手を差し伸べないバチカンや欧米のキリスト教諸国の、どこからも見放されてしまったという気持ちからベツレヘムを去りました。もし誰かが西岸地区へ行ったとしたら、彼は廃墟となったキリスト教徒の村に現在イスラム教徒が住み付き、村の名前をアラブ語に変えてしまったことを目にするでしょう。そしてそこにかつてはキリスト教徒が何世紀にも渡り住んでいた証としての空っぽの教会が、今ではただモニュメントのようにぽつんと佇んでいます。また、レバノンのキリスト教徒たちは、ベツレヘムのキリスト教徒たちと同じようにイスラム教徒からの圧力に耐えられず、その多くがアメリカとカナダに移住して行きました。 この事実について、世界中の欧米諸国のメディアが全くといっていいほど取り上げないことに、とても疑問に感じています。そして、カトリック教会もこのことについてはできるだけ触れないように、または口を重く閉ざしてしいます。欧米諸国が石油をできるだけ低価格で購入するためには、数年前にアフガニスタンのバーミヤンの仏教遺跡破壊に見られるように、黙って見過ごさなければならないことがかなり沢山あるようです。

1968年7月17日、PLO(パレスチナ解放機構)は、「イスラエルは存在権利がまったくなく、すべてのアラブ諸国はイスラエルの完全破滅まで戦う」と国家の書類に記しました。イスラエルが独立してから、イスラエルはこれらのアラブ諸国と和平を結ぼうとしてきましたが、こういった書類に書かれたことに見られるように、それが受け入れられたことはありません。1978年には、エジプトとイスラエルのキャンプ・テービッドの合意調印において、イスラエルはシナイ半島の返還にあたりそこに建設されていた入植地の全てを撤去しました。そして、シリアにもゴラン高原を除くすべての占領地を返還しました。1993年、長い交渉の末にPLOとイスラエルはオスロ合意に調印し、パレスチナ自治政府がパレスチナ独立国家への第一歩として西岸地区とガザ地区を管理することになります。このオスロ合意のきっかけになったのが、ガザ地区で起こり西岸地区へと広がった第一次インティファーダで、その後その争いは3年間続きました。この時に、現在ではすっかりシンボルの様になった、パレスチナの子供がイスラエル軍戦車に向かって投石している姿がテレビで初めて映し出されました。

1991年11月、マドリードでイスラエル対シリア、レバノン、ヨルダンとの和平会議(マドリード中東和平会議)が設けられ、その結果として1993年にオスロ合意が実現し、翌1994年にはイスラエルとヨルダンの間で平和条約調印が行われました。オスロ合意ではイスラエルはパレスチナ自治政府の管轄下になる西岸地区とガザ地区からの撤退、さらにはパレスチナ自治政府への援助資金と自治警察への武器の供給を課せられました。ダニエルさんが仰ったイスラエル政府によるパレスチナ・テロリストの補助というのはこの事を指しています。現在までイスラエル政府は補助金と武器の供給を続けていますが、PLOは、テロ活動の停止、反ユダヤまたは反イスラエル主義のプロパガンダの停止、イスラム原理主義の児童教育カリキュラムの変更、そして、1968年7月17日の書類に記した「イスラエルの完全破滅」という部分を消去するとオスロ合意にて調印したのにも拘らず、これらの公約のどれをも未だに見直されることなく、ましてや停止には至っていません。

現在までに、パレスチナ側の政治家達は彼ら戦略方法として、欧米のメディアに対しては和平を英語で訴えること、そして、アラブ語でのアラブのメディアではイスラエルの破滅と憎しみを語りかけるということを繰り返してきています。アラファト議長のお決まりの台詞は「パレスチナの少年が、パレスチナの旗を、パレスチナの首都となるエルサレムの、教会、モスク、そして旧市街の壁に翻すこと」で、実際に彼は2000年の夏、前イスラエル・バラク首相がパレスチナ側に西岸地区とガザ地区の96%、そして旧市街を含む東エルサレムを譲歩すると申し出た時に、その夢を実現するチャンスがあったにも拘らず、アラファト議長はその申し出を拒否し、その代わりに第二次インティファーダを起こしました。 アラファト議長が和平を受け入れない理由としては、過去のイスラエルのラビン首相やエジプトのサダット首相のように、彼の部下によって命を絶たれることを望んではいないからなのです。 とても有名な前イスラエル外務大臣アバ・エバンは「アラブ人は交渉するよりも戦争を選ぶ」と発言しました。前バラク首相がアラファト議長とのピース・プロセスの数ヶ月前にレバノンから撤退したことを、アラブ側はイスラエルの弱さとして受け止め、インティファーダの勃発による圧力でさらに広い部分の土地を手に入れられるだろうと考えたのです。

今、この記事を書いている最中ですが、テレビの画面には、今日、南イスラエルのベル・シェバという町でバスが二台吹き飛ばされ15人のも死傷者を出したというニュースが流れています。

このインティファーダが始まってから4年が過ぎ、約5千人という死者が両者から出て、パレスチナ側ははじめて彼らの負けを自覚したようですが、すでにパレスチナ社会は崩壊する一歩手前まで来てしまいました。人々は飢え、絶望し、社会の建て直しを切望しています。しかし、現時点ではパレスチナの政治家達はインティファーダを停止するなどの改革を行うつもりは毛頭ありません。しかしそれでも和平への希望はまだ残されています。パレスチナ側はテロ攻撃では勝ち目がないことにとっくに気が付いていますし、彼らは軍事的に勝利を収めることは到底できませんが、政治的に勝利することは可能なのです。つまり、世界は彼らに独立した国が必要だと認識しているからです。しかしその反対にイスラエルは軍事的勝利はあり得ますが、政治的勝利はほぼあり得ません。なぜなら世界はイスラエルに対抗しているからです。

グロスマンは双方が妥協しなければらない、そして必要ならば国際的な援助もあり得るだろう言いますが、彼らが正しい和平解決への道を示すことの可能性はとても低いだろうと思います。それらの国々は和平への彼ら自身のアイディアをこの土地に持ち込んでくるでしょう。この土地では、実際に歴史的に常に国際統治者が入れ替わっていたのですが、誰の援助も解決には至らなかったのです。それは近年にヨーロッパで起きたコソボやボスニアの戦争においても同じことが言えました。

永久的な和平を実現させるには、アラブ諸国、そしてパレスチナ社会に大きな変化が必要となります。仮にアラブやパレスチナ側の政治家達が和平協定に調印したとしても、その若い世代にはすでに憎しみがしっかりと植え付けられ、それを取り除くにはまた数世代の時が必要となるでしょう。そして現在女性たちは全く相手にされずに隅に置かれ、平等の権利としてあるのは死に対してのみ、つまり自爆テロになるということ。殉教者としての死ということが美化され、すばらしいものとして語られ、小学校などでは小さな幼い児童は、それがどんなにかすばらしいヒーローのような行いかと教育されている。そのような社会では若者がその以外の夢や希望とする目標は見つけられず、自爆テロになることが残された道となる。その行為によって彼らは社会的に認められ、遺族には多額の慰謝料が支払われる。世界がこういったことに対してパレスチナ側に何らかの徹底的な働きかけをし、彼らの社会を変えること、例えば民主主義社会にすること、それなしにして本当の意味での和平を実現させる基礎でさえ固められないのではないでしょうか。  (大桑)


参考文献:
Battleground: Fact & Fantasy in Palestine 』-- by Samuel Katz

Six Days of War : June 1967 and the Making of the Modern Middle East 』-- by MICHAEL B. OREN

A History of the Jews 』-- by Paul M. Johnson

O JERUSALEM 』-- by Larry Collins, Dominique Lapierre

The CLASH OF CIVILIZATIONS AND THE REMAKING OF WORLD ORDER 』-- by Samuel P. Huntington

Diaspora: The Post-Biblical History of the Jews 』-- by Werner Keller

From Time Immemorial: The Origins of the Arab-Jewish Conflict over Palestine 』-- by Joan Peters

水曜日, 8月 25, 2004

パレスチナ難民問題の発端 (O)

前回の大黒さんのポストから10日経って、やっと今日になって何とかできるだけ簡単にまとめることができました。長い歴史の中で起きている(しかも現在進行形の!)、とてもこんがらがったことについてなので、できるだけ気長にお願いしますね。では前回の私のポストの、英国の統治によってパレスチナと呼ばれるようになったこの土地のその後について、続けていきます。

第一次世界大戦後、1919年にパリ講和会議においてイギリスやフランスによってトルコ帝国の領地だった中東を分割統治されることが決められ、それはこの土地の99%はアラブの人々へ、そして残りの1%をユダヤの人々のホームランドにするというものでした。1920年、当時の米国の大統領ウィルソンが提唱した国連の前身とも言える国際連盟(LEAGUE OF NATION)によって、それまでパレスチナ(その当時はヨルダンも含まれていました)と呼ばれていたこの土地は、英国が委任統治することになりますが、英国はスエズ運河などを含む重要なこの土地を我が物にしたいだけであって、ここに住む人たちの為の統治には無関心で、特別何も行いませんでした。

そして、英国統治時代のこの土地は1929年に起きたアラブ側からのユダヤ側への攻撃のヘブロンの大虐殺、その反対では、ユダヤ側の攻撃で起きた1948年のディル・ヤシン事件。そしてそのお返しの様に起こったアラブ側による4日後のハダッサ事件とエチオンブロックの虐殺(これらの二つの事件はなぜか事実として取り上げられない事が非常に多い)に見られるように、アラブとユダヤの人々の争い・いざこざの時代と言えます。ヘブロンの町はユダヤの人々が3000年という長い期間に置いて住み続けていた土地でしたが、その2日間続いたアラブ側の武装勢力での虐殺に関して英国は全く見て見ぬふりをして、その代わりになんとか生き延びたユダヤ人には、「安全のために」という名目でヘブロンから去るように命令したのでした。当時、こういった惨事がこの土地のいたるところ(一晩で200人近くのユダヤの人が虐殺されたエルサレムの旧市街を含む)で行われましたが、それでも英国はユダヤの人々を保護すること、また保護しないにしてもアラブ側の攻撃を止めさせるなどの仲裁は一切行いませんでした。

1936年後、アラブ側の大蜂起、ユダヤの人々に対する攻撃はどんどんとエスカレートし、ついに英国にはその混乱は手に負えなくなり、この土地の統治能力を失ってゆきます。

1939年5月17日、英国政府はアラブ側のリーダー達の反ユダヤの圧力に負け、ユダヤの人々のパレスチナへの移住を限定するという白書を発し、のちにはユダヤの人々の移住を完全に禁止してしまいます。またこの白書のために第二次世界大戦時にヨーロッパからナチの手を逃れようとしたユダヤの人々はこの土地へ移住することができず、そして第二次世界大戦後にホロコーストを奇跡的にも生き延び、しかしもはや帰る家族も家も失った彼らはこの土地へと航路でやってきますが、入国は許可されずにまたヨーロッパへ送り返されるということが何度も起きました。1947年7月に起きた移民船エクソドス号の話は1960年にアカデミー賞を受賞した『栄光への脱出』という映画のモデルにもなった有名な話です。

話が前後しますが、英国はこの白書を発する前に、この土地をアラブとユダヤとの両方に分けることを計画していましたが、アラブとそして世界中からの圧力が英国に掛かり、そこで英国はユダヤの人々にいかにこの土地の少しだけを与えるかという事に基づいてこの白書を発行します。

1947年11月29日。国連議会ではパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国境を持つ国を建設するという、パレスチナ分割に関する決議が総会で採択されます。そしてエルサレムはどちらの国にも属さない、国際管理下に置くインターナショナル・ゾーンとされることになります。これに対してユダヤ側は同意をしますが、アラブ諸国はこの決議前に国連に参加している国々にかなりの圧力をかけて、この計画を阻止しようとします。そしてさらに決議後には、パレスチナ全土のユダヤの人々を攻撃をしますが、これが現在まで続いている争いのはじまりでした。そして英国が引き上げる瞬間までには、アラブ・ユダヤの双方が、どちらがどれだけより利益のある道と肥沃な土地を自分のものにするかの奪い合いが続きました。そしてユダヤの人々のたった一つの聖地、そして後にイスラムの人々もユダヤとは別の理由から彼らの聖地と呼ぶようになったエルサレムも、その最大のターゲットとなります。

1948年5月14日、ユダヤのリーダーでイスラエル初代首相となったダヴィッド・ベングリオンは、この困難な状況下でイスラエル国家独立を宣言します。そしてそのまったく同じ日にエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、サウジアラビア、そしてイラクの6カ国の軍隊が一気に建国したてのイスラエルへ攻め込み、第一次中東戦争が勃発して、当時のイスラエルにいたアラブの人たちの多くはこのアラブ側の軍隊へ参加しました。そして8ヵ月後の1949年1月までにイスラエルはこの軍隊を後退させますが、それでもエルサレムの旧市街を失い、そこにあった一軒残らずユダヤ教の会堂・シナゴーグの全て、そしてユダヤの人々の家々も全て破壊され、さらには彼らは旧市街から出て行くことを余儀なくされました。

と、長々と書いてきましたが、ここまでは現在パレスチナ難民と呼ばれている人たちの発端についての説明の序説といったところでしょうか。

1948年の4月から12月までの戦争中のこの土地から、70万人のアラブの人が逃げ出したと国連は見ています。そのうちのいくらかの人たちはこのアラブとユダヤの争いを避けるために避難し、また他の人たちはアラブ側の攻撃に対するユダヤ側による報復を恐れたためだと言われています。しかし当時のこの土地のアラブの人々の多くは、彼らの政治リーダーから、「すぐにイスラエルは滅ぼされるだろう。そして君たちがこの土地に戻れる日はまたすぐにやってくるのだから、今は一旦ここから去るように。」と言われました。しかしその理由のはっきりとしたことはわかっていません。そしてそういった状況の中で16万人のアラブの人々が、そのままこの土地に残り、逃げ出した人々のほとんどは国連がアラブの国を設立すると約束した土地へ移りましたが、ガザは当時エジプトに占領され、ヨルダンは東エルサレムと西岸地区を占領した後にヨルダンの一部として合併してしまいます。

そして国連はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設け、パレスチナ難民をシナイ半島やヨルダン、そしてシリアに住むための援助協力しますが、アラブ諸国の政府はパレスチナ難民を難民キャンプに留めるために、そしてそれによってイスラエル国家の存在を揺るがすために、この計画を、そして国連の関与するその他のパレスチナ難民援助を拒否します。現在は約400万人のパレスチナ難民と呼ばれる人々が存在し、パレスチナ・イスラエル問題の主な交渉ポイントは、双方の国境をどこに引くか、入植地(Yesha)の問題、そしてこの難民の問題なのです。エジプトからやって来たアラファト議長(ちなみに彼はパレスチナ人ではありません。)やアラブ諸国は、この400万人いるパレスチナ難民の帰還についてイスラエルに対し圧力をかけますが、しかし実際のところそれだけ多くのアラブの人々がイスラエルに住むということは、すなわちイスラエルがイスラエルとしての国家でなくなるということであり、それをイスラエル側がすんなりと受け入れるということは、絶対と言っていい程に考えられないことだと思います。

1948年のイスラエル独立当時、約90万人のユダヤの人々がアラブ諸国に住んでいましたが、その大多数の人々がそれぞれの住んでいた国から無一文で去るようにと、イスラエルの独立に憤慨した政府によって言い渡され、現在ではたったの20万人のユダヤの人々が、それほど反イスラエルではないモロッコなどの北アフリカに留まっているに限られています。そして残りの70万人のユダヤの人々はイスラエルへ裸同然でたどり着きました。現在リビアとイラクは、これらの無一文で去ることを余儀なくされた元自国民であったユダヤの人々に対して、彼らの所有財産の返還を申し出ています。そしてこの土地を去らずにイスラエルに残った16万人のアラブの人々はイスラエル国民となり、現在ではイスラエル国籍のアラブ人は約120万人いますが(現在のイスラエル国民数は6百万人です。)、 しかし彼らはアラブ諸国のリーダー達によって裏切り者と見なされ、エルサレムの旧市街のモスクへ礼拝に行くこと、そしてその他のアラブ諸国に住む家族との連絡を持つことを一切禁止されています。

この後から1967年までの戦争の歴史は、今回のポストでは特に重要ではないので省きますが、1967年6月9日に起きた6日間戦争ではイスラエルはシリア、ヨルダン、そしてエジプトを攻撃します。これはアラブ側の見方では、イスラエルはこの戦争によってガザと西岸地区、そして東エルサレムとシナイ半島を占領したとされていますが、その反対にイスラエル側の見方ではガザとシナイ半島を占領し、東エルサレムと西岸地区をヨルダンから解放して東エルサレムをイスラエルの一部としました。

さて、ここからいよいよ入植地(Yesha)について、そして前回の大黒さんの質問について、次回に続きます。(大桑)


参考文献:
The Routledge Atlas of Arab-Israeli Conflict: The Complete History of the Struggle and the Efforts to Resolve It (Routledge Historical Atlases)
by Martin Gilbert
     
A History of the Israeli-Palestinian Conflict (Indiana Series in Arab and Islamic Studies)
by Mark A. Tessler

土曜日, 8月 14, 2004

何と何がこの土地では本当に対立しているのか (D)

大桑さんの説明による、「パレスチナと呼ばれてきたもの」の実体、そして紀元前1000年にまでさかのぼるその語源について、わたしにとってはまったく未知の内容でした。中でもローマ帝国が、ユダヤの名残りをこの土地から消し去るために、「イスラエル」を「パレスチナ」と呼び改めたこと、それが世界史的に最初のパレスチナの登場だったという事実には驚かされました。さらには、その「パレスチナ」という言葉の元々の意味が、その昔この土地でユダヤ人に敵意を抱く人々を指すユダヤ人側からの言葉(ヘブライ語)のラテン語読みだということを聞いて、頭の中が混乱しました。何重にもよじれ、ひねられ、ひっくりかえされた歴史基盤の上に置かれた人々、ユダヤ人とこの土地。

そして現在「パレスチナ人」と一般に呼ばれている人々、イスラエルのアラブ人たちとの対立関係は、19世紀の終わり頃に起き始めたことのようだということがわかります。それが今回投稿メールを送ってくれたダニエルさんの言う、ヨーロッパからのユダヤ人たちが「故郷へ戻るため」にこの地に移住し、メソポタミア、シリア、エジプトからアラブ人たちが「労働のため」に移住した、その時期と一致していることに気づかされます。つまり、その頃に、それぞれの理由によって、現在イスラエルと呼ばれている土地のあたりに、ユダヤ人、アラブ人双方の人々がたくさん押し寄せ移り住むようになったのだということがわかってきます。ということは、パレスチナとイスラエルの問題は、大掛かりで長期にわたる移民問題、ということができるのでしょうか。移民というからには、普通、移民される側の主体となる国があるわけですが、それに当たるのが帝国時代のトルコであり、植民地体制でのイギリスとするなら、これら宗主国が去ったあと、移民同士が直接にぶつかりあうという事態が起きていると考えることもできそうです。ユダヤの人々にとっては、「移民」という考え方ではなく、「故郷へ戻る」ということではあると思いますが。

ダニエルさんの発言からも、いろいろ考えさせられました。いくつかを上げてみたいと思います。まず、問題の中心となっている地域イェシャ(Yesha)のユダヤ人にとっては、日本で「パレスチナ問題」と呼ばれているものは「イスラエル政府問題」として捉えられているという指摘です。わたしの理解では、今起きている問題は、よく言われているような単純な二項対立(ユダヤ人入植者対パレスチナ人先住民のような)ではないということ。ダニエルさんが兵役拒否をした理由は、イスラエル政府への反発、不服従の気持ちからと書かれています。イスラエル政府は結局のところテロリストたちを擁護しているのではないか、という疑問をお持ちのようです。もしそうだとしたら、そこにはどんな政治的な思惑あるのでしょうか。あるいはなんらかの妥協なのでしょうか。ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府であるとしたら、それはどんな理由からなのでしょう。

話は少し飛びますが、最近こんな記事を読みました。イスラエルのユダヤ人社会にはヒンドゥー社会におけるカースト制度のような階級がある、という話しです。つまりユダヤ人社会の中にもいくつかの対立事項が存在する、ということなのでしょうか。その階級とは、東欧からの移住者をトップに、イベリア半島からの移住者、そして最下層に北アフリカやイスラム文化圏からの移住者、というような順序づけがされているそうです。違う階層の男女が結婚するときのてん末をあつかった映画が「ブーレカ映画」と呼ばれて一ジャンルをなすくらい、この階級差は自明のことのようです。とすると、ユダヤ人とひとことでくくるには困難な民族集団としてのユダヤ人とその社会が見えてきます。出自や文化的背景、利害関係において、あまりにも立場が違うという意味で。こうしたことも、パレスチナ、イスラエル問題を複雑にしている要素のひとつなのでしょうか。(参照:「新潮」9月号/四方田犬彦『メラーの裔/モロッコ系ユダヤ人をめぐる6つの断章』)

もうひとつ、ダニエルさんの記述の中で、「Yeshaを発達して」良い土地にする、という箇所が気になりました。イェシャというのは問題となっているヨルダン川西岸とガザ地域のことです。ここを発達(発展)させる、といはどうことを指しているのでしょう。この地域で、イスラエル政府によって擁護されている「アラブ人テロリスト」を排斥して、ユダヤ人とアラブ人の共存関係の可能性を探り、それを育てていくということなのでしょうか。それともユダヤ、パレスチナの間にきっちりと境界を引き、今後問題の根となるようなものが残らないよう、合理的、公平に分離していくということなのでしょうか。

グロスマンの本を読んでいて印象的だったことは、この本の著者自身の考え方としては、さまざまな辛い妥協に双方が従わなくてはならかったとしても、二つの民族国家としてパレスチナ、イスラエルという別の主権国家をつくる道筋が必要であり、そのために具体的で集中的な交渉を重ねるべきであるということがはっきり書かれていることでした。パレスチナ人、イスラエル人両方にその解決能力がないなら、国際社会の介入も、国際的な軍隊の派遣もふくめて、求めたいということも2001年6月の日誌には書かれています。これが長年の戦争状態とテロの恐怖の中で日常を送ってきた、イスラエルに住むユダヤ人の一作家にとっての結論なのだということです。(大黒)

水曜日, 8月 11, 2004

読者からの手紙-京都在住のダニエルさんより。(8月6日)

今回コメントを寄せていただいたダニエルさんについて。

ダニエルさんとはエルサレムで数年前に出会い、それ以来京都出身の私はエルサレムに、そしてその入れ替わりのようにエルサレム出身の彼は京都に住みつつ交流が続いています。ダニエルさんは東京大学を経て現在は京都大学で物理を学んでいます。驚くことに、彼はこれまで日本語は一度も誰からも教わったことはなく、すべて独学だそうです。またダニエルさんには過去にエルサレムで2度もテロに遇ったというとても痛ましい経験があり、そういう方の声を聞けることは大変に貴重だと思っています。現在、彼は物理のほかにはユダヤ教の教えも勉強しつつ、日本の社会に生きながらも、きちんと安息日などを守りながら正統派ユダヤ教徒の生活をしています。(大桑)

下記はダニエルさんからの手紙です。 


「始めまして。ダニエルと申しますが、日本に住んでいるユダヤ人です。大桑さんと大黒さんが書いた意見を興味深く読みましたが、ちょっとコメントしたいと思います。

まず、「テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります」と大黒さんが書きましたけど、私も兵役拒否しました。偽の「平和」を作るためにテロリスト国を作りたいためではなく、イスラエル政府の政策には反対ですから、何年間刑務所にいてもその政策に協力することは断じてしないです。結局運良く刑務所に入る必要がありませんでしたけど。

Yesha*¹(ユデア、サマリア、とガザ、つまり西岸とガザ)のユダヤ人にとっては、PLOやHamasとの戦争は「パレスチナ問題」よりも「イスラエル政府問題」として考えられています。テロリストが使っている武器は、Oslo Accordsの後にイスラエル政府がアラファットに与えたものだとか、TunisからPLOを誘ったのがイスラエル政府だとか、ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府だとか、「パレスチナ問題」と思われることがすべてイスラエル政府自体の所為だという考え方もあります。

ユダヤ教のなかに、「lasheker ein raglayim(レシェケール エイン ラグライム)」、つまり「偽りに足がない*²」というイメージがあります。ヘブライ語だと、「Sheker」という「偽り」という意味の文字(シン・クフ・レシュ)の一つ一つには、足が一本*³ しかありません。反対に「Emeth(エメット)」という「真実」という意味の文字(アレフ・メム・タフ)の一つ一つには、足が二本あります。イスラエルにいるアラブ人がアラファットの偽りをまじめに信じていると思えないです。大黒さんが仰った通り、「パレスチナ」という国が1918-1948年にしか存在していなくて、そのときの「パレスチナ」人はアラブ人だけではなくて、イスラエルに住んでいた人たちのみんなさんでした。却って、アラブ人が自分のことを「アラブ人」と呼びましたので、自分のことを「パレスチナ人」と言ったのはユダヤ人だけでした。私の祖父は三十年代に、「パレスチナ人」のためのでもに参加しました。その「パレスチナ人」の意味は、イスラエルに住んでいるユダヤ人でした。

大黒さんが仰った通り、ユダヤ人とムスリムが平和に暮らすことができると私も思います。「宗教的対立が問題の根」ではないとは確かだと思います。問題の由来は、1920年代でのIslamist Movementの時代に始まりました。1929年に戦いを始めたのは、エルサレムのGrand MuftiのHaj-Amin al-Husseiniでした。詳しいことはhttp://www.freerepublic.com/focus/news/846987/postsとかで読むことができます。十九世紀の前に、イスラエルの人口は数万人しかいませんでした。十九世紀と二十世紀の始まりに、ヨーロッパからのユダヤ人と、メソポタミア・シリア・エジプトからのアラブ人がたくさんイスラエルに移民しました。ユダヤ人は「故郷へ戻る」ために来て、アラブ人が労働のために移民しました。そして、1929年に「ヘブロン虐殺」とかがあって、争いが始まりました。現代の偽りに対立している人が少ない理由は、アラブ人がそれを信じているからだとは思いません。「偽りに足がない」から、それを支えることがなければ、今の理不尽な状態は成り立てないと思います。PLOの偽りも支えているのがイスラエル政府の政策です。ユダヤ人がテロリストに殺されているときに、犯罪者が二人いる。その人を殺したアラブ人、とテロ組織を強めたイスラエル政府です。みんなが平和がほしいと思いますけど、平和になるために、偽りを支えてアラブ人のみのテロリスト組織が支配している国を作るのではなくて、真実を認めてユダヤ人を全イスラエルに自由にするのが正しいです。テロ組織に武器を与えるんじゃなくて、テロリストを逮捕する。

ユダヤ人の夢を砕くんではなくて、Yeshaを発達して、みんなが誇りに思われるような素敵な土地にすることが正しいだと思います。アラファットに捨てるんじゃなくて、イスラエルの大事な大事な部分として道・水道・電気構造を作りましょう。聖書から約束された国ですから。ダニエルより 」



訳注(大桑):
*¹ Yeshaはイェシャと発音します。

*² ユダヤ教神秘主義のカバラではヘブライ語の一字一字が漢字のように意味を持つとされていてます。足のように支えになる部分のない文字から成っている言葉は立っていることができずに倒れてしまいます。

*³  足が一本とは、この文字の足があるような形のヘブライ語文字のことを表しています。



金曜日, 8月 06, 2004

パレスチナとはなにを指すのか (O)

先日の大黒さんのポストから、のあたりの土地についての歴史的なことを一挙に駆け足でザザザーッと、見てみます。

まずは、このパレスチナという言葉について。

このパレスチナという名前は、紀元前1000年ごろのガザあたりのごくごく限られた地域のことを指していました。当時そこに住んでいた住民は常にイスラエル王国を攻撃し、そのためにユダヤの人たちは彼らをヘブライ語で「侵入者」という意味に当たる「プリシティン」という名で呼びました。そして、このあたりの土地はプリシティン、侵入者が住む土地という意味の「ペレシャット」と呼ばれるようになりました。

この「プリシティン」と呼ばれる人たちは、元々はギリシャからレバノンとそしてガザあたりに移り住んで来た人たちのことで、現在パレスチナ人と呼ばれているアラブ民族ではありませんでした(現にパレスチナまたはプリシティンという言葉のはじめのPの発音はアラブの言語にはなく、そこからもこの名前が元々彼らの言葉から来たのではないことが伺えます)。そして数百年にわたりユダヤ人たちは侵入を繰り返すこのプリシティンたちと戦い、紀元前900年に、遂にユダヤのダビデ王はそのプリシティン達とその土地を滅ぼしました。

西暦150年には、ローマ帝国よって滅ぼされたイスラエル王国の名残のエルサレムはアエリア・キャピタリーナという新しい名で呼ばれ、イスラエル王国は彼らによってプリシティンのラテン語読みであるパレスチナという名前を与えられました。ローマ帝国は、ユダヤ人たちが常にローマ帝国に反抗してきたことで、イスラエルそしてエルサレムという名をユダヤ人たちから完全に消し去ることによって、ユダヤ人たちを制覇しようとしたわけです。そしてその当時は、この土地にはアラブ人はまだ住んでいなかったのですが、622年にモハメッドが創めたイスラム教を広めるために、636年になって初めてアラブ人がアラビア半島のメッカやメディナからパレスチナの地域にやってきました。そしてアエリア・キャピタリーナは、やって来たアラブ人によって、今度はアルクッズと呼ばれるようになりました。

また、352年からアラブ人がやって来る636年までの284年間は、この土地はビザンティン帝国の一部としてキリスト教の国でしたが、11世紀の終りになり十字軍がこの土地に進出して、多くのユダヤ人たちとイスラム教徒を殺し、その後この土地を200年に渡りキリスト教の国として支配し、アルクッズは再びエルサレムという名に戻ります。

1291年、今度はイスラム教徒のマメルックスと呼ばれる人たちが十字軍と戦い、彼らからこの土地を奪い取り、キリスト教の国からイスラムの国となります。そしてサラディンというこのマメルックスのリーダーは、イスラムの聖典であるコーランには神はこの土地をユダヤ人たちに与えたと記されているため、世界中のユダヤ人たちにこの土地に帰還するように言い渡します。その為、1世紀から2世紀にかけてローマ軍によってこの土地から追い出されヨーロッパに移り住み、キリスト教徒によって迫害されていたほんの一握りのユダヤの人々がこの土地に帰還しました。

1517年、トルコ帝国がイスラム教徒の国を支配します。その中には当時イスラムの国であったこの土地も含まれていました。サラディン時代からトルコ帝国時代の終わりの1880年まで、主にトルコ帝国の支配によってユダヤ人とアラブ人は問題なく共存していましたが、1880年、トルコ帝国支配下のアラブ人は彼らの国を持つということに目覚めだします。そして時を同じくして、ロシアと東ヨーロッパのユダヤ人が、キリスト教徒による弾圧から逃れるための新天地を求め、この土地に移住しはじめます。

移住してきた彼らは、荒れた土地、沼地、そういった誰も欲しくないような土地をアラブ人とそしてトルコ人から買い取ります。移住してきたユダヤの人々には手に職があったりと、当然アラブ人はヨーロッパからのユダヤの移民の数が増えていくことによい顔はせず、反シオニズム社会を形成し、トルコ帝国にユダヤの移住を禁止するように訴えます。そして1886年に、ペタハ・ティクヴァやレホヴォットという開拓されていた町が、はじめてアラブ人たちによって攻撃されますが、それでもユダヤ人たちはヨーロッパから(特にロシアから)の移住をやめず、1909年には、ユダヤ人はテル・アヴィヴ(ヘブライ語で春の丘という意味)という、初めてのユダヤ人だけの町を建設します。ちなみに1880年から1914年にかけて、6万5千人のユダヤの人々がこの土地に移住してきました。

1914年、第一次世界大戦が勃発します。トルコ帝国は敵国・英国と戦います。1915年、英国はトルコ帝国に住んでいたアラブ人たちに、英国に寝返ることによって勝利の暁には彼らに独立した国を与えると約束します。かの有名な映画『アラビアのロレンス(あの若き日のピーター・オトゥール!)』のモデルになった英国の陸軍将校ロレンスは、アラビア半島にやって来てアラブのいくつもの部族(反乱軍)を指揮し、トルコ帝国の軍隊を攻撃したのです。

1917年、英国はユダヤの富豪から第一次世界大戦の戦費調達を得るために、ユダヤの人々にこの土地に国を持つ権利がある、というバルフォア宣言を発します。そして、その権利はアラブの人々にもまた同じく約束されていました。しかし、勿論、英国はこの公約を守らない。

1918年、英国が勝利し終戦し、英国はアラブとユダヤの両方についてその約束を守らずに、英国はフランスと密約を交わしていたので、アラブに対してはサウジアラビアなどのアラブ諸国を直線的に国境を引いて建設しますが、ユダヤには何も与えませんでした。1920年、サン・レモ会議において、この土地は英国の委任統治領と認められ、再びパレスチナと呼ばれます。

西暦150年にローマ帝国によってこの土地がパレスチナと呼ばれてから1770年間という月日を越えて、1920年から1948年のイスラエル建国までの28年間、この土地は再びパレスチナと呼ばれていました。  (大桑)

月曜日, 8月 02, 2004

トルコ時代のパレスチナ人、ユダヤ人の平和 (D)

本題に入る前に:
大桑さんの前回のポストにイスラエルの徴兵制のことが出てきました。歴史的な場所マサダの丘で行なわれる入隊式の話、そこから喚起されるのかもしれない若者の国民意識のことなど。そういえば、1、2年前だったか、テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります。そして最近は、兵役拒否をする若者たちが孤立しないよう、外国人が外側からその行動を支援するという活動についても聞いたことがあります。入隊する者が数として減ることで、あるいはイスラエル国内にも戦闘をしたくない者がいるということの表明で、平和への道を探ろうとしているのでしょうか。国家にとってはこれは困った問題でしょうし、その時期を迎えた若者たちにとっては命にかかわる、無自覚ではいられない切実な選択のときであることは間違いないでしょう。そして自分という個人と国家の関係を、入隊するにしても兵役拒否するにしても、はっきりと意識するきっかけとなるのかもしれません。

さて、前回、パレスチナについてのわたしの理解を書くと予告したので、今回はそれについて以下に書こうと思います。

パレスチナがいつどのように存在するようになったのか、わたしはこのプロジェクトを始める前にはよく知りませんでした。そこで「世界史年表・地図」(1998年版/吉川弘文館)というものを取り出して、世界史地図のページを繰っていきました。まず現在の西アジア・南アジア地域を確認すると、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプトなどに囲まれた地域にパレスチナの名前はありません。次に第二次大戦中(1943-1945)のヨーロッパの地図を見ます。パレスチナ、あります。次にヴェルサイユ体制下のヨーロッパ(1918-1937)の地図に目をやります。シリア、イラク王国、ネジト王国(現サウディアラビア)、エジプト王国などに囲まれてパレスチナの名前があります。次に第一次世界大戦中のヨーロッパ(1914-1918)の地図のページを繰ったとき、さっき見ていた地域にはシリアもイラクもヨルダンもなく、そしてパレスチナもなく、ただ大きく広がるトルコ帝国があるのみでした。1914年といえば、100年にも満たない過去のことです。イェルサレム、ベイルート、バグダード、そしてメソポタミアなどの文字が散らばる、大きな帝国がそこにはありました。その時期はヨーロッパにしても、イスパニア王国であり、オーストリア・ハンガリー君主国であり、ドイツ帝国であり、イギリス王国であったわけですが。

地図を見ていて思ったのは、パレスチナが国として存在していた期間はずいぶんと短い期間だったのだな、ということ。1918年以降、イスラエル建国の1948年までのたった30年間だけ存在した国だったということになります。では1918年以前、トルコ帝国時代のパレスチナ民族はどのように暮らしていたのでしょう。四方田犬彦氏によれば、オスマン・トルコ帝国下で、大シリア地方南部の一地方として漠然とパレスチナと呼ばれていたそうです。十字軍の侵略のときを除けば、「イスラム教徒とユダヤ教徒、ドルーズ教徒、さらにさまざまな宗派のキリスト教徒でさえもが、同じ帝国の臣民として、のんびりと暮らしていた」そうです。ここでは西洋諸国では一般的だったユダヤ人差別もなく、ユダヤ人も日常にアラビア語を用いて、平和的に共存していたとのことです。(「サイードとパレスチナ問題」)

ここから汲み取らなければならないこと、それは何でしょう。たとえば、パレスチナ人とユダヤ人は100年前には、同じ国の国民として、言語を共有し、宗教は違っても平和的に共存して暮らしていたという理解ができます。宗教のことにはうとい日本人は何でもすぐに、宗教的対立が問題の根と思い込むところがあるように思いますが、必ずしもそうではないんだ、ということがこのことからもわかります。では本当の問題は何なのでしょうか。あらゆる紛争がそうであるように、政治の、それも国際政治の問題がここでも最大の対立の根、ということなのでしょうか。(大黒)

マサダでの誓い (O)

あまりにも日本の現実とかけ離れた時点で書いてきたようなので、とてもわかりにくい、または、なんだかピンとこない話(または対話)、になってしまった気がするので、もう少しイメージの湧いてきそうな話をひとつ。


マサダの砦にて。

エルサレムから海抜をどんどん下がって、マイナス400メートルあたりに来ると、左手に世界最古の町、エリコが見えて来ます。そこからTの字の道をエリコとは反対の左に折れて死海を横手にさらに南下して行くこと約20分。左側のぼーっと暑く霞のかかった、波もなくただ静かに広がる死海とは裏腹に、反対の右手側には赤茶けたゴツゴツした岩肌の山々が太陽に照らされて雲ひとつない、真っ青な空の下にそびえ立つ砦があります。

マサダの砦。

1世紀の初めにローマ軍がエルサレムを奪い、そこから逃げ延びたユダヤの人々が、ヘロデ王が残したこのマサダの砦に立てこもりました。そして、ローマ軍に降伏することを最後まで抵抗したという、歴史的な砂漠の中の砦です。ここには当時1000人ほどのユダヤの人々が没落したエルサレムから逃れ、水を蓄え、町を作り、砦の下から攻めてくるローマ軍との戦いに挑みました。そして西暦73年、3年という長い月日をこの荒野のマサダで生き延びたユダヤの人々は、遂に最後の時を迎えました。山の裾野からどんどん押し寄せるローマ軍は、今にもこの高くそびえる砂漠の赤茶けた砦を攻め落とそうとしています。それを悟った9960人のユダヤの人々は、互いにくじを引きあい、誰がどの順で誰を殺すかを決めてゆきました。彼らはローマ軍に降伏してユダヤの誇りを捨てるよりも、ユダヤの誇りと共に死ぬことを選び、敵の手にかかる前にマサダの住人の960人全てが、身内によって誰がどういう順序で亡くなっていくかの、そのくじを引いたのです。

現在マサダの砦は、イスラエルでもエルサレムに次ぐ人気の遺跡観光地となっています。死海近くの山のすそからはロープウェイが砦のある山頂まで人々をあっという間に運び、ループウェイから見下ろす足元はるか下には、当時ユダヤの人々が砦まで登った「蛇の小道」やローマ軍が野営していた跡地があちこちに点々と見えます。頂上の砦跡には、宮殿のテラスや住人の使用したサウナやシナゴーグの遺跡などがあり、そこからの景色はまさに絶景といわんばかり。見渡す限り生き物の気配のない赤い乾いた砂漠と、それを照りつける太陽。そして、じっとただ横たわる幻のような死海。


イスラエルの若者は18歳になると男子は3年から4年、女子は2年間に渡って徴兵されますが、軍隊のユニットによって、その入隊式がこのマサダの砦にて行われます。そして、このマサダで敵に降伏することなく、誇り高く死んでいった彼らの先祖の魂を忘れまい、そして二度とその悲劇を繰り返さないように「Masada shall not fall again」と胸に誓います。 もしもそれまでに一度たりとして、イスラエルの土地やユダヤの民に属するということを考えたことなどなかった若者がいたとしたら、マサダの砦の入隊式は、この土地に対する思いやユダヤとしてのアイデンティティを考えるきっかけのひとつになるのかも知れません。  (大桑)

土曜日, 7月 31, 2004

今日を生きる自分、過去とのつながり (D)

まずはわたし自身への問いかけとして。今、ここ、にいるこのわたし、この人間はどのようないきさつでここに存在し何を(目的と)して生きつづけているのか。考えます。考えます。考えます。うーん、でてこない。つかみどころがみつからない。生まれた場所、育った場所、父と母、祖父母。それぞれの地名や名前を思い浮かべても、それは自然のなりゆきと家族のことに収斂していくだけで、それ以上の広がりをもって横につながっていったり、過去に深くさかのぼっていったりはしそうもないのです。

大桑さんの前回のポストに、ユダヤの人々にとって過去は記憶ではなく、現在もひとりひとりが個々の生の中に具体的に取り込んで生きる指針としているもの、その背景には歴史的事実がある、というような記述がありました。だから多くのユダヤの人々は、わたしの言う「彼らの故郷とは、幻想としての故郷ではないのか」という見方を受け入れられないだろうと指摘しています。これはもう想像力を働かせて、働かせて、彼らの言う意味を知ろうとするしかないのですが、最初に書いたように、それを考える土台がわたし(という日本人)には持ち合わせがないのです。

これはわたしが日本人として少し特別なのか、それとも多くの日本人がこのような状態なのか、はっきりとは言うことはできませんが、わたしの想像ではおおむねの日本人は、今の日本人は、そうはわたしと変わらない気持ちで生きているのではないかと思うのです。(いや、それは違う、という方がいたら、ぜひ教えていただきたいです。皮肉でもなんでもなく) つまり、日々生きる個人としての自分と、日本というコミュニティ(国)に属する、現在までの長い歴史を共有する日本人としての自分を、重ね合わせ照らし合わせて暮らしているかどうか、そのことに現実感があるのか、というようなことです。実際にはそうではないのですが、わたしたち日本人は、国家という外皮をぼんやりと意識はしているものの、自分は自分であって自分は自分の意思で生きている、のように思って生きているような気がします。そして国家がその外皮を変化させたときは、またその中で、自分は自分であって自分の意思で生きている、と感じることができるのです。それは本当のことではないのですが、実感としてそのように(受け入れ)感じて生きていくことができるということです。

そのような土台をもつ(として)日本人は、パレスチナとイスラエルのことを考えるとき、それぞれのたどってきた歴史と、その解釈によって起こる激しい対立について、立ち入ることができないと感じるか、ただ単に嫌悪感を感じるか、のどちらかに落ち着いてしまうように思います。

さて、ここまで書いてきてふと、これを読んでいる人は、おまえはユダヤ人と日本人の違いには再三ふれているけど、パレスチナはどこへいった、と思うかもしれないな、と思いました。ユダヤのことについては、日本人というアイデンティティをもちながらそれについて深く学んだガイド役の大桑さんがいるから、こうして対話を通じて少しでも近づくことができるけれど、パレスチナについてはどのように知っていけばいいのか。正直なところです。この対話を始める前に、パレスチナの成り立ちを知るために手にとった参考書は、「世界史年表・地図」(吉川弘文館)。これは紀元前3000年から現在にいたる世界史対照年表(世界の各地域が縦軸に、年代が横軸に配されて、時代ごとの各国、各地域がどのような状態だったかひと目でわかるようにしたもの)と、おおまかな時代ごとの世界史地図から成っています。わたしは人と話をしていて、本を読んでいて、テレビを見ていて、わからないことがあると、この本を取りだして事実関係を調べます。わたしの持っているのは1998年度版で少し古くなってしまいましたが、1300円という値段のわりには、とても重宝する参考書です。これを見て、パレスチナについて、どのような理解を得たかについては、次回ゆっくり書くことにします。(大黒)
 

月曜日, 7月 26, 2004

一人一人の生きた故郷としての記憶 (O)

ユダヤの人々の思う故郷は、実在する記憶としての故郷ではなく幻想としての故郷ではないかと大黒さんは仰います。それはある意味では確かにその通りなのかも知れません。前回のポストで書いたことを読み返してみると、やはりそういうふうに受け取れてしまうことにも気がつきました。これまでエルサレムとNYとに住み、様々なユダヤの人々と故郷エルサレムについて話をする機会を幾度となく持ちました。しかし、これまでユダヤの人々から故郷エルサレムは幻想の故郷だという意見を一度も聞いたことがなかったので、大黒さんのご指摘にはいい意味で驚かされたというか、新しい発見と言ってもいいかも知れません。そして実際、多くのユダヤの人々はこの意見を受け入れられないことも間違いではないでしょう。

ユダヤの暦は、私たちが日常使っているキリスト誕生を紀元とした西暦とは異なり、本日の日付は日本や他の国のように「2004年7月26日」ではなく「5765年アヴの月の8日」にあたります。そして実は、翌日のアヴの月の9日は、ユダヤの人々にはとって非常に悲しい記念日です。紀元前586年にはバビロニア人により、そしてさらに紀元70年にはローマ人によって、ユダヤの人々の生活の中心だったエルサレムの神殿が二度破壊されました。その日が偶然にも二度ともアヴの月の9日(ティシャ・ベ・アヴ)でした。その神殿の破壊以来、ユダヤの人々は、神殿の破壊と異邦人によってエルサレムから追い出され離散したことの悲劇を悲しみ続けています。神殿の破壊は決して過去だけではなく、たった今起こったかのように悲しみ、毎年このアヴの月の9日(ティシャ・ベ・アヴ)には、カラカラに乾いた炎天下の中、水一滴も飲まずに24時間の断食を行い、喪に服します。それだけではなく、その日の3週間前からは、肉類の使った贅沢な食事や散髪と髭の手入れは禁止され、人々は暑さと切なさと共に日増しに髭ボウボウのやつれた人相になってゆき、悲壮感が漂います。そして、かつて神殿の建っていたエルサレムでは、音楽演奏や祭りなどの娯楽は一切行われず、当時の神殿崩壊と離散の悲しみを街と人とが一体になり身をもって感じようとします。

ユダヤの教えの中には、過去の記憶をただ残してゆくだけではなく、その記憶を実際に現実のものとして、一人一人の生に取り込んで生きなければならないと言われます。例えば、毎年4月頃に訪れる出エジプトを祝う過ぎ越しの祭りでは、ユダヤの人々は各家庭で祭りの初夜の夕食に一家して出エジプトのしきたりに則り祈りや歌を歌い、かつてはエジプトで奴隷だったこととエジプトを後にしてから砂漠を40年の間彷徨った事などを話し合います。夕食の最後には「来年はエルサレムで」と必ず皆で歌います。その歌はエルサレムに現在住んでいる人によっても歌われ、彼らはそうして毎年エジプトからの脱出を経験します。つまり単なる過去の歴史話しでは終わらずに、先祖たちの経験は今を生きるユダヤの人々もまた経験した事実のものとして一人一人の中に生き続けます。

しかし、それでもそれは単なる疑似体験のようなものであり、実際に経験したことにはならないとも言えるでしょう。しかし、ただ単に幻想的に想像した故郷をノスタルジックに心に思い描くだけと、こうして疑似体験的経験ではあっても、かつてはそこに住みそして追われたことを一人一人の人生で起こったこととして受け止める。このふたつは異なるように思えはしないでしょうか。  (大桑)

火曜日, 7月 20, 2004

それぞれが故郷と呼んでいるもの (D)

土地と人をめぐる大黒、大桑の二つの文章を読んで、なんと考えの違う二人が一つの話題をはさんで対話しているのだろうと思われた人もいることでしょう。大桑さんの、よその土地から想う故郷への想い、わたしの、地縁のない土地への移住(再定住)への所感。大桑さんが生まれ育った国を離れて海外に長く住んできたことからくるのか、わたしが特定の土地との深い関係や故郷感というものを持たずに生きてきたからなのか。

大桑さんの書いていたユダヤの人々の望郷の想いについて読んでいて、ふと思い浮かんだことがありました。ユダヤの人々にとっての故郷とは、ひとつのコンセプトあるいは共同幻想に基づく、ひとりひとりが心に抱くイメージの実体のことだった(である)のではないか、と。具体的な細部(風の匂いや空の色など)をもつ場所としての故郷ではなく。あるいは細部(風景やその土地の自然物、気候など)から発想され思い起される、土地の記憶としての故郷ではなく。

たとえば日本に生まれ育った日本人が故郷と言うとき、それは具体的な土地(○○郡○○村など)のことであり、そこでの生活のあり方や言葉や人であり、風景や気候であり、そのことから引き起こさる感情もふくめたイメージの全体をさしています。日本人が具体的な細部なしに、故郷を想うことは不可能に思えます。ところがわたしの思うに、ユダヤの人々にとっての故郷とは、もっと精神や思考の中で純化された「思想」のようなもので、必ずしも細部をもつ具体的な土地そのもの、ということではないのかもしれない、と。

もともと日本の人は、目の前にある現実や既成事実にしばられやすいところがあって、不可能に思えることに挑んで予測をくつがえす結果を引き出すことや、高い理想をもつことを苦手としているところがあるように思います。不満の多い状況に陥った場合も、ある程度までなら「しかたない」とその現実を受け入れていきます。心の中だけにある(にしか存在しない)イメージや思想を信じ、それに従って生きていく、それを追い求めていくのは難しいと考える人々じゃないかと思うのです。それに対してユダヤの人たちというのは、思想や観念、コミュニティの歴史や記憶といった、無形のものを国家にかわる枠組として心にもち、追い求めつづけることをしてきた人々のような気がします。

実在の、細部をもつ故郷(国家)の存在を過去、未来にわたって疑わない日本人。思うことを止めたら消えてしまう、心の中にしか存在しない故郷(国家)を追い求めてきたユダヤ人。故郷という同じ言葉であらわされているものが、中身やあり様においてはかなりちがったものを指している気がしてきました。 (大黒)

月曜日, 7月 19, 2004

土地と人々、それぞれの望郷の思い (O)

人と土地の結びつき、これは非常に興味深いテーマだと思います。個人的な話をすれば、今から思い返せば日本に住んでいた二十歳頃は、ただひたすらに、がんじがらめの狭苦しい日本という土地から逃げ出したかったような気がします。そして実際には、良くも悪くも当面は日本には住まない道を歩んできたのですが、やっとここ数年になって自分がどれほど日本という国を美しく思い出し、また望郷の念にかられることでしょうか。それの気持ちを例えてるならば、女性が結婚して初めて実家の心地よさとありがたみが身に染みる、というようなことでしょうか。そしてどれだけもがいてみたところでも、結局は自分のルーツは日本であり、生まれ育った家系であり、他の何者でもない日本人でしか有り得ない自分に行き当たる。しかし、日本に住んでた頃はこんなことはまったく考える機会も理由もなくて、日本の外に出てから初めて嫌というほど考えさせられました。 
 
ある時、エルサレムのアパートの寝室で、イギリスの詩人であるW.B.Yeats(ウィリアム・イェーツ)の『Under Saturn』という詩を、大江健三郎氏のある著書と合わせて読んでいた時に、
 
『 I am thinking of a child’s vow sworn in vain
 Never to leave that valley his fathers called their home.』
 
という詩の最後の箇所を読んで、自分の中で恐らくは帰ることのない故郷に涙が止まらなくなってしまったことがありました。大江健三郎氏もよく、彼の出身の四国の在にいつか戻るはずだったという望郷心を書に書かれいてました。その望郷という共通の思いに、読み物は大江氏一色という時期がしばらく続きました。
 
ユダヤの人の望郷の念、これもまたその土地との非常に強い繋がりがあります。彼らはイスラエルの地を去ってから二千年も近くも流浪していたこと、そして何代にも渡って、いつの日にか必ずやイスラエルの地へ帰るという希望を胸に生きてきた人々です。そして歴史のある時点の流浪の過程で、何代にも渡り暮らしていたスペインを追われました。そして東へ東へと流れたユダヤの人々は、追われたスペインのあの我が家へ戻る日を胸に秘め、彼らの子供、そのまた子供たちにその思いを語り伝え、そしてスペインの彼らの家の鍵を今でも大切に保管しています。

第二次世界大戦では、ドイツからはじまりその後にはヨーロッパ全域から追われて、彼らが命からがらやっと祖国イスラエルにたどり着いたのは、イスラエルを去ってから二千年という長い長い時間を経てのことでした。しかし、世界中からユダヤの人々がこの土地に帰還したことで、それまでこの土地を祖国として暮らしていたパレスチナの人々が彼らの祖国を失なってしまいました。そのパレスチナの彼らもまた、追われた家の鍵を大切に持っています。彼らの失った故郷への思いは、ごくごく普通の暮らしをしている日本や他の国々の人々の胸に共鳴することはとても難しいでしょう。日本でのロングラン・ミュージカルで「屋根の上のバイオリン弾き」という物語があります。この物語りは、ウクライナのユダヤ家庭を通して伝統というものの大切さ、そして政治によって突然故郷を追われた彼らの悲しみを語りますが、このミュージカルが世界の中でも日本という国でこれ程までに長い期間に渡り非常に多くの人々の心に響くのには、やはり日本人の心には、ユダヤやパレスチナの人々と同じように、その土地または祖国というものに対しての思いが今でも心の中にしっかりと生きているからではないかと思いたい。  (大桑)

日曜日, 7月 18, 2004

人と土地の結びつき (D)

大桑さんの中立的解決についての具体的な説明、とてもわかりやすかったです。大掴みにこの問題のポイントが上げられていて、全体を一覧するのに役立ちました。いくつかのことを考えましたが、その中で人と土地の結びつきについて、今回は書きたいと思います。

ある土地と人との関係に意味や真理があるならば、それは何なんだろうと。今の世の中では、世界的にみても、自分の国(国籍で所属し、そこの標準の母語を話す)ではない国に、さまざまな理由で人が移動し、市民権を得たり、移住して帰化したりということが、そんなに特別なことではなく行なわれるようになってきています。つまり人は、土地と人のあり方において、じょじょに新たな段階に入ってきているのではないか、という気がしているのです。もっと昔であれば、一個人にとって、生まれた土地、言葉を覚えた土地、両親や親戚のいる土地は、絶対だったのではないかと思うのです。ヨーロッパや中東などでは、日本ほど事は単純ではないものの、大雑把にはそのように言える(少なくとも一個人にとっては)のではないでしょうか。

人間が生物のひとつである限り、土地との結びつきを生き方の根底に置くのは順当なことだと思います。植物も動物も発芽や繁殖によってある土地に根づきます。そして他の種との競合の中でテリトリー争いをして勝ったり負けたりして生き残ります。ただ人間は、植物や他の動物とはちがって、そのルールの中だけでは生きていない(いけない)ところがあるのでしょう。そこで出てくるのが再定住という考え方です。自分の出自に深く関係した土地から離れ、自分の思想に基づいた土地に、自分の意思で住みつくことです。

詩人の山尾三省は東京・神田に生まれましたが、自分の家族をもった後(インド・ネパール巡礼の旅を経て)、鹿児島県屋久島に定住しました。屋久島に「入植」し、廃村だった村を開墾して田畑を耕し、里づくりをしながら創作活動をして、そこで生涯を終えました。山尾三省の場合は、若いときに社会変革を志すコミューン活動(1960年代後半〜)をしていたとはいえ、「入植」は個人的な移住計画でした。またインドへの旅の前後から生涯にわたって仏教徒だったと思われます。

大桑さんによれば、イスラエル、パレスチナの人々にとっての土地の考え方は、宗教に根ざした歴史の理解や個々の人生観と強く結びついているとのこと。このことを理解するのは簡単なことではないですが、日本人にとって身近な例で考えると、今の70、80代くらいの日本人の「人と土地の結びつき」を見ると少しは理解できるように思うのです。その年代の人々にとって、自分の故郷(土地の言葉、お祭りやしきたり、風景や自然物、人々の気質など)は自分自身と同じくらい(あるいは自分以上に)大切で価値あるもので、よそものからけなされたり、軽く扱われたりしたら、気分を害して喧嘩にもなりかねないようなものだと思うのです。そこから離れることは痛みをともなうことであり、年をとって子どもの世話になるときも、できれば自分が子どもの住む土地に行くのではなく、自分の土地に子どもを呼び寄せたいと考えます。それがその世代の人々の土地との結びつきです。その子どもの世代(現在の40、50代)は、そういう故郷感に反発して(生まれた土地にしばられるのを嫌って)、若いころ親元を離れ都会へ向かった人々だと思うのです。

ただおおまかに言えば、こういった昔ながらの故郷感は今でも生きています。夏のお盆、冬のお正月には、どんなに電車や道路が最悪の混雑状況であっても、「お里帰り」の一局集中化、民族大移動はなくならない。それはこういった日本人の故郷感があらゆる世代の人に浸透し、根強く残っているからではないでしょうか。

わたしは両親の元々の故郷のどちらとも無縁の土地で生まれ育った、転勤サラリーマン家庭の子どもでした。また両親とも日本人ではあるものの先に書いたような故郷感を持たない人々であったこともあって、「お里帰り」に見られるような強い故郷感、所属する土地への強い愛(あるいは帰属意識)をずっと理解できないまま生きてきました。正直に言えば、違和感や反発の気持ちさえもっていました。そういう者にとって、たとえば山尾三省がやったような、血縁や出自とは別のところで発想された「再定住」という考えは、人間にとっての、土地との関係を見つめなおす、新たな段階について示唆しているのではないかと思えたのです。

ここで書いた日本人の「故郷感」についての所感が、イスラエル、パレスチナの人々にとっての土地への想いとは違ったものであることは、わたしにもわかっています。ただわからないことを考えるときに、漠然と考えるわけにもいかず、自分の知る例を上げてまずは書いてみました。またイスラエル、パレスチナについて考えを述べる対話者のひとりとして、自分の土地への考えを書いておきたいと思いました。 (大黒)

中立的解決とは (O)

グロスマンは衝突の導火線が中立的になること、そしてイスラエル・パレスチナの両者がお互いの痛みとともに真理を受け入れることを望んでいる、と述べています。では、ここで言う真理とはどういうことなのか。
 
紙の上に「真理」と、ひとこと書くことはとても容易です。そしてその意味を理解することもとても簡単なことのように思えるかもしれません。この土地に住むものではなく第三者の「真理」では、イスラエルとパレスチナのどちらかがこの土地から出て行くことで、この問題は解決される。このようにここでの「真理」とは白黒のはっきりした単純明快なものに思えるかもしれません。しかしイスラエルとパレスチナの問題とは、50数年もの長い間に絡まったいくつもの政治的策略や歴史、宗教、そして両者に属するまたは無念にも亡くなった一人一人のこの土地に対する夢、そういったことが奥深くかかわっていると思います。
 
簡単にそれらいくつかの「真理」を挙げてみると、それは「双方の権利」「宗教」、「圧力」、に分けられます。まず、理解しやすい「双方の権利」から説明すると、イスラエルはこの土地でのパレスチナの存在を認め、それにかなった土地を分けることです。そしてそれと同様に、パレスチナはこの土地でのイスラエルの存在を認め、それにかなった土地を分けること。つまりお互いが、相手も自分達と同様にここで生きる権利を譲歩し、この土地で相手との共存を認めるということです。これは日本のように「和」を重んじる価値観を持っていれば、とても簡単なことのように思えるのではないでしょうか。
 
ではそこに「宗教」がかかわってくるとどうなるのか。イスラエルではユダヤの人々がその大半を占め、パレスチナではムスリム(イスラム教徒)が大半を占めています。イスラエルとパレスチナの両者が、両宗教の聖地とするエルサレムを相手の国の首都として認めないエルサレム問題でも解るように、まずこの二つの宗教が互いを理解しあうことはとても難しいのです。イスラエルでは、ある人々は宗教上この土地すべてはユダヤのものに(または先祖代々もともとユダヤ人のものと考える)、そしてそれと同様にパレスチナではこの土地すべてがムスリムのものにと、双方が互いの宗教価値観によってイスラエルまたはパレスチナをすべて得ることを夢に見ているのです。そしてその宗教観を妥協することはそれぞれの生き方、または人生を否定するほどに、まったく妥協するわけにはいかない問題なのです。これは宗教に携わった暮らしや人生観の薄い日本の人にはとても理解しがたいコンセプトですが、この土地では、これは非常に重要なことなのです。
 
そして、ここでの「圧力」というのは、パレスチナはこの土地を囲む他のアラブ・イスラーム諸国から、イスラエルという非イスラムの国は認めるべきではないという圧力です。その要因には、白黒はっきりしたイスラムの世界観がかかわっているのですが、イスラームの視点では、この土地はイスラームのトルコ帝国に支配された歴史を持ち、一度はイスラームの土地であったのですから、この土地はイスラームのものとしてのみ存在するのです。それが今になってそのイスラームの土地を他宗教の国にすることは、彼らにとっては決して妥協できない話しです。例えば、2000年に左派のバラク首相がエルサレムについての妥協案をアラファトに示した時点で、もし互いが受け入れていれば、すでにこの土地の状況に多かれ少なかれの変化が生まれていた可能性は非常に大きかったと言えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、アラファトが頑としてイスラエルの妥協案を受け入れなかったのは、周りのアラブ・イスラーム諸国からの圧力で、このとちをすべて得てのイスラーム・パレスチナ国家を妥協するわけにはいかなかったのではないかと思います。
 
イスラエルとパレスチナの両方が、そういったお互いのすべての真理を理解し、妥協し、そして受け入れてこそ、はじめて中立的に問題を解決へ向けることができるのではないでしょうか。   (大桑)

金曜日, 7月 16, 2004

中立の意味するもの (D)

大桑さんの「癒し」という言葉への違和感、やはりと思いました。実はわたしもこの言葉がどうしてこうも日本人の心をつかむのか、考え続けてきたところがあるからです。最初にこの言葉が現われたのはいつごろだったか。発端は音楽(ニューエイジなどの癒し系)だったかもしれません。そうするともう10年くらいになるのでしょうか。日本ではその発端の中から、特に心地いい部分だけを抽出して「癒し」として拡大してきたところがあるように思います。そして今ではこの「癒し」は、日本のビジネス、消費者会にとって欠くことのできないキーワードとなっています。個人の趣味の範囲ですらなくなっているのかもしれません。

わたしがこの「癒し」という言葉に違和感(反感)をもつのは、まともにものを考えるのを放棄して、(必要なら)相手と「戦う」覚悟からも逃げて、自分のまっとうな「怒り」を押しつぶし、ひたすら何かに寄りかかろうとする甘えの気持ちを感じるからかもしれません。同じような系列の言葉に「自分にご褒美」(これも非常に好んで使われています/女性専用の言葉)があります。また最近は「自分と向き合う」という言葉も好まれています。つまりどこまでいっても、自分。自分の前に自分、自分の延長線上にも自分しか見えない、という悲劇です。

今、この文章を書いていて二つの言葉に立ちどまりました。「戦う」と「怒り」です。この二つは両刃の剣であるところがあって、怒りをつねに爆発させ、それを暴力によって解決しようとすれば戦争が頻発します。でも自分の「怒り」を飼い馴らし、起きていることの本質に触れないようにすれば、問題はいつまでたっても解決されないでしょう。隠されたままの怒りは、将来もっと大きな不幸につながることもあります。「戦う」というのは必ずしも暴力を意味しません。「怒り」の原因になっている大元の前に自分が進みでて、相手も同じテーブルに引き出して、解決するため全身全霊をかけること、それが本来の「戦い」だと思うのです。それは別の言葉で言えば、「対話」です。

グロスマンの本の「序」にこんな文章があります。
  
  わたしが望んでいるのは、この衝突を起す導火線が次第に中立的になっていくこと、双方が倦怠を感じること、イスラエルもパレスチナも痛みとともに真理を受け入れ、目標を実現するために非暴力的な手段を採用するようになることである。(ⅸ)
  
衝突を起す導火線を中立的にする、とは何を意味するのでしょう。それはイスラエル国内のことで言えば、対立軸(右派と左派)の、背中合わせに立って正反対に向けているベクトルの角度を少しずつでも小さくしていくことなのでしょうか。

対立軸をもたない日本人。それが心からの合意でそうであれば、こんなに幸せなことはないでしょうけど、怒りを見えないものし(され)その結果としての一元化だとしたら、その手のつけようのない不幸を忘れるためにさらに強力な「癒し」アイテムが必要とされるのかもしれません。

*7月14日のポストの中の「現政権に意義をとなえる・・・」は「異議をとなえる」の間違いでした。直しを入れてあります。

木曜日, 7月 15, 2004

なぜ軸というものができない、またはできるのか。(O)

先日のポストでも述べたように、エルサレムからでは日本の現状の詳細な事にまではわからないにしろ、最近の日本は「何かがおかしい」ということが海の向こうにいても、あるいは海の向こうだから尚のこと感じられるのかもしれません。

ここ近年でよく使われている、あまり好きではない「癒される」や「癒し」という系統の流行言葉。この言葉を耳にする、または目にする度に、これは一体どういうことだろうと思います。多くの人が欲しい物を簡単に手に入ることができ、情報が溢れた非常に物質豊かで平和な日本。そんな日本という国に住む人々は、一体何に不満を持ち、危機を感じて、この「癒し」を求めているのか。この飽食時代に生きる者が見失った社会や伝統、おそらく人々は方向性や価値観を探し出せずにいる、そしてそれらを探す必要性をもまた見出せないでいる、ということに関係しているのではないでしょうか。

そのような社会では、国や個々の明確な思想などは、非常に馬鹿げた時代遅れなものなのかもしれません。そんな無駄なことに時間を費やして「考える」くらいならば、インターネットで現実味のないヴァーチャルなチャットやゲームをするほうが遥かに充実感を与えてくれる。仮にそれが一時しのぎであっても、いえ、ひょっとすると、一時しのぎがもてはやされている時代なのかもしれません。しかし、その一時しのぎの充実感とは、本当は虚無の仮の姿なのではないか。そして、その虚無感が「癒し」という言葉を求めさせ、そのどことなく心地よい響きに、なんだかわからないけれど癒されて安心してしまう。その辺りをぐるぐると回っているような、なんともおかしな実感のない世界が構成されているのではないかと思うのです。

この中東の端くれのイスラエルで、もし誰かが仮に「癒されたい」と思った時、それは今日本で起こっている「癒し」の現象と同じことなのでしょうか。いいえ、そうは思いません。もしこの国で誰かが癒されたいと願ったとすれば、それは家族の誰かが毎日通勤のために乗っていたバスがある朝突然爆発して亡くなってしまった、または西岸地区でIDF(イスラエル国防軍)の兵役を務めていた最愛の息子が、軍のオペレーションでの失敗、またはハマスやイスラム聖戦に狙撃されて無念の死を遂げた、そんな喪失の苦しみから回復するための癒しではないでしょうか。または、このいつ自分に降りかかってくるかもしれない死の現実にうんざりして、ほんの少しの安らぎでもいいから得たいと思う。それはパレスチナに住む人々にも同じことが言えるかもしれません。

果てしなくくり返される喪失からの悲しみや苦しみ。そういう、非常に現実的でありかつ非現実的な日常では、ヴァーチャルな絵空事のような癒しの世界は成り立たないでしょう。仮に癒されたいと願っても、誰かが助けてくれるわけでもない。まわりもみな、それぞれに喪失があり、苦しんでいるのですから。そうすると、そこから自分を助けられるのは誰でもない自分であって、するといやでも色々なことを考えていかなければならない。その延長線上に、イスラエルのあり方とパレスチナのあり方、その両者の共存、そういったことを身をもって考えざるを得なくなる。この「考える」ということが、イスラエルの建国後、戦後50年以上にも渡ってイスラエルで繰り返されている。そしてそれに加えて、第二次世界大戦中にヨーロッパで起きたホロコーストから生き延びた、または生き延びられなかった、その記憶も消えることなく存在しているのです。

このイスラエルという土地では、このようにして個人個人の軸というものが作り上げられてきたのではないかと。しかし、ここに来てすっかり物質社会となってしまった平和ボケした日本では、その土台すら固められないのではないでしょうか。大黒さんがおっしゃるように、日本にも昔はそういった「考え」または「軸」というものを持ったご老人や若者がたくさん存在していたのではないでしょうか。 (大桑)

水曜日, 7月 14, 2004

国のなかの対立軸 (D)

大桑さんの昨日のポストを見て、二つのことを思いました。ひとつは国の中に対立軸をもつ状況について。背中合わせに立っているかのようなベクトルをもつイスラエルにおける右翼派と左翼派の存在のこと。そしてもうひとつは、起きていることの実感を人はどうやって自分のものにしているのか、について。これは知識人の役割は何かという問題にもつながっていくことかもしれません。

イスラエルの中での右翼派、左翼派の話を聞いて思ったのは、日本にはこういう対立軸はないなということ。今回の参院選の結果で自民、民主の二大政党時代が来た、というような報道がされていますけれど、これはグループの違いではあるけれど、明確な思想の違いによるグループ化には見えないのです。この二つのグループには本質的な対立軸はないでしょう。日本人がよく「選挙に行っても(どこが勝っても)世の中変わらないから」というのも、実はそういうところから来ているのかもしれません。日本に対立軸があるとすれば、既得権や地位をもつ(国の保護下にあったり、大きな組織に属している)人と、そうではない人の対立、いえ、対立はしていませんね、実際は。

イスラエルの人々が大きくは右派、左派に分かれていて、まったく反対のベクトルをもっていること、国がまっぷたつに分かれていることが幸せなことかどうかは別にして、本質的な対立軸(違う考え方の可能性)を自分たちの中にもちえない国民も、幸せとは言えないかもしれません。対立軸があってもおかしくない状況なのに、もつことを知らないとしたら。日々生きることと、自分の中に考えをもつことがつながっていない。

日本から離れていると日本で起きていることの実感がつかみにくい。流行やちょっとした言葉のニュアンスなどでも。わかります。これは多分、ものごとというのは事実関係からだけ成立しているのではないからでしょうか。ニュースを読んで起きていることの粗筋らしきことは知っても、何が原因でどういう経緯でそのようになったのか、これからどうなるのか、自分以外の人はどう受けとめているのか、などは簡単にはわかりません。今回の参院選での大方のムード(現政権に異議をとなえるために二番目の政党に票を集める)は、いったい誰が先導したのでしょう。そうしましょう、と口に出して言っている人を見たことはありません。(「異議をとなえるために選挙に行こう」という運動はありましたが。)でも今回の二大政党化への動きをつくったのは、こういう暗黙の了解によるムードだったのではと思います。(まわりの空気を読む、という才能は日本人は非常に長けていますから)

起こっていることを自分の頭で理解することは簡単なことではありません。でも不可能なことでもないのです。ただそういうときに、自分の頭であれこれ考えているときに、同じように自分の頭でものを考えている人の考えを聞くのは、役にたちます。また希望につながることもあります。知識人の発言に意味があるとしたらそういうことではないのかと思うのです。知識人でなくとも、ものを考える友人が近くにいればそれで事足りますが、それがなかなかいない。そういう話しをまともにできる人がそうはいない、それが現実なのですから。(大黒)

火曜日, 7月 13, 2004

一人の人間と国をつなぐもの (O)

日本では参院選があったとの事ですが、私はイスラエルから在外投票という方法が可能にも拘らず、投票へ参加はしませんでした。イスラエルから毎日のようにインターネットを利用して、日本のニュースを読むことはできます。しかし、政治の細かな流れや日常的な事件、そして現在何が流行っているのかなど、実際に日本に住んでいるように実感することは非常に難しいと感じています。それはおそらく、大黒さんがイスラエルで起きていることを実感できないように。

しかし、こちらから高みの見物をしている限りでは、実際に今の日本の現状を本当に変えたいと思う人々がいるのでしょうか。大黒さんが仰るように、何か特別な理由がない限りは辺り触らず、自分の範囲の中で生きてゆくのが現代の風潮のようです。

昨日の私のポストでは、イスラエルの人々はそれぞれこの国についての意見があると言いましたが、それではここで少しその説明をします。

イスラエルでは、大きく分けると左派・右派に分かれます。左派は、前バラク首相や1995年に極右のイスラエル人に暗殺されたラビン首相のように、パレスチナ側に土地を譲歩することによりイスラエルの存在が保たれると唱えます。そして、右派は、土地を分けることでパレスチナが満足し和平を結ぶとは信じず、土地を分けることでイスラエルは生存危機に陥り、そのため一切この土地の譲歩をせずに、セキュリティーが確保されたイスラエル国家を存在させようとします。この土地に関する左派と右派の思いは、ベクトルの両端の矢印が反対に向かって進んでいるようなもので、左派と右派の間に同意する地点がまったくありません。

なぜこの左派と右派が協力し合うことなく、それぞれの道を突き進むのか。左派右派に関係なく、イスラエルとパレスチナの人々にも同じことが言えます。イスラエルとパレスチナに住むすべての人々が、この土地に対する様々な思いがあります。例えば、家族の歴史や宗教やその他の何か。そして、彼らはごくごく普通の日々を過ごせる時代が来ることを望んでるのにもかかわらず、そんな何かに囚われて、自己主張に突っ走り、本当に何を優先してゆくべきかをどこか履き違えているような気がします。  (大桑)

月曜日, 7月 12, 2004

一人の人間と国をつなぐもの(D)

日本では昨日、参院選がありました。自分の行為(投票)がどのような役割を果たしているのか、集計結果を見ていて、よくわからなくなりました。もちろんただの1票なんですが、どこにもつながっていっていない、同じように考える人がいないのではという無力感を感じました。

大桑さんによれば、イスラエルの人は一人一人自分の国に対して確固たる意見をもっている、ということです。その「確固たる」ところが、譲れない一線や争いごとを生む芽の一つになっていたとしても、それなしには今日も明日も生きられない現実があるのでしょう。

それに比べると、日本の多くの人は、自分や家族の歴史と国の歴史を重ね合わせて考えることが少ないように思います。その必要がない、なくても(ないほうが)生きやすいということかもしれませんが。だから70年くらいの人生なら、戦争でもないかぎり、国のことは忘れることにして、自分だけの人生を生きることも可能といえば可能です。

グロスマンの本を読みはじめて思ったのは、対立軸を(その記憶も含めて)持たない日本人を生きるわたしに、イスラエル・パレスチナの問題がわかるのだろうか、と。日本人にとって対立軸になりえるものとして、被害者側としてはアメリカ(敗戦国だから)、加害者側として朝鮮半島や満州での侵略などがありますが、どちらも今では現在の中に埋もれて見えなくなっています。30年くらい前には、日本のおばあさん、おじいさんの中に、「朝鮮人なんたらかんたら」のような言い方で、怨念のこもった民族差別を口にする人はいました。そういう意識が生きていた、対立軸が存在していた時代なのでしょう。

対立軸を持たず、細分化された同質の者どうし集まることを好み、争いごとは避けて通る日本人を、その社会を生きるわたしに、何がわかるんだろう。そうは思うけれど、経験していなくても、その立場になくても、人間には想像力というものがある。少しは何かわかることがあるんじゃないか。大桑さんも手をかしてくれるということだし。(大黒)

日曜日, 7月 11, 2004

なぜこの本を手に取らなかったか(O)

まずはじめに。

これからここで大黒さんと私が意見を交換していく上で、どのような意見が出てくるのかはまだ未知のものです。ひょっとすると、日本では少々驚くような、また、今まで受け入れられたことのないような見解も少なからず飛び出すのではないかと思います。そこで、これまでメディアを通して得た頭の中にあるイスラエルとパレスチナの両国についての情報を、一度白紙に近い状態に戻すことが可能であるならば、そのような状態で読んで頂きたいと思うのです。

実を言うと、これまで私は一冊たりとも、この手の中東政治関係の書物を完読したことがありません。そして実際に、私と同じように、この手の本を一度も手に取った事のないイスラエルの人々もとても多いのです。

なぜこの手の本を読まないのか。

これまでに、知識人というジャンルの人達は、ただ彼らの著書の中で中東平和にいかに哲学的な意味合いを持たせるかという事以外には、この何もしていないのではないかと思うのです。ここでの日常的な暮らしの中では、平和についての哲学は必要ではなく、ここに存在するのは毎日のように無意味に奪われる命と目前の死であり、哲学ではない。そして、多くのイスラエルの人々にすれば、彼らの一人一人がこの国について少なからずも意見を持っている。そして、例えば、この本の著者グロスマンの意見は、単にお隣のグロスマンさんの一意見でしかなっく、彼の伝えている日常的に感じる恐れ・悲観・そして希望は、ここに生きる誰もが同じように感じていることなのです。

そんな理由から、これまでこの手の本を手に取る気にはならなかったのです。しかし、この中東のイスラエルから遠く離れた日本に住む大黒さんが、「読んでみよう」と仰ったことに、なぜか意味があるような気がして、この本を手に取ったのです。

(大桑)

なぜこの本を手にとったか(D)

わたしがグロスマンの「死を生きながら」に興味をもったのには二つくらいの理由がありました。一つは友人の大桑千花さんが住むイスラエルという国について知りたいと思ったこと。大桑千花さんがどんな心情でそこで生きているかも含めて興味がありました。もう一つは、日本におけるイスラエル・パレスチナ問題の受けとめ方への興味です。わたしのそう広くはない体験の中での印象ではありますが、日本では、なんであれ、パレスチナやPLOに対して非難の目を向けることはタブーであるという約束ごとがあるような気がずっとしていました。それは、新聞やテレビなどの報道や知識人のコメントなどを読むたびに、知りたいことの半分しか知らされていない、という気にさせられていたからだと思います。どんな問題であれ、ものごとには両面がある。その両方を見なければ、その問題を知ったことにはならないし、少しでも公平で民主的な考えをもちたいと望むなら両面を見る必要がある、そう思いました。
1954年イスラエル生まれのイスラエル人の作家デイヴィッド・グロスマンの著書を知ったとき、ユダヤ人サイドの考えを知るのに、これほどぴったりの本はないのではと思い手にとりました。政治的には左派の平和運動家で、宗教的には無宗教であるというグロスマン。パレスチナ出身のアメリカ人の学者・作家エドワード・サイードの著書がよく知られている日本において、グロスマンの著書を読むことの意味は小さくないとも感じました。  (大黒)
●デイヴィッド・グロスマン著「死を生きながら/イスラエル1993-2003」(2004年4月、みすず書房刊/二木麻里訳/ヘブライ語の原典からHaim Watzmanにより訳された英語版を底本に、Bloomsburyによる英国版を参照した全訳+出版後、著者より送られてきた7章分)
●"DEATH AS A WAY OF LIFE/Israel Ten Years After Oslo" by David Grossman(published by Bloomsbury Publishing Plc. <38 Soho Square, London W1D 3HB Publishsed in association with Farrar, Straus and Giroux Publishers, New York> in 2003)