火曜日, 7月 20, 2004

それぞれが故郷と呼んでいるもの (D)

土地と人をめぐる大黒、大桑の二つの文章を読んで、なんと考えの違う二人が一つの話題をはさんで対話しているのだろうと思われた人もいることでしょう。大桑さんの、よその土地から想う故郷への想い、わたしの、地縁のない土地への移住(再定住)への所感。大桑さんが生まれ育った国を離れて海外に長く住んできたことからくるのか、わたしが特定の土地との深い関係や故郷感というものを持たずに生きてきたからなのか。

大桑さんの書いていたユダヤの人々の望郷の想いについて読んでいて、ふと思い浮かんだことがありました。ユダヤの人々にとっての故郷とは、ひとつのコンセプトあるいは共同幻想に基づく、ひとりひとりが心に抱くイメージの実体のことだった(である)のではないか、と。具体的な細部(風の匂いや空の色など)をもつ場所としての故郷ではなく。あるいは細部(風景やその土地の自然物、気候など)から発想され思い起される、土地の記憶としての故郷ではなく。

たとえば日本に生まれ育った日本人が故郷と言うとき、それは具体的な土地(○○郡○○村など)のことであり、そこでの生活のあり方や言葉や人であり、風景や気候であり、そのことから引き起こさる感情もふくめたイメージの全体をさしています。日本人が具体的な細部なしに、故郷を想うことは不可能に思えます。ところがわたしの思うに、ユダヤの人々にとっての故郷とは、もっと精神や思考の中で純化された「思想」のようなもので、必ずしも細部をもつ具体的な土地そのもの、ということではないのかもしれない、と。

もともと日本の人は、目の前にある現実や既成事実にしばられやすいところがあって、不可能に思えることに挑んで予測をくつがえす結果を引き出すことや、高い理想をもつことを苦手としているところがあるように思います。不満の多い状況に陥った場合も、ある程度までなら「しかたない」とその現実を受け入れていきます。心の中だけにある(にしか存在しない)イメージや思想を信じ、それに従って生きていく、それを追い求めていくのは難しいと考える人々じゃないかと思うのです。それに対してユダヤの人たちというのは、思想や観念、コミュニティの歴史や記憶といった、無形のものを国家にかわる枠組として心にもち、追い求めつづけることをしてきた人々のような気がします。

実在の、細部をもつ故郷(国家)の存在を過去、未来にわたって疑わない日本人。思うことを止めたら消えてしまう、心の中にしか存在しない故郷(国家)を追い求めてきたユダヤ人。故郷という同じ言葉であらわされているものが、中身やあり様においてはかなりちがったものを指している気がしてきました。 (大黒)