木曜日, 9月 16, 2004

絶望までたどりつき。これも理解の一歩か。(D)

2回にわたる大桑さんの長文のテキストをポストされた時点で読み、その後プリントして読み、これを書く前にまた読み直し、としてみて、わたしの中に澱のように溜まっていき、そこでうごめいていること、そのことについて今回は書いてみようと思います。それは実りの少ないがっかりさせられる事実です。

結局のところ、少なくとも政治(家)レベルで言うと、パレスチナにしろ、イスラエルにしろ、和平など今のところどちらも望んでいないのだ、ということがよくわかりました。またこの土地を取り囲む重要なキーを握る(あるいは当事者としての)アラブ諸国にしても、和平とは水と油の思惑があるのだな、ということが。

誰にも望まれず、誰にも利益をもたらさない「和平」という思想、考え方。

あまりに悲観的、あまりに絶望に満ちた結論でしょうか。

いえ、これをまだ結論とは呼びたくありません。ここに、この絶望に今、わたしがたどり着いたこと、それはもしかしたら、大桑さんが立ち続けてきた地平やそこから見ている風景に、少しだけ近づいたということなのかもしれない、そんな風に思ってみたりします。

実際、この対話を始める前のわたしはと言えば、お決まりのように「パレスチナ、イスラエル双方の歩み寄りによって、和平は実現するはず。なのに両方とも歩み寄ろうとせず、それぞれより多い利益を手にするために、妥協をしようとしない」という風に、思ってきたのです。

今回、大桑さんの長い長い詳細にわたる(大桑さんによれば、ごくかいつまんだ粗筋となるのですが)解説を読んで感じたのは、それとは少し違う想いでした。上に書いたことがまったく間違ったこととは思いませんが、このような書き方、思い方ではあまりに単純すぎる、理想論すぎる、ということが少しではありますがわかってきたということです。そうわたしを思わせた記述の中から、パレスチナ難民に関するものを上げてみたいと思います。

●パレスチナ難民の創出に関するアラブ諸国の責任について:
わたしはこれまで、パレスチナ難民とは、主としてイスラエル軍の侵攻、入植によって生み出された事態と思っていた。しかし以下のような事実を知ると、この問題はアラブ諸国の思惑なしには起こりえなかったことがわかる。

1)
1948年のイスラエル建国直後(正確には宣言のその日)に、アラブ諸国6ヵ国がイスラエルに攻め入り第一次中東戦争がはじまる。当時のイスラエルのアラブ人の多くが、この軍隊に参加。その後この戦争の間、70万人のアラブ人が国外に逃れ出る。
2)
400万人に達したパレスチナ難民は、アラブ諸国が難民創出プランを実行し、イスラエル国家の存続を揺るがすために、国連の関与する難民救済機関への援助を拒否することで生まれた。

アラブ諸国にとって、パレスチナ難民という存在は、なくしてはならない、自己の正当性をプロパガンダしていくためにも、必要な存在であった(ある)という想像ができる。難民によって利益を得るものがいる限り、その存在をなくすことは難しいだろう。

●パレスチナ難民の創出に関するイスラエルの責任について:
イスラエルの右派政治家たちは、もし300万人のパレスチナ難民を受け入れるなら、この国がもはやユダヤ人国家として存在し得ないことを恐れている。

ユダヤ人のみによる純粋国家を強く望む、という排他主義があることは否定できない。この考え方は、過去のもの、つまり今の世界にとってはもう実現不可能な思想ではないかと思えるのに。ユダヤ人だけでなく、どこの国にとっても。ただ心情としてはわからなくはない。今の日本人だって、中国から5000万人くらいの移住がここ何年間の間にあって、人口の半分近くが中国人となった場合、平安な気持ちではいられないだろうし、多分、中国人を第2級市民として扱うだろう。イスラエルのパレスチナ人への扱いのように。

以上がパレスチナ難民の問題について、今回理解したことです。
もうひとつ、強く感じたことのひとつに、メディアの問題がありました。
メディアを通じて発信されるさまざまなニュース、そのソース、そこにもさまざまな思惑にまみれた情報や使いわけされた声明があり、わたしたちはテレビや新聞のニュースさえ、まともに受け取っていては目をくらまされるという現実があるのだ、ということに改めて、強く、気づかされました。

たとえば、パレスチナの政治家たちのメディア戦略として、英語による欧米への訴えかけとしては「和平」を、アラブ語によるアラブ諸国への呼びかけとしては「イスラエル破滅」を、という使い分けを実行している、というような例です。こういうことはイスラエル側の報道にも多分にあることでしょう。

独自の情報網などもたない(言語に長けていれば、インターネットを通じて、個別に情報に当たりそれを総合的に見て判断し、その中にあるウソを見抜き、とできるかもしれませんが)、普通の人間にとっては、もう信じるに足るものを見つけることや信じるに足るか判断すること、そのこと自体が難しく、絶望してテレビや新聞から目をそらすしかないのかもしれません。それがいやだったら、第一歩として、自分で少しでも各情報に当たれるよう、アラビア語からヘブライ語、ペルシア語など中東の各言語、さらにヨーロッパの諸言語も含めて、できるだけ多くの言葉を身につけて、翻訳を通さなくとも情報にアクセスできるよう武装(!)することを考えた方がいいのかもしれません。

1948年のイスラエル建国宣言にはじまったと思われる、現在のこの土地の紛争には、世界の国々が「世界」という認識を俯瞰としてはっきりと持ち、国際関係の中における自国の位置づけや優位性を一大重大事として、国家主義を強力に押し進めてきたことと無縁ではないだろうという気がしています。イスラム教徒のもともとの考え方とは別に、現在のアラブ諸国のイスラム国家主義のもとにおいては、排他主義が横行しているように。あるいは、イスラエル国家(とくに右派政治家)にとって、何百万というパレスチナ難民をかかえ込まなければならない自国は、ユダヤ人国家として態(体)をなさないし、イスラエルとは言えない、というようにこれまた強力な排他思想のように。双方がこのように思っている間は、二つの国家を新たに創出することさえ、難しいことのように思えてしまうのです。

ここまで来て、もう一度、グロスマンの本にもどってみようかと今思っています。最初に読んだときと、どう印象が変わるのか。最初に読んだときに感じたグロスマンの苦悩が、今、どう感じられるのか。そんなことを検証しつつ。(大黒)

水曜日, 9月 01, 2004

それぞれの思惑 (O )

私がはじめてイスラエルの地に足を踏み入れてから、すでに15年近い時間が過ぎました。ここ6年ほどの在イスラエルで、しかもここ数年のイスラエル国内での争いを身をもって感じる生活の中で、これまでに書いてきたこと、または個人的には、アラブまたはイスラエル側と、どちらか一方の政治的な立場はとってきていません。ここまでここで、大黒さんと一緒に書いてきたことの意味は、アラブ・イスラエルのどちらが良い悪い、また非があるかないか、卵が先か鶏が先かというような水掛け論的なものではなく、この問題の解決の方向付けには何を正しく理解することが必要か、そしていかにしてそられを解決できるのかに焦点を当てています。

この過去の120~130年間、この土地では、統治者の交代や多くの争いが起こりました。もしこれらの起こったこと全てを書こうと思えば、非常にたくさんの時間と紙が必要になります。ですから、ここでは読み手に解りやすいようにそのなかでも最も重要な事に絞っていく事にします。

1948年の独立戦争によってアラブ・イスラエルの難民の問題が初めて発生しまし、そして1967年の6日間戦争では入植地(Yesha)の問題が起こりました。 ダニエルさんが先日の手紙に書かれたYeshaというこのヘブライ語の言葉は、Judea(ユダ)とSamaria(サマリア)を省略したもので、この6日間戦争の結果、イスラエル政府は東エルサレム、イェシャ、ガザ地区、北部のゴラン高原、そしてエジプトのシナイ半島を攻め落とし、それぞれを違った目的の為にコントロールしたのですが、その中でも東エルサレムはイスラエルの一部となり、そこに住むアラブの人々は個人の自由選択によって、イスラエル国籍を取得できその国民としてのすべての権利を得ることができました。

イェシャとシナイ半島ではイスラエル政府は入植地を建設をしはじめ、ゴラン高原は軍事的にとても重要な場所としてイスラエル国防軍(IDF)の基地などが設置されました。今日の欧米の政治家や多くの人々は、イェシャの入植地が中東和平の鍵を握っていると思っているようですが、果たして本当にそうなのでしょうか。入植地は左派によって建設がはじめられ、それを右派が引き継ぎ、そして右左両派のイスラエル政府は、このイェシャやガザ地区がイスラエルの一部になることはあり得ないと解っていました。それはつまり、イェシャやガザ地区をイスラエルの一部にすることによって、約300万人のパレスチナ難民を受け入れなければならない訳で、現在、西ヨルダンから地中海にかけての土地には、ほぼ同じ数のパレスチナとユダヤの人々が住み、もし仮に西岸地区(ウェスト・バンク)がイスラエルの一部になった場合、イスラエルの右派の政治家たちは、この国がユダヤ国家として存在しい得ないことを、非常に恐れているからなのです。

このようなイスラエルのユダヤ国家としての存在の継続の重要性が、パレスチナの人々との分離フェンス(または壁)の建設、そしてガザ地区からの撤退などシャロン首相らが一方的に行っている理由とも言えると思います。またこの分離フェンスの建設やガザ地区撤退のその他の理由としては、米国のブッシュ大統領が提案したロード・マップ計画など、米国からのかなりの圧力があり、このロード・マップ計画はイスラエルがエルサレムの大部分と軍事的重要地を失うことになる、1967年当時の国境へ戻すというものでした。ちなみに、世界中でイスラエルだけがはっきりとした国境を持たない国だということを知っている人は少ないでしょう。イスラエル国議会はこれまでに、東イスラエルの国境が一体どこであるかということを、公に発表したことはありません。壁の建設が1967年の国境地区より外側にされているという理由として挙げられるのはもちろんセキュリティーですが、それと同時に政治的理由としてはアラブ諸国とパレスチナ側との将来的な交渉ための既成事実として、すでに存在する国境を持つということが目的と言えると思います。

そして、イスラエル政府が西岸地区とガザ地区に入植地を建設する理由は、土地を和平と交換すること、これらの地区をパレスチナの人々に返還することによって和平を得るということだと言えます。イスラエルの右左両派の政府はこれらの地区を返還するつもりは多分にありますが、この問題においての右左両派の考え方の違いは、これらの地区のどれほどの面積を返還し、またその引き換えに何を受け取るかです。左派は和平のためには、これらの地区の全てを無償で返還してもよいという態度で臨んでいますが、右派はできる限り少量の土地ならば返還してもよいが、その引き換えに完全なるセキュリティーの確保、つまり、パレスチナ側がすべてのテロリストを逮捕するということを条件として望んでいます。ガザ地区の入植地には7500人のユダヤ人入植者しか住居していないのでそれほどの問題もなく入植地から去り、それについて一世帯あたりに支払われる補助金で彼らは新しい土地に移転することは容易なことです。しかし、西岸地区やイェシャの入植地では27万人の入植者を抱え、彼らの多くは宗教的シオニズムのイデオロジーの夢と共に、アメリカなどの海外から移住して来たのです。「ここを去るよりも、戦って殺されるほうがましだ」と、彼らはよく口にします。そのような信念を持った彼らをその土地を去るようにするということは、なかなか容易なことではありません。そこで、恐らくイスラエル政府は、西岸地区のこれらの入植地の一部分をパレスチナ側に返還し、残った入植地の主な部分と同面積の土地を他の場所に与える方法をとるだろうと思われます。

グロスマンが言うように、パレスチナ・イスラエルの双方が妥協するということが和平への道なのですが、イスラエル側はこれまでに過去において、そして現在においても妥協をする準備がある程度できていますが、パレスチナまたはアラブ側には、過去にも、そして現在にもそのつもりが見受けられないのではないでしょうか。誰か相手がいて対話する時に、まず最初にしなければならないことは、相手の存在を認めるということだと思います。そして相手の生きる権利をも。しかし、現在までほとんどのアラブ諸国、そしてパレスチナ側はイスラエルの持つ権利というものについて認めたことがありません。

多くの人々が中東問題という言葉から、パレスチナ・イスラエルの争いを思い浮かべると思いますが、果たしてそんな小さな事ではなく実際には全アラブ諸国とイスラエルの問題と言えるでしょう。ここ数年においてはこの問題はどんどんと大きくなりつつあり、現在の主な争いはイスラム原理主義と日本を含む欧米世界との争いなのではないでしょうか。

ここで、中東と北アフリカの地図を見てみましょう。イスラム教の国を緑色、イスラエルを赤色で塗ってみます。するとどうでしょう。イスラエルはこれらのアラブ諸国の背中に突き刺さったナイフのように見ることができ、これがアラブ諸国が考えるイスラエルの存在と言えます。宗教としてのイスラム教では、常に他の一神教(主にキリスト教やユダヤ教)の人々がイスラム教の土地の一部に、同等レベルではなくしかしセカンド・クラスの市民として住むことを認めてきています。しかし、これらのキリスト教徒やユダヤ教徒が、かつて過去において、または現在においてイスラム教徒の土地であった場所に国を持つことを許可していません。

イスラム哲学においては、世界は二つに分けられています。その一つはイスラムが支配する土地、そしてもう一つは非イスラムの土地であり、それらの土地はいずれはイスラム教徒の土地になる運命にあるというもので、その成功への道はジハッド(イスラム聖戦)と呼ばれるものです。そして、このジハッドにおいてイスラム教徒の人々が行える最大の事とは、自らの命を捧げて殉教者となるという事です。そしてかつてイスラムの支配下であった土地に非イスラムの国を作ることは、神の加護を失ってしまうことと信じられているために、それは到底許されることではありません。これらの理由によって、すべてのアラブ諸国(つまりイスラム教徒の国々)はイスラエルの存在を認めることはありません。もしも、あるアラブの国の政治家がイスラエルの存在を認めてしまえば、もはや彼の生命の保証はされないといってもよいでしょう。1978年、エジプトのサダト首相はイスラエルとキャンプ・テービッドの合意調印をしますが、それを理由にサダト首相はあるイスラム原理主義者によって暗殺されています。また、ヨルダンの王も同じ理由で亡くなっていますし、1993年にはそれと同じことがイスラエルのラビン首相の身にも起こりました。ラビン首相は極右派のユダヤ人青年に暗殺されています。

イスラム教徒の人々は他の宗教徒、特にキリスト教徒やユダヤ教徒の人々に対し敵対心を持っているという訳ではなかったとすでに書きましたが、現在のアラブとイスラム教徒の国家主義においては、キリスト教徒やユダヤ教徒の人々がイスラムの世界に住むことを認めてはいないのです。ちなみにイスラム教の法では、イスラム教徒は非イスラムの国に住むことはできますが、それにあたってはその国をゆくゆくはイスラムの国にするということが前提に置かれてのみです。 ここまで書いたイスラム教とアラブ諸国の価値観は、実際にはもっと非常に複雑なものですが、今回はできるだけ簡潔にしました。

世界中のメディアはパレスチナ・イスラエルの争いを大々的に取り上げますが、西岸地区とレバノンから追放されたキリスト教については、ほとんど誰も取り上げていません。1993年のオスロ合意以前にイスラエルが管理していたベツレヘムは、80%がキリスト教徒の町でしたが、オスロ合意以後にパレスチナ側がこの町を管理し始めてからは、キリスト教徒の数は20%以下にまで減ってしまいました。彼らはイスラム教徒たちによる圧力、そして、同じキリスト教徒として手を差し伸べないバチカンや欧米のキリスト教諸国の、どこからも見放されてしまったという気持ちからベツレヘムを去りました。もし誰かが西岸地区へ行ったとしたら、彼は廃墟となったキリスト教徒の村に現在イスラム教徒が住み付き、村の名前をアラブ語に変えてしまったことを目にするでしょう。そしてそこにかつてはキリスト教徒が何世紀にも渡り住んでいた証としての空っぽの教会が、今ではただモニュメントのようにぽつんと佇んでいます。また、レバノンのキリスト教徒たちは、ベツレヘムのキリスト教徒たちと同じようにイスラム教徒からの圧力に耐えられず、その多くがアメリカとカナダに移住して行きました。 この事実について、世界中の欧米諸国のメディアが全くといっていいほど取り上げないことに、とても疑問に感じています。そして、カトリック教会もこのことについてはできるだけ触れないように、または口を重く閉ざしてしいます。欧米諸国が石油をできるだけ低価格で購入するためには、数年前にアフガニスタンのバーミヤンの仏教遺跡破壊に見られるように、黙って見過ごさなければならないことがかなり沢山あるようです。

1968年7月17日、PLO(パレスチナ解放機構)は、「イスラエルは存在権利がまったくなく、すべてのアラブ諸国はイスラエルの完全破滅まで戦う」と国家の書類に記しました。イスラエルが独立してから、イスラエルはこれらのアラブ諸国と和平を結ぼうとしてきましたが、こういった書類に書かれたことに見られるように、それが受け入れられたことはありません。1978年には、エジプトとイスラエルのキャンプ・テービッドの合意調印において、イスラエルはシナイ半島の返還にあたりそこに建設されていた入植地の全てを撤去しました。そして、シリアにもゴラン高原を除くすべての占領地を返還しました。1993年、長い交渉の末にPLOとイスラエルはオスロ合意に調印し、パレスチナ自治政府がパレスチナ独立国家への第一歩として西岸地区とガザ地区を管理することになります。このオスロ合意のきっかけになったのが、ガザ地区で起こり西岸地区へと広がった第一次インティファーダで、その後その争いは3年間続きました。この時に、現在ではすっかりシンボルの様になった、パレスチナの子供がイスラエル軍戦車に向かって投石している姿がテレビで初めて映し出されました。

1991年11月、マドリードでイスラエル対シリア、レバノン、ヨルダンとの和平会議(マドリード中東和平会議)が設けられ、その結果として1993年にオスロ合意が実現し、翌1994年にはイスラエルとヨルダンの間で平和条約調印が行われました。オスロ合意ではイスラエルはパレスチナ自治政府の管轄下になる西岸地区とガザ地区からの撤退、さらにはパレスチナ自治政府への援助資金と自治警察への武器の供給を課せられました。ダニエルさんが仰ったイスラエル政府によるパレスチナ・テロリストの補助というのはこの事を指しています。現在までイスラエル政府は補助金と武器の供給を続けていますが、PLOは、テロ活動の停止、反ユダヤまたは反イスラエル主義のプロパガンダの停止、イスラム原理主義の児童教育カリキュラムの変更、そして、1968年7月17日の書類に記した「イスラエルの完全破滅」という部分を消去するとオスロ合意にて調印したのにも拘らず、これらの公約のどれをも未だに見直されることなく、ましてや停止には至っていません。

現在までに、パレスチナ側の政治家達は彼ら戦略方法として、欧米のメディアに対しては和平を英語で訴えること、そして、アラブ語でのアラブのメディアではイスラエルの破滅と憎しみを語りかけるということを繰り返してきています。アラファト議長のお決まりの台詞は「パレスチナの少年が、パレスチナの旗を、パレスチナの首都となるエルサレムの、教会、モスク、そして旧市街の壁に翻すこと」で、実際に彼は2000年の夏、前イスラエル・バラク首相がパレスチナ側に西岸地区とガザ地区の96%、そして旧市街を含む東エルサレムを譲歩すると申し出た時に、その夢を実現するチャンスがあったにも拘らず、アラファト議長はその申し出を拒否し、その代わりに第二次インティファーダを起こしました。 アラファト議長が和平を受け入れない理由としては、過去のイスラエルのラビン首相やエジプトのサダット首相のように、彼の部下によって命を絶たれることを望んではいないからなのです。 とても有名な前イスラエル外務大臣アバ・エバンは「アラブ人は交渉するよりも戦争を選ぶ」と発言しました。前バラク首相がアラファト議長とのピース・プロセスの数ヶ月前にレバノンから撤退したことを、アラブ側はイスラエルの弱さとして受け止め、インティファーダの勃発による圧力でさらに広い部分の土地を手に入れられるだろうと考えたのです。

今、この記事を書いている最中ですが、テレビの画面には、今日、南イスラエルのベル・シェバという町でバスが二台吹き飛ばされ15人のも死傷者を出したというニュースが流れています。

このインティファーダが始まってから4年が過ぎ、約5千人という死者が両者から出て、パレスチナ側ははじめて彼らの負けを自覚したようですが、すでにパレスチナ社会は崩壊する一歩手前まで来てしまいました。人々は飢え、絶望し、社会の建て直しを切望しています。しかし、現時点ではパレスチナの政治家達はインティファーダを停止するなどの改革を行うつもりは毛頭ありません。しかしそれでも和平への希望はまだ残されています。パレスチナ側はテロ攻撃では勝ち目がないことにとっくに気が付いていますし、彼らは軍事的に勝利を収めることは到底できませんが、政治的に勝利することは可能なのです。つまり、世界は彼らに独立した国が必要だと認識しているからです。しかしその反対にイスラエルは軍事的勝利はあり得ますが、政治的勝利はほぼあり得ません。なぜなら世界はイスラエルに対抗しているからです。

グロスマンは双方が妥協しなければらない、そして必要ならば国際的な援助もあり得るだろう言いますが、彼らが正しい和平解決への道を示すことの可能性はとても低いだろうと思います。それらの国々は和平への彼ら自身のアイディアをこの土地に持ち込んでくるでしょう。この土地では、実際に歴史的に常に国際統治者が入れ替わっていたのですが、誰の援助も解決には至らなかったのです。それは近年にヨーロッパで起きたコソボやボスニアの戦争においても同じことが言えました。

永久的な和平を実現させるには、アラブ諸国、そしてパレスチナ社会に大きな変化が必要となります。仮にアラブやパレスチナ側の政治家達が和平協定に調印したとしても、その若い世代にはすでに憎しみがしっかりと植え付けられ、それを取り除くにはまた数世代の時が必要となるでしょう。そして現在女性たちは全く相手にされずに隅に置かれ、平等の権利としてあるのは死に対してのみ、つまり自爆テロになるということ。殉教者としての死ということが美化され、すばらしいものとして語られ、小学校などでは小さな幼い児童は、それがどんなにかすばらしいヒーローのような行いかと教育されている。そのような社会では若者がその以外の夢や希望とする目標は見つけられず、自爆テロになることが残された道となる。その行為によって彼らは社会的に認められ、遺族には多額の慰謝料が支払われる。世界がこういったことに対してパレスチナ側に何らかの徹底的な働きかけをし、彼らの社会を変えること、例えば民主主義社会にすること、それなしにして本当の意味での和平を実現させる基礎でさえ固められないのではないでしょうか。  (大桑)


参考文献:
Battleground: Fact & Fantasy in Palestine 』-- by Samuel Katz

Six Days of War : June 1967 and the Making of the Modern Middle East 』-- by MICHAEL B. OREN

A History of the Jews 』-- by Paul M. Johnson

O JERUSALEM 』-- by Larry Collins, Dominique Lapierre

The CLASH OF CIVILIZATIONS AND THE REMAKING OF WORLD ORDER 』-- by Samuel P. Huntington

Diaspora: The Post-Biblical History of the Jews 』-- by Werner Keller

From Time Immemorial: The Origins of the Arab-Jewish Conflict over Palestine 』-- by Joan Peters