金曜日, 7月 16, 2004

中立の意味するもの (D)

大桑さんの「癒し」という言葉への違和感、やはりと思いました。実はわたしもこの言葉がどうしてこうも日本人の心をつかむのか、考え続けてきたところがあるからです。最初にこの言葉が現われたのはいつごろだったか。発端は音楽(ニューエイジなどの癒し系)だったかもしれません。そうするともう10年くらいになるのでしょうか。日本ではその発端の中から、特に心地いい部分だけを抽出して「癒し」として拡大してきたところがあるように思います。そして今ではこの「癒し」は、日本のビジネス、消費者会にとって欠くことのできないキーワードとなっています。個人の趣味の範囲ですらなくなっているのかもしれません。

わたしがこの「癒し」という言葉に違和感(反感)をもつのは、まともにものを考えるのを放棄して、(必要なら)相手と「戦う」覚悟からも逃げて、自分のまっとうな「怒り」を押しつぶし、ひたすら何かに寄りかかろうとする甘えの気持ちを感じるからかもしれません。同じような系列の言葉に「自分にご褒美」(これも非常に好んで使われています/女性専用の言葉)があります。また最近は「自分と向き合う」という言葉も好まれています。つまりどこまでいっても、自分。自分の前に自分、自分の延長線上にも自分しか見えない、という悲劇です。

今、この文章を書いていて二つの言葉に立ちどまりました。「戦う」と「怒り」です。この二つは両刃の剣であるところがあって、怒りをつねに爆発させ、それを暴力によって解決しようとすれば戦争が頻発します。でも自分の「怒り」を飼い馴らし、起きていることの本質に触れないようにすれば、問題はいつまでたっても解決されないでしょう。隠されたままの怒りは、将来もっと大きな不幸につながることもあります。「戦う」というのは必ずしも暴力を意味しません。「怒り」の原因になっている大元の前に自分が進みでて、相手も同じテーブルに引き出して、解決するため全身全霊をかけること、それが本来の「戦い」だと思うのです。それは別の言葉で言えば、「対話」です。

グロスマンの本の「序」にこんな文章があります。
  
  わたしが望んでいるのは、この衝突を起す導火線が次第に中立的になっていくこと、双方が倦怠を感じること、イスラエルもパレスチナも痛みとともに真理を受け入れ、目標を実現するために非暴力的な手段を採用するようになることである。(ⅸ)
  
衝突を起す導火線を中立的にする、とは何を意味するのでしょう。それはイスラエル国内のことで言えば、対立軸(右派と左派)の、背中合わせに立って正反対に向けているベクトルの角度を少しずつでも小さくしていくことなのでしょうか。

対立軸をもたない日本人。それが心からの合意でそうであれば、こんなに幸せなことはないでしょうけど、怒りを見えないものし(され)その結果としての一元化だとしたら、その手のつけようのない不幸を忘れるためにさらに強力な「癒し」アイテムが必要とされるのかもしれません。

*7月14日のポストの中の「現政権に意義をとなえる・・・」は「異議をとなえる」の間違いでした。直しを入れてあります。