日曜日, 7月 18, 2004

中立的解決とは (O)

グロスマンは衝突の導火線が中立的になること、そしてイスラエル・パレスチナの両者がお互いの痛みとともに真理を受け入れることを望んでいる、と述べています。では、ここで言う真理とはどういうことなのか。
 
紙の上に「真理」と、ひとこと書くことはとても容易です。そしてその意味を理解することもとても簡単なことのように思えるかもしれません。この土地に住むものではなく第三者の「真理」では、イスラエルとパレスチナのどちらかがこの土地から出て行くことで、この問題は解決される。このようにここでの「真理」とは白黒のはっきりした単純明快なものに思えるかもしれません。しかしイスラエルとパレスチナの問題とは、50数年もの長い間に絡まったいくつもの政治的策略や歴史、宗教、そして両者に属するまたは無念にも亡くなった一人一人のこの土地に対する夢、そういったことが奥深くかかわっていると思います。
 
簡単にそれらいくつかの「真理」を挙げてみると、それは「双方の権利」「宗教」、「圧力」、に分けられます。まず、理解しやすい「双方の権利」から説明すると、イスラエルはこの土地でのパレスチナの存在を認め、それにかなった土地を分けることです。そしてそれと同様に、パレスチナはこの土地でのイスラエルの存在を認め、それにかなった土地を分けること。つまりお互いが、相手も自分達と同様にここで生きる権利を譲歩し、この土地で相手との共存を認めるということです。これは日本のように「和」を重んじる価値観を持っていれば、とても簡単なことのように思えるのではないでしょうか。
 
ではそこに「宗教」がかかわってくるとどうなるのか。イスラエルではユダヤの人々がその大半を占め、パレスチナではムスリム(イスラム教徒)が大半を占めています。イスラエルとパレスチナの両者が、両宗教の聖地とするエルサレムを相手の国の首都として認めないエルサレム問題でも解るように、まずこの二つの宗教が互いを理解しあうことはとても難しいのです。イスラエルでは、ある人々は宗教上この土地すべてはユダヤのものに(または先祖代々もともとユダヤ人のものと考える)、そしてそれと同様にパレスチナではこの土地すべてがムスリムのものにと、双方が互いの宗教価値観によってイスラエルまたはパレスチナをすべて得ることを夢に見ているのです。そしてその宗教観を妥協することはそれぞれの生き方、または人生を否定するほどに、まったく妥協するわけにはいかない問題なのです。これは宗教に携わった暮らしや人生観の薄い日本の人にはとても理解しがたいコンセプトですが、この土地では、これは非常に重要なことなのです。
 
そして、ここでの「圧力」というのは、パレスチナはこの土地を囲む他のアラブ・イスラーム諸国から、イスラエルという非イスラムの国は認めるべきではないという圧力です。その要因には、白黒はっきりしたイスラムの世界観がかかわっているのですが、イスラームの視点では、この土地はイスラームのトルコ帝国に支配された歴史を持ち、一度はイスラームの土地であったのですから、この土地はイスラームのものとしてのみ存在するのです。それが今になってそのイスラームの土地を他宗教の国にすることは、彼らにとっては決して妥協できない話しです。例えば、2000年に左派のバラク首相がエルサレムについての妥協案をアラファトに示した時点で、もし互いが受け入れていれば、すでにこの土地の状況に多かれ少なかれの変化が生まれていた可能性は非常に大きかったと言えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、アラファトが頑としてイスラエルの妥協案を受け入れなかったのは、周りのアラブ・イスラーム諸国からの圧力で、このとちをすべて得てのイスラーム・パレスチナ国家を妥協するわけにはいかなかったのではないかと思います。
 
イスラエルとパレスチナの両方が、そういったお互いのすべての真理を理解し、妥協し、そして受け入れてこそ、はじめて中立的に問題を解決へ向けることができるのではないでしょうか。   (大桑)