月曜日, 10月 08, 2007

書く糸口、考える立ち位置を探しながら

ここに自分の考えたことを投稿をしていなかった間も、ユダヤについて、イスラエル/パレスチナについて、異なるものの間の対話について、世界各地で起きている紛争について、考えていなかったわけではない。ただ、書くのが最初の頃より難しいと感じることが多くなってきた。自分の得たわずかな知識や情報をもとになにほどのことが語れるのか。そういう疑問もつねに沸く。ただ書くことは、考えることであり、この企画にはその考えを聞いてくれる対話者がいる。また開架式で公開しているので不特定多数の読み手もいる。なにほどのことがたとえ書けなくても、まったく無駄というわけではない、そうも思う。

そもそもこの企画を始めたのは、ユダヤというもの、イスラエル/パレスチナが抱える問題、そのことにどのように自分がアクセスしていったらいいのかという関心からだった。きっかけとなったのは、このプロジェクトの対話者である大桑千花さん(ユダヤという生き方、その思想やあり方に関心と共感をもち、ベルリンやニューヨークをへて現在はエルサレムに住む)と知り合ったこと。その世界をよく知る一人の人間を介して、なんとか未知の世界へ近づきたいと思った。普段の気楽なメールのやりとりの中では必ずしも話題にならない、しかし大桑さんにとって核心の問題を、真面目に正面から話し、何か汲み取りたいという思いだった。

今年の5月には、帰国した大桑さんにお会いする機会ももった。青山のカフェで、いくつかの、大桑さんが身をもって体験した心の漂流と旅の軌跡のエピソードを聞いた。それは初めての話ばかりだったけれど、この何年間のあいだにインターネットを通じてやりとりした書面と地続きのものであることを実感した。そして別々の地に住む今後も、大桑さんの話をもっと聞いていきたいという思いを強くもつ機会ともなった。

大桑さんとわたしはしかし、かなり異なる人間であることも確か。大桑さんがユダヤの世界に惹かれて旅立ったのに対し、わたしは日本の中に暮らし何とか外部の目をもって日本を見たいと願ってきた者だ。またそれなりに徹底した無神論者でもあり、具体的に無宗教であるだけでなく、日本において風俗や慣習、習慣の中で混然一体となっている祭事や文化行事にもめったに参加しない。宗教にかわるものとして、精神の支柱として、生きていくときの夢として、アートというものと長年かかわってきたように思う。このように大桑さんとは大きく立ち場を異にしているが、書面でも対面でも、少なくともわたしの側からは大きな違和感を感じることは少なく、まだ知り得ていない大きな謎を感じながらも人間として魅力を感じ、信頼を寄せている。大桑さんとの真摯な対話の可能性を信じている。

書かなかった間も本を読むことはしてきた。この対話とは直接関係のないテーマのものであっても、直接間接にユダヤについて、イスラエルについてのトピックが登場することも多く、世界で起きている問題はひとつとして互いに無関係なことはなく、大きくは地続きではないのか、という思いにもなった。最近読んだ本の中で強く印象に残ったものに、次のような言葉がある。
「人は祖先を誇りに思う権利はない」 

アメリカの黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンと文化人類学者マーガレット・ミードの対話集「怒りと良心/人種問題を語る」(1973年出版)でのミードの発言。わたしはこのフレーズに、訳者である作家の大庭みな子の個人全集のエッセイの中で出会った。以来この言葉の意味するところを考え続けている。「祖先」とは何か。「誇りに思う」とはどういう状態か。中でも一番気になったのは「権利」というところだ。「義務」ではなく「権利」と言っているところにこのフレーズの尋常ならざるところが見えているように感じる。その後まったく別のテーマの10冊を超える本を読んでいるが、このフレーズになんらかの光をあてているように感じた文章が少なからずあった。たとえばどんな本かというと、「ホノルル、ブラジル/熱帯作文集」(管啓次郎著)、「驢馬とスープ」(四方田犬彦著)、「北朝鮮へのエクソダス」(テッサ・モーリス-スズキ著)、「トオイと正人」(瀬戸正人著)、「瞬間の山」(港千尋著)、「ごく普通の在日韓国人」(姜信子著)、「愛国心を考える」(テッサ・モーリス-スズキ著)、「ディア・ピョンヤン」(梁英姫著)、「チャイナタウン発楽園行き」(林巧著)、「Borderlands / La Frontera」(Gloria Anzaldua)、このような本である。これらの本に何か共通するものがあるとするなら、個人とその人間が属している(いた)集団や社会との関係性について何か述べられている、ということが言えるかもしれない。最後にあげた「Borderlands」とは境界地域のことだが、チカーナ(メキシコ系アメリカ人)の作家アンサルドゥーアは地理としてのボーダーのみを指しているのではなく、言語、性、宗教などによる集団間のボーダーランズについても書いている。そしてその書く言語も、英語とスペイン語のミックスだ。詩や散文の中でアンサルドゥーアはこの二つの言語をスイッチしながら書いていく。このcode-switchingという手法を(そう呼ぶのだとこの本で初めて知った)、その後、在日朝鮮人に関する文章の中に見つけ、やはり一つの問題は、特にある集団とその境界域に触れる問題は、他の似た状況の問題と地続きだと思った。去年葉っぱの坑夫が出版した「ぼくのほっぺのちいさなあざ/ The little mark on my cheek」も、code-switchingによる本ということになる。

ところで、後に上記の引用フレーズに導かれて、「怒りと良心」の本を手にしたが、その中でユダヤとイスラエルに関することが熱心に語られていて印象的だった。中でも、イスラエル建国について、イギリスが自国の利益のために進めたことがシオニズムと合致して建国となったというくだりに興味をもった。また詳しくは書かれていなかったが、ミードは建国に賛同の意を、ボールドウィンは反対の考えを述べていた。ミードがどのような理由と論理で賛同していたのかは興味ある。著書を探せば、詳しく触れられているものが出てくるのではないか。

また季刊雑誌「考える人」の最新号に、小林秀雄賞を受賞した内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」の紹介とインタビュー記事、未来&歴史学者ローレンス・トーブとの対話が掲載されている。大変興味深い内容だった。本はまだ手に入れていないが、近いうちに読んでみたいと思っている。

読むことから、また考えることを続けていきたいと思っている。