日曜日, 6月 12, 2005

アイデンティティの行きつく先とは・・・ (D)

ヨーロッパでの反ユダヤ人感情が、第二次世界大戦以降では最悪の状態と大桑さんのポストを読んで、驚いています。それはどのような経緯で強まってきているのでしょうか。またEUの基本的な考え方が、一方で多文化を標榜しながらも、実情はキリスト教文化を根強く残し、移民などに対して排他的な側面を持ち続けていることも知り、異なる文化的背景を持つ国々の共同体が、そうそう簡単にまとまるわけもなく、理想主義だけでうまくいくはずもないことを改めて思いました。

ふと思い出したのは、スウェーデンのことです。スウェーデンという国は、移民に対して非常に排他的で、外国人が居住を許可されるのは難しいという話です。スウェーデンに対して豊かで、福祉先進国で、自由な思想を持つ、(伝統に根ざした)ヨーロッパ諸国とは少し違った価値観をもつ国、という未来的イメージがあったので、この話は意外な感じがしました。話をよく聞けば、いわゆる保守的思想(植民的な?あるいは人種差別的な?)の持ち主ということではなく、国民が高い税金を払って自国の社会のシステムを整え支えているのだから、他から来る者に邪魔されたくない、仕組を壊されたくない、ということのようでした。

EUを拡大しつある今、法律や政治まで含めた超国家的な存在に発展させていこうという過程にも、どことどこを入れて(囲い込んで)どこを外すか、のような問題として、スウェーデンの排他性と同じようなことが起きているのでしょう。また各国々にとっても、自国の文化性とEUのそれとの間で、相容れないことがたくさんあって、先日のフランスとオランダの憲法草案否決という国民投票の結果に結びついたりもするのでしょう。

国としてのアイデンティティや排他性、ということでもうひとつ思い出したのは、フィンランドに40年近く住んで演奏活動をしているピアニストの館野泉さんの話です。音楽大学を卒業してすぐの20代初めに、文化的に日本や西欧諸国がもっているような伝統や歴史認識から自由な国だからと、フィンランドという国を選んで移り住んだ人です。フィンランドの作曲家シベリウスの他、現代日本の作品も弾いていますし、またブラジルの作曲家ナザレーの日本への紹介者でもあります。20才代で、しかも今から40年も前にそのような選択をした館野さんの自発性と見識には驚かされます。フィンランドという国は調べてみれば、700年以上スウェーデンなどに支配され続けて1917年にやっと独立した国、とのこと。そういう国が、何のゆかりも持たない外国人が、「歴史や伝統に惹かれて」ではなく、「歴史や伝統から自由である」という理由で移り住む国になっているのは興味深いことです。

そしてもう一つ、オーストラリアに移住したイギリス人と日本人のカップルの話。妻はイギリス出身で大平洋アジア関係の研究で知られる人文社会領域の研究者、テッサ・モーリス-スズキ。夫はばくち打ち兼作家兼主夫の森巣博。この二人は、オーストラリアは他国と比べて国家の管理や文化的押しつけの壁が低そう、ということで家族三人で移住してきたそうです。

こうして見ると、昔ながらの価値観の中に住む人々の間では、ある国の文化や伝統が留学や移住のときの理由づけになっていたりするわけですが(旅行にしてもそうでしょうが)、そうではない逆の発想、つまり「いかに文化的、歴史的押しつけを受けずにすむか」の基準で、学びの場や生活圏を選ぶという思想がありうることがわかってきます。極論すれば、基本にそのこと(押しつけがないこと)がなければ、どんな「立派な」文化も、どんな「誇りある」歴史も、意味が薄れるということかもしれません。

大桑さんも書いているように、アイデンティティ(国家にしろ、個人にしろ)を語る難しさは一筋縄のことではないと思います。自国のアイデンティティを強く語れば、ナショナリズムとの境界を問われるでしょうし、個人のアイデンティティにしても、その基本要素となるものは何なのか、国籍なのか、言語なのか、肉体的特徴なのか、性格や能力なのかを仔細に詰めていっても、その先には何もない可能性もあります。最後に行きつくのは、DNA鑑定かもしれません。

自分のアイデンティティを探して納得しようとするよりも、個人とアイデンティティの関係性について考えていく方が、実用的な気はします。自分という、他と区別される個があって、それが他者やコミュニティと、さらにはコミュニティの外の世界と、どのような結びつきをしていくことが望ましいのか、ということを考えていくことです。

ユダヤという独自性も、キリスト教という独自性も、イスラムという独自性も、自己の独自性が、他者の独自性とどのように関係を結んでいくべきかの思想が完結した時点で、真のアイデンティティを獲得できるのではないか、とこれを書きながら思いました。
(大黒)

木曜日, 6月 09, 2005

EU村の多文化共存とアイデンティティー (O)

まずは私から謝らなければならないことがあります。一月、そう、今年の初めに大黒さんが「国という垣根の低くなった後の世界では・・・」を書かれてから、気がつけばなんともう6月。5ヶ月もの月日が経ってしまいました。私事(仕事?)でごたごたしておりまして、今まで頭をクリアにできずこんなにもの時間が経ってしまったことをお詫びいたします。歳を重ねるにつれて時間がどんどんと早く加速されるよう過ぎていくように思います。本当に申し訳ありませんでした。


さて、前回の大黒さんがおっしゃる二重的アイデンティティーと共同体についてですが、確かに国と国という垣根は昔と比べると非常に低くなっているように思います。私が子供のころでは考えられないほど毎日たくさんの飛行機が世界各国の空を飛び、アジアへ南アフリカへノルウェーへと人々は地球上をあっちへこっちへと移動しています。ちょうど大黒さんが前回の記事を投稿されてからすぐに、私自身も中東からヨーロッパを経由してアジアの日本まで30時間以上の旅をしました。毎回何年ぶりかで自分の国に一歩足を踏み入れる途端に、まちがいなく日本人であるのにもかかわらずクラクラと目眩がするくらいの文化のギャップにぶつかります。思いっきり、カルチャーショックです。まるで外国の人が映画に見る「Japan」というどこか滑稽なものを見ているような、そんな感覚に襲われて、長い間他の国で暮らしている自分はいったい何者になってしまったのか、日本人としてのアイデンティティーが薄れてしまったのかと不安にさえなります。

アイデンティティー。そこで、はたと、自分とは一体なんなのだろう、そしてアイデンティティーってなんなのだろう、と思うのです。ぼんやりとはわかるのですが、それは故郷というもの(それが物理的なものであっても精神的なものであっても)から来るものなのか、しかしそれすらもうつろいで行くようなものなのか、またはその他にも色々なエレメントを含んでいるのか。アイデンティティーという言葉はよく使われますが、なかなか手ごわい相手のようにも思います。おっと、少し話がずれてきました。

話を元に戻しますが、昔のように村から一度も出たことのないような時代、おなじ土地のおなじ言葉のおなじ文化や価値観を共用しあう共同体(コミュニティー)に生きていたのであったなら、そこに他人とはまったく異なる確固たる自分を見出す必要はなかったかもしれませんし、反対にそうすることは共同体に生きるには面倒なものですらあったのではないでしょうか。しかしそういった社会体系が変わりつつある現代に生きる私たちは、大黒さんもおっしゃるように、ひょっとすると各自のアイデンティティーを問い直す必要に否応でも迫られているのかもしれません。こう考えてみると、他との異なりによって見出す「自分とはこういうものだ」というアイデンティティーは、異なる目の色の隣人同士、または生まれ育った以外の他の土地で暮らし、国と国との垣根が低くなればなるほどさらに重要になってくるのではないでしょうか。

EUにおいても、国境を取り払うというアイデアはすばらしいと思いますし、EU村の共同体の一員としてはこれまでの国籍や民族などはあまり意味を持たないものになるとも言えるかもしれません。しかし、もともと異なる文化を持つヨーロッパの国の人々が、EUという大きなひとつの新しい垣根の中に吸収されて生きていく時に、互いの異なりを認め合い理解して共存してゆくのは大変な時間も努力も必要なわけです。それよりも、異なる文化の隣人と同化するのではなく、反対に各自の文化とアイデンティティー、それぞれのテリトリーを確保したいのではないかと思うのです。

ヨーロッパのユダヤのアイデンティティーという面から見てみれば、歴史的に見てもドイツなどのユダヤの人たちの間でも、他の人々とのアイデンティティーを区別するためにユダヤの言葉であるイディッシュ語などが生まれましたし、例えばオーストリアに育ったフロイトは、そこに生きながらもヨーロッパの文化や思考とは異なるユダヤとしてのアイデンティティーをしっかりと自覚していたようです。そして現在、ヨーロッパでは、その政府はMulti-culture(多文化)を説きながらも、EUに移住する人たちはキリスト教に則ったヨーロッパ文化を認めることを条件とされ、オランダとデンマークではオランダとデンマークの文化を受け入れない人には永住権を与えないという新しい法律を発表しました。また、同性結婚を公で認めたオランダではそれに反対する人々による同性愛者への暴力が恐れられ、ドイツでは若者の間で再びネオナチのムーブメントが怪しくうごめき、外国人やユダヤの人々を襲い、ロシア、セルビア、フランス、英国などでの反ユダヤの感情は第二次大戦以後では最悪の事態となりつつあります。

ここ数年のイスラエルでは、ユダヤに対して圧力のかかっているフランスからの移民が増大する一方です。確かに、以前のシオニズム概念はもう過去の意識でしかないとも言えますが、やはりそれでもEUの統一が行われた今日において、それによって起こりつつある新しい危機をユダヤの人々は感じています。この土地でユダヤと他者とがどう共存していくかももちろん別の大きな問題点ですが、やはりヨーロッパのように他者を恐れる必要が少ないイスラエルという土地への帰属を願うのではないでしょうか。これからもユダヤの人々のイスラエルへの帰還への思いは続いていくのではないでしょうか。 さて、大黒さん、どうでしょうか。 (大桑)