月曜日, 8月 17, 2009

報道と民意(D)

この対話ブログを読まれた福嶋直次さんと大桑さんとの2回にわたるやりとりがポストされましたので、わたしの考えを今度は書いてみようと思います。

最初の福嶋さんのメールでは、報道のあり方と事実関係についての疑問が中心として書かれていました。

報道と事実関係の問題については、パレスチナ/イスラエル問題にかぎらず、長らく関心をもってきました。そしてこの問題を追究していって、最後に行き着くところが想像できるようになってくると、力が抜けるというか、かなり絶望的な領域に足を踏み入れそうで、今はかろうじてその境界線の手前で踏みとどまっている状態です。その一線を越えることはすべてをあきらめることかもしれず、現実として自分にできることはほとんどない、という結論に至ってしまうかもしれないからです。そうなれば、あとは仙人か世捨て人のように生きるしかありません。

今、その一線を越えないで、境界のところで踏みとどまっている理由は、自分以外にも、物事を「言われている」一面からだけ理解して満足しているのではない人々が、世界には少なからずいるからです。大桑さんもそうですし、疑問を感じ続けている福嶋さんもそうだと思います。さらに、学者や評論家、作家、活動家などの人々のなかに、地道に長い期間かけて、状況を調査、観察したり分析してその成果を本や映像などで伝える人々がいます。このような人々がいるかぎり、その数が全体として10%、5%、1%、、、それ以下だったとしても、この立ち場を放棄する理由はないと思っているのです。希望はある、と。

最近わたしが経験したことでこんなことがありました。それは「和歌山カレー事件」と言われている、1998年に起きた夏祭りでの殺人を含む毒物混入事件についてのことです。今年の5月にこの事件は、最高裁が被告からの上告を棄却したことによって、死刑が確定しました。わたしは夕刊の一面トップでそのことを知り、この事件を久々に思い出したのでした。その感想は、「ああ、死刑判決だったのだ」という以上のものではありませんでした。なぜなら、この事件についてわたしの持っている情報はごく一般的なもので、ソースはテレビのニュースと新聞報道に限られていました。ただしそれ以外の情報といっても、テレビのワイドショーや週刊誌のようなものをどれだけ熱心に見たり読んだりしても、新らたな視点が持てたとは思えませんが。事件に関するインターネットのサイトや事件にまつわる著作(があったとして)を読んだこともありませんでした。

その後、ごく最近のことですが、Days Japanというフォトジャーナリズム誌(2009年6月号)を読む機会があって、和歌山の毒物カレー事件に触れたコラムを読みました。書き手は斎藤美奈子氏(文芸評論家)、タイトルは「和歌山カレー事件から考えた冤罪を生み出す日本の風土」というものでした。何気なく読みはじめてわたしは驚きました。「物証なし、動機も不明。状況証拠だけで下された異例の死刑判決」とのことだったからです。「目撃証言書には不審、不可解な点があまりに多く」という斎藤さんの指摘や、犯人として可能性の考えられる他の関係者の調査、吟味も行なわれていない、という記述を読んで、遅ればせながらインターネットで裁判の経緯などを読んでみました。そして裁判や判決には大きな落ち度、非合理性があったのではないか、と感じました。それは容疑者、被告となった林真須美さんが真犯人かどうか、という問題以前に、こんな審議の進め方が日本では普通に行なわれているのだろうか、という驚きでした。またわたし自身が、この事件に関して一般報道しか知らなかったことにより(きちんと読めば物証なしの事実に気づいたかもしれないのに)、「林真須美さんが真の犯人であるということ」以外の視点をまったく持ち合わせていなかったことへのショックでした。

普段から報道の意図的偏向やプロパガンダまがいの表現方法に嫌悪感をもっているわたしも、刑事事件については、あるいは関心外の出来事に関しては、これほどあっさり報道の手のうちに取り込まれていたのです。では報道の手のうち、あるいはマスメディアの手のうちとは何でしょう。テレビ局や新聞社は、判決のはるか前から林さんを犯人と決めつけるような報道を流すことで、いったいどういうメリットがあったのでしょうか。そのような報道をするよう、何らかの団体の圧力とか、一般人には知り得ない裏の理由があったのかもしれませんが、そうではないのかもしれません。だとすれはそれは何? 視聴率? 報道に活気をもたらし、紙面や画面を賑わし、報道の存在をアピールするため? それともメディアの無思想性のなせるわざ? 警察発表など一部の情報源だけに頼って記事や番組をつくっている受け身の姿勢のせい? 独自の調査や取材をしないから? あるいはやったとしても警察発表を裏付けるものしか材料として扱うつもりがないから? 

仮にこれらの複合的な理由から、無責任で道義的にも許されない野放し報道がなされているとしたら、情報の受け手である視聴者や購読者はどういう立ち場に立たされるのでしょう。民主主義国であると自負する日本国にあっては、「民意」というものはもちろん、政治や社会問題などあらゆる場面で都合よく利用もされてきました。選挙はひとつの典型です。特に最近では民意を反映しない発言をしたり、民意に反論したり、叱咤したりすることは政治家にとって命取りな行為。当選確率の高いポピュリスト(政治家)にはなれないでしょう。「KY」であっては今の時代政治家にはなれない、そのため空気ばかり読んでいるように見える政治家もいるくらいです。

ということは、政治も、報道も、民意を反映することを一大使命としているならば、その民意の発信者であるわたしたちの思想がどこに一番現われているかと言えば、、、、それは他ならない政治の状況であったり、報道に現われている、ということになりそうです。この二つの川の流れの間には重大な断絶があって、現われていることは民意の反映ではない、と言えるのかどうか、わたしにはその自信がありません。カレー事件の林さんをあのような報道の表現の中に置くことを、そして部外者として無責任にそれを見て論評することを、「残忍な容疑者」を報道がこれでもかと繰り返したたく場面を、視聴者は潜在的に望んでいた、のかもしれません。

ことはパレスチナ/イスラエルのように、あるいは日本の「民意」にとってここ最近の最大の敵である「北朝鮮」のように、歴史や政治が絡んでいる場合は、様々な見方や解釈が成り立ち、意見を言うのにも気をつかいます。合理的な解釈、公平な視点に努めて語ろうとしても、「それはあなたが○○だから味方するのでしょう」とか「○○に住んでいるから一方的な情報しか知らないのでしょう」と言われてしまうかもしれません。そういう意味で、刑事事件というのは、政治や宗教や歴史とは離れたところから語れる素材です。それだけに、最初に書いた福嶋さんの疑問である「報道と事実関係」の問題が、様々な立ち場を外して、人間の問題として、法治国家の問題として語れるのではないかと思いました。そしてそこで何らかの解答が得られたなら、それはパレスチナ/イスラエルや北朝鮮の報道のあり方についても新たな視野をもたらすはずです。

自分の「民意」を表わす方法というのは、選挙に行って投票したり、裁判員として裁判に加わっていれば達成できるものではありません。では何をどうすればいいのでしょう。わたしにも結論はありません。考えつづけること、くらいしか思い浮かびません。それは子供もまじえた夕飯の席で、ニュースから流れるイスラエル報道、北朝鮮報道に対して、「あんな国があるからこの世はひどくなる」などと軽率に発言することを思いとどまらせ、友人同士のカフェの会話で「林真須美って極悪そうな人相だよね」などという意味も根拠もない中傷を口ごもらせるにはある程度役立つはず。さらに、「何でそう思うの?」「何でそんな根拠のないことを平気で言うの?」と相手に口に出して言うことができれば、その人の「民意」は自立できるかもしれない。ただし、友人の何人かを失うことになるかもしれないけれど。

どんな問題であれ、報道の受け手が自分の思い込みや偏見をまず点検し、信頼にたる根拠を探し、合理的な思考、判断をしようと努力すること。そういうことによってしか報道と事実関係の溝は埋まらないでしょう。報道の問題はある意味受け手の問題だと思います。わたしの観察からは、日本で「民意」として提出されているものには、「合理的な思考」がかなり欠けているように見えることが多いです。そこのところに、わたしは大いなる距離を感じている今日この頃です。