水曜日, 8月 25, 2004

パレスチナ難民問題の発端 (O)

前回の大黒さんのポストから10日経って、やっと今日になって何とかできるだけ簡単にまとめることができました。長い歴史の中で起きている(しかも現在進行形の!)、とてもこんがらがったことについてなので、できるだけ気長にお願いしますね。では前回の私のポストの、英国の統治によってパレスチナと呼ばれるようになったこの土地のその後について、続けていきます。

第一次世界大戦後、1919年にパリ講和会議においてイギリスやフランスによってトルコ帝国の領地だった中東を分割統治されることが決められ、それはこの土地の99%はアラブの人々へ、そして残りの1%をユダヤの人々のホームランドにするというものでした。1920年、当時の米国の大統領ウィルソンが提唱した国連の前身とも言える国際連盟(LEAGUE OF NATION)によって、それまでパレスチナ(その当時はヨルダンも含まれていました)と呼ばれていたこの土地は、英国が委任統治することになりますが、英国はスエズ運河などを含む重要なこの土地を我が物にしたいだけであって、ここに住む人たちの為の統治には無関心で、特別何も行いませんでした。

そして、英国統治時代のこの土地は1929年に起きたアラブ側からのユダヤ側への攻撃のヘブロンの大虐殺、その反対では、ユダヤ側の攻撃で起きた1948年のディル・ヤシン事件。そしてそのお返しの様に起こったアラブ側による4日後のハダッサ事件とエチオンブロックの虐殺(これらの二つの事件はなぜか事実として取り上げられない事が非常に多い)に見られるように、アラブとユダヤの人々の争い・いざこざの時代と言えます。ヘブロンの町はユダヤの人々が3000年という長い期間に置いて住み続けていた土地でしたが、その2日間続いたアラブ側の武装勢力での虐殺に関して英国は全く見て見ぬふりをして、その代わりになんとか生き延びたユダヤ人には、「安全のために」という名目でヘブロンから去るように命令したのでした。当時、こういった惨事がこの土地のいたるところ(一晩で200人近くのユダヤの人が虐殺されたエルサレムの旧市街を含む)で行われましたが、それでも英国はユダヤの人々を保護すること、また保護しないにしてもアラブ側の攻撃を止めさせるなどの仲裁は一切行いませんでした。

1936年後、アラブ側の大蜂起、ユダヤの人々に対する攻撃はどんどんとエスカレートし、ついに英国にはその混乱は手に負えなくなり、この土地の統治能力を失ってゆきます。

1939年5月17日、英国政府はアラブ側のリーダー達の反ユダヤの圧力に負け、ユダヤの人々のパレスチナへの移住を限定するという白書を発し、のちにはユダヤの人々の移住を完全に禁止してしまいます。またこの白書のために第二次世界大戦時にヨーロッパからナチの手を逃れようとしたユダヤの人々はこの土地へ移住することができず、そして第二次世界大戦後にホロコーストを奇跡的にも生き延び、しかしもはや帰る家族も家も失った彼らはこの土地へと航路でやってきますが、入国は許可されずにまたヨーロッパへ送り返されるということが何度も起きました。1947年7月に起きた移民船エクソドス号の話は1960年にアカデミー賞を受賞した『栄光への脱出』という映画のモデルにもなった有名な話です。

話が前後しますが、英国はこの白書を発する前に、この土地をアラブとユダヤとの両方に分けることを計画していましたが、アラブとそして世界中からの圧力が英国に掛かり、そこで英国はユダヤの人々にいかにこの土地の少しだけを与えるかという事に基づいてこの白書を発行します。

1947年11月29日。国連議会ではパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国境を持つ国を建設するという、パレスチナ分割に関する決議が総会で採択されます。そしてエルサレムはどちらの国にも属さない、国際管理下に置くインターナショナル・ゾーンとされることになります。これに対してユダヤ側は同意をしますが、アラブ諸国はこの決議前に国連に参加している国々にかなりの圧力をかけて、この計画を阻止しようとします。そしてさらに決議後には、パレスチナ全土のユダヤの人々を攻撃をしますが、これが現在まで続いている争いのはじまりでした。そして英国が引き上げる瞬間までには、アラブ・ユダヤの双方が、どちらがどれだけより利益のある道と肥沃な土地を自分のものにするかの奪い合いが続きました。そしてユダヤの人々のたった一つの聖地、そして後にイスラムの人々もユダヤとは別の理由から彼らの聖地と呼ぶようになったエルサレムも、その最大のターゲットとなります。

1948年5月14日、ユダヤのリーダーでイスラエル初代首相となったダヴィッド・ベングリオンは、この困難な状況下でイスラエル国家独立を宣言します。そしてそのまったく同じ日にエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、サウジアラビア、そしてイラクの6カ国の軍隊が一気に建国したてのイスラエルへ攻め込み、第一次中東戦争が勃発して、当時のイスラエルにいたアラブの人たちの多くはこのアラブ側の軍隊へ参加しました。そして8ヵ月後の1949年1月までにイスラエルはこの軍隊を後退させますが、それでもエルサレムの旧市街を失い、そこにあった一軒残らずユダヤ教の会堂・シナゴーグの全て、そしてユダヤの人々の家々も全て破壊され、さらには彼らは旧市街から出て行くことを余儀なくされました。

と、長々と書いてきましたが、ここまでは現在パレスチナ難民と呼ばれている人たちの発端についての説明の序説といったところでしょうか。

1948年の4月から12月までの戦争中のこの土地から、70万人のアラブの人が逃げ出したと国連は見ています。そのうちのいくらかの人たちはこのアラブとユダヤの争いを避けるために避難し、また他の人たちはアラブ側の攻撃に対するユダヤ側による報復を恐れたためだと言われています。しかし当時のこの土地のアラブの人々の多くは、彼らの政治リーダーから、「すぐにイスラエルは滅ぼされるだろう。そして君たちがこの土地に戻れる日はまたすぐにやってくるのだから、今は一旦ここから去るように。」と言われました。しかしその理由のはっきりとしたことはわかっていません。そしてそういった状況の中で16万人のアラブの人々が、そのままこの土地に残り、逃げ出した人々のほとんどは国連がアラブの国を設立すると約束した土地へ移りましたが、ガザは当時エジプトに占領され、ヨルダンは東エルサレムと西岸地区を占領した後にヨルダンの一部として合併してしまいます。

そして国連はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設け、パレスチナ難民をシナイ半島やヨルダン、そしてシリアに住むための援助協力しますが、アラブ諸国の政府はパレスチナ難民を難民キャンプに留めるために、そしてそれによってイスラエル国家の存在を揺るがすために、この計画を、そして国連の関与するその他のパレスチナ難民援助を拒否します。現在は約400万人のパレスチナ難民と呼ばれる人々が存在し、パレスチナ・イスラエル問題の主な交渉ポイントは、双方の国境をどこに引くか、入植地(Yesha)の問題、そしてこの難民の問題なのです。エジプトからやって来たアラファト議長(ちなみに彼はパレスチナ人ではありません。)やアラブ諸国は、この400万人いるパレスチナ難民の帰還についてイスラエルに対し圧力をかけますが、しかし実際のところそれだけ多くのアラブの人々がイスラエルに住むということは、すなわちイスラエルがイスラエルとしての国家でなくなるということであり、それをイスラエル側がすんなりと受け入れるということは、絶対と言っていい程に考えられないことだと思います。

1948年のイスラエル独立当時、約90万人のユダヤの人々がアラブ諸国に住んでいましたが、その大多数の人々がそれぞれの住んでいた国から無一文で去るようにと、イスラエルの独立に憤慨した政府によって言い渡され、現在ではたったの20万人のユダヤの人々が、それほど反イスラエルではないモロッコなどの北アフリカに留まっているに限られています。そして残りの70万人のユダヤの人々はイスラエルへ裸同然でたどり着きました。現在リビアとイラクは、これらの無一文で去ることを余儀なくされた元自国民であったユダヤの人々に対して、彼らの所有財産の返還を申し出ています。そしてこの土地を去らずにイスラエルに残った16万人のアラブの人々はイスラエル国民となり、現在ではイスラエル国籍のアラブ人は約120万人いますが(現在のイスラエル国民数は6百万人です。)、 しかし彼らはアラブ諸国のリーダー達によって裏切り者と見なされ、エルサレムの旧市街のモスクへ礼拝に行くこと、そしてその他のアラブ諸国に住む家族との連絡を持つことを一切禁止されています。

この後から1967年までの戦争の歴史は、今回のポストでは特に重要ではないので省きますが、1967年6月9日に起きた6日間戦争ではイスラエルはシリア、ヨルダン、そしてエジプトを攻撃します。これはアラブ側の見方では、イスラエルはこの戦争によってガザと西岸地区、そして東エルサレムとシナイ半島を占領したとされていますが、その反対にイスラエル側の見方ではガザとシナイ半島を占領し、東エルサレムと西岸地区をヨルダンから解放して東エルサレムをイスラエルの一部としました。

さて、ここからいよいよ入植地(Yesha)について、そして前回の大黒さんの質問について、次回に続きます。(大桑)


参考文献:
The Routledge Atlas of Arab-Israeli Conflict: The Complete History of the Struggle and the Efforts to Resolve It (Routledge Historical Atlases)
by Martin Gilbert
     
A History of the Israeli-Palestinian Conflict (Indiana Series in Arab and Islamic Studies)
by Mark A. Tessler

土曜日, 8月 14, 2004

何と何がこの土地では本当に対立しているのか (D)

大桑さんの説明による、「パレスチナと呼ばれてきたもの」の実体、そして紀元前1000年にまでさかのぼるその語源について、わたしにとってはまったく未知の内容でした。中でもローマ帝国が、ユダヤの名残りをこの土地から消し去るために、「イスラエル」を「パレスチナ」と呼び改めたこと、それが世界史的に最初のパレスチナの登場だったという事実には驚かされました。さらには、その「パレスチナ」という言葉の元々の意味が、その昔この土地でユダヤ人に敵意を抱く人々を指すユダヤ人側からの言葉(ヘブライ語)のラテン語読みだということを聞いて、頭の中が混乱しました。何重にもよじれ、ひねられ、ひっくりかえされた歴史基盤の上に置かれた人々、ユダヤ人とこの土地。

そして現在「パレスチナ人」と一般に呼ばれている人々、イスラエルのアラブ人たちとの対立関係は、19世紀の終わり頃に起き始めたことのようだということがわかります。それが今回投稿メールを送ってくれたダニエルさんの言う、ヨーロッパからのユダヤ人たちが「故郷へ戻るため」にこの地に移住し、メソポタミア、シリア、エジプトからアラブ人たちが「労働のため」に移住した、その時期と一致していることに気づかされます。つまり、その頃に、それぞれの理由によって、現在イスラエルと呼ばれている土地のあたりに、ユダヤ人、アラブ人双方の人々がたくさん押し寄せ移り住むようになったのだということがわかってきます。ということは、パレスチナとイスラエルの問題は、大掛かりで長期にわたる移民問題、ということができるのでしょうか。移民というからには、普通、移民される側の主体となる国があるわけですが、それに当たるのが帝国時代のトルコであり、植民地体制でのイギリスとするなら、これら宗主国が去ったあと、移民同士が直接にぶつかりあうという事態が起きていると考えることもできそうです。ユダヤの人々にとっては、「移民」という考え方ではなく、「故郷へ戻る」ということではあると思いますが。

ダニエルさんの発言からも、いろいろ考えさせられました。いくつかを上げてみたいと思います。まず、問題の中心となっている地域イェシャ(Yesha)のユダヤ人にとっては、日本で「パレスチナ問題」と呼ばれているものは「イスラエル政府問題」として捉えられているという指摘です。わたしの理解では、今起きている問題は、よく言われているような単純な二項対立(ユダヤ人入植者対パレスチナ人先住民のような)ではないということ。ダニエルさんが兵役拒否をした理由は、イスラエル政府への反発、不服従の気持ちからと書かれています。イスラエル政府は結局のところテロリストたちを擁護しているのではないか、という疑問をお持ちのようです。もしそうだとしたら、そこにはどんな政治的な思惑あるのでしょうか。あるいはなんらかの妥協なのでしょうか。ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府であるとしたら、それはどんな理由からなのでしょう。

話は少し飛びますが、最近こんな記事を読みました。イスラエルのユダヤ人社会にはヒンドゥー社会におけるカースト制度のような階級がある、という話しです。つまりユダヤ人社会の中にもいくつかの対立事項が存在する、ということなのでしょうか。その階級とは、東欧からの移住者をトップに、イベリア半島からの移住者、そして最下層に北アフリカやイスラム文化圏からの移住者、というような順序づけがされているそうです。違う階層の男女が結婚するときのてん末をあつかった映画が「ブーレカ映画」と呼ばれて一ジャンルをなすくらい、この階級差は自明のことのようです。とすると、ユダヤ人とひとことでくくるには困難な民族集団としてのユダヤ人とその社会が見えてきます。出自や文化的背景、利害関係において、あまりにも立場が違うという意味で。こうしたことも、パレスチナ、イスラエル問題を複雑にしている要素のひとつなのでしょうか。(参照:「新潮」9月号/四方田犬彦『メラーの裔/モロッコ系ユダヤ人をめぐる6つの断章』)

もうひとつ、ダニエルさんの記述の中で、「Yeshaを発達して」良い土地にする、という箇所が気になりました。イェシャというのは問題となっているヨルダン川西岸とガザ地域のことです。ここを発達(発展)させる、といはどうことを指しているのでしょう。この地域で、イスラエル政府によって擁護されている「アラブ人テロリスト」を排斥して、ユダヤ人とアラブ人の共存関係の可能性を探り、それを育てていくということなのでしょうか。それともユダヤ、パレスチナの間にきっちりと境界を引き、今後問題の根となるようなものが残らないよう、合理的、公平に分離していくということなのでしょうか。

グロスマンの本を読んでいて印象的だったことは、この本の著者自身の考え方としては、さまざまな辛い妥協に双方が従わなくてはならかったとしても、二つの民族国家としてパレスチナ、イスラエルという別の主権国家をつくる道筋が必要であり、そのために具体的で集中的な交渉を重ねるべきであるということがはっきり書かれていることでした。パレスチナ人、イスラエル人両方にその解決能力がないなら、国際社会の介入も、国際的な軍隊の派遣もふくめて、求めたいということも2001年6月の日誌には書かれています。これが長年の戦争状態とテロの恐怖の中で日常を送ってきた、イスラエルに住むユダヤ人の一作家にとっての結論なのだということです。(大黒)

水曜日, 8月 11, 2004

読者からの手紙-京都在住のダニエルさんより。(8月6日)

今回コメントを寄せていただいたダニエルさんについて。

ダニエルさんとはエルサレムで数年前に出会い、それ以来京都出身の私はエルサレムに、そしてその入れ替わりのようにエルサレム出身の彼は京都に住みつつ交流が続いています。ダニエルさんは東京大学を経て現在は京都大学で物理を学んでいます。驚くことに、彼はこれまで日本語は一度も誰からも教わったことはなく、すべて独学だそうです。またダニエルさんには過去にエルサレムで2度もテロに遇ったというとても痛ましい経験があり、そういう方の声を聞けることは大変に貴重だと思っています。現在、彼は物理のほかにはユダヤ教の教えも勉強しつつ、日本の社会に生きながらも、きちんと安息日などを守りながら正統派ユダヤ教徒の生活をしています。(大桑)

下記はダニエルさんからの手紙です。 


「始めまして。ダニエルと申しますが、日本に住んでいるユダヤ人です。大桑さんと大黒さんが書いた意見を興味深く読みましたが、ちょっとコメントしたいと思います。

まず、「テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります」と大黒さんが書きましたけど、私も兵役拒否しました。偽の「平和」を作るためにテロリスト国を作りたいためではなく、イスラエル政府の政策には反対ですから、何年間刑務所にいてもその政策に協力することは断じてしないです。結局運良く刑務所に入る必要がありませんでしたけど。

Yesha*¹(ユデア、サマリア、とガザ、つまり西岸とガザ)のユダヤ人にとっては、PLOやHamasとの戦争は「パレスチナ問題」よりも「イスラエル政府問題」として考えられています。テロリストが使っている武器は、Oslo Accordsの後にイスラエル政府がアラファットに与えたものだとか、TunisからPLOを誘ったのがイスラエル政府だとか、ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府だとか、「パレスチナ問題」と思われることがすべてイスラエル政府自体の所為だという考え方もあります。

ユダヤ教のなかに、「lasheker ein raglayim(レシェケール エイン ラグライム)」、つまり「偽りに足がない*²」というイメージがあります。ヘブライ語だと、「Sheker」という「偽り」という意味の文字(シン・クフ・レシュ)の一つ一つには、足が一本*³ しかありません。反対に「Emeth(エメット)」という「真実」という意味の文字(アレフ・メム・タフ)の一つ一つには、足が二本あります。イスラエルにいるアラブ人がアラファットの偽りをまじめに信じていると思えないです。大黒さんが仰った通り、「パレスチナ」という国が1918-1948年にしか存在していなくて、そのときの「パレスチナ」人はアラブ人だけではなくて、イスラエルに住んでいた人たちのみんなさんでした。却って、アラブ人が自分のことを「アラブ人」と呼びましたので、自分のことを「パレスチナ人」と言ったのはユダヤ人だけでした。私の祖父は三十年代に、「パレスチナ人」のためのでもに参加しました。その「パレスチナ人」の意味は、イスラエルに住んでいるユダヤ人でした。

大黒さんが仰った通り、ユダヤ人とムスリムが平和に暮らすことができると私も思います。「宗教的対立が問題の根」ではないとは確かだと思います。問題の由来は、1920年代でのIslamist Movementの時代に始まりました。1929年に戦いを始めたのは、エルサレムのGrand MuftiのHaj-Amin al-Husseiniでした。詳しいことはhttp://www.freerepublic.com/focus/news/846987/postsとかで読むことができます。十九世紀の前に、イスラエルの人口は数万人しかいませんでした。十九世紀と二十世紀の始まりに、ヨーロッパからのユダヤ人と、メソポタミア・シリア・エジプトからのアラブ人がたくさんイスラエルに移民しました。ユダヤ人は「故郷へ戻る」ために来て、アラブ人が労働のために移民しました。そして、1929年に「ヘブロン虐殺」とかがあって、争いが始まりました。現代の偽りに対立している人が少ない理由は、アラブ人がそれを信じているからだとは思いません。「偽りに足がない」から、それを支えることがなければ、今の理不尽な状態は成り立てないと思います。PLOの偽りも支えているのがイスラエル政府の政策です。ユダヤ人がテロリストに殺されているときに、犯罪者が二人いる。その人を殺したアラブ人、とテロ組織を強めたイスラエル政府です。みんなが平和がほしいと思いますけど、平和になるために、偽りを支えてアラブ人のみのテロリスト組織が支配している国を作るのではなくて、真実を認めてユダヤ人を全イスラエルに自由にするのが正しいです。テロ組織に武器を与えるんじゃなくて、テロリストを逮捕する。

ユダヤ人の夢を砕くんではなくて、Yeshaを発達して、みんなが誇りに思われるような素敵な土地にすることが正しいだと思います。アラファットに捨てるんじゃなくて、イスラエルの大事な大事な部分として道・水道・電気構造を作りましょう。聖書から約束された国ですから。ダニエルより 」



訳注(大桑):
*¹ Yeshaはイェシャと発音します。

*² ユダヤ教神秘主義のカバラではヘブライ語の一字一字が漢字のように意味を持つとされていてます。足のように支えになる部分のない文字から成っている言葉は立っていることができずに倒れてしまいます。

*³  足が一本とは、この文字の足があるような形のヘブライ語文字のことを表しています。



金曜日, 8月 06, 2004

パレスチナとはなにを指すのか (O)

先日の大黒さんのポストから、のあたりの土地についての歴史的なことを一挙に駆け足でザザザーッと、見てみます。

まずは、このパレスチナという言葉について。

このパレスチナという名前は、紀元前1000年ごろのガザあたりのごくごく限られた地域のことを指していました。当時そこに住んでいた住民は常にイスラエル王国を攻撃し、そのためにユダヤの人たちは彼らをヘブライ語で「侵入者」という意味に当たる「プリシティン」という名で呼びました。そして、このあたりの土地はプリシティン、侵入者が住む土地という意味の「ペレシャット」と呼ばれるようになりました。

この「プリシティン」と呼ばれる人たちは、元々はギリシャからレバノンとそしてガザあたりに移り住んで来た人たちのことで、現在パレスチナ人と呼ばれているアラブ民族ではありませんでした(現にパレスチナまたはプリシティンという言葉のはじめのPの発音はアラブの言語にはなく、そこからもこの名前が元々彼らの言葉から来たのではないことが伺えます)。そして数百年にわたりユダヤ人たちは侵入を繰り返すこのプリシティンたちと戦い、紀元前900年に、遂にユダヤのダビデ王はそのプリシティン達とその土地を滅ぼしました。

西暦150年には、ローマ帝国よって滅ぼされたイスラエル王国の名残のエルサレムはアエリア・キャピタリーナという新しい名で呼ばれ、イスラエル王国は彼らによってプリシティンのラテン語読みであるパレスチナという名前を与えられました。ローマ帝国は、ユダヤ人たちが常にローマ帝国に反抗してきたことで、イスラエルそしてエルサレムという名をユダヤ人たちから完全に消し去ることによって、ユダヤ人たちを制覇しようとしたわけです。そしてその当時は、この土地にはアラブ人はまだ住んでいなかったのですが、622年にモハメッドが創めたイスラム教を広めるために、636年になって初めてアラブ人がアラビア半島のメッカやメディナからパレスチナの地域にやってきました。そしてアエリア・キャピタリーナは、やって来たアラブ人によって、今度はアルクッズと呼ばれるようになりました。

また、352年からアラブ人がやって来る636年までの284年間は、この土地はビザンティン帝国の一部としてキリスト教の国でしたが、11世紀の終りになり十字軍がこの土地に進出して、多くのユダヤ人たちとイスラム教徒を殺し、その後この土地を200年に渡りキリスト教の国として支配し、アルクッズは再びエルサレムという名に戻ります。

1291年、今度はイスラム教徒のマメルックスと呼ばれる人たちが十字軍と戦い、彼らからこの土地を奪い取り、キリスト教の国からイスラムの国となります。そしてサラディンというこのマメルックスのリーダーは、イスラムの聖典であるコーランには神はこの土地をユダヤ人たちに与えたと記されているため、世界中のユダヤ人たちにこの土地に帰還するように言い渡します。その為、1世紀から2世紀にかけてローマ軍によってこの土地から追い出されヨーロッパに移り住み、キリスト教徒によって迫害されていたほんの一握りのユダヤの人々がこの土地に帰還しました。

1517年、トルコ帝国がイスラム教徒の国を支配します。その中には当時イスラムの国であったこの土地も含まれていました。サラディン時代からトルコ帝国時代の終わりの1880年まで、主にトルコ帝国の支配によってユダヤ人とアラブ人は問題なく共存していましたが、1880年、トルコ帝国支配下のアラブ人は彼らの国を持つということに目覚めだします。そして時を同じくして、ロシアと東ヨーロッパのユダヤ人が、キリスト教徒による弾圧から逃れるための新天地を求め、この土地に移住しはじめます。

移住してきた彼らは、荒れた土地、沼地、そういった誰も欲しくないような土地をアラブ人とそしてトルコ人から買い取ります。移住してきたユダヤの人々には手に職があったりと、当然アラブ人はヨーロッパからのユダヤの移民の数が増えていくことによい顔はせず、反シオニズム社会を形成し、トルコ帝国にユダヤの移住を禁止するように訴えます。そして1886年に、ペタハ・ティクヴァやレホヴォットという開拓されていた町が、はじめてアラブ人たちによって攻撃されますが、それでもユダヤ人たちはヨーロッパから(特にロシアから)の移住をやめず、1909年には、ユダヤ人はテル・アヴィヴ(ヘブライ語で春の丘という意味)という、初めてのユダヤ人だけの町を建設します。ちなみに1880年から1914年にかけて、6万5千人のユダヤの人々がこの土地に移住してきました。

1914年、第一次世界大戦が勃発します。トルコ帝国は敵国・英国と戦います。1915年、英国はトルコ帝国に住んでいたアラブ人たちに、英国に寝返ることによって勝利の暁には彼らに独立した国を与えると約束します。かの有名な映画『アラビアのロレンス(あの若き日のピーター・オトゥール!)』のモデルになった英国の陸軍将校ロレンスは、アラビア半島にやって来てアラブのいくつもの部族(反乱軍)を指揮し、トルコ帝国の軍隊を攻撃したのです。

1917年、英国はユダヤの富豪から第一次世界大戦の戦費調達を得るために、ユダヤの人々にこの土地に国を持つ権利がある、というバルフォア宣言を発します。そして、その権利はアラブの人々にもまた同じく約束されていました。しかし、勿論、英国はこの公約を守らない。

1918年、英国が勝利し終戦し、英国はアラブとユダヤの両方についてその約束を守らずに、英国はフランスと密約を交わしていたので、アラブに対してはサウジアラビアなどのアラブ諸国を直線的に国境を引いて建設しますが、ユダヤには何も与えませんでした。1920年、サン・レモ会議において、この土地は英国の委任統治領と認められ、再びパレスチナと呼ばれます。

西暦150年にローマ帝国によってこの土地がパレスチナと呼ばれてから1770年間という月日を越えて、1920年から1948年のイスラエル建国までの28年間、この土地は再びパレスチナと呼ばれていました。  (大桑)

月曜日, 8月 02, 2004

トルコ時代のパレスチナ人、ユダヤ人の平和 (D)

本題に入る前に:
大桑さんの前回のポストにイスラエルの徴兵制のことが出てきました。歴史的な場所マサダの丘で行なわれる入隊式の話、そこから喚起されるのかもしれない若者の国民意識のことなど。そういえば、1、2年前だったか、テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります。そして最近は、兵役拒否をする若者たちが孤立しないよう、外国人が外側からその行動を支援するという活動についても聞いたことがあります。入隊する者が数として減ることで、あるいはイスラエル国内にも戦闘をしたくない者がいるということの表明で、平和への道を探ろうとしているのでしょうか。国家にとってはこれは困った問題でしょうし、その時期を迎えた若者たちにとっては命にかかわる、無自覚ではいられない切実な選択のときであることは間違いないでしょう。そして自分という個人と国家の関係を、入隊するにしても兵役拒否するにしても、はっきりと意識するきっかけとなるのかもしれません。

さて、前回、パレスチナについてのわたしの理解を書くと予告したので、今回はそれについて以下に書こうと思います。

パレスチナがいつどのように存在するようになったのか、わたしはこのプロジェクトを始める前にはよく知りませんでした。そこで「世界史年表・地図」(1998年版/吉川弘文館)というものを取り出して、世界史地図のページを繰っていきました。まず現在の西アジア・南アジア地域を確認すると、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプトなどに囲まれた地域にパレスチナの名前はありません。次に第二次大戦中(1943-1945)のヨーロッパの地図を見ます。パレスチナ、あります。次にヴェルサイユ体制下のヨーロッパ(1918-1937)の地図に目をやります。シリア、イラク王国、ネジト王国(現サウディアラビア)、エジプト王国などに囲まれてパレスチナの名前があります。次に第一次世界大戦中のヨーロッパ(1914-1918)の地図のページを繰ったとき、さっき見ていた地域にはシリアもイラクもヨルダンもなく、そしてパレスチナもなく、ただ大きく広がるトルコ帝国があるのみでした。1914年といえば、100年にも満たない過去のことです。イェルサレム、ベイルート、バグダード、そしてメソポタミアなどの文字が散らばる、大きな帝国がそこにはありました。その時期はヨーロッパにしても、イスパニア王国であり、オーストリア・ハンガリー君主国であり、ドイツ帝国であり、イギリス王国であったわけですが。

地図を見ていて思ったのは、パレスチナが国として存在していた期間はずいぶんと短い期間だったのだな、ということ。1918年以降、イスラエル建国の1948年までのたった30年間だけ存在した国だったということになります。では1918年以前、トルコ帝国時代のパレスチナ民族はどのように暮らしていたのでしょう。四方田犬彦氏によれば、オスマン・トルコ帝国下で、大シリア地方南部の一地方として漠然とパレスチナと呼ばれていたそうです。十字軍の侵略のときを除けば、「イスラム教徒とユダヤ教徒、ドルーズ教徒、さらにさまざまな宗派のキリスト教徒でさえもが、同じ帝国の臣民として、のんびりと暮らしていた」そうです。ここでは西洋諸国では一般的だったユダヤ人差別もなく、ユダヤ人も日常にアラビア語を用いて、平和的に共存していたとのことです。(「サイードとパレスチナ問題」)

ここから汲み取らなければならないこと、それは何でしょう。たとえば、パレスチナ人とユダヤ人は100年前には、同じ国の国民として、言語を共有し、宗教は違っても平和的に共存して暮らしていたという理解ができます。宗教のことにはうとい日本人は何でもすぐに、宗教的対立が問題の根と思い込むところがあるように思いますが、必ずしもそうではないんだ、ということがこのことからもわかります。では本当の問題は何なのでしょうか。あらゆる紛争がそうであるように、政治の、それも国際政治の問題がここでも最大の対立の根、ということなのでしょうか。(大黒)

マサダでの誓い (O)

あまりにも日本の現実とかけ離れた時点で書いてきたようなので、とてもわかりにくい、または、なんだかピンとこない話(または対話)、になってしまった気がするので、もう少しイメージの湧いてきそうな話をひとつ。


マサダの砦にて。

エルサレムから海抜をどんどん下がって、マイナス400メートルあたりに来ると、左手に世界最古の町、エリコが見えて来ます。そこからTの字の道をエリコとは反対の左に折れて死海を横手にさらに南下して行くこと約20分。左側のぼーっと暑く霞のかかった、波もなくただ静かに広がる死海とは裏腹に、反対の右手側には赤茶けたゴツゴツした岩肌の山々が太陽に照らされて雲ひとつない、真っ青な空の下にそびえ立つ砦があります。

マサダの砦。

1世紀の初めにローマ軍がエルサレムを奪い、そこから逃げ延びたユダヤの人々が、ヘロデ王が残したこのマサダの砦に立てこもりました。そして、ローマ軍に降伏することを最後まで抵抗したという、歴史的な砂漠の中の砦です。ここには当時1000人ほどのユダヤの人々が没落したエルサレムから逃れ、水を蓄え、町を作り、砦の下から攻めてくるローマ軍との戦いに挑みました。そして西暦73年、3年という長い月日をこの荒野のマサダで生き延びたユダヤの人々は、遂に最後の時を迎えました。山の裾野からどんどん押し寄せるローマ軍は、今にもこの高くそびえる砂漠の赤茶けた砦を攻め落とそうとしています。それを悟った9960人のユダヤの人々は、互いにくじを引きあい、誰がどの順で誰を殺すかを決めてゆきました。彼らはローマ軍に降伏してユダヤの誇りを捨てるよりも、ユダヤの誇りと共に死ぬことを選び、敵の手にかかる前にマサダの住人の960人全てが、身内によって誰がどういう順序で亡くなっていくかの、そのくじを引いたのです。

現在マサダの砦は、イスラエルでもエルサレムに次ぐ人気の遺跡観光地となっています。死海近くの山のすそからはロープウェイが砦のある山頂まで人々をあっという間に運び、ループウェイから見下ろす足元はるか下には、当時ユダヤの人々が砦まで登った「蛇の小道」やローマ軍が野営していた跡地があちこちに点々と見えます。頂上の砦跡には、宮殿のテラスや住人の使用したサウナやシナゴーグの遺跡などがあり、そこからの景色はまさに絶景といわんばかり。見渡す限り生き物の気配のない赤い乾いた砂漠と、それを照りつける太陽。そして、じっとただ横たわる幻のような死海。


イスラエルの若者は18歳になると男子は3年から4年、女子は2年間に渡って徴兵されますが、軍隊のユニットによって、その入隊式がこのマサダの砦にて行われます。そして、このマサダで敵に降伏することなく、誇り高く死んでいった彼らの先祖の魂を忘れまい、そして二度とその悲劇を繰り返さないように「Masada shall not fall again」と胸に誓います。 もしもそれまでに一度たりとして、イスラエルの土地やユダヤの民に属するということを考えたことなどなかった若者がいたとしたら、マサダの砦の入隊式は、この土地に対する思いやユダヤとしてのアイデンティティを考えるきっかけのひとつになるのかも知れません。  (大桑)