土曜日, 7月 31, 2004

今日を生きる自分、過去とのつながり (D)

まずはわたし自身への問いかけとして。今、ここ、にいるこのわたし、この人間はどのようないきさつでここに存在し何を(目的と)して生きつづけているのか。考えます。考えます。考えます。うーん、でてこない。つかみどころがみつからない。生まれた場所、育った場所、父と母、祖父母。それぞれの地名や名前を思い浮かべても、それは自然のなりゆきと家族のことに収斂していくだけで、それ以上の広がりをもって横につながっていったり、過去に深くさかのぼっていったりはしそうもないのです。

大桑さんの前回のポストに、ユダヤの人々にとって過去は記憶ではなく、現在もひとりひとりが個々の生の中に具体的に取り込んで生きる指針としているもの、その背景には歴史的事実がある、というような記述がありました。だから多くのユダヤの人々は、わたしの言う「彼らの故郷とは、幻想としての故郷ではないのか」という見方を受け入れられないだろうと指摘しています。これはもう想像力を働かせて、働かせて、彼らの言う意味を知ろうとするしかないのですが、最初に書いたように、それを考える土台がわたし(という日本人)には持ち合わせがないのです。

これはわたしが日本人として少し特別なのか、それとも多くの日本人がこのような状態なのか、はっきりとは言うことはできませんが、わたしの想像ではおおむねの日本人は、今の日本人は、そうはわたしと変わらない気持ちで生きているのではないかと思うのです。(いや、それは違う、という方がいたら、ぜひ教えていただきたいです。皮肉でもなんでもなく) つまり、日々生きる個人としての自分と、日本というコミュニティ(国)に属する、現在までの長い歴史を共有する日本人としての自分を、重ね合わせ照らし合わせて暮らしているかどうか、そのことに現実感があるのか、というようなことです。実際にはそうではないのですが、わたしたち日本人は、国家という外皮をぼんやりと意識はしているものの、自分は自分であって自分は自分の意思で生きている、のように思って生きているような気がします。そして国家がその外皮を変化させたときは、またその中で、自分は自分であって自分の意思で生きている、と感じることができるのです。それは本当のことではないのですが、実感としてそのように(受け入れ)感じて生きていくことができるということです。

そのような土台をもつ(として)日本人は、パレスチナとイスラエルのことを考えるとき、それぞれのたどってきた歴史と、その解釈によって起こる激しい対立について、立ち入ることができないと感じるか、ただ単に嫌悪感を感じるか、のどちらかに落ち着いてしまうように思います。

さて、ここまで書いてきてふと、これを読んでいる人は、おまえはユダヤ人と日本人の違いには再三ふれているけど、パレスチナはどこへいった、と思うかもしれないな、と思いました。ユダヤのことについては、日本人というアイデンティティをもちながらそれについて深く学んだガイド役の大桑さんがいるから、こうして対話を通じて少しでも近づくことができるけれど、パレスチナについてはどのように知っていけばいいのか。正直なところです。この対話を始める前に、パレスチナの成り立ちを知るために手にとった参考書は、「世界史年表・地図」(吉川弘文館)。これは紀元前3000年から現在にいたる世界史対照年表(世界の各地域が縦軸に、年代が横軸に配されて、時代ごとの各国、各地域がどのような状態だったかひと目でわかるようにしたもの)と、おおまかな時代ごとの世界史地図から成っています。わたしは人と話をしていて、本を読んでいて、テレビを見ていて、わからないことがあると、この本を取りだして事実関係を調べます。わたしの持っているのは1998年度版で少し古くなってしまいましたが、1300円という値段のわりには、とても重宝する参考書です。これを見て、パレスチナについて、どのような理解を得たかについては、次回ゆっくり書くことにします。(大黒)
 

月曜日, 7月 26, 2004

一人一人の生きた故郷としての記憶 (O)

ユダヤの人々の思う故郷は、実在する記憶としての故郷ではなく幻想としての故郷ではないかと大黒さんは仰います。それはある意味では確かにその通りなのかも知れません。前回のポストで書いたことを読み返してみると、やはりそういうふうに受け取れてしまうことにも気がつきました。これまでエルサレムとNYとに住み、様々なユダヤの人々と故郷エルサレムについて話をする機会を幾度となく持ちました。しかし、これまでユダヤの人々から故郷エルサレムは幻想の故郷だという意見を一度も聞いたことがなかったので、大黒さんのご指摘にはいい意味で驚かされたというか、新しい発見と言ってもいいかも知れません。そして実際、多くのユダヤの人々はこの意見を受け入れられないことも間違いではないでしょう。

ユダヤの暦は、私たちが日常使っているキリスト誕生を紀元とした西暦とは異なり、本日の日付は日本や他の国のように「2004年7月26日」ではなく「5765年アヴの月の8日」にあたります。そして実は、翌日のアヴの月の9日は、ユダヤの人々にはとって非常に悲しい記念日です。紀元前586年にはバビロニア人により、そしてさらに紀元70年にはローマ人によって、ユダヤの人々の生活の中心だったエルサレムの神殿が二度破壊されました。その日が偶然にも二度ともアヴの月の9日(ティシャ・ベ・アヴ)でした。その神殿の破壊以来、ユダヤの人々は、神殿の破壊と異邦人によってエルサレムから追い出され離散したことの悲劇を悲しみ続けています。神殿の破壊は決して過去だけではなく、たった今起こったかのように悲しみ、毎年このアヴの月の9日(ティシャ・ベ・アヴ)には、カラカラに乾いた炎天下の中、水一滴も飲まずに24時間の断食を行い、喪に服します。それだけではなく、その日の3週間前からは、肉類の使った贅沢な食事や散髪と髭の手入れは禁止され、人々は暑さと切なさと共に日増しに髭ボウボウのやつれた人相になってゆき、悲壮感が漂います。そして、かつて神殿の建っていたエルサレムでは、音楽演奏や祭りなどの娯楽は一切行われず、当時の神殿崩壊と離散の悲しみを街と人とが一体になり身をもって感じようとします。

ユダヤの教えの中には、過去の記憶をただ残してゆくだけではなく、その記憶を実際に現実のものとして、一人一人の生に取り込んで生きなければならないと言われます。例えば、毎年4月頃に訪れる出エジプトを祝う過ぎ越しの祭りでは、ユダヤの人々は各家庭で祭りの初夜の夕食に一家して出エジプトのしきたりに則り祈りや歌を歌い、かつてはエジプトで奴隷だったこととエジプトを後にしてから砂漠を40年の間彷徨った事などを話し合います。夕食の最後には「来年はエルサレムで」と必ず皆で歌います。その歌はエルサレムに現在住んでいる人によっても歌われ、彼らはそうして毎年エジプトからの脱出を経験します。つまり単なる過去の歴史話しでは終わらずに、先祖たちの経験は今を生きるユダヤの人々もまた経験した事実のものとして一人一人の中に生き続けます。

しかし、それでもそれは単なる疑似体験のようなものであり、実際に経験したことにはならないとも言えるでしょう。しかし、ただ単に幻想的に想像した故郷をノスタルジックに心に思い描くだけと、こうして疑似体験的経験ではあっても、かつてはそこに住みそして追われたことを一人一人の人生で起こったこととして受け止める。このふたつは異なるように思えはしないでしょうか。  (大桑)

火曜日, 7月 20, 2004

それぞれが故郷と呼んでいるもの (D)

土地と人をめぐる大黒、大桑の二つの文章を読んで、なんと考えの違う二人が一つの話題をはさんで対話しているのだろうと思われた人もいることでしょう。大桑さんの、よその土地から想う故郷への想い、わたしの、地縁のない土地への移住(再定住)への所感。大桑さんが生まれ育った国を離れて海外に長く住んできたことからくるのか、わたしが特定の土地との深い関係や故郷感というものを持たずに生きてきたからなのか。

大桑さんの書いていたユダヤの人々の望郷の想いについて読んでいて、ふと思い浮かんだことがありました。ユダヤの人々にとっての故郷とは、ひとつのコンセプトあるいは共同幻想に基づく、ひとりひとりが心に抱くイメージの実体のことだった(である)のではないか、と。具体的な細部(風の匂いや空の色など)をもつ場所としての故郷ではなく。あるいは細部(風景やその土地の自然物、気候など)から発想され思い起される、土地の記憶としての故郷ではなく。

たとえば日本に生まれ育った日本人が故郷と言うとき、それは具体的な土地(○○郡○○村など)のことであり、そこでの生活のあり方や言葉や人であり、風景や気候であり、そのことから引き起こさる感情もふくめたイメージの全体をさしています。日本人が具体的な細部なしに、故郷を想うことは不可能に思えます。ところがわたしの思うに、ユダヤの人々にとっての故郷とは、もっと精神や思考の中で純化された「思想」のようなもので、必ずしも細部をもつ具体的な土地そのもの、ということではないのかもしれない、と。

もともと日本の人は、目の前にある現実や既成事実にしばられやすいところがあって、不可能に思えることに挑んで予測をくつがえす結果を引き出すことや、高い理想をもつことを苦手としているところがあるように思います。不満の多い状況に陥った場合も、ある程度までなら「しかたない」とその現実を受け入れていきます。心の中だけにある(にしか存在しない)イメージや思想を信じ、それに従って生きていく、それを追い求めていくのは難しいと考える人々じゃないかと思うのです。それに対してユダヤの人たちというのは、思想や観念、コミュニティの歴史や記憶といった、無形のものを国家にかわる枠組として心にもち、追い求めつづけることをしてきた人々のような気がします。

実在の、細部をもつ故郷(国家)の存在を過去、未来にわたって疑わない日本人。思うことを止めたら消えてしまう、心の中にしか存在しない故郷(国家)を追い求めてきたユダヤ人。故郷という同じ言葉であらわされているものが、中身やあり様においてはかなりちがったものを指している気がしてきました。 (大黒)

月曜日, 7月 19, 2004

土地と人々、それぞれの望郷の思い (O)

人と土地の結びつき、これは非常に興味深いテーマだと思います。個人的な話をすれば、今から思い返せば日本に住んでいた二十歳頃は、ただひたすらに、がんじがらめの狭苦しい日本という土地から逃げ出したかったような気がします。そして実際には、良くも悪くも当面は日本には住まない道を歩んできたのですが、やっとここ数年になって自分がどれほど日本という国を美しく思い出し、また望郷の念にかられることでしょうか。それの気持ちを例えてるならば、女性が結婚して初めて実家の心地よさとありがたみが身に染みる、というようなことでしょうか。そしてどれだけもがいてみたところでも、結局は自分のルーツは日本であり、生まれ育った家系であり、他の何者でもない日本人でしか有り得ない自分に行き当たる。しかし、日本に住んでた頃はこんなことはまったく考える機会も理由もなくて、日本の外に出てから初めて嫌というほど考えさせられました。 
 
ある時、エルサレムのアパートの寝室で、イギリスの詩人であるW.B.Yeats(ウィリアム・イェーツ)の『Under Saturn』という詩を、大江健三郎氏のある著書と合わせて読んでいた時に、
 
『 I am thinking of a child’s vow sworn in vain
 Never to leave that valley his fathers called their home.』
 
という詩の最後の箇所を読んで、自分の中で恐らくは帰ることのない故郷に涙が止まらなくなってしまったことがありました。大江健三郎氏もよく、彼の出身の四国の在にいつか戻るはずだったという望郷心を書に書かれいてました。その望郷という共通の思いに、読み物は大江氏一色という時期がしばらく続きました。
 
ユダヤの人の望郷の念、これもまたその土地との非常に強い繋がりがあります。彼らはイスラエルの地を去ってから二千年も近くも流浪していたこと、そして何代にも渡って、いつの日にか必ずやイスラエルの地へ帰るという希望を胸に生きてきた人々です。そして歴史のある時点の流浪の過程で、何代にも渡り暮らしていたスペインを追われました。そして東へ東へと流れたユダヤの人々は、追われたスペインのあの我が家へ戻る日を胸に秘め、彼らの子供、そのまた子供たちにその思いを語り伝え、そしてスペインの彼らの家の鍵を今でも大切に保管しています。

第二次世界大戦では、ドイツからはじまりその後にはヨーロッパ全域から追われて、彼らが命からがらやっと祖国イスラエルにたどり着いたのは、イスラエルを去ってから二千年という長い長い時間を経てのことでした。しかし、世界中からユダヤの人々がこの土地に帰還したことで、それまでこの土地を祖国として暮らしていたパレスチナの人々が彼らの祖国を失なってしまいました。そのパレスチナの彼らもまた、追われた家の鍵を大切に持っています。彼らの失った故郷への思いは、ごくごく普通の暮らしをしている日本や他の国々の人々の胸に共鳴することはとても難しいでしょう。日本でのロングラン・ミュージカルで「屋根の上のバイオリン弾き」という物語があります。この物語りは、ウクライナのユダヤ家庭を通して伝統というものの大切さ、そして政治によって突然故郷を追われた彼らの悲しみを語りますが、このミュージカルが世界の中でも日本という国でこれ程までに長い期間に渡り非常に多くの人々の心に響くのには、やはり日本人の心には、ユダヤやパレスチナの人々と同じように、その土地または祖国というものに対しての思いが今でも心の中にしっかりと生きているからではないかと思いたい。  (大桑)

日曜日, 7月 18, 2004

人と土地の結びつき (D)

大桑さんの中立的解決についての具体的な説明、とてもわかりやすかったです。大掴みにこの問題のポイントが上げられていて、全体を一覧するのに役立ちました。いくつかのことを考えましたが、その中で人と土地の結びつきについて、今回は書きたいと思います。

ある土地と人との関係に意味や真理があるならば、それは何なんだろうと。今の世の中では、世界的にみても、自分の国(国籍で所属し、そこの標準の母語を話す)ではない国に、さまざまな理由で人が移動し、市民権を得たり、移住して帰化したりということが、そんなに特別なことではなく行なわれるようになってきています。つまり人は、土地と人のあり方において、じょじょに新たな段階に入ってきているのではないか、という気がしているのです。もっと昔であれば、一個人にとって、生まれた土地、言葉を覚えた土地、両親や親戚のいる土地は、絶対だったのではないかと思うのです。ヨーロッパや中東などでは、日本ほど事は単純ではないものの、大雑把にはそのように言える(少なくとも一個人にとっては)のではないでしょうか。

人間が生物のひとつである限り、土地との結びつきを生き方の根底に置くのは順当なことだと思います。植物も動物も発芽や繁殖によってある土地に根づきます。そして他の種との競合の中でテリトリー争いをして勝ったり負けたりして生き残ります。ただ人間は、植物や他の動物とはちがって、そのルールの中だけでは生きていない(いけない)ところがあるのでしょう。そこで出てくるのが再定住という考え方です。自分の出自に深く関係した土地から離れ、自分の思想に基づいた土地に、自分の意思で住みつくことです。

詩人の山尾三省は東京・神田に生まれましたが、自分の家族をもった後(インド・ネパール巡礼の旅を経て)、鹿児島県屋久島に定住しました。屋久島に「入植」し、廃村だった村を開墾して田畑を耕し、里づくりをしながら創作活動をして、そこで生涯を終えました。山尾三省の場合は、若いときに社会変革を志すコミューン活動(1960年代後半〜)をしていたとはいえ、「入植」は個人的な移住計画でした。またインドへの旅の前後から生涯にわたって仏教徒だったと思われます。

大桑さんによれば、イスラエル、パレスチナの人々にとっての土地の考え方は、宗教に根ざした歴史の理解や個々の人生観と強く結びついているとのこと。このことを理解するのは簡単なことではないですが、日本人にとって身近な例で考えると、今の70、80代くらいの日本人の「人と土地の結びつき」を見ると少しは理解できるように思うのです。その年代の人々にとって、自分の故郷(土地の言葉、お祭りやしきたり、風景や自然物、人々の気質など)は自分自身と同じくらい(あるいは自分以上に)大切で価値あるもので、よそものからけなされたり、軽く扱われたりしたら、気分を害して喧嘩にもなりかねないようなものだと思うのです。そこから離れることは痛みをともなうことであり、年をとって子どもの世話になるときも、できれば自分が子どもの住む土地に行くのではなく、自分の土地に子どもを呼び寄せたいと考えます。それがその世代の人々の土地との結びつきです。その子どもの世代(現在の40、50代)は、そういう故郷感に反発して(生まれた土地にしばられるのを嫌って)、若いころ親元を離れ都会へ向かった人々だと思うのです。

ただおおまかに言えば、こういった昔ながらの故郷感は今でも生きています。夏のお盆、冬のお正月には、どんなに電車や道路が最悪の混雑状況であっても、「お里帰り」の一局集中化、民族大移動はなくならない。それはこういった日本人の故郷感があらゆる世代の人に浸透し、根強く残っているからではないでしょうか。

わたしは両親の元々の故郷のどちらとも無縁の土地で生まれ育った、転勤サラリーマン家庭の子どもでした。また両親とも日本人ではあるものの先に書いたような故郷感を持たない人々であったこともあって、「お里帰り」に見られるような強い故郷感、所属する土地への強い愛(あるいは帰属意識)をずっと理解できないまま生きてきました。正直に言えば、違和感や反発の気持ちさえもっていました。そういう者にとって、たとえば山尾三省がやったような、血縁や出自とは別のところで発想された「再定住」という考えは、人間にとっての、土地との関係を見つめなおす、新たな段階について示唆しているのではないかと思えたのです。

ここで書いた日本人の「故郷感」についての所感が、イスラエル、パレスチナの人々にとっての土地への想いとは違ったものであることは、わたしにもわかっています。ただわからないことを考えるときに、漠然と考えるわけにもいかず、自分の知る例を上げてまずは書いてみました。またイスラエル、パレスチナについて考えを述べる対話者のひとりとして、自分の土地への考えを書いておきたいと思いました。 (大黒)

中立的解決とは (O)

グロスマンは衝突の導火線が中立的になること、そしてイスラエル・パレスチナの両者がお互いの痛みとともに真理を受け入れることを望んでいる、と述べています。では、ここで言う真理とはどういうことなのか。
 
紙の上に「真理」と、ひとこと書くことはとても容易です。そしてその意味を理解することもとても簡単なことのように思えるかもしれません。この土地に住むものではなく第三者の「真理」では、イスラエルとパレスチナのどちらかがこの土地から出て行くことで、この問題は解決される。このようにここでの「真理」とは白黒のはっきりした単純明快なものに思えるかもしれません。しかしイスラエルとパレスチナの問題とは、50数年もの長い間に絡まったいくつもの政治的策略や歴史、宗教、そして両者に属するまたは無念にも亡くなった一人一人のこの土地に対する夢、そういったことが奥深くかかわっていると思います。
 
簡単にそれらいくつかの「真理」を挙げてみると、それは「双方の権利」「宗教」、「圧力」、に分けられます。まず、理解しやすい「双方の権利」から説明すると、イスラエルはこの土地でのパレスチナの存在を認め、それにかなった土地を分けることです。そしてそれと同様に、パレスチナはこの土地でのイスラエルの存在を認め、それにかなった土地を分けること。つまりお互いが、相手も自分達と同様にここで生きる権利を譲歩し、この土地で相手との共存を認めるということです。これは日本のように「和」を重んじる価値観を持っていれば、とても簡単なことのように思えるのではないでしょうか。
 
ではそこに「宗教」がかかわってくるとどうなるのか。イスラエルではユダヤの人々がその大半を占め、パレスチナではムスリム(イスラム教徒)が大半を占めています。イスラエルとパレスチナの両者が、両宗教の聖地とするエルサレムを相手の国の首都として認めないエルサレム問題でも解るように、まずこの二つの宗教が互いを理解しあうことはとても難しいのです。イスラエルでは、ある人々は宗教上この土地すべてはユダヤのものに(または先祖代々もともとユダヤ人のものと考える)、そしてそれと同様にパレスチナではこの土地すべてがムスリムのものにと、双方が互いの宗教価値観によってイスラエルまたはパレスチナをすべて得ることを夢に見ているのです。そしてその宗教観を妥協することはそれぞれの生き方、または人生を否定するほどに、まったく妥協するわけにはいかない問題なのです。これは宗教に携わった暮らしや人生観の薄い日本の人にはとても理解しがたいコンセプトですが、この土地では、これは非常に重要なことなのです。
 
そして、ここでの「圧力」というのは、パレスチナはこの土地を囲む他のアラブ・イスラーム諸国から、イスラエルという非イスラムの国は認めるべきではないという圧力です。その要因には、白黒はっきりしたイスラムの世界観がかかわっているのですが、イスラームの視点では、この土地はイスラームのトルコ帝国に支配された歴史を持ち、一度はイスラームの土地であったのですから、この土地はイスラームのものとしてのみ存在するのです。それが今になってそのイスラームの土地を他宗教の国にすることは、彼らにとっては決して妥協できない話しです。例えば、2000年に左派のバラク首相がエルサレムについての妥協案をアラファトに示した時点で、もし互いが受け入れていれば、すでにこの土地の状況に多かれ少なかれの変化が生まれていた可能性は非常に大きかったと言えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、アラファトが頑としてイスラエルの妥協案を受け入れなかったのは、周りのアラブ・イスラーム諸国からの圧力で、このとちをすべて得てのイスラーム・パレスチナ国家を妥協するわけにはいかなかったのではないかと思います。
 
イスラエルとパレスチナの両方が、そういったお互いのすべての真理を理解し、妥協し、そして受け入れてこそ、はじめて中立的に問題を解決へ向けることができるのではないでしょうか。   (大桑)

金曜日, 7月 16, 2004

中立の意味するもの (D)

大桑さんの「癒し」という言葉への違和感、やはりと思いました。実はわたしもこの言葉がどうしてこうも日本人の心をつかむのか、考え続けてきたところがあるからです。最初にこの言葉が現われたのはいつごろだったか。発端は音楽(ニューエイジなどの癒し系)だったかもしれません。そうするともう10年くらいになるのでしょうか。日本ではその発端の中から、特に心地いい部分だけを抽出して「癒し」として拡大してきたところがあるように思います。そして今ではこの「癒し」は、日本のビジネス、消費者会にとって欠くことのできないキーワードとなっています。個人の趣味の範囲ですらなくなっているのかもしれません。

わたしがこの「癒し」という言葉に違和感(反感)をもつのは、まともにものを考えるのを放棄して、(必要なら)相手と「戦う」覚悟からも逃げて、自分のまっとうな「怒り」を押しつぶし、ひたすら何かに寄りかかろうとする甘えの気持ちを感じるからかもしれません。同じような系列の言葉に「自分にご褒美」(これも非常に好んで使われています/女性専用の言葉)があります。また最近は「自分と向き合う」という言葉も好まれています。つまりどこまでいっても、自分。自分の前に自分、自分の延長線上にも自分しか見えない、という悲劇です。

今、この文章を書いていて二つの言葉に立ちどまりました。「戦う」と「怒り」です。この二つは両刃の剣であるところがあって、怒りをつねに爆発させ、それを暴力によって解決しようとすれば戦争が頻発します。でも自分の「怒り」を飼い馴らし、起きていることの本質に触れないようにすれば、問題はいつまでたっても解決されないでしょう。隠されたままの怒りは、将来もっと大きな不幸につながることもあります。「戦う」というのは必ずしも暴力を意味しません。「怒り」の原因になっている大元の前に自分が進みでて、相手も同じテーブルに引き出して、解決するため全身全霊をかけること、それが本来の「戦い」だと思うのです。それは別の言葉で言えば、「対話」です。

グロスマンの本の「序」にこんな文章があります。
  
  わたしが望んでいるのは、この衝突を起す導火線が次第に中立的になっていくこと、双方が倦怠を感じること、イスラエルもパレスチナも痛みとともに真理を受け入れ、目標を実現するために非暴力的な手段を採用するようになることである。(ⅸ)
  
衝突を起す導火線を中立的にする、とは何を意味するのでしょう。それはイスラエル国内のことで言えば、対立軸(右派と左派)の、背中合わせに立って正反対に向けているベクトルの角度を少しずつでも小さくしていくことなのでしょうか。

対立軸をもたない日本人。それが心からの合意でそうであれば、こんなに幸せなことはないでしょうけど、怒りを見えないものし(され)その結果としての一元化だとしたら、その手のつけようのない不幸を忘れるためにさらに強力な「癒し」アイテムが必要とされるのかもしれません。

*7月14日のポストの中の「現政権に意義をとなえる・・・」は「異議をとなえる」の間違いでした。直しを入れてあります。

木曜日, 7月 15, 2004

なぜ軸というものができない、またはできるのか。(O)

先日のポストでも述べたように、エルサレムからでは日本の現状の詳細な事にまではわからないにしろ、最近の日本は「何かがおかしい」ということが海の向こうにいても、あるいは海の向こうだから尚のこと感じられるのかもしれません。

ここ近年でよく使われている、あまり好きではない「癒される」や「癒し」という系統の流行言葉。この言葉を耳にする、または目にする度に、これは一体どういうことだろうと思います。多くの人が欲しい物を簡単に手に入ることができ、情報が溢れた非常に物質豊かで平和な日本。そんな日本という国に住む人々は、一体何に不満を持ち、危機を感じて、この「癒し」を求めているのか。この飽食時代に生きる者が見失った社会や伝統、おそらく人々は方向性や価値観を探し出せずにいる、そしてそれらを探す必要性をもまた見出せないでいる、ということに関係しているのではないでしょうか。

そのような社会では、国や個々の明確な思想などは、非常に馬鹿げた時代遅れなものなのかもしれません。そんな無駄なことに時間を費やして「考える」くらいならば、インターネットで現実味のないヴァーチャルなチャットやゲームをするほうが遥かに充実感を与えてくれる。仮にそれが一時しのぎであっても、いえ、ひょっとすると、一時しのぎがもてはやされている時代なのかもしれません。しかし、その一時しのぎの充実感とは、本当は虚無の仮の姿なのではないか。そして、その虚無感が「癒し」という言葉を求めさせ、そのどことなく心地よい響きに、なんだかわからないけれど癒されて安心してしまう。その辺りをぐるぐると回っているような、なんともおかしな実感のない世界が構成されているのではないかと思うのです。

この中東の端くれのイスラエルで、もし誰かが仮に「癒されたい」と思った時、それは今日本で起こっている「癒し」の現象と同じことなのでしょうか。いいえ、そうは思いません。もしこの国で誰かが癒されたいと願ったとすれば、それは家族の誰かが毎日通勤のために乗っていたバスがある朝突然爆発して亡くなってしまった、または西岸地区でIDF(イスラエル国防軍)の兵役を務めていた最愛の息子が、軍のオペレーションでの失敗、またはハマスやイスラム聖戦に狙撃されて無念の死を遂げた、そんな喪失の苦しみから回復するための癒しではないでしょうか。または、このいつ自分に降りかかってくるかもしれない死の現実にうんざりして、ほんの少しの安らぎでもいいから得たいと思う。それはパレスチナに住む人々にも同じことが言えるかもしれません。

果てしなくくり返される喪失からの悲しみや苦しみ。そういう、非常に現実的でありかつ非現実的な日常では、ヴァーチャルな絵空事のような癒しの世界は成り立たないでしょう。仮に癒されたいと願っても、誰かが助けてくれるわけでもない。まわりもみな、それぞれに喪失があり、苦しんでいるのですから。そうすると、そこから自分を助けられるのは誰でもない自分であって、するといやでも色々なことを考えていかなければならない。その延長線上に、イスラエルのあり方とパレスチナのあり方、その両者の共存、そういったことを身をもって考えざるを得なくなる。この「考える」ということが、イスラエルの建国後、戦後50年以上にも渡ってイスラエルで繰り返されている。そしてそれに加えて、第二次世界大戦中にヨーロッパで起きたホロコーストから生き延びた、または生き延びられなかった、その記憶も消えることなく存在しているのです。

このイスラエルという土地では、このようにして個人個人の軸というものが作り上げられてきたのではないかと。しかし、ここに来てすっかり物質社会となってしまった平和ボケした日本では、その土台すら固められないのではないでしょうか。大黒さんがおっしゃるように、日本にも昔はそういった「考え」または「軸」というものを持ったご老人や若者がたくさん存在していたのではないでしょうか。 (大桑)

水曜日, 7月 14, 2004

国のなかの対立軸 (D)

大桑さんの昨日のポストを見て、二つのことを思いました。ひとつは国の中に対立軸をもつ状況について。背中合わせに立っているかのようなベクトルをもつイスラエルにおける右翼派と左翼派の存在のこと。そしてもうひとつは、起きていることの実感を人はどうやって自分のものにしているのか、について。これは知識人の役割は何かという問題にもつながっていくことかもしれません。

イスラエルの中での右翼派、左翼派の話を聞いて思ったのは、日本にはこういう対立軸はないなということ。今回の参院選の結果で自民、民主の二大政党時代が来た、というような報道がされていますけれど、これはグループの違いではあるけれど、明確な思想の違いによるグループ化には見えないのです。この二つのグループには本質的な対立軸はないでしょう。日本人がよく「選挙に行っても(どこが勝っても)世の中変わらないから」というのも、実はそういうところから来ているのかもしれません。日本に対立軸があるとすれば、既得権や地位をもつ(国の保護下にあったり、大きな組織に属している)人と、そうではない人の対立、いえ、対立はしていませんね、実際は。

イスラエルの人々が大きくは右派、左派に分かれていて、まったく反対のベクトルをもっていること、国がまっぷたつに分かれていることが幸せなことかどうかは別にして、本質的な対立軸(違う考え方の可能性)を自分たちの中にもちえない国民も、幸せとは言えないかもしれません。対立軸があってもおかしくない状況なのに、もつことを知らないとしたら。日々生きることと、自分の中に考えをもつことがつながっていない。

日本から離れていると日本で起きていることの実感がつかみにくい。流行やちょっとした言葉のニュアンスなどでも。わかります。これは多分、ものごとというのは事実関係からだけ成立しているのではないからでしょうか。ニュースを読んで起きていることの粗筋らしきことは知っても、何が原因でどういう経緯でそのようになったのか、これからどうなるのか、自分以外の人はどう受けとめているのか、などは簡単にはわかりません。今回の参院選での大方のムード(現政権に異議をとなえるために二番目の政党に票を集める)は、いったい誰が先導したのでしょう。そうしましょう、と口に出して言っている人を見たことはありません。(「異議をとなえるために選挙に行こう」という運動はありましたが。)でも今回の二大政党化への動きをつくったのは、こういう暗黙の了解によるムードだったのではと思います。(まわりの空気を読む、という才能は日本人は非常に長けていますから)

起こっていることを自分の頭で理解することは簡単なことではありません。でも不可能なことでもないのです。ただそういうときに、自分の頭であれこれ考えているときに、同じように自分の頭でものを考えている人の考えを聞くのは、役にたちます。また希望につながることもあります。知識人の発言に意味があるとしたらそういうことではないのかと思うのです。知識人でなくとも、ものを考える友人が近くにいればそれで事足りますが、それがなかなかいない。そういう話しをまともにできる人がそうはいない、それが現実なのですから。(大黒)

火曜日, 7月 13, 2004

一人の人間と国をつなぐもの (O)

日本では参院選があったとの事ですが、私はイスラエルから在外投票という方法が可能にも拘らず、投票へ参加はしませんでした。イスラエルから毎日のようにインターネットを利用して、日本のニュースを読むことはできます。しかし、政治の細かな流れや日常的な事件、そして現在何が流行っているのかなど、実際に日本に住んでいるように実感することは非常に難しいと感じています。それはおそらく、大黒さんがイスラエルで起きていることを実感できないように。

しかし、こちらから高みの見物をしている限りでは、実際に今の日本の現状を本当に変えたいと思う人々がいるのでしょうか。大黒さんが仰るように、何か特別な理由がない限りは辺り触らず、自分の範囲の中で生きてゆくのが現代の風潮のようです。

昨日の私のポストでは、イスラエルの人々はそれぞれこの国についての意見があると言いましたが、それではここで少しその説明をします。

イスラエルでは、大きく分けると左派・右派に分かれます。左派は、前バラク首相や1995年に極右のイスラエル人に暗殺されたラビン首相のように、パレスチナ側に土地を譲歩することによりイスラエルの存在が保たれると唱えます。そして、右派は、土地を分けることでパレスチナが満足し和平を結ぶとは信じず、土地を分けることでイスラエルは生存危機に陥り、そのため一切この土地の譲歩をせずに、セキュリティーが確保されたイスラエル国家を存在させようとします。この土地に関する左派と右派の思いは、ベクトルの両端の矢印が反対に向かって進んでいるようなもので、左派と右派の間に同意する地点がまったくありません。

なぜこの左派と右派が協力し合うことなく、それぞれの道を突き進むのか。左派右派に関係なく、イスラエルとパレスチナの人々にも同じことが言えます。イスラエルとパレスチナに住むすべての人々が、この土地に対する様々な思いがあります。例えば、家族の歴史や宗教やその他の何か。そして、彼らはごくごく普通の日々を過ごせる時代が来ることを望んでるのにもかかわらず、そんな何かに囚われて、自己主張に突っ走り、本当に何を優先してゆくべきかをどこか履き違えているような気がします。  (大桑)

月曜日, 7月 12, 2004

一人の人間と国をつなぐもの(D)

日本では昨日、参院選がありました。自分の行為(投票)がどのような役割を果たしているのか、集計結果を見ていて、よくわからなくなりました。もちろんただの1票なんですが、どこにもつながっていっていない、同じように考える人がいないのではという無力感を感じました。

大桑さんによれば、イスラエルの人は一人一人自分の国に対して確固たる意見をもっている、ということです。その「確固たる」ところが、譲れない一線や争いごとを生む芽の一つになっていたとしても、それなしには今日も明日も生きられない現実があるのでしょう。

それに比べると、日本の多くの人は、自分や家族の歴史と国の歴史を重ね合わせて考えることが少ないように思います。その必要がない、なくても(ないほうが)生きやすいということかもしれませんが。だから70年くらいの人生なら、戦争でもないかぎり、国のことは忘れることにして、自分だけの人生を生きることも可能といえば可能です。

グロスマンの本を読みはじめて思ったのは、対立軸を(その記憶も含めて)持たない日本人を生きるわたしに、イスラエル・パレスチナの問題がわかるのだろうか、と。日本人にとって対立軸になりえるものとして、被害者側としてはアメリカ(敗戦国だから)、加害者側として朝鮮半島や満州での侵略などがありますが、どちらも今では現在の中に埋もれて見えなくなっています。30年くらい前には、日本のおばあさん、おじいさんの中に、「朝鮮人なんたらかんたら」のような言い方で、怨念のこもった民族差別を口にする人はいました。そういう意識が生きていた、対立軸が存在していた時代なのでしょう。

対立軸を持たず、細分化された同質の者どうし集まることを好み、争いごとは避けて通る日本人を、その社会を生きるわたしに、何がわかるんだろう。そうは思うけれど、経験していなくても、その立場になくても、人間には想像力というものがある。少しは何かわかることがあるんじゃないか。大桑さんも手をかしてくれるということだし。(大黒)

日曜日, 7月 11, 2004

なぜこの本を手に取らなかったか(O)

まずはじめに。

これからここで大黒さんと私が意見を交換していく上で、どのような意見が出てくるのかはまだ未知のものです。ひょっとすると、日本では少々驚くような、また、今まで受け入れられたことのないような見解も少なからず飛び出すのではないかと思います。そこで、これまでメディアを通して得た頭の中にあるイスラエルとパレスチナの両国についての情報を、一度白紙に近い状態に戻すことが可能であるならば、そのような状態で読んで頂きたいと思うのです。

実を言うと、これまで私は一冊たりとも、この手の中東政治関係の書物を完読したことがありません。そして実際に、私と同じように、この手の本を一度も手に取った事のないイスラエルの人々もとても多いのです。

なぜこの手の本を読まないのか。

これまでに、知識人というジャンルの人達は、ただ彼らの著書の中で中東平和にいかに哲学的な意味合いを持たせるかという事以外には、この何もしていないのではないかと思うのです。ここでの日常的な暮らしの中では、平和についての哲学は必要ではなく、ここに存在するのは毎日のように無意味に奪われる命と目前の死であり、哲学ではない。そして、多くのイスラエルの人々にすれば、彼らの一人一人がこの国について少なからずも意見を持っている。そして、例えば、この本の著者グロスマンの意見は、単にお隣のグロスマンさんの一意見でしかなっく、彼の伝えている日常的に感じる恐れ・悲観・そして希望は、ここに生きる誰もが同じように感じていることなのです。

そんな理由から、これまでこの手の本を手に取る気にはならなかったのです。しかし、この中東のイスラエルから遠く離れた日本に住む大黒さんが、「読んでみよう」と仰ったことに、なぜか意味があるような気がして、この本を手に取ったのです。

(大桑)

なぜこの本を手にとったか(D)

わたしがグロスマンの「死を生きながら」に興味をもったのには二つくらいの理由がありました。一つは友人の大桑千花さんが住むイスラエルという国について知りたいと思ったこと。大桑千花さんがどんな心情でそこで生きているかも含めて興味がありました。もう一つは、日本におけるイスラエル・パレスチナ問題の受けとめ方への興味です。わたしのそう広くはない体験の中での印象ではありますが、日本では、なんであれ、パレスチナやPLOに対して非難の目を向けることはタブーであるという約束ごとがあるような気がずっとしていました。それは、新聞やテレビなどの報道や知識人のコメントなどを読むたびに、知りたいことの半分しか知らされていない、という気にさせられていたからだと思います。どんな問題であれ、ものごとには両面がある。その両方を見なければ、その問題を知ったことにはならないし、少しでも公平で民主的な考えをもちたいと望むなら両面を見る必要がある、そう思いました。
1954年イスラエル生まれのイスラエル人の作家デイヴィッド・グロスマンの著書を知ったとき、ユダヤ人サイドの考えを知るのに、これほどぴったりの本はないのではと思い手にとりました。政治的には左派の平和運動家で、宗教的には無宗教であるというグロスマン。パレスチナ出身のアメリカ人の学者・作家エドワード・サイードの著書がよく知られている日本において、グロスマンの著書を読むことの意味は小さくないとも感じました。  (大黒)
●デイヴィッド・グロスマン著「死を生きながら/イスラエル1993-2003」(2004年4月、みすず書房刊/二木麻里訳/ヘブライ語の原典からHaim Watzmanにより訳された英語版を底本に、Bloomsburyによる英国版を参照した全訳+出版後、著者より送られてきた7章分)
●"DEATH AS A WAY OF LIFE/Israel Ten Years After Oslo" by David Grossman(published by Bloomsbury Publishing Plc. <38 Soho Square, London W1D 3HB Publishsed in association with Farrar, Straus and Giroux Publishers, New York> in 2003)