日曜日, 5月 14, 2006

マイノリティー・リポート (O)

「光陰矢のごとし」とは本当によくいったもので、学なりがたしの私にはとても追いつけないほどの速度で、びゅんびゅんと時間が過ぎ去ってゆきます。前回の大黒さんのポストが、まだ冬のあいだだったということにすら驚いています。日本では桜の季節も終わり、そろそろキャンパスや社内に5月病が訪れる頃でしょうか。

さて、私はといえば、イスラエルの短い雨季の冬の終わり、3月末に行われた総選挙の直後にエルサレムを抜け出して、東欧の小国クロアチアへ。一ヶ月ほどの旅をしてきました。ユネスコの世界遺産に指定されている、中世イタリアの宮殿跡の壁に作られたアドリア海の街や、100ほどもある滝と湖で有名なプリトヴィツェ湖群国立自然公園。豊かな自然がとても美しいクロアチアを含む旧ユーゴ・スラヴィア、南スラヴ民族の国。ここもまた、イスラエルまたはパレスチナと呼ばれる土地と同様に、異なる民族と宗教の共存が大変難しい土地ではないでしょうか。

1980年に、ユーゴ・スラヴィアのティトー大統領(日本語ではチトーとなりますが、本来の発音はTito 《ティトー》 なので、ここではあえてそう呼ぶことにします)が亡くなって、その後、どんどんと民族同士の対立が表面化し、争いが激しくなりました。それまでは、ティトー大統領によって統一されていたユーゴ・スラヴィア。南スラヴ民族の国という名の、ひとつの国家のもとで共存していたいくつもの民族の人々。彼らはもはや同じ町に隣人として住むことなど、到底できない状況になってしまいました。そして「Ethnic Cleansing 民族の浄化」という言葉によって、美しい自然に囲まれたプリトヴィツェ周辺では、隣人同士だったセルビアとクロアチアの人々は、何世紀にも渡り住み続けてきた互いの家を焼き払い、破壊しいのちを奪い合い、相手にそこから立ち退くことを強いました。そしてクロアチアでは、民族としてだけではなく宗教においても、悲惨な争いが続きました。カトリックとセルビア正教が対立し、異なる者の存在を認めるのではなく、その反対に他者を否定し排除することによって。

今回、2年ぶりで訪れたクロアチアの旅の途中の道々で出会った、あの当時の爪あとや、その土地の宗教を主張するいろいろなもの。首都のザグレブから南へ、プリトヴィツェ国立自然公園に向かう旅の途中で通り過ぎた町では、あの当時、とても激しい争いが繰り広げられていました。走り行く車の窓からでもはっきりとわかるほど、今でも民家の壁一面にはびっしりと銃弾の跡が刻まれたまま。そこに不自然に、新しい窓が取り付けてあったりしました。おそらく窓は銃撃によって割れて壊れてしまったのでしょう。そして当時のことを忘れないようにと、茶色く錆びた戦車の残骸などのオブジェがその町の広場に残されていました。

車がさらにプリトヴィツェ国立自然公園に近づくと、道の両脇にはおとぎ話のような、とてものどかで牧歌的な田園風景が続きます。畑のきれいな緑色のグラデーション。羊の群れ。ブーフーウーの子豚物語で見たような、赤いレンガの家の脇に咲いているのは、白い桜の花や色彩豊かなチューリップ。名もない野の小さな花々。イワン・ラブジンなど、ナイーヴアートが生まれた土地。なんともやさしく響いてくるその風景を、うっとりと車の窓から眺めていると、ぽつん、ぽつん。道の脇や遠くの丘の上に空き家があることに気がつきます。壁の一部だけを残して、屋根もなにもかもが見事に崩れ落ち、見すてられて廃墟となったレンガの家々。この土地で激しい争いがあったことを知らなければ、他の国でも見られるように、ただ、近代化によって村の生活を捨てた人たちが多い国だと思ってしまうことでしょう。

そして隣国のスロヴェニアに近いクロアチア北部では、時間はゆるやかに流れていました。白鳥がのんびりと水面をすべる美しい湖のほとりや、村の高台には古城がそびえ、まるでドイツかどこかのような優雅さえも。そのあたりの村々をつなぐ街道の分かれ道では、扉のない小さな小屋のようなものをたびたび見かけました。その小屋には、大きな十字架に架けられたキリスト像や、ベールをかぶったマリア像がおかれ、それらはそこを通る異国からの旅人にさえ、その土地の人々の宗教がなにであるかを語りかけます。日本でいえば、国道沿いのお地蔵さまのような感覚なのかもしれませんが、土着したカトリック文化にあまりなじみがなければ、多少の戸惑いと威圧感を与えるかもしれません。または、この土地の人々はなんと信心深いのだろうかと感銘するかもしれません。しかし、「Ethnic Cleansing 民族の浄化」という名目でこの土地を追われた、それとは異なる宗教と民族の人々がその象徴を目にしたときに、いったいその象徴がもたらすのは何か。そんなことなどがぼんやりと、心をよぎりました。

第二次世界大戦のころへと時代をさかのぼってみると、クロアチアにはウスタシュと呼ばれるナチ主義の人々がいました。このウスタシュによって、多くのセルビアとユダヤの人々、そしてロマ(ジプシー)と呼ばれる人々が、異民族であるという理由によっていのちを失ってしまいました。この土地の80%とも90%とも伝えられているユダヤの人々が、そのホロコーストによって亡くなり、現在のクロアチアでは、ほんの2000人ほどのユダヤの人々がマイノリティー(少数民族)として認識されています。そして認識されていない残りの1000人ほどのユダヤの人々は、自分の子供たちや隣人が気付かないように、ユダヤとわかる名をクロアチアの名前に変えて生きています。そしてクロアチアの大きな街に生きるセルビアの人々も、また同じように。とある民族がその土地から消え失せたあと、そこに生きながらえた人々は、その過去の記憶になにを学んだのでしょうか。彼らは、自分たちの民族の伝統も宗教も、そしてそのアイデンティティそのものをまるで否定し、または隠すかのようにして、異なる宗教と民族であるクロアチアの人々と同化することによっての共存、という道を歩いています。

これまでの人生で、自分の持つアイデンティティや宗教において危機的な迫害をされたことも、それに対していのちをかけて戦った経験もない。そんな外国人である私には、その土地で起きたすべてを短時間で理解すること、ましてやそこに住む友人たちと気軽にそれらについて話すことすらも、とても難しいと思われました。そして、ティトー亡きあとにこの土地で起こったこと。武力によってのその争いは終わっても、人々のこころの中ではそれらの争いと葛藤はいまだに終止符が打たれていないという現実。そんな現実とはまったく別の世界であるかのような、クロアチアの豊かで美しい自然に、なんともアイロニーを感じてしまった旅でした。

プリトヴィツェの森を一日かけて探索しました。美しい自然に感嘆をあげる観光客に疲れて、あまり旅人の歩くことのない山道へと逸れました。人気のない静かな森の透き通った清流には、蕗が伸び花が咲き、のんびりと鴨が泳いでいます。今ではもう使われていない古い水車小屋も。そして山道の脇には、すっかり雑草におおわれて朽ちかけたレンガの家が一軒、ぽつん、と誰に知られることなく残されていました。玄関も窓もないその廃墟に足を踏み入れると、かつてキッチンだった、ああ、きっとリビングだったんだろうと思える部屋、そんな記憶がそこにありました。かつて、ここで生活を営んでいたのがクロアチアの人だったのか、またはセルビアの人だったのは、もう誰にもわかりません。そして、争いが終わってからも長いあいだ、セルビアの人がこのあたりへ踏み入ることは、できませんでした。

すると、廃墟の脇の山道を一台の車が走り去りました。ゆっくりと走り去る車のバックに見たのは、驚いたことにセルビアのナンバー。ひょっとすると、未来への明るい光はもう挿しはじめているのかもしれないと、森に落ちる光と陰の矢がそう伝えたような気がしました。

(大桑)