月曜日, 7月 12, 2004

一人の人間と国をつなぐもの(D)

日本では昨日、参院選がありました。自分の行為(投票)がどのような役割を果たしているのか、集計結果を見ていて、よくわからなくなりました。もちろんただの1票なんですが、どこにもつながっていっていない、同じように考える人がいないのではという無力感を感じました。

大桑さんによれば、イスラエルの人は一人一人自分の国に対して確固たる意見をもっている、ということです。その「確固たる」ところが、譲れない一線や争いごとを生む芽の一つになっていたとしても、それなしには今日も明日も生きられない現実があるのでしょう。

それに比べると、日本の多くの人は、自分や家族の歴史と国の歴史を重ね合わせて考えることが少ないように思います。その必要がない、なくても(ないほうが)生きやすいということかもしれませんが。だから70年くらいの人生なら、戦争でもないかぎり、国のことは忘れることにして、自分だけの人生を生きることも可能といえば可能です。

グロスマンの本を読みはじめて思ったのは、対立軸を(その記憶も含めて)持たない日本人を生きるわたしに、イスラエル・パレスチナの問題がわかるのだろうか、と。日本人にとって対立軸になりえるものとして、被害者側としてはアメリカ(敗戦国だから)、加害者側として朝鮮半島や満州での侵略などがありますが、どちらも今では現在の中に埋もれて見えなくなっています。30年くらい前には、日本のおばあさん、おじいさんの中に、「朝鮮人なんたらかんたら」のような言い方で、怨念のこもった民族差別を口にする人はいました。そういう意識が生きていた、対立軸が存在していた時代なのでしょう。

対立軸を持たず、細分化された同質の者どうし集まることを好み、争いごとは避けて通る日本人を、その社会を生きるわたしに、何がわかるんだろう。そうは思うけれど、経験していなくても、その立場になくても、人間には想像力というものがある。少しは何かわかることがあるんじゃないか。大桑さんも手をかしてくれるということだし。(大黒)