水曜日, 7月 14, 2004

国のなかの対立軸 (D)

大桑さんの昨日のポストを見て、二つのことを思いました。ひとつは国の中に対立軸をもつ状況について。背中合わせに立っているかのようなベクトルをもつイスラエルにおける右翼派と左翼派の存在のこと。そしてもうひとつは、起きていることの実感を人はどうやって自分のものにしているのか、について。これは知識人の役割は何かという問題にもつながっていくことかもしれません。

イスラエルの中での右翼派、左翼派の話を聞いて思ったのは、日本にはこういう対立軸はないなということ。今回の参院選の結果で自民、民主の二大政党時代が来た、というような報道がされていますけれど、これはグループの違いではあるけれど、明確な思想の違いによるグループ化には見えないのです。この二つのグループには本質的な対立軸はないでしょう。日本人がよく「選挙に行っても(どこが勝っても)世の中変わらないから」というのも、実はそういうところから来ているのかもしれません。日本に対立軸があるとすれば、既得権や地位をもつ(国の保護下にあったり、大きな組織に属している)人と、そうではない人の対立、いえ、対立はしていませんね、実際は。

イスラエルの人々が大きくは右派、左派に分かれていて、まったく反対のベクトルをもっていること、国がまっぷたつに分かれていることが幸せなことかどうかは別にして、本質的な対立軸(違う考え方の可能性)を自分たちの中にもちえない国民も、幸せとは言えないかもしれません。対立軸があってもおかしくない状況なのに、もつことを知らないとしたら。日々生きることと、自分の中に考えをもつことがつながっていない。

日本から離れていると日本で起きていることの実感がつかみにくい。流行やちょっとした言葉のニュアンスなどでも。わかります。これは多分、ものごとというのは事実関係からだけ成立しているのではないからでしょうか。ニュースを読んで起きていることの粗筋らしきことは知っても、何が原因でどういう経緯でそのようになったのか、これからどうなるのか、自分以外の人はどう受けとめているのか、などは簡単にはわかりません。今回の参院選での大方のムード(現政権に異議をとなえるために二番目の政党に票を集める)は、いったい誰が先導したのでしょう。そうしましょう、と口に出して言っている人を見たことはありません。(「異議をとなえるために選挙に行こう」という運動はありましたが。)でも今回の二大政党化への動きをつくったのは、こういう暗黙の了解によるムードだったのではと思います。(まわりの空気を読む、という才能は日本人は非常に長けていますから)

起こっていることを自分の頭で理解することは簡単なことではありません。でも不可能なことでもないのです。ただそういうときに、自分の頭であれこれ考えているときに、同じように自分の頭でものを考えている人の考えを聞くのは、役にたちます。また希望につながることもあります。知識人の発言に意味があるとしたらそういうことではないのかと思うのです。知識人でなくとも、ものを考える友人が近くにいればそれで事足りますが、それがなかなかいない。そういう話しをまともにできる人がそうはいない、それが現実なのですから。(大黒)