月曜日, 8月 02, 2004

トルコ時代のパレスチナ人、ユダヤ人の平和 (D)

本題に入る前に:
大桑さんの前回のポストにイスラエルの徴兵制のことが出てきました。歴史的な場所マサダの丘で行なわれる入隊式の話、そこから喚起されるのかもしれない若者の国民意識のことなど。そういえば、1、2年前だったか、テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります。そして最近は、兵役拒否をする若者たちが孤立しないよう、外国人が外側からその行動を支援するという活動についても聞いたことがあります。入隊する者が数として減ることで、あるいはイスラエル国内にも戦闘をしたくない者がいるということの表明で、平和への道を探ろうとしているのでしょうか。国家にとってはこれは困った問題でしょうし、その時期を迎えた若者たちにとっては命にかかわる、無自覚ではいられない切実な選択のときであることは間違いないでしょう。そして自分という個人と国家の関係を、入隊するにしても兵役拒否するにしても、はっきりと意識するきっかけとなるのかもしれません。

さて、前回、パレスチナについてのわたしの理解を書くと予告したので、今回はそれについて以下に書こうと思います。

パレスチナがいつどのように存在するようになったのか、わたしはこのプロジェクトを始める前にはよく知りませんでした。そこで「世界史年表・地図」(1998年版/吉川弘文館)というものを取り出して、世界史地図のページを繰っていきました。まず現在の西アジア・南アジア地域を確認すると、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプトなどに囲まれた地域にパレスチナの名前はありません。次に第二次大戦中(1943-1945)のヨーロッパの地図を見ます。パレスチナ、あります。次にヴェルサイユ体制下のヨーロッパ(1918-1937)の地図に目をやります。シリア、イラク王国、ネジト王国(現サウディアラビア)、エジプト王国などに囲まれてパレスチナの名前があります。次に第一次世界大戦中のヨーロッパ(1914-1918)の地図のページを繰ったとき、さっき見ていた地域にはシリアもイラクもヨルダンもなく、そしてパレスチナもなく、ただ大きく広がるトルコ帝国があるのみでした。1914年といえば、100年にも満たない過去のことです。イェルサレム、ベイルート、バグダード、そしてメソポタミアなどの文字が散らばる、大きな帝国がそこにはありました。その時期はヨーロッパにしても、イスパニア王国であり、オーストリア・ハンガリー君主国であり、ドイツ帝国であり、イギリス王国であったわけですが。

地図を見ていて思ったのは、パレスチナが国として存在していた期間はずいぶんと短い期間だったのだな、ということ。1918年以降、イスラエル建国の1948年までのたった30年間だけ存在した国だったということになります。では1918年以前、トルコ帝国時代のパレスチナ民族はどのように暮らしていたのでしょう。四方田犬彦氏によれば、オスマン・トルコ帝国下で、大シリア地方南部の一地方として漠然とパレスチナと呼ばれていたそうです。十字軍の侵略のときを除けば、「イスラム教徒とユダヤ教徒、ドルーズ教徒、さらにさまざまな宗派のキリスト教徒でさえもが、同じ帝国の臣民として、のんびりと暮らしていた」そうです。ここでは西洋諸国では一般的だったユダヤ人差別もなく、ユダヤ人も日常にアラビア語を用いて、平和的に共存していたとのことです。(「サイードとパレスチナ問題」)

ここから汲み取らなければならないこと、それは何でしょう。たとえば、パレスチナ人とユダヤ人は100年前には、同じ国の国民として、言語を共有し、宗教は違っても平和的に共存して暮らしていたという理解ができます。宗教のことにはうとい日本人は何でもすぐに、宗教的対立が問題の根と思い込むところがあるように思いますが、必ずしもそうではないんだ、ということがこのことからもわかります。では本当の問題は何なのでしょうか。あらゆる紛争がそうであるように、政治の、それも国際政治の問題がここでも最大の対立の根、ということなのでしょうか。(大黒)