水曜日, 8月 25, 2004

パレスチナ難民問題の発端 (O)

前回の大黒さんのポストから10日経って、やっと今日になって何とかできるだけ簡単にまとめることができました。長い歴史の中で起きている(しかも現在進行形の!)、とてもこんがらがったことについてなので、できるだけ気長にお願いしますね。では前回の私のポストの、英国の統治によってパレスチナと呼ばれるようになったこの土地のその後について、続けていきます。

第一次世界大戦後、1919年にパリ講和会議においてイギリスやフランスによってトルコ帝国の領地だった中東を分割統治されることが決められ、それはこの土地の99%はアラブの人々へ、そして残りの1%をユダヤの人々のホームランドにするというものでした。1920年、当時の米国の大統領ウィルソンが提唱した国連の前身とも言える国際連盟(LEAGUE OF NATION)によって、それまでパレスチナ(その当時はヨルダンも含まれていました)と呼ばれていたこの土地は、英国が委任統治することになりますが、英国はスエズ運河などを含む重要なこの土地を我が物にしたいだけであって、ここに住む人たちの為の統治には無関心で、特別何も行いませんでした。

そして、英国統治時代のこの土地は1929年に起きたアラブ側からのユダヤ側への攻撃のヘブロンの大虐殺、その反対では、ユダヤ側の攻撃で起きた1948年のディル・ヤシン事件。そしてそのお返しの様に起こったアラブ側による4日後のハダッサ事件とエチオンブロックの虐殺(これらの二つの事件はなぜか事実として取り上げられない事が非常に多い)に見られるように、アラブとユダヤの人々の争い・いざこざの時代と言えます。ヘブロンの町はユダヤの人々が3000年という長い期間に置いて住み続けていた土地でしたが、その2日間続いたアラブ側の武装勢力での虐殺に関して英国は全く見て見ぬふりをして、その代わりになんとか生き延びたユダヤ人には、「安全のために」という名目でヘブロンから去るように命令したのでした。当時、こういった惨事がこの土地のいたるところ(一晩で200人近くのユダヤの人が虐殺されたエルサレムの旧市街を含む)で行われましたが、それでも英国はユダヤの人々を保護すること、また保護しないにしてもアラブ側の攻撃を止めさせるなどの仲裁は一切行いませんでした。

1936年後、アラブ側の大蜂起、ユダヤの人々に対する攻撃はどんどんとエスカレートし、ついに英国にはその混乱は手に負えなくなり、この土地の統治能力を失ってゆきます。

1939年5月17日、英国政府はアラブ側のリーダー達の反ユダヤの圧力に負け、ユダヤの人々のパレスチナへの移住を限定するという白書を発し、のちにはユダヤの人々の移住を完全に禁止してしまいます。またこの白書のために第二次世界大戦時にヨーロッパからナチの手を逃れようとしたユダヤの人々はこの土地へ移住することができず、そして第二次世界大戦後にホロコーストを奇跡的にも生き延び、しかしもはや帰る家族も家も失った彼らはこの土地へと航路でやってきますが、入国は許可されずにまたヨーロッパへ送り返されるということが何度も起きました。1947年7月に起きた移民船エクソドス号の話は1960年にアカデミー賞を受賞した『栄光への脱出』という映画のモデルにもなった有名な話です。

話が前後しますが、英国はこの白書を発する前に、この土地をアラブとユダヤとの両方に分けることを計画していましたが、アラブとそして世界中からの圧力が英国に掛かり、そこで英国はユダヤの人々にいかにこの土地の少しだけを与えるかという事に基づいてこの白書を発行します。

1947年11月29日。国連議会ではパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国境を持つ国を建設するという、パレスチナ分割に関する決議が総会で採択されます。そしてエルサレムはどちらの国にも属さない、国際管理下に置くインターナショナル・ゾーンとされることになります。これに対してユダヤ側は同意をしますが、アラブ諸国はこの決議前に国連に参加している国々にかなりの圧力をかけて、この計画を阻止しようとします。そしてさらに決議後には、パレスチナ全土のユダヤの人々を攻撃をしますが、これが現在まで続いている争いのはじまりでした。そして英国が引き上げる瞬間までには、アラブ・ユダヤの双方が、どちらがどれだけより利益のある道と肥沃な土地を自分のものにするかの奪い合いが続きました。そしてユダヤの人々のたった一つの聖地、そして後にイスラムの人々もユダヤとは別の理由から彼らの聖地と呼ぶようになったエルサレムも、その最大のターゲットとなります。

1948年5月14日、ユダヤのリーダーでイスラエル初代首相となったダヴィッド・ベングリオンは、この困難な状況下でイスラエル国家独立を宣言します。そしてそのまったく同じ日にエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、サウジアラビア、そしてイラクの6カ国の軍隊が一気に建国したてのイスラエルへ攻め込み、第一次中東戦争が勃発して、当時のイスラエルにいたアラブの人たちの多くはこのアラブ側の軍隊へ参加しました。そして8ヵ月後の1949年1月までにイスラエルはこの軍隊を後退させますが、それでもエルサレムの旧市街を失い、そこにあった一軒残らずユダヤ教の会堂・シナゴーグの全て、そしてユダヤの人々の家々も全て破壊され、さらには彼らは旧市街から出て行くことを余儀なくされました。

と、長々と書いてきましたが、ここまでは現在パレスチナ難民と呼ばれている人たちの発端についての説明の序説といったところでしょうか。

1948年の4月から12月までの戦争中のこの土地から、70万人のアラブの人が逃げ出したと国連は見ています。そのうちのいくらかの人たちはこのアラブとユダヤの争いを避けるために避難し、また他の人たちはアラブ側の攻撃に対するユダヤ側による報復を恐れたためだと言われています。しかし当時のこの土地のアラブの人々の多くは、彼らの政治リーダーから、「すぐにイスラエルは滅ぼされるだろう。そして君たちがこの土地に戻れる日はまたすぐにやってくるのだから、今は一旦ここから去るように。」と言われました。しかしその理由のはっきりとしたことはわかっていません。そしてそういった状況の中で16万人のアラブの人々が、そのままこの土地に残り、逃げ出した人々のほとんどは国連がアラブの国を設立すると約束した土地へ移りましたが、ガザは当時エジプトに占領され、ヨルダンは東エルサレムと西岸地区を占領した後にヨルダンの一部として合併してしまいます。

そして国連はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設け、パレスチナ難民をシナイ半島やヨルダン、そしてシリアに住むための援助協力しますが、アラブ諸国の政府はパレスチナ難民を難民キャンプに留めるために、そしてそれによってイスラエル国家の存在を揺るがすために、この計画を、そして国連の関与するその他のパレスチナ難民援助を拒否します。現在は約400万人のパレスチナ難民と呼ばれる人々が存在し、パレスチナ・イスラエル問題の主な交渉ポイントは、双方の国境をどこに引くか、入植地(Yesha)の問題、そしてこの難民の問題なのです。エジプトからやって来たアラファト議長(ちなみに彼はパレスチナ人ではありません。)やアラブ諸国は、この400万人いるパレスチナ難民の帰還についてイスラエルに対し圧力をかけますが、しかし実際のところそれだけ多くのアラブの人々がイスラエルに住むということは、すなわちイスラエルがイスラエルとしての国家でなくなるということであり、それをイスラエル側がすんなりと受け入れるということは、絶対と言っていい程に考えられないことだと思います。

1948年のイスラエル独立当時、約90万人のユダヤの人々がアラブ諸国に住んでいましたが、その大多数の人々がそれぞれの住んでいた国から無一文で去るようにと、イスラエルの独立に憤慨した政府によって言い渡され、現在ではたったの20万人のユダヤの人々が、それほど反イスラエルではないモロッコなどの北アフリカに留まっているに限られています。そして残りの70万人のユダヤの人々はイスラエルへ裸同然でたどり着きました。現在リビアとイラクは、これらの無一文で去ることを余儀なくされた元自国民であったユダヤの人々に対して、彼らの所有財産の返還を申し出ています。そしてこの土地を去らずにイスラエルに残った16万人のアラブの人々はイスラエル国民となり、現在ではイスラエル国籍のアラブ人は約120万人いますが(現在のイスラエル国民数は6百万人です。)、 しかし彼らはアラブ諸国のリーダー達によって裏切り者と見なされ、エルサレムの旧市街のモスクへ礼拝に行くこと、そしてその他のアラブ諸国に住む家族との連絡を持つことを一切禁止されています。

この後から1967年までの戦争の歴史は、今回のポストでは特に重要ではないので省きますが、1967年6月9日に起きた6日間戦争ではイスラエルはシリア、ヨルダン、そしてエジプトを攻撃します。これはアラブ側の見方では、イスラエルはこの戦争によってガザと西岸地区、そして東エルサレムとシナイ半島を占領したとされていますが、その反対にイスラエル側の見方ではガザとシナイ半島を占領し、東エルサレムと西岸地区をヨルダンから解放して東エルサレムをイスラエルの一部としました。

さて、ここからいよいよ入植地(Yesha)について、そして前回の大黒さんの質問について、次回に続きます。(大桑)


参考文献:
The Routledge Atlas of Arab-Israeli Conflict: The Complete History of the Struggle and the Efforts to Resolve It (Routledge Historical Atlases)
by Martin Gilbert
     
A History of the Israeli-Palestinian Conflict (Indiana Series in Arab and Islamic Studies)
by Mark A. Tessler