金曜日, 8月 06, 2004

パレスチナとはなにを指すのか (O)

先日の大黒さんのポストから、のあたりの土地についての歴史的なことを一挙に駆け足でザザザーッと、見てみます。

まずは、このパレスチナという言葉について。

このパレスチナという名前は、紀元前1000年ごろのガザあたりのごくごく限られた地域のことを指していました。当時そこに住んでいた住民は常にイスラエル王国を攻撃し、そのためにユダヤの人たちは彼らをヘブライ語で「侵入者」という意味に当たる「プリシティン」という名で呼びました。そして、このあたりの土地はプリシティン、侵入者が住む土地という意味の「ペレシャット」と呼ばれるようになりました。

この「プリシティン」と呼ばれる人たちは、元々はギリシャからレバノンとそしてガザあたりに移り住んで来た人たちのことで、現在パレスチナ人と呼ばれているアラブ民族ではありませんでした(現にパレスチナまたはプリシティンという言葉のはじめのPの発音はアラブの言語にはなく、そこからもこの名前が元々彼らの言葉から来たのではないことが伺えます)。そして数百年にわたりユダヤ人たちは侵入を繰り返すこのプリシティンたちと戦い、紀元前900年に、遂にユダヤのダビデ王はそのプリシティン達とその土地を滅ぼしました。

西暦150年には、ローマ帝国よって滅ぼされたイスラエル王国の名残のエルサレムはアエリア・キャピタリーナという新しい名で呼ばれ、イスラエル王国は彼らによってプリシティンのラテン語読みであるパレスチナという名前を与えられました。ローマ帝国は、ユダヤ人たちが常にローマ帝国に反抗してきたことで、イスラエルそしてエルサレムという名をユダヤ人たちから完全に消し去ることによって、ユダヤ人たちを制覇しようとしたわけです。そしてその当時は、この土地にはアラブ人はまだ住んでいなかったのですが、622年にモハメッドが創めたイスラム教を広めるために、636年になって初めてアラブ人がアラビア半島のメッカやメディナからパレスチナの地域にやってきました。そしてアエリア・キャピタリーナは、やって来たアラブ人によって、今度はアルクッズと呼ばれるようになりました。

また、352年からアラブ人がやって来る636年までの284年間は、この土地はビザンティン帝国の一部としてキリスト教の国でしたが、11世紀の終りになり十字軍がこの土地に進出して、多くのユダヤ人たちとイスラム教徒を殺し、その後この土地を200年に渡りキリスト教の国として支配し、アルクッズは再びエルサレムという名に戻ります。

1291年、今度はイスラム教徒のマメルックスと呼ばれる人たちが十字軍と戦い、彼らからこの土地を奪い取り、キリスト教の国からイスラムの国となります。そしてサラディンというこのマメルックスのリーダーは、イスラムの聖典であるコーランには神はこの土地をユダヤ人たちに与えたと記されているため、世界中のユダヤ人たちにこの土地に帰還するように言い渡します。その為、1世紀から2世紀にかけてローマ軍によってこの土地から追い出されヨーロッパに移り住み、キリスト教徒によって迫害されていたほんの一握りのユダヤの人々がこの土地に帰還しました。

1517年、トルコ帝国がイスラム教徒の国を支配します。その中には当時イスラムの国であったこの土地も含まれていました。サラディン時代からトルコ帝国時代の終わりの1880年まで、主にトルコ帝国の支配によってユダヤ人とアラブ人は問題なく共存していましたが、1880年、トルコ帝国支配下のアラブ人は彼らの国を持つということに目覚めだします。そして時を同じくして、ロシアと東ヨーロッパのユダヤ人が、キリスト教徒による弾圧から逃れるための新天地を求め、この土地に移住しはじめます。

移住してきた彼らは、荒れた土地、沼地、そういった誰も欲しくないような土地をアラブ人とそしてトルコ人から買い取ります。移住してきたユダヤの人々には手に職があったりと、当然アラブ人はヨーロッパからのユダヤの移民の数が増えていくことによい顔はせず、反シオニズム社会を形成し、トルコ帝国にユダヤの移住を禁止するように訴えます。そして1886年に、ペタハ・ティクヴァやレホヴォットという開拓されていた町が、はじめてアラブ人たちによって攻撃されますが、それでもユダヤ人たちはヨーロッパから(特にロシアから)の移住をやめず、1909年には、ユダヤ人はテル・アヴィヴ(ヘブライ語で春の丘という意味)という、初めてのユダヤ人だけの町を建設します。ちなみに1880年から1914年にかけて、6万5千人のユダヤの人々がこの土地に移住してきました。

1914年、第一次世界大戦が勃発します。トルコ帝国は敵国・英国と戦います。1915年、英国はトルコ帝国に住んでいたアラブ人たちに、英国に寝返ることによって勝利の暁には彼らに独立した国を与えると約束します。かの有名な映画『アラビアのロレンス(あの若き日のピーター・オトゥール!)』のモデルになった英国の陸軍将校ロレンスは、アラビア半島にやって来てアラブのいくつもの部族(反乱軍)を指揮し、トルコ帝国の軍隊を攻撃したのです。

1917年、英国はユダヤの富豪から第一次世界大戦の戦費調達を得るために、ユダヤの人々にこの土地に国を持つ権利がある、というバルフォア宣言を発します。そして、その権利はアラブの人々にもまた同じく約束されていました。しかし、勿論、英国はこの公約を守らない。

1918年、英国が勝利し終戦し、英国はアラブとユダヤの両方についてその約束を守らずに、英国はフランスと密約を交わしていたので、アラブに対してはサウジアラビアなどのアラブ諸国を直線的に国境を引いて建設しますが、ユダヤには何も与えませんでした。1920年、サン・レモ会議において、この土地は英国の委任統治領と認められ、再びパレスチナと呼ばれます。

西暦150年にローマ帝国によってこの土地がパレスチナと呼ばれてから1770年間という月日を越えて、1920年から1948年のイスラエル建国までの28年間、この土地は再びパレスチナと呼ばれていました。  (大桑)