水曜日, 3月 26, 2008

終りは新しい始まり (O)

*3月26日に一度投稿したのですが、どうにも未完成だったため、勝手ながら下記のものに差し換えさせていただきました。(3月28日)


前回の大黒さんが仰っているように、大黒さんとわたしは同じ日本人とはいえ明らかに異なる世界の住人かもしれない。しかし、だからこそこの対話プロジェクトに意味があるのではないかと思っている。

私個人としては「異なる世界の住人の話を聞くこと=様々な気づき」であり、そういう機会を持てること自体すらとても興味深いのだが、しかしみながみなそういうわけでもないらしい。たいていは対話相手を客観的に見れなかったり、どちらかが(または互いに)自分の価値観を押し付けようとしたり、または、「こんなおかしな人とは二度と話すもんか、こんちくしょう!」と憤慨したりする。その個人レベルの延長線が、この世界全体で起きている民族や宗教の争いなのだろう。そういう意味でも、これも大黒さんが仰っているように、ほとんど違和感を感じることなく、しかももっと時間があればとさえ思えたあの青山のカフェで、無神論者であると言われる大黒さんと過ごした時間は、その後、信仰の街エルサレムに戻ってからも非常に有意義なものとして継続していた。

エルサレムに住むようになってから、会う人ごとに「なぜイスラエル、なぜユダヤの世界なのか」と問われ、その度に「なぜでしょうね?」と冗談ではなく自問自答してきたのだが、あの日の大黒さんとの対話の向こうに、ゆっくりとその霧が晴れはじめた。子供のころから寺という、物質や競争社会とはほとんど関りのない世界で生きてきたのだが、20代で惹かれ、その後の人間形成に大きく影響したのは他から見れば特異にすら映るユダヤの思想と価値観を礎にした社会であり、人々だった。現代社会では失われつつある多くのもの、例えば十戒に見られる基本的モラル、が厳粛に守られ、これからも守られようとしている世界とその住人たちとでもいえばいいのだろうか。このことについて話すと長い長い話になってしまうのだが、早い話、かくあるべき人間社会を探す旅の途中で見つけたのが、そんなユダヤの世界だったのだろう。と、そういうことが青山以来、ようやく言葉として表現できるに至った。

しかし、2008年2月に、その約9年間のエルサレムのお山のほぼ隠遁生活に、とりあえず一つの終止符を打つことになった。その主な理由は、世俗化、欧米化、競争社会化が急速に進むイスラエルに、かつて見い出した輝きと方向性を失ってしまったことにある。ここ数年そのことに悩みながらようやくこの結論に至ったのだが、イスラエル、そしてエルサレムと少し距離を置くことで再び見えて来るものに出会いたい、とここらで惰性の生活に区切りを打ち、思い切って拠点を変えてみることにした。そんな過程で旧ユーゴスラヴィアのクロアチアの首都ザグレブに移ったのだが、しばらくここでホロコーストとその生存者であるユダヤ人のお年寄りの話を記録していきたいと思っている。

このクロアチアという国もまたイスラエルに負けず劣らず民族紛争が激しく複雑なのだが、クロアチア人の知人たちに、隣国のセルビアやセルビア人の長所を少しでも言おうものなら、瞬時に苦虫をつぶしたような表情をされる。ユダヤ系イスラエル人にパレスチナ人を褒める(またはその反対)のがタブーに近いのと同じように、それも口にしてはならないタブーということなのだろう。また、在クロアチア・ユダヤ人に対するクロアチア人の反応は様々で、しかし本音はいまだにヨーロッパに根付く反ユダヤの文化、そして第二次大戦で勢力をふるっていたウスタシェというクロアチアのナチズムからも「このユダヤ人め!」と思っている人も少なくないのではないかと感じることがある。しかしこれらの土地に限らず、「他者または隣人の排除、差別」というのは、世界中で起きているわけで、身近な日本でも在日韓国人や中国人に対する偏見、また関西圏ではそれに加えて部落問題などもある。

さて、その民族と紛争の中心のひとつでもあるイスラエル / パレスチナの近況はというと、相変わらず一歩進んで一歩下がり、そしてまた半歩進む、といった状況ではあるものの、一応、パレスチナ自治政府が「イスラエル抹消派」のハマスを抑えて独り立ちする方向へと向かっているように見える。以前から言っているのだが、現状で「卵が先か鶏が先か」を争っても解決にはならず、アラブ諸国が声を荒げている「イスラエルを抹消しパレスチナのみ存在」という選択肢も非現実的でしかない。互いから完全に手を引くこと、そしてパレスチナが完全に独立した一国となることでこの延々と続く無意味な争いを終わらせ、そこから双方に新しい始まりが訪れるだろう。そう思っている矢先にまた、3月にエルサレムのユダヤの宗教学校でアラブ人による乱射事件が起きているし、イスラエルもガザへの攻撃を行っている。

本を読むことについて。本は知識であり、知識は酸素と同じほど人の成長に欠かせないエレメント。昨年の春の帰国時には、雑誌ともなんともいえないいわゆる情報誌が大半を占める店舗が圧倒的になっていた本屋の様変わり、そして京都の四条河原町にあった丸善など大手の書店の閉店など、かなりその状況に驚いたのだが、これからもその中から良い本を選択し、それを糧にしていきたいと思っている。昨年読んだ本の中に「四季(李 恢成著)」という、在日朝鮮人としての「私」を描いた一冊があるのだが、残念ながらなぜか途中で挫折してしまった。大黒さんが前回の投稿でも触れられている内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」は以前から気になっていたので、今度Amazonで購入してみようと思う。ぶらりと本屋に寄って本(特に日本語で書かれた)を買うのは、外国に住むわたしには夢のような話になりつつある。
(大桑)