月曜日, 10月 08, 2007

書く糸口、考える立ち位置を探しながら

ここに自分の考えたことを投稿をしていなかった間も、ユダヤについて、イスラエル/パレスチナについて、異なるものの間の対話について、世界各地で起きている紛争について、考えていなかったわけではない。ただ、書くのが最初の頃より難しいと感じることが多くなってきた。自分の得たわずかな知識や情報をもとになにほどのことが語れるのか。そういう疑問もつねに沸く。ただ書くことは、考えることであり、この企画にはその考えを聞いてくれる対話者がいる。また開架式で公開しているので不特定多数の読み手もいる。なにほどのことがたとえ書けなくても、まったく無駄というわけではない、そうも思う。

そもそもこの企画を始めたのは、ユダヤというもの、イスラエル/パレスチナが抱える問題、そのことにどのように自分がアクセスしていったらいいのかという関心からだった。きっかけとなったのは、このプロジェクトの対話者である大桑千花さん(ユダヤという生き方、その思想やあり方に関心と共感をもち、ベルリンやニューヨークをへて現在はエルサレムに住む)と知り合ったこと。その世界をよく知る一人の人間を介して、なんとか未知の世界へ近づきたいと思った。普段の気楽なメールのやりとりの中では必ずしも話題にならない、しかし大桑さんにとって核心の問題を、真面目に正面から話し、何か汲み取りたいという思いだった。

今年の5月には、帰国した大桑さんにお会いする機会ももった。青山のカフェで、いくつかの、大桑さんが身をもって体験した心の漂流と旅の軌跡のエピソードを聞いた。それは初めての話ばかりだったけれど、この何年間のあいだにインターネットを通じてやりとりした書面と地続きのものであることを実感した。そして別々の地に住む今後も、大桑さんの話をもっと聞いていきたいという思いを強くもつ機会ともなった。

大桑さんとわたしはしかし、かなり異なる人間であることも確か。大桑さんがユダヤの世界に惹かれて旅立ったのに対し、わたしは日本の中に暮らし何とか外部の目をもって日本を見たいと願ってきた者だ。またそれなりに徹底した無神論者でもあり、具体的に無宗教であるだけでなく、日本において風俗や慣習、習慣の中で混然一体となっている祭事や文化行事にもめったに参加しない。宗教にかわるものとして、精神の支柱として、生きていくときの夢として、アートというものと長年かかわってきたように思う。このように大桑さんとは大きく立ち場を異にしているが、書面でも対面でも、少なくともわたしの側からは大きな違和感を感じることは少なく、まだ知り得ていない大きな謎を感じながらも人間として魅力を感じ、信頼を寄せている。大桑さんとの真摯な対話の可能性を信じている。

書かなかった間も本を読むことはしてきた。この対話とは直接関係のないテーマのものであっても、直接間接にユダヤについて、イスラエルについてのトピックが登場することも多く、世界で起きている問題はひとつとして互いに無関係なことはなく、大きくは地続きではないのか、という思いにもなった。最近読んだ本の中で強く印象に残ったものに、次のような言葉がある。
「人は祖先を誇りに思う権利はない」 

アメリカの黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンと文化人類学者マーガレット・ミードの対話集「怒りと良心/人種問題を語る」(1973年出版)でのミードの発言。わたしはこのフレーズに、訳者である作家の大庭みな子の個人全集のエッセイの中で出会った。以来この言葉の意味するところを考え続けている。「祖先」とは何か。「誇りに思う」とはどういう状態か。中でも一番気になったのは「権利」というところだ。「義務」ではなく「権利」と言っているところにこのフレーズの尋常ならざるところが見えているように感じる。その後まったく別のテーマの10冊を超える本を読んでいるが、このフレーズになんらかの光をあてているように感じた文章が少なからずあった。たとえばどんな本かというと、「ホノルル、ブラジル/熱帯作文集」(管啓次郎著)、「驢馬とスープ」(四方田犬彦著)、「北朝鮮へのエクソダス」(テッサ・モーリス-スズキ著)、「トオイと正人」(瀬戸正人著)、「瞬間の山」(港千尋著)、「ごく普通の在日韓国人」(姜信子著)、「愛国心を考える」(テッサ・モーリス-スズキ著)、「ディア・ピョンヤン」(梁英姫著)、「チャイナタウン発楽園行き」(林巧著)、「Borderlands / La Frontera」(Gloria Anzaldua)、このような本である。これらの本に何か共通するものがあるとするなら、個人とその人間が属している(いた)集団や社会との関係性について何か述べられている、ということが言えるかもしれない。最後にあげた「Borderlands」とは境界地域のことだが、チカーナ(メキシコ系アメリカ人)の作家アンサルドゥーアは地理としてのボーダーのみを指しているのではなく、言語、性、宗教などによる集団間のボーダーランズについても書いている。そしてその書く言語も、英語とスペイン語のミックスだ。詩や散文の中でアンサルドゥーアはこの二つの言語をスイッチしながら書いていく。このcode-switchingという手法を(そう呼ぶのだとこの本で初めて知った)、その後、在日朝鮮人に関する文章の中に見つけ、やはり一つの問題は、特にある集団とその境界域に触れる問題は、他の似た状況の問題と地続きだと思った。去年葉っぱの坑夫が出版した「ぼくのほっぺのちいさなあざ/ The little mark on my cheek」も、code-switchingによる本ということになる。

ところで、後に上記の引用フレーズに導かれて、「怒りと良心」の本を手にしたが、その中でユダヤとイスラエルに関することが熱心に語られていて印象的だった。中でも、イスラエル建国について、イギリスが自国の利益のために進めたことがシオニズムと合致して建国となったというくだりに興味をもった。また詳しくは書かれていなかったが、ミードは建国に賛同の意を、ボールドウィンは反対の考えを述べていた。ミードがどのような理由と論理で賛同していたのかは興味ある。著書を探せば、詳しく触れられているものが出てくるのではないか。

また季刊雑誌「考える人」の最新号に、小林秀雄賞を受賞した内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」の紹介とインタビュー記事、未来&歴史学者ローレンス・トーブとの対話が掲載されている。大変興味深い内容だった。本はまだ手に入れていないが、近いうちに読んでみたいと思っている。

読むことから、また考えることを続けていきたいと思っている。

日曜日, 5月 14, 2006

マイノリティー・リポート (O)

「光陰矢のごとし」とは本当によくいったもので、学なりがたしの私にはとても追いつけないほどの速度で、びゅんびゅんと時間が過ぎ去ってゆきます。前回の大黒さんのポストが、まだ冬のあいだだったということにすら驚いています。日本では桜の季節も終わり、そろそろキャンパスや社内に5月病が訪れる頃でしょうか。

さて、私はといえば、イスラエルの短い雨季の冬の終わり、3月末に行われた総選挙の直後にエルサレムを抜け出して、東欧の小国クロアチアへ。一ヶ月ほどの旅をしてきました。ユネスコの世界遺産に指定されている、中世イタリアの宮殿跡の壁に作られたアドリア海の街や、100ほどもある滝と湖で有名なプリトヴィツェ湖群国立自然公園。豊かな自然がとても美しいクロアチアを含む旧ユーゴ・スラヴィア、南スラヴ民族の国。ここもまた、イスラエルまたはパレスチナと呼ばれる土地と同様に、異なる民族と宗教の共存が大変難しい土地ではないでしょうか。

1980年に、ユーゴ・スラヴィアのティトー大統領(日本語ではチトーとなりますが、本来の発音はTito 《ティトー》 なので、ここではあえてそう呼ぶことにします)が亡くなって、その後、どんどんと民族同士の対立が表面化し、争いが激しくなりました。それまでは、ティトー大統領によって統一されていたユーゴ・スラヴィア。南スラヴ民族の国という名の、ひとつの国家のもとで共存していたいくつもの民族の人々。彼らはもはや同じ町に隣人として住むことなど、到底できない状況になってしまいました。そして「Ethnic Cleansing 民族の浄化」という言葉によって、美しい自然に囲まれたプリトヴィツェ周辺では、隣人同士だったセルビアとクロアチアの人々は、何世紀にも渡り住み続けてきた互いの家を焼き払い、破壊しいのちを奪い合い、相手にそこから立ち退くことを強いました。そしてクロアチアでは、民族としてだけではなく宗教においても、悲惨な争いが続きました。カトリックとセルビア正教が対立し、異なる者の存在を認めるのではなく、その反対に他者を否定し排除することによって。

今回、2年ぶりで訪れたクロアチアの旅の途中の道々で出会った、あの当時の爪あとや、その土地の宗教を主張するいろいろなもの。首都のザグレブから南へ、プリトヴィツェ国立自然公園に向かう旅の途中で通り過ぎた町では、あの当時、とても激しい争いが繰り広げられていました。走り行く車の窓からでもはっきりとわかるほど、今でも民家の壁一面にはびっしりと銃弾の跡が刻まれたまま。そこに不自然に、新しい窓が取り付けてあったりしました。おそらく窓は銃撃によって割れて壊れてしまったのでしょう。そして当時のことを忘れないようにと、茶色く錆びた戦車の残骸などのオブジェがその町の広場に残されていました。

車がさらにプリトヴィツェ国立自然公園に近づくと、道の両脇にはおとぎ話のような、とてものどかで牧歌的な田園風景が続きます。畑のきれいな緑色のグラデーション。羊の群れ。ブーフーウーの子豚物語で見たような、赤いレンガの家の脇に咲いているのは、白い桜の花や色彩豊かなチューリップ。名もない野の小さな花々。イワン・ラブジンなど、ナイーヴアートが生まれた土地。なんともやさしく響いてくるその風景を、うっとりと車の窓から眺めていると、ぽつん、ぽつん。道の脇や遠くの丘の上に空き家があることに気がつきます。壁の一部だけを残して、屋根もなにもかもが見事に崩れ落ち、見すてられて廃墟となったレンガの家々。この土地で激しい争いがあったことを知らなければ、他の国でも見られるように、ただ、近代化によって村の生活を捨てた人たちが多い国だと思ってしまうことでしょう。

そして隣国のスロヴェニアに近いクロアチア北部では、時間はゆるやかに流れていました。白鳥がのんびりと水面をすべる美しい湖のほとりや、村の高台には古城がそびえ、まるでドイツかどこかのような優雅さえも。そのあたりの村々をつなぐ街道の分かれ道では、扉のない小さな小屋のようなものをたびたび見かけました。その小屋には、大きな十字架に架けられたキリスト像や、ベールをかぶったマリア像がおかれ、それらはそこを通る異国からの旅人にさえ、その土地の人々の宗教がなにであるかを語りかけます。日本でいえば、国道沿いのお地蔵さまのような感覚なのかもしれませんが、土着したカトリック文化にあまりなじみがなければ、多少の戸惑いと威圧感を与えるかもしれません。または、この土地の人々はなんと信心深いのだろうかと感銘するかもしれません。しかし、「Ethnic Cleansing 民族の浄化」という名目でこの土地を追われた、それとは異なる宗教と民族の人々がその象徴を目にしたときに、いったいその象徴がもたらすのは何か。そんなことなどがぼんやりと、心をよぎりました。

第二次世界大戦のころへと時代をさかのぼってみると、クロアチアにはウスタシュと呼ばれるナチ主義の人々がいました。このウスタシュによって、多くのセルビアとユダヤの人々、そしてロマ(ジプシー)と呼ばれる人々が、異民族であるという理由によっていのちを失ってしまいました。この土地の80%とも90%とも伝えられているユダヤの人々が、そのホロコーストによって亡くなり、現在のクロアチアでは、ほんの2000人ほどのユダヤの人々がマイノリティー(少数民族)として認識されています。そして認識されていない残りの1000人ほどのユダヤの人々は、自分の子供たちや隣人が気付かないように、ユダヤとわかる名をクロアチアの名前に変えて生きています。そしてクロアチアの大きな街に生きるセルビアの人々も、また同じように。とある民族がその土地から消え失せたあと、そこに生きながらえた人々は、その過去の記憶になにを学んだのでしょうか。彼らは、自分たちの民族の伝統も宗教も、そしてそのアイデンティティそのものをまるで否定し、または隠すかのようにして、異なる宗教と民族であるクロアチアの人々と同化することによっての共存、という道を歩いています。

これまでの人生で、自分の持つアイデンティティや宗教において危機的な迫害をされたことも、それに対していのちをかけて戦った経験もない。そんな外国人である私には、その土地で起きたすべてを短時間で理解すること、ましてやそこに住む友人たちと気軽にそれらについて話すことすらも、とても難しいと思われました。そして、ティトー亡きあとにこの土地で起こったこと。武力によってのその争いは終わっても、人々のこころの中ではそれらの争いと葛藤はいまだに終止符が打たれていないという現実。そんな現実とはまったく別の世界であるかのような、クロアチアの豊かで美しい自然に、なんともアイロニーを感じてしまった旅でした。

プリトヴィツェの森を一日かけて探索しました。美しい自然に感嘆をあげる観光客に疲れて、あまり旅人の歩くことのない山道へと逸れました。人気のない静かな森の透き通った清流には、蕗が伸び花が咲き、のんびりと鴨が泳いでいます。今ではもう使われていない古い水車小屋も。そして山道の脇には、すっかり雑草におおわれて朽ちかけたレンガの家が一軒、ぽつん、と誰に知られることなく残されていました。玄関も窓もないその廃墟に足を踏み入れると、かつてキッチンだった、ああ、きっとリビングだったんだろうと思える部屋、そんな記憶がそこにありました。かつて、ここで生活を営んでいたのがクロアチアの人だったのか、またはセルビアの人だったのは、もう誰にもわかりません。そして、争いが終わってからも長いあいだ、セルビアの人がこのあたりへ踏み入ることは、できませんでした。

すると、廃墟の脇の山道を一台の車が走り去りました。ゆっくりと走り去る車のバックに見たのは、驚いたことにセルビアのナンバー。ひょっとすると、未来への明るい光はもう挿しはじめているのかもしれないと、森に落ちる光と陰の矢がそう伝えたような気がしました。

(大桑)

金曜日, 1月 27, 2006

シオニズムとユダヤ教。黒豆と無宗教。(D)

前回の大桑さんのポストからずいぶんと日がたってしまいました。間があいてしまったことで、さらに書くきっかけがつかめず、またこの5ヶ月間この問題について書くことから離れていた分(書くことは考えることなので、考えることから離れていたことにもなります)、回りからの情報がわたしの中に入りこみやすくなり、自分の中でこの問題に関する焦点のあれこれに、巻き戻しが起きているような気がしていました。それがまた、書くことに向かうことを遠ざけていたように思います。

前回大桑さんは、入植者のガサ撤退にあたってメディアがいかにご都合主義にふるまうか、日本の報道関係者や学者や知識人もふくめた寄稿者、著者、出版社たちがいかに安易にこの問題について発言しているかについての焦燥感を書かれていました。「巻き戻し」と書いたのは、日本にいて新聞、テレビ、雑誌などのメディアに日常接していると、そして能動的に考える態度を少しでもゆるめ、受ける一方の状態になっていると、流れて来る情報に自分が侵食されそうになるのです。

最初にわたしがこの対話ブログをはじめたいと思い、大桑さんに声をかけた理由も、あまりに日本語で流れている情報や発言がどのメディアでも、一方的かつ一種類しかない、ということが一番にありました。わたしにとっては、ユダヤ系イスラエル人作家のこの問題に関する著書が訳された、というだけでトピックであり貴重でした。違う視点に触れられると思ったからです。(前回のポストで大桑さんが書いているように、グロスマンにも問題があったとしても、です) その当時も今も、パレスチナ系アメリカ人批評家エドワード・サイードの日本の知識人への影響力は絶大に見えます。この問題に関する日本の知識人の拠り所はサイードの発言とその著書のみにあるのではないかとさえ思えるほどです。大桑さんが指摘するように、あの人が、と思われるような(進歩的と見られているような、海外の大学で教鞭をとったり西欧知識人との対話を本にしているような)知識人たちでさえ、「圧倒的な軍事力でパレスチナを虐待するイスラエル」という単純な構図からしか発言していないこと、それも詳細がない発言であること(その定型文だけを繰り返すというような)は、事実に近いとわたしは感じています。

ポストがあいてしまったしばらくの間、繰り返し(と言っても取り上げられる機会は少ないですが)これらの見方に接し続けていると、大桑さんとの対話を1年以上にわたりしてきたわたしでさえ、問題の見方に揺らぎが起きる瞬間があるのです。それほど日本で得られる発言や情報は単一です。自分自身にしっかりとしたものの見方や、メディアに接するときの能動性(書かれていることの背景や、記事の公表の意味なども含めて情報を受け取ろうとする)がなければ、いとも簡単に(多分意図されているであろう)同一性指向の渦に巻き込まれ、「自分」を見失います。

そんな中、2、3週間前のことですが、四方田犬彦著「見ることの塩 - パレスチナ・セルビア紀行」(作品社)を手にしました。2004年に数カ月間、イスラエルに滞在してテルアヴィブ大学で教鞭をとっていたときのことが前半約半分に書かれています。最初の方で、サイードの名前があがったことや、中東問題でよくメディアに登場する酒井啓子による朝日新聞の書評で首をかしげる部分はあったものの、またとない最近の現地レポートなので読んでみることにしました。四方田氏のまえがきには、自分のまわりには「パレスチナ人とイスラエル人の錯綜した物語について充分な知識をもっている者は皆無」であり、自分もふくめて「支配者であるユダヤ人と悲惨な犠牲者であるパレスチナ人によって、きれいな形で二項対立が構成されているものだと漠然と信じているだけで、それ以上のことは知らなかった」との記述があり、日本の、未知の社会に対する閉鎖的かつステレオタイプな認識を感じていたようで、それがイスラエル滞在を選択するきっかけとなっていたとのことでした。そのあたりの動機を信じて、でも批評的に読むことは忘れずに、とそんな心づもりで、少しずつ読み進んでいるところです。

読んでいていくつかの未知のことにぶつかり、そのあたりを大桑さんの口から話を聞いてみたいという好奇心が沸いてきました。そのひとつは「正統的なユダヤ教とシオニズムが歴史的に対立してきた」と書かれていたことです。前回の大桑さんの記述の中にも「世俗と宗教社会というふたつの相容れないグループのギャップは深く」とありました。「見ることの塩」では、現在のイスラエルで世俗派(日常的にシナゴーグに行かない人々)が全体の7割を超えているとありました。つまりユダヤ教徒として宗教的な生活を送る人は、イスラエルの中でむしろ少数派ということになります。教会(シナゴーグ)に行かない世俗派が主導する国家がイスラエルとするなら、世俗派の人々はいかにしてユダヤ人なのでしょう。グロスマンも確か無宗教つまり世俗派の一員だと思いますが、このあたりはもうひとつ理解しにくい点です。

シオニズムというのはユダヤ人の国家をどこかにつくるという思想と理解していますが、この本の中では、イスラエル建国のきっかけとなったヘルツルという活動家の考えを「西欧文明を代表するエリートのユダヤ人のみからなる国家を地球上のどこかに建設すること」として記述していました。またヘルツルは「ユダヤ教徒の退嬰的な映像を払拭し、従来のユダヤ人をめぐるステレオタイプから解放されるために懸命であった」とのことで、このあたりがシオニストとユダヤ教徒との対立のあらわれの一つなのかもしれないと想像しています。ユダヤ教徒の中には、宗教上の教義と相容れない現在のイスラエル国家を否認する傾向もある、とこの本には書かれており、そのあたりのことも大桑さんの考えをぜひ聞いてみたいと思いました。

この年頭、ぼんやりと国家と家族の関係について考えていました。わたしは無宗教ですが、お正月をどのように過ごすかについては気まぐれです。ここ何年かは神社にも行っていませんが、おせち料理は習慣で少し食べます。今年は気まぐれついでに、圧力鍋というものの成果を試したくて、黒豆を煮てみたりもしました。それが宗教的な気分とどれくらいリンクしているのか、考えてもよくわかりません。たぶん、強い否定はないのでしょう。でも近所の神社のお正月のチラシに厄よけに関する記述がずらずらと書かれているのを見るのは、気分を害されます。そういうものに対して大きな距離を感じるからです。ふと、デュシャンもシェーンベルク(あるいはケージ)もないんだろうな、厄よけの世界に生きていたら、と思いました。でも厄よけで神社に通いつつデュシャンを熱心に論じる人だっているだろうな、それが現実だろうな、とも。もしわたしが、確信犯的に無宗教で、ナショナリズム的国家幻想に直結する伝統的な家族観を全否定していたら、お正月をはじめとするさまざまな季節行事のときは、日本人内異邦人として「無味乾燥」に過ごすはめになることでしょう。人の生活とはそういうものなのだな、と思うから。でも、それでもいいではないか、そこから先には何があるのか、そこから先にたとえばどんなものが建設できるのだろうか、という好奇心もあります。ひょっとしてそれを考えるのは、原理主義者のすることかもしれませんが。(大黒)

<ノート>
デュシャン, マルセル:1887-1968。フランス出身で後にアメリカ定住。既製品の便器に署名した『泉』などの作品で知られる。
シェーンベルク, アルノルト:1874-1951。ハンガリー出身のユダヤ人で後にアメリカ移住。調性を放棄した作品をつくり、後に12音音楽を発明。
ケージ, ジョン:1912-1992。アメリカ生まれの音楽家。何も音を発しない作品など。南カリフォルニア大でシェーンベルクの教えを受けている。

土曜日, 8月 27, 2005

メディアと対話と和平と -ガザ撤退にあたって- (O)

日本ではもうお盆も過ぎて、夏の終わりが近づきつつあるのでしょうか。イスラエルはまだまだ夏真っ盛り、11月の末まで雨粒の一滴も空からは落ちてこない、長い長い夏です。

さて、ここしばらくはヨーロッパへと話が流れてゆきましたが、ここらでちょっと方向をイスラエルへともどして見ましょう。イスラエルでは、先週からのガザ地区撤退でごったがえしていましたが、ユダヤの住民とIDF(イスラエル国防軍)の両方があの土地から撤退するという話は、遠い日本でも様々なメディアを通して耳にすることもあったのではないでしょうか。そのお陰で私の頭と心はかなり憔悴しました。私の憔悴の理由のひとつは、今回のことを通して改めて感じた「いかに人というものは都合の良いものか」ということで、そこにはメディアという避けがたいものがありました。

インターネット上の数々のウェブで、そして本屋の棚にも、イスラエルとパレスチナ問題に限らず、真実と題されてはいるものの、どう見ても自分たちに都合の良いように書かれたものが恥ずかしげもなく並んでいる。しかも、それなりに名の知れたジャーナリストと称した方ですら、言ってしまえばまるで偏ったゴシップ並みの記事を、それらしく発表されている。そういうものを書く側もそれを出版または報道する側も、自分の名を上げたり何かの利益に繋がればそれでよいということなのでしょうか。個人の求める様々な情報が、インターネットなどで簡単に手に入る時代といえば、一見とても豊かな時代のように聞こえますが、実際はなんだかとても混乱しやすい難しい時代になったように思います。一昔前まではオブジェクティヴだったメディアがサブジェクティヴとなったご都合主義の情報のあふれる現代では、情報を与える側にはもう期待は出来ず、情報を与えられるこちら側の目を養うしかないなのでしょうか。出版に携わっていらっしゃる大黒さんは、そのあたりの裏の世界はよくご存知でしょうし、そういうメディアのプロパガンダにある程度免疫のある私でも、このような状態を目の当たりにすればするほど、がっくりと気が萎えてしまうのです。

イスラエルとパレスチナの問題では、日本を含めた世界中で、メディアと政治の思惑によってイスラエルという国や入植地と呼ばれるものは、イスラエルがパレスチナから奪い取り占領している土地なのだから、当然パレスチナの人々に返還するべきだと謳われます。そして例に漏れず、イスラエル国内のメディアも、自分たちに都合よく振舞います。1970年ごろでは、イスラエル政府は国民にガザの入植地への居住を勧め、それにあたり様々な面でのサポートを行いました。当時、それに賛成していた左派のメディアは、それから1993年のオスロ合意までの20年間以上に渡り、入植地の住民をまるで国のヒーローのように扱いました。しかしオスロ合意が失敗に終わると、左派のメディアは入植地は政府の提案だったことすらをあやふやにし、入植者をまるで和平の障害物のように書き立て、その思惑通りに国民の多くは入植者たちを非難します。このようにこの土地ですら、メディアによって事実を見極める目を人々は失い、混乱しているのですから、それらを情報源とする日本のメディアやジャーナリストと称する人たちの発信する情報は、さらに偏ったものとなって日本の人々に伝わるのは、ある意味どうしようもないのかもしれません。

日本などでも見られるイスラエルとパレスチナに対する多くの意見では、1948年のイスラエル建国以前のことは一言も触れません。その理由が何であれ自分たちには都合が悪いので、1948年以降だけを拾い集めて事実として、この土地はイスラエルがパレスチナから奪った土地だとします。そこにイスラエルは悪者で、パレスチナはかわいそうという白黒のイメージが出来上がってゆきます。それをニュースで見たり何かで読んだ人々は、それ以外の異なった意見を聞く機会が少なければ、盲目的またはほぼ自動的に「なるほど」とそう思い込みます。この土地に住むすべてのパレスチナの人々は、占領者イスラエルの圧力に日々苦しめられ追い詰められた状態の、かわいそうな難民なのだろうと。覆面をして銃を取りマーチングし、まだ何もわからない小さな子供たちにも、侵入者イスラエルを憎めと銃を持たせ、ジバクするのがすばらしいと教えることは、もっとも理解できることだと涙を浮かべます。同じように、先週に撤退をはじめたガザの入植地についても、あの土地はもともとイスラエルがパレスチナの人々を追い出した奪った土地なのだから、パレスチナの人々に返還するのが当然だとも思い込んでしまいます。しかし、それほどこの土地の現実は、短絡的なことではないのではないでしょうか。

もし仮に、パレスチナについてのこのような日本の意見が現実ならば、エルサレムの近辺のパレスチナ自治区内の町に住む、難民でもなく武器も取らない多くのパレスチナの人たちは、暑さでボケた私が見る砂漠の中の幻想なのでしょうか。また、イスラエルによって圧迫されているとされる、追い詰められたパレスチナの人々が、小さな子供たちと共に武器を取ることやジバクはすばらしいと教えることへの賛成が、イスラエルとパレスチナのふたつの民族の和平と共存にはつながらないと思うのはおかしなことなのでしょうか。それよりも、パレスチナ自治区に住む人々がこれまで以上に保障された生活を送れるように、ヨーロッパや日本からの巨額の寄付金が、するりと当たり前のように政治家のポケットへと消えてゆく自治区政府を建て直すことのほうが、遥かに意味のあることなのではないかと思う私がおかしいのでしょうか。プロパガンダをそのまま思い込んでいる人たちと、そうではないのでは?と思っている同じ日本の人との間でさえ対話は果たして可能なのか、そんなことを思いました。

ガザ撤退にあたり、日本では未だにプロパガンダにうまく乗せられたパレスチナに同情する意見が大多数なのだと思い知らされて、ちょうど一年ほど前にこのブログで書いた「パレスチナ問題の発端」と「それぞれの思惑」、そこからの私と大黒さんの一年はまったく無駄だったのかと、またまたここでがっくーんと落ち込んでしまったわけです。もちろん、大黒さんと私がインターネットとメディアの大海の片隅でちょこちょこと、でもがんばって、意見を述べ合ったところでどうだというのだ、と言われればそれまでなのですが・・・。

さて、以前には左派と右派のメディアの特色がはっきりと分かれていた、イスラエル国内のメディアを追ってみました。今回のガザ撤退と共に、左派のメディアはイスラエル社会の価値を探すことに、フォーカスを当てているように思います。そこでまたまたグロスマンの登場となりました。現在のイスラエル社会は傷つき、国民はしばらくの間は喪に服すべきであるとメディアで語りはじめた第一人者のグロスマンと、左派のその他の作家たちは、左派のスポークスマンとして、今回のガザの入植者たちと右派の負けを祝う必要があるようです。しかし、そこで他の左派の作家とグロスマンが異なるのは、8月15日の「The Jerusalem Post」に彼が投稿した文中(このポストの一番下にあります)に見られるように、グロスマンは入植者たちについて、一言すらも理解を示してはいないことです。グロスマンはイスラエルの世俗社会と共に、家を追い出される同じユダヤの入植者たちに対して同情するでもなく、“頭のよい”入植者たちは、ユダヤの人々が祖国を持てなかったことや、その離散の歴史を都合よく使う、イスラエル社会のパラサイトであると冷たく非難しています。これまでのユダヤの人々の歴史では、常に彼らは他民族の政府によって住んでいた土地を追い出されて来ましたが、今回のガザ撤退ではユダヤが同じユダヤを追い出すという、ユダヤの歴史上初めて起きたことであり、そして自国の政府によってその自国民を自国の軍隊を用いて撤去させるという、世界史上でも初めての出来事について、他の左派の作家たちとは異なりグロスマンは明確な意見を述べていません。

グロスマンは、入植者たちを政治と和平プロセスの邪魔者としてではなく、「人」として扱うように、そしてこれまで数十年に渡って作り上げてきたイスラエル社会の傷つき-これから入植者たちが引きづりながら生きてゆくであろう壊れされた夢と、グシュカ・ティフなどの入植地を作り上げた危険性、そしてそのような状況に陥ったこと、同じユダヤ人同士が対立してしまったことなど-に対して喪に服すようにとイスラエル国民に伝えました。そして、すべてのイスラエルの国民のひとりひとりが、デモクラシーとして、入植地を撤去する責任を担い喪に服すべきだと。それがイスラエルがこれからもひとつになって生き残る方法なのだと。

このグロスマンの意見は、一見すばらしいとも思えますが、これを深く掘り下げていくと、実はこの意見はとても混乱したものだということが見えてきます。まさに方向を失い、混乱したイスラエル社会そのものを反映しているように。グロスマンは「イスラエル社会の深刻な疾患」と文中で繰り返しますが、それが一体何かは明確にしていません。しかし、他の左派の作家(またはジャーナリスト)たちは、そのことについてはっきりと考えを述べています。例えば左派の作家の中でも著名なアリ・シャヴィットは、グロスマンと同じように、入植地の撤去については賛成ですが、入植地の建設はパレスチナに対してフェアではなく、イスラエル史上でもっとも間違った行動だったと指摘します。しかしガザの入植地撤退が完了し、それが入植者と兵士たちの双方に、そしてイスラエル社会と人々に一体どのような傷と影響を与えたのかは、誰にもわかないと、イスラエルの世俗社会の入植者たちに対する冷たく蔑むような扱いには彼は同意していません。そして、さらにシャビットは、自国民である入植者の危機の時に対して、何の同情や少しの慰めをも示さなかったグロスマンなどのイスラエルの知的エリート層の人々を非難し、イスラエル社会は入植者たちから何かを学ぶべきだといいます。イスラエル社会で失われてしまったコミュニティー、または自治体としての絆、友情、目標や理想、努力など、日本でもおそらく失われてしまったものたち。グロスマンの言葉を借りるならば、これがイスラエル社会の深刻な疾患ではないかと思います。

そして、何よりも今回のガザの撤退が露にした事は、イスラエルという国は、異なる二つのグループの祖国だということではないでしょうか。左派と右派、または世俗と宗教社会というふたつの相容れないグループのギャップは深く、まるで異なる二つの民族のようにさえ映ります。そして、これが現在のイスラエルという国の本当の悲劇ではないのかとさえ思えてしまいます。イスラエルのメディアを徘徊してみて、もうひとつ決定的なことに気がつきました。政治家やグロスマンなどの和平を唱える人たちは「なぜ将来建国されるであろうパレスチナという国に、ひとりとしてユダヤの人は住むことが許されないのか」という問いについては、まったく触れていないのです。ガザの入植者たちは、ガザの家に残れるのならば、そこがもはやイスラエルでないのならばパレスチナの住民となってもよいとまで表明しました。しかし、パレスチナ政府はこれを拒否しました。もし、本当にふたつの国の実現と和平を現実にするつもりがあるのであれば、なぜパレスチナには一つの民族しか住んではいけないのか、EUのように多国籍に多文化が謳われる時代になったにもかかわらず、本当にこの土地の和平をみな願っているのだろうかと問わずにはいられません。現在、この地球上には約200近い国が存在しますが、そのどの国を取っても単一民族の国は見当たりませんが、将来のパレスチナという国だけはそうなるということです。今、こうしている間にも、この土地ではまた、イスラエルとパレスチナの双方に新たな死者が増えました。もう一度聞き返さずにはいられません。人々は、そして世界は、この土地についてのどのような和平をめざして対話しているのでしょうか。 (大桑)



以下は8月15日のイスラエルの英字新聞「The Jerusalem Post」のグロスマンの記事です。


「Something to mourn By David Grossman Last Update: 15/08/2005 14:21

For decades, the settlers have excelled at finding the weak points and illnesses within Israeli society and exploiting them to their own advantage. With a keen intuition, they operated in the gray areas of the Jewish-Israeli soul, in the places where fears, past nightmares, the urge for revenge and hopes for redemption are intertwined. They succumbed to the temptation - usually suppressed - of being drunk with power after thousands of years as a humiliated people. They indulged the human desire to bend rational considerations and the demands of reality to the unyielding concepts of messianic religious faith. Above all, they shined at exploiting the deep wound of the Jewish experience - that of the sacrificial victim - and convinced many into believing that sacrifice itself justified any action or injustice.

The lawless struggle being waged by West Bank settler activists against the disengagement plan, and their dismissive attitude toward what is dear to the majority of Israelis undoubtedly makes it more difficult to respond to the evacuation itself, to the violent uprooting, and sometimes obstructs the natural tendency simply to identify with the pain of those who are being uprooted.

Perhaps this is also because the settlers have often turned themselves into a kind of monolithic, impersonal body. They do not even hesitate to use their children as accessories to their protests and provocations. Nevertheless, supporters of the withdrawal and all those who for years have struggled against the settlers would be erring if they were to deny the human and ideological complexity of their political rivals in their most difficult hour and treat them like political and religious arguments rather than human beings. That would only aggravate the serious illness of Israeli society, the overwhelming and mutual dehumanization process that is the necessary precondition for any confrontation - and, God forbid, for war.

We should all take a deep breath right now and remind ourselves that, in the final analysis, the days to come are days of mourning for all Israelis. Mourning for the personal and ideological pain of the settlers whose dreams have been shattered; mourning for the fact that Israel was drawn into such a dangerous and unrealistic adventure like the creation of Gush Katif; mourning for the fact that the state brought itself to the place where it was forced to do such a violent, warlike and brutal thing to thousands of its citizens; mourning for the abyss that is being created inside our home, and for the disaster that could befall us very soon; mourning for the situation in which we are trapped, Jew against Jew with a foreign, naked hostility that stands in complete, existential contradiction to our own interests.

Both "blue" and "orange" Israelis can mourn today for the passion, the pioneering spirit, the purposefulness that for years pulsed through Gush Katif and which will soon dissipate like smoke, and for the fabric of life there that will be shredded come tomorrow. Mourn, too, for the enormous energy that could have achieved so much had it been directed toward reality and not illusion; for the evacuees whose lives have been changed forever and who will probably always bear the scars of what will be done to them tomorrow; for the men and women and children who gave their lives for their faith - or for their naivete; and for the hundreds of soldiers who were killed defending the hopeless settlement enterprise. We should all mourn bitterly for the terrible human and material cost to the entire nation.

At the end of the day, the uprooting of the settlements and the people is an act in which all Israeli citizens have a role and responsibility, whatever their beliefs. Anyone who is part of the democratic system that made this decision is a signatory to it. Perhaps the most humanitarian and ethical way for any Israeli to participate is to expose himself to these feelings of mourning, to attempt to confront them in all their unbearable contradictions. Maybe that is the way to enable us to continue together in this painful and irreversible process, to heal some of the wounds and to save ourselves from the landslide whose boulders are perched just above our heads.」

月曜日, 7月 04, 2005

ヨーロッパの反ユダヤ伝承文化 (O)

ここしばらくガザ撤退の賛否で揺れているイスラエルですが、さて、大黒さんの前回のポストでは、文化価値の異さから起こる各国への知的移住の話でしたが、これをEUに当てはめてみるとどうなるのでしょうか。EU移民の層をピラミッドでたとえるなら、知的移住者は上部のほんの一握りであって、大半の移民つまりピラミッドの下部は、おそらく、生きるためには切っても切れない金銭、つまり経済的な問題での移住なのではないでしょうか。

現在、EU統一後のヨーロッパではそのような移民とEUの住人との問題を抱えています。そこには政治問題はもちろんのこと、経済問題、アイデンティティー問題、そして宗教問題が右往左往している状態で、しかもそれらの問題の一つ一つがバラバラなのではなく、互いにリンクしあっています。たとえば、トルコのEU加入反対の理由としては、彼らがヨーロッパには馴染まない(つまり彼らがキリスト教文化とは異なるイスラームであること)、男女不平等、そして彼らの加入によってEUに起こりうる経済的なダメージの問題、移民の流入の問題などでした。

オランダで2004年11月に起きたある事件は、ある意味でその象徴的なものでした。画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホの遠縁にあたるテオ・ファン・ゴッホ映画監督の製作した、イスラム社会を批判した映画に反発したムスリムの若者が、アムステルダムの路上で監督を殺害するという事件がおこりました。それを期に、ヨーロッパの大衆は、増え続けるムスリムと相容れることのできないイスラームの価値観に対してようやく目を覚まし、異民族そして異教徒であるムスリムとの共存、そしてトルコの加入を、キリスト教のEUでは快く受け入れるムードではなくなってしまいました。

さらにEU憲法の批准への反対理由を見ても、オランダはEUの中でも他国より多文化共存の道を説いて来たにもかかわらず、オランダとフランスの両国では国民の55~60%がEU憲法の批准を反対しています。その一番の理由はオランダのEU拠出金が高くなることでした。そして、オランダの政治が自分たちのものでなくなること、EUへの依存度が高まること、オランダのアイデンティティーがなくなることなどが挙げられました。アイデンティティーと経済問題としては、ドイツやイタリアではユーロではなく各々の通貨を復活させる動きが盛んになってきています。

では、大黒さんの前回のこの質問、

「ヨーロッパでの反ユダヤ人感情が、第二次世界大戦以降では最悪の状態と大桑さんのポストを読んで、驚いています。それはどのような経緯で強まってきているのでしょうか。」

ですが、これを説明するには一体どこからはじめたらよいのかと、思わず、うーむ、と小さな頭を抱えてしまいました。

そもそも、今また、どうしてヨーロッパでの反ユダヤの感情は起こるのか、そしてそれがどうしてこれまで以上に高まっているのか、この疑問の明確な答えというのは、実は正直なところ私にはわかりません。でも、それは私がヨーロッパの文化やアイデンティティーに馴染みのない異邦人、アジアの人間、であるからではなく、むしろヨーロッパに住む反ユダヤの運動に賛成する人々に「なぜ今また反ユダヤなのか」と突き詰めてみたところで、実際その答えや理由はかなり曖昧で根拠のはっきりしないものではないのだろうか、と思います。


では、なぜヨーロッパで昔もそして現代においても、このように反ユダヤが深く染み込んでいるのか。それを少し明らかにするには、歴史をずっと昔にさかのぼってみましょう。

キリストがこの世を去ってから2000年ほどもの間、ヨーロッパではユダヤの人々がキリストを受けいれなかったことへの憤慨、そして彼らを「キリスト殺し」と呼び、常に宗教差別の対象としてきました(実のところ現在においてもそのようにユダヤの人々を呼び、キリストを受け入れなかったことはバチカンがイスラエルを国として認めない理由ともなっています)。そしてユダヤの人々は彼らのいう「この世界の王」である神に対しては頑なまでの忠誠心を見せても、その土地の権力者や王などには易々と平伏すことはない。そうなると、やはり王やその家臣や他の民衆はおもしろくありません。そして多くの民衆や農夫などが字も読めずに学もなく生きていた時代にも、ユダヤの人々は聖書を読み、そこから様々な知識を学んでいました。中世では教会によって定められた法において、ユダヤの人々は普通の職業に就くことや土地を所持することを禁じられていました。また、キリスト教徒同士が金貸しをしてはいけないという理由から、シェイクスピアの著書「ベニスの商人」にあるように、ユダヤの人々が商人や金貸しのような職業に就くしかなかったのですが、往々にしていつの時代でも金貸しとは嫌われるものです。

ここまでサッと少し挙げただけでも、ヨーロッパでユダヤの人々はキリスト殺しと呼ばれて以来、嫌われる要素をたくさん持っていたのがわかります。ヨーロッパに根付いたキリスト教文化の生活の中で、このように彼らは常に妬み嫌われ、蔑まれ、ことあるごとに迫害する格好の的になりました。そして今からさほど遠い昔ではない60年ほど前、現代になって、ヒトラーがヨーロッパで受け継がれてきたこの反ユダヤ文化にとどめを刺し、大衆に対して「ユダヤ=それだけで嫌うもの」というホロコーストを成し遂げるための完璧な方程式を打ち出しました。そしてそれは驚くことに、決して忘れ去られた、または過ちであったと認められた過去のものではなく、現在のドイツなどでもいまだ生き続けています。

1998年に私がベルリンに住んでいた時ですら、あるドイツ人の友人の祖母は、ヒトラーが消えアウシュヴィッツが解放され、ベルリンに大きなユダヤ博物館が建てられてすらも、いまだに反ユダヤを当たり前のように唱えていました。その理由はいうまでもなく、彼らがユダヤだから、という以外の何でもなく、私の友人である孫に「くれぐれもあの角の店で買い物をしないように。あそこはユダヤだからね」といつも言うのです。彼の祖母にしてみれば、そういう観念の中に育ち、戦後半世紀が過ぎた今でも変わらず、そこにいちいち深い理由づけはいらないのでしょう。そしてドイツ人には珍しくどこかユダヤの風貌をした若い女性の友人は、ネオナチらしい数人の若い男性のグループを通りの向こうに見かけると、「ユダヤにまちがわれるから鼻を隠さなくちゃ!」と慌てて言いました。もちろん大多数のドイツの人々がこうだとは思いませんが、大衆の日常生活のレベルでこのような観念がいまだに続いているということです。

前回のポストでも書いたように、どれだけEUが多文化国のスローガンを掲げていても、ヨーロッパという土地は、やはりキリスト教とその文化が奥深く根ざした土地だということは紛れもないことでしょう。そこでこのようにヨーロッパの人々が彼らのアイデンティティーと経済と文化を保持しようとする時に、当然のことながら、排除する対象になるのは常に異邦人であり異教徒であり、これまではイスラームとのかかわりが少なかったために、いつもその矛先はその土地に共存してきたユダヤの人々となってしまいました。

そして現代では、そこには政治の絡んだマスコミの思惑も見え隠れし、2002年4月にフランスで起こったシナゴーグ襲撃事件では、メディアは1938年に起きた「クリスタルナハトの前触れ」との物々しさで伝え、大衆はそれにうまく踊らされてしまいました。

EUの統一により起こっている諸問題と、そして今回は触れませんでしたがイスラエル・パレスチナ問題に関するヨーロッパのかけ引きにおいても、ヨーロッパで2000年ほども受け継がれてきた伝承文化ともいえる大衆の反ユダヤの感情を利用し、それに加えてヨーロッパに移住したムスリムによる反ユダヤ主義が拍車をかけ、またもや歴史はくり返している。人はいい加減ここらで未来に向けて過去から学ばなければならないのですが、なかなかそうは行かないのが人というものなのかもしれません。 (大桑)

日曜日, 6月 12, 2005

アイデンティティの行きつく先とは・・・ (D)

ヨーロッパでの反ユダヤ人感情が、第二次世界大戦以降では最悪の状態と大桑さんのポストを読んで、驚いています。それはどのような経緯で強まってきているのでしょうか。またEUの基本的な考え方が、一方で多文化を標榜しながらも、実情はキリスト教文化を根強く残し、移民などに対して排他的な側面を持ち続けていることも知り、異なる文化的背景を持つ国々の共同体が、そうそう簡単にまとまるわけもなく、理想主義だけでうまくいくはずもないことを改めて思いました。

ふと思い出したのは、スウェーデンのことです。スウェーデンという国は、移民に対して非常に排他的で、外国人が居住を許可されるのは難しいという話です。スウェーデンに対して豊かで、福祉先進国で、自由な思想を持つ、(伝統に根ざした)ヨーロッパ諸国とは少し違った価値観をもつ国、という未来的イメージがあったので、この話は意外な感じがしました。話をよく聞けば、いわゆる保守的思想(植民的な?あるいは人種差別的な?)の持ち主ということではなく、国民が高い税金を払って自国の社会のシステムを整え支えているのだから、他から来る者に邪魔されたくない、仕組を壊されたくない、ということのようでした。

EUを拡大しつある今、法律や政治まで含めた超国家的な存在に発展させていこうという過程にも、どことどこを入れて(囲い込んで)どこを外すか、のような問題として、スウェーデンの排他性と同じようなことが起きているのでしょう。また各国々にとっても、自国の文化性とEUのそれとの間で、相容れないことがたくさんあって、先日のフランスとオランダの憲法草案否決という国民投票の結果に結びついたりもするのでしょう。

国としてのアイデンティティや排他性、ということでもうひとつ思い出したのは、フィンランドに40年近く住んで演奏活動をしているピアニストの館野泉さんの話です。音楽大学を卒業してすぐの20代初めに、文化的に日本や西欧諸国がもっているような伝統や歴史認識から自由な国だからと、フィンランドという国を選んで移り住んだ人です。フィンランドの作曲家シベリウスの他、現代日本の作品も弾いていますし、またブラジルの作曲家ナザレーの日本への紹介者でもあります。20才代で、しかも今から40年も前にそのような選択をした館野さんの自発性と見識には驚かされます。フィンランドという国は調べてみれば、700年以上スウェーデンなどに支配され続けて1917年にやっと独立した国、とのこと。そういう国が、何のゆかりも持たない外国人が、「歴史や伝統に惹かれて」ではなく、「歴史や伝統から自由である」という理由で移り住む国になっているのは興味深いことです。

そしてもう一つ、オーストラリアに移住したイギリス人と日本人のカップルの話。妻はイギリス出身で大平洋アジア関係の研究で知られる人文社会領域の研究者、テッサ・モーリス-スズキ。夫はばくち打ち兼作家兼主夫の森巣博。この二人は、オーストラリアは他国と比べて国家の管理や文化的押しつけの壁が低そう、ということで家族三人で移住してきたそうです。

こうして見ると、昔ながらの価値観の中に住む人々の間では、ある国の文化や伝統が留学や移住のときの理由づけになっていたりするわけですが(旅行にしてもそうでしょうが)、そうではない逆の発想、つまり「いかに文化的、歴史的押しつけを受けずにすむか」の基準で、学びの場や生活圏を選ぶという思想がありうることがわかってきます。極論すれば、基本にそのこと(押しつけがないこと)がなければ、どんな「立派な」文化も、どんな「誇りある」歴史も、意味が薄れるということかもしれません。

大桑さんも書いているように、アイデンティティ(国家にしろ、個人にしろ)を語る難しさは一筋縄のことではないと思います。自国のアイデンティティを強く語れば、ナショナリズムとの境界を問われるでしょうし、個人のアイデンティティにしても、その基本要素となるものは何なのか、国籍なのか、言語なのか、肉体的特徴なのか、性格や能力なのかを仔細に詰めていっても、その先には何もない可能性もあります。最後に行きつくのは、DNA鑑定かもしれません。

自分のアイデンティティを探して納得しようとするよりも、個人とアイデンティティの関係性について考えていく方が、実用的な気はします。自分という、他と区別される個があって、それが他者やコミュニティと、さらにはコミュニティの外の世界と、どのような結びつきをしていくことが望ましいのか、ということを考えていくことです。

ユダヤという独自性も、キリスト教という独自性も、イスラムという独自性も、自己の独自性が、他者の独自性とどのように関係を結んでいくべきかの思想が完結した時点で、真のアイデンティティを獲得できるのではないか、とこれを書きながら思いました。
(大黒)

木曜日, 6月 09, 2005

EU村の多文化共存とアイデンティティー (O)

まずは私から謝らなければならないことがあります。一月、そう、今年の初めに大黒さんが「国という垣根の低くなった後の世界では・・・」を書かれてから、気がつけばなんともう6月。5ヶ月もの月日が経ってしまいました。私事(仕事?)でごたごたしておりまして、今まで頭をクリアにできずこんなにもの時間が経ってしまったことをお詫びいたします。歳を重ねるにつれて時間がどんどんと早く加速されるよう過ぎていくように思います。本当に申し訳ありませんでした。


さて、前回の大黒さんがおっしゃる二重的アイデンティティーと共同体についてですが、確かに国と国という垣根は昔と比べると非常に低くなっているように思います。私が子供のころでは考えられないほど毎日たくさんの飛行機が世界各国の空を飛び、アジアへ南アフリカへノルウェーへと人々は地球上をあっちへこっちへと移動しています。ちょうど大黒さんが前回の記事を投稿されてからすぐに、私自身も中東からヨーロッパを経由してアジアの日本まで30時間以上の旅をしました。毎回何年ぶりかで自分の国に一歩足を踏み入れる途端に、まちがいなく日本人であるのにもかかわらずクラクラと目眩がするくらいの文化のギャップにぶつかります。思いっきり、カルチャーショックです。まるで外国の人が映画に見る「Japan」というどこか滑稽なものを見ているような、そんな感覚に襲われて、長い間他の国で暮らしている自分はいったい何者になってしまったのか、日本人としてのアイデンティティーが薄れてしまったのかと不安にさえなります。

アイデンティティー。そこで、はたと、自分とは一体なんなのだろう、そしてアイデンティティーってなんなのだろう、と思うのです。ぼんやりとはわかるのですが、それは故郷というもの(それが物理的なものであっても精神的なものであっても)から来るものなのか、しかしそれすらもうつろいで行くようなものなのか、またはその他にも色々なエレメントを含んでいるのか。アイデンティティーという言葉はよく使われますが、なかなか手ごわい相手のようにも思います。おっと、少し話がずれてきました。

話を元に戻しますが、昔のように村から一度も出たことのないような時代、おなじ土地のおなじ言葉のおなじ文化や価値観を共用しあう共同体(コミュニティー)に生きていたのであったなら、そこに他人とはまったく異なる確固たる自分を見出す必要はなかったかもしれませんし、反対にそうすることは共同体に生きるには面倒なものですらあったのではないでしょうか。しかしそういった社会体系が変わりつつある現代に生きる私たちは、大黒さんもおっしゃるように、ひょっとすると各自のアイデンティティーを問い直す必要に否応でも迫られているのかもしれません。こう考えてみると、他との異なりによって見出す「自分とはこういうものだ」というアイデンティティーは、異なる目の色の隣人同士、または生まれ育った以外の他の土地で暮らし、国と国との垣根が低くなればなるほどさらに重要になってくるのではないでしょうか。

EUにおいても、国境を取り払うというアイデアはすばらしいと思いますし、EU村の共同体の一員としてはこれまでの国籍や民族などはあまり意味を持たないものになるとも言えるかもしれません。しかし、もともと異なる文化を持つヨーロッパの国の人々が、EUという大きなひとつの新しい垣根の中に吸収されて生きていく時に、互いの異なりを認め合い理解して共存してゆくのは大変な時間も努力も必要なわけです。それよりも、異なる文化の隣人と同化するのではなく、反対に各自の文化とアイデンティティー、それぞれのテリトリーを確保したいのではないかと思うのです。

ヨーロッパのユダヤのアイデンティティーという面から見てみれば、歴史的に見てもドイツなどのユダヤの人たちの間でも、他の人々とのアイデンティティーを区別するためにユダヤの言葉であるイディッシュ語などが生まれましたし、例えばオーストリアに育ったフロイトは、そこに生きながらもヨーロッパの文化や思考とは異なるユダヤとしてのアイデンティティーをしっかりと自覚していたようです。そして現在、ヨーロッパでは、その政府はMulti-culture(多文化)を説きながらも、EUに移住する人たちはキリスト教に則ったヨーロッパ文化を認めることを条件とされ、オランダとデンマークではオランダとデンマークの文化を受け入れない人には永住権を与えないという新しい法律を発表しました。また、同性結婚を公で認めたオランダではそれに反対する人々による同性愛者への暴力が恐れられ、ドイツでは若者の間で再びネオナチのムーブメントが怪しくうごめき、外国人やユダヤの人々を襲い、ロシア、セルビア、フランス、英国などでの反ユダヤの感情は第二次大戦以後では最悪の事態となりつつあります。

ここ数年のイスラエルでは、ユダヤに対して圧力のかかっているフランスからの移民が増大する一方です。確かに、以前のシオニズム概念はもう過去の意識でしかないとも言えますが、やはりそれでもEUの統一が行われた今日において、それによって起こりつつある新しい危機をユダヤの人々は感じています。この土地でユダヤと他者とがどう共存していくかももちろん別の大きな問題点ですが、やはりヨーロッパのように他者を恐れる必要が少ないイスラエルという土地への帰属を願うのではないでしょうか。これからもユダヤの人々のイスラエルへの帰還への思いは続いていくのではないでしょうか。 さて、大黒さん、どうでしょうか。 (大桑)

日曜日, 1月 23, 2005

国という垣根が低くなった後の世界では・・・(D)

自分のルーツについて考えること(そしてそれに沿って生きること)と、ルーツの違う人々と共存して生きていくこと、この二つには矛盾や相容れないことがたくさんあるのでしょうか。

世界標準で言うところの年も改まったことでもあるので、こんなところから始めてみたいと思います。

今の時代に生きている人間はみんな少なからず、二重的なアイデンティティのもとに身を置いているのではないかと思います。たとえばヨーロッパの人間は、EU成立後、それぞれの属する国家の市民である意識と同時に、ヨーロッパ市民であるという気持ちが強まっているといいます。とくに若い層では、ヨーロッパ人であるという意識が自国への帰属意識より優先されているという話しも聞きました。

あるいは世界各地の移民の人々。彼らは自分の出身国というルーツをもちつつ、言語や文化の違う国外で生活を営む二重的なアイデンティティをもつ人々です。人の移動は、20世紀終盤になって個人レベルにおいても非常に活発になり、昔は旅行するのも難しかったような国も、自分の意志で生活圏として選びとれるようにもだんだんなってきています。また、仕事や学業などを目的に国外の何ヵ国かを生活圏として選び、そこに定住するのではなく、状況や目的によって移動していく人々も珍しくありません。

そして自国で暮らす人にとっても、自分の国に多くの外国人が訪れたり暮らしたりすることで、社会の構成要員が変わり、国内の状態や境界が少しずつ変質していくのを経験しています。自分はじっと同じ場所で自分のアイデンティティを守って生きているつもりでも、その地盤自体が変化しているのです。

たとえ自国にいて母語で暮らしていたとしても、自分のアイデンティティを問い直さなければならない時代、それが今という時代なのかもしれません。

こういう変化の多くの部分が、経済の論理によるものだったとしても、(そのことも含めて、良くも悪くも)総体としての人間という生き物の意志の方向性のようなものを感じます。個人レベルでも、国家レベルでも、人間は豊かな経済の方にむかって動き、移動していくという法則があるということなのでしょう。

最近読んだ新聞のシリーズ記事に、旧東欧圏でユダヤ人街が復活しているというものがありました。ユダヤ人の生き方の選択肢として、「イスラエルに帰る」こと以外に、イスラエルの外で共同体を復活させそこでユダヤ人として暮らすこともありえるとの考えが出てきているということのようです。東ベルリン、ブタペスト、プラハ、クラクフ(ポーランド)、ビリニュス(リトアニア)などで戦前のユダヤ人街が復活し始めているのだそうです。

それもひとつには経済が関係していて、EUが東欧圏にまでひろがってきていて、ユダヤ人街が復活している都市も豊かさの恩恵を受けられる見込みがあるからかもしれません。長らく問題を抱え、解決のめどがたたないイスラエルに帰るより、より現実的な幸せに近い場所で生きることを考えても不思議はありません。

またそれとは別に、EUという超国家的共同体のモデルが育ちつつあるヨーロッパ諸国では、国、言語、民族などの違いが、よそ者と自分とを隔てるものではなくなりつつあり、その結果、差別や偏見も徐々に無化されつつあるのかもしれない、という想像もできます。

そういう経済をベースに置いた共同体の中では、ユダヤ人にかぎらず、何国人、何民族、ということがそれほど大きな意味を持たなくなるのは、ありえることだと思えます。そうであれば、ユダヤ人にとっても、そこがイスラエルでなくとも、ユダヤ人として生きるのに満足の得られる地域社会が存在するのなら、他のローカルグループ(他の宗教、他の言語など)ともども、共存して幸せを築いていく道があると考えるのは自然なことかもしれません。

世界的な民族移動の傾向は今後も強まるでしょうし、民族間の出生率や労働人口などの違いからも、民族分布が大きく塗り替えられていく国があらわれることも想像できます。国という枠組とその構成要員の関係が、民族や言語というものではくくりきれなくなったとき、国家という思想も後退していくのでしょうか。そして国という思想が世界的な傾向として今後後退していくとしたら、ユダヤ人たちのシオニズム運動にも変化があらわれてくるのか、それとも変わることなく約束の地、故郷イスラエルに帰ることを願い、親から子、子から孫へとその思想は受け継がれ続けていくのでしょうか。
(大黒)

木曜日, 11月 11, 2004

イランに留学している清水さんからの投稿。(D)

ずいぶんとポストの間があいてしまいました。ひとはやはり、自分の周囲半径何メートルのことに追われだすと、努力しないと想像の及ばない遠い国や人々の間で起きていることに対して、気がまわらない状態におちいってしまうということなのでしょうか。日々のいくらやっても終わらない仕事の数々、私的な心配ごと、あるいは逆にお祭り騒ぎの興奮などが、今日明日に直接影響を及ぼすことのない遠くの出来事への思考を遠ざけます。

大桑さんの前回のポストに、今年の夏、イスラエルに投獄されているパレスチナ人たちによるハンガー・ストライキがあったけれど、世界はアテネ・オリンピックに夢中で、なんの注目も集めなかったとありました。ひとりの人間が抱えこめる問題の種類と総量の限度、日常でつながっていない事柄への興味の持続と切実感。一筋縄ではいかないことだと思います。もし自分が、自分の暮らす社会にたいして関心(や不満)を持てなくなったら、良い悪いの判断を停止したら、その時点で、イスラエルやパレスチナ、あるいはイラクやチェチェンで起こっていることに対しての関心も跡形もなく消えることでしょう。世界で起きていることへの反応や関心は、その人が日常をどのように生きているかの反映でもあると思います。

さて、前回の大桑さんのポストからは、パレスチナの人々はグロスマンが本を書いた時点(最後の部分の2年前)から、ずいぶん変わったのではないか、という意見が書かれていました。それが状況を改善できない自分たちの政府への不満から起きていることだったとしても、少なくとも生活レベルでは、イスラエルへの対立感情が弱まっているのではないか、という見方だったと思います。

今日、アラファト氏が亡くなったという正式のニュースが流れました。パレスチナの人々は自分たちの行く末を心配しているのか、それともホッとしているのでしょうか。アラファト後のパレスチナは和平の方向に動いていきやすい状態になっていくのでしょうか。

このページに設けた専用メールアドレスに、イランに留学生として住んでいる清水さんから投稿をいただきました。いただいたのは9月中旬のことで、掲載が大変遅れましたが、今回やっとご紹介することができます。

清水さんのメールを読んで印象的だったのは、イスラムは基本的には旅の宗教であり、ムスリムたちは土地への執着が少ない人々ではないか、という視点でした。(土地への執着については、わたしと大桑さんの間でも、最初のころに随分議論された問題でした。)そういうムスリムたちが、なぜパレスチナにおいては、民族国家の設立にこだわるのか、その原因はどこからくるものなのか、そのように考えておられるようでした。

清水さんは、メールの中で、イランという同じムスリムの世界に住んでいるとはいえ、イランの人々はアラブの人々とは異なるメンタリティーを持っていること、パレスチナで起きている戦闘状態はテレビで見ているけれど、やはりイランとイスラエル/パレスチナでは、どこか遠い出来事として受けとめていること、などの注釈を加えています。

以下に清水さんの了承を得て、投稿のテキストを転載しますので、お読みください。(大黒)

 ずっと以前から気にかかり、しかし目の前にある忙しさに取り紛れ、調べることをしていなかった問題に、大桑さんのブログに接したことでもう一度目を向けることができました。そして、「グロスマンを読みながら」を興味深く読ませていただきました。

なぜ、アラブ人がパレスチナに執着しなくてはいけないのか、平和的な共存は可能なのかという問題は、中東に関わるようになった大学生の頃からずっと頭の片隅にこびりついていました。

私は現在イランに留学生として住み、暮らしています。

以前から不思議に思っていたこと、そして私の個人的な印象と疑問についてお話しさせてください。

イスラームがジハード=神の道において戦うことがムスリムの義務であるとしているために、ムスリムが住み着いた土地をイスラーム化する傾向にあったことはその通りだと思います。

私はイランで、13世紀にイスラーム世界を広く旅して回った一人の神秘主義者が残した作品を元に、イラン人の倫理観について分析しています。

この研究を通して、また実際にイランという国に住んでみて思うのは、イスラームは基本的に旅の宗教なのではないかということです。

古典文献に出てくるムスリム(アラブ非アラブを問わず)たちも、また現代のイランに住むムスリムたちも、実に気軽に他の土地へ移住し、あるいは長期の旅に出て行きます。こうした文献と実際のイラン人を見ていると、土地に対する執着はムスリムにとって本来、非常に薄いものなのではないかと思われてなりません。もちろんこれは、都市部の住人にとっての話で、土地に縛られる農民はまた別なものかもしれませんが。

彼らの書くものから、あるいは今を生きるイラン人からは、自分の故郷は故郷として愛しているが、そこは何が何でも帰らなくてはならない土地ではない。帰りたくなったら帰るし、それができなければそれはそれで仕方がない。そういう考え方が随所に見られるのです。滞在した先でもムスリムであり続ければ良いだけ。

十字軍の当時、エルサレムをその手にしていたアラブ人たちが、なぜキリスト教徒が攻めてくるのか理解できずにいたことも、文献の中からは読み取れます。

彼らは書いています。「巡礼に来たいなら来ればいいじゃないか。どうしてエルサレムがキリスト教徒だけのものでなければないのだ?どうしてムスリムを閉め出さなければならないのだ?」

マジョリティーとしての傲慢さと、イスラームがそう規定しているということから、同じ町に住むキリスト教徒やユダヤ教徒に対してさほど親切ではなかったであろうことは、文献からも、そして実際にイスラーム世界に住んでいて容易に想像できます。しかし、基本的に、彼らが一緒に住むことは、あるいは国境を接して住むことはイスラームの教義の上からは何の障害もないはずです。

こうした文献上、イスラーム教義の上からの理解と、本来ムスリムが持っている性質を考えると、今、イスラエルあるいはパレスチナの地で起こっていることに理解しがたい部分を感じるのです。

ユダヤ人とユダヤ教徒の歴史や思想については初歩的なことしか知りませんので、ここでは触れませんが、イスラエルが出してきた妥協案を振り払ってまで、なぜアラブ人がそこまで一片でも多くの土地をイスラエルからせしめなくてはならないのか、私には理解しがたいのです。

現在難民となっている人々の多くは、出稼ぎ労働者としてやってきた人々であることはご指摘の通りです。農民ではない彼らには、経済的理由を除けば、土地に執着する理由はないように感じるのです。彼らは本来、そこに住む権利と働く権利、信仰の自由を保障されれば、統治者がどの民族でありどのような宗教を持っているかはそれほど重視しないはずでもあります。もちろんムスリムであれば最も良いのですが。

イスラームが本来持っていた自由な気風をゆがめてしまったナショナリズム、あるいは原理主義に名を借りたイスラーム至上主義を恨めしく思わずにはいられません。

それほど豊富ではない体験と文献からの印象記のようになってしまい申し訳ありません。

しかし、なぜ、彼らが「民族国家」の設立にこだわらなければならないのか、その概念を植え付けたのがいったい何ものなのか世界全体が考えてみなければならない問題であるように思うのです。これはパレスチナを超えて、世界各地で起こっている紛争を考えてみることでもあると思います。

お聞きしてみたいことは次の点です。

現在のイスラエルでは、大きく右派と左派の間で対アラブ政策に対する見解が大きく違っているということですが、この右派と左派の間での歩み寄りは可能なのでしょうか?

首相暗殺という手段に出てしまうくらい両派の溝は深いように見えるのですが、もし、万が一にでもアラブ側が妥協をしてきた場合、イスラエル国内の意見をまとめることはできるのでしょうか?

現在の状況ではアラブ側が妥協してくるとは思えないのですが、是非この点をお聞きしたいのです。

ここからは全く、私と友人の個人的な話です。

私には宗教的に、非常にまじめな友人が何人もいます。彼らに聞いてみたことがあります。「現在イスラエルで起こっていることをどう思うか」と。

彼らのほとんどは、ばかばかしいの一言に尽きると言っています。

彼らはイラン人ですので、アラブのやっていることに対して批判的ということもありますし、アラブがエルサレムを手に入れたところで、自分たちが自由に巡礼できるようになると思っていません。(メッカへの巡礼を見れば明らかです)

彼らの一人が私に言いました。

「預言者は、聖戦に参加するには両親の許可が必要だと言っているのよ。まず父親が賛成しなくてはいけない。父親が亡くなっているのなら母親が賛成しなくてはいけない。こう言っているわ」

「でも、周囲の状況で賛成せざるを得ないんじゃないの?」

「それは確かだと思う。でも、誰かがそれを教えなきゃいけないんじゃないかしら。今、彼らに必要なのは、武器じゃなくて教育だと思うのよ。イラン政府はパレスチナに武器やお金を援助したと宣伝しているけど、そんなことでこの状態が終わるわけがないってことは私たち自身が体験しているわ」

「イラクとの戦争のこと?」

「そうよ、あの戦争末期、子供たちが民兵として戦争に行って、イラクの戦車に自爆攻撃を仕掛けたりしたわ。でも、そんなことで戦争なんて終わらなかった。ホメイニー師が決断をすることで終えることができたのよ(※)。彼は国民がうんざりしていることや、国自体がもう限界に来ていることを分かってそうしたんだと思うの。アラファトでも誰でも、ホメイニー師を見習うべきだわ」

理想論にすぎず、優等生的な意見かもしれません。しかし、誰かがパレスチナの指導者たちに「苦杯を飲む」決断をするよう勧めるべきだという彼女の言葉に、私は納得しました。

(※)戦争末期、現在のイラク国内に占領地を持ち、多少なりとも有利な条件を持っていたにもかかわらず、国際社会の調停を受け入れ、占領地を全て手放し、戦争を終えることに同意した。その際に「苦杯を飲む決断をした」と述べている。

つたなく、長い文章になってしまい申し訳ありません。

しかし、毎日のように、パレスチナの殺し合いの映像を見ていると、いらいらと心の片隅が落ち着かないのです。

戦闘が終わったところでそれは終わりではなく、始まりにすぎないのだと思います。それでも、始まりに至るため、イスラームにおける数少ない「妥協」が行われるよう願ってやみません。

イスラーム倫理を研究する者として、イスラーム原理主義者たちの唱えるイスラームが、預言者の唱えたイスラームだとは思えないのです。

お二人の対話がこれからどのように発展するのか、楽しみにしております。

清水直美

金曜日, 10月 08, 2004

大衆の思いと混乱、そして光 (O)

グロスマンはこの本の終わりに、国際社会の介入も国際的な軍隊の派遣をも含んだ援助によって、イスラエルとパレスチナの和平を実現とすることもありえると書いています。しかし、イスラエルの先日のテレビでは、イスラエル軍のヘリコプターから撮影された国連の救急車へとミサイルのようなものがパレスチナ人によって運ばれている映像が繰り返し流れ、こちらではかなり大々的に取り上げていました。イスラエル軍の専門家はこれはミサイルだと認識しましたが、当然国連はそんな事はあり得ないと反論し、一個人の私には実際にこれがミサイルなのかどうなのかは解りかねてしまいます。でも、ハマスなどのイスラエルへの攻撃を国連が補助しているのではないかとの疑惑をイスラエルが訴えたことは過去にも度々あり、それに加えてこれまで国連はイラク、イラン、スーダン、北朝鮮などの大量殺戮のあった他のどの国よりもイスラエルの行為に対して批判的で、したがってイスラエルの多く人々はこの土地の問題への国連の介入を望んではいません。そして他の仲介役になれる国々、EUやロシアなどはこの土地の解決に関与する意味が見当たらず、米国に反発するためにアラブ諸国に対してほほ笑みかけます。

イスラエルが現在考えなくてはならないのは、ガザ地区からのイスラエルの町に向けられたミサイル攻撃に対してであり、イスラエル側にとってはこの国連の救急車の一件は非常に重要な事だったのでしょう。シャロン首相の一方的なガザ地区からの撤退の決断の結果、イスラエルとパレスチナ問題の焦点をガザ地区に当てる事となって、パレスチナ側はシャロン首相のガザ地区撤退の決断を受け入れて交渉を始めることよりも、さらにイスラエルを攻撃する道を選んだように思います。彼らはオスロの後でも同じようにバスに自爆犯を送り込み、またキャンプ・ディビッドの後にはインティファーダを起こしました。パレスチナ側はイスラエルの行為には、すべて暴力によって答えるという道をとってきたこと、そして正直言ってそれについてイスラエル側はとても混乱しているようにさえ感じられます。そしてイスラエルがその存在を保つためにはパレスチナの町や村に兵士を置き、チェックポイントを置いて道を遮断し、しかしそのためにパレスチナの大衆の生活を苦しめる事になりました。

イスラエルの大衆はこの状態をどう思っているのか、私自身そのことについて常々疑問に思ってきましたが、先週のエルサレム・ポスト紙(イスラエルの英字日刊紙)である記事を見つけました。エルサレム・ポスト紙のトップ・ジャーナリストであるカロリン・グリック氏は、西岸地区のサマリアにいるイスラエル軍の指揮官(彼女の近しい友)が個人的に行なったあるミロイムの兵士*¹とのインタヴューについて語っていたのですが、以下がその兵士の発言です。(エルサレム・ポスト紙の原文を日本語訳しました。)

「私は西岸・ガザ地区はパレスチナ側に渡すべきだと主張するために、自分のユニットがガザ地区に設置されていた過去の3年間は兵役を拒否しましたが、その後パレスチナ側はイスラエル側がどういう行為をとろうともイスラエル人を殺すのだということに気がついたのです。このことに気がついてからは何をどう考えていいのか悩み、妻はイスラエルから他の土地へ移住したいと嘆きましたが、私は今は戦う時だと決断したのです。私はイスラエルはパレスチナに国家を与えるべきだと思う反面、キャンプ・デイビッドでそれを一度提案したにもかかわらず、受け入れるどころかイスラエルを攻撃に掛かった事実から、パレスチナ側はそれを本心からは望んでいないと思っています。でも、イスラエル軍が西岸・ガザ地区に駐屯する事が、彼らの正気を失わせるのかもしれないとも。それでも彼らは私たちが何をしようとも関係なく、私たちを殺すでしょう。だからこちらも戦い続けなければならないのです。彼らは決して私たちをほおっておきはしないでしょう。私は混乱しています。ここへ戦いに来ました。それが私のしなければならない事だから。でも実際にはそれが正しいかどうかは私にはわからないのです。」

ケレン・イェダヤというイスラエルの映画監督はカンヌで賞を受賞した際のスピーチで、「イスラエルは300万人のパレスチナ難民を奴隷のように留めている責任があり、とても恥ずかしく思う」と発言しました。そして一般の左派の人々は入植地に住む入植者を見るとパレスチナの子供たちを思い浮かべ、彼らが入植者を毛嫌いすることへと導きます。またしても、混乱、と言うべきでしょうか。この映画監督や左派の人々は、彼らもまたこのイスラエル・パレスチナ問題の一部を担っていると考えがちです。ケレン・イェダヤが現在安心して自由にこの土地で映画を製作できるのは、彼女が言うパレスチナの奴隷をイスラエルの兵士がそこに留める事によってではないのか、左派の人は兎にも角にも入植者を非難する事で、彼らの住む家がもしかするとこの土地にかつて住んでいたアラブ人の家だと言う事実に目を伏せているのかもしれない。パレスチナ難民の問題は最初の入植地が建てられる20年前に起こっているにも関わらずに。

また、入植者には二つの考え方があります。一方のグループは宗教シオニストのグループで、彼らはイスラエル政府や軍が立ち退きを申し立てても、神に守られていると言う理由を持ち出して、入植地から去ることはないでしょう。そのもう一方のグループはもう少し柔軟な考え方で、イスラエル政府が立ち退きに当たっての補助金を支払うのを、そしてどこか新しい場所で再出発する事を今か今かと待ち望んでいます。

グロスマンは2年前にこの本の最後の部分を書いていますが、今その部分を読み返してみると、それが2年前ではなくてまるで2日前に書かれたような感覚に襲われます。つまり、あれから何も変わってはいないのと言う事なのでしょうか。グロスマンはあの当時、希望を見出せませんでしたが、でも私は希望の光はトンネルの向こうに見えていると思うのです。それがほんのかすかな光であったとしても。パレスチナの大衆はあれから変化してきたように感じます。4年も続く争いで、彼らは疲れています。そしてごくごく普通の生活を取り戻したいと切望しています。今年の夏にイスラエルに投獄されているパレスチナ人は、世界から注目を集めるためにハンガー・ストライキを起こしたのですが、これまたタイミング悪く、世界はアテネ・オリンピックに夢中で、パレスチナの人々はストライキにはほとんど関心を示さずに、あるアラブの国のテレビ局が行ったアラブ版スター誕生に出演したパレスチナ青年が優勝するかもしれないと、スター誕生物語に夢中になっていました。そこで、パレスチナ政府とハンガー・ストライキを起こした人たちの家族は、このストライキに人々の関心を集めようと躍起になりましたが、大衆はもうそんな事には無関心で、そのテレビ番組のために西岸地区の町々には巨大なスクリーンが設置され、人々はその前に集まりました。さらに2週間前に西岸地区では、パレスチナ政府によってインティファーダ4周年記念を祝う集会が計画され、主催者は何万人という大勢の人が集まるだろうと予想していましたが、実際に集まったのはたったの100人足らずでした。パレスチナの大衆が政府の汚職や、政府が彼らの生活をいつまでたっても向上させない状況にうんざりしているのことの表れではないでしょうか。それでも肝心のパレスチナ政府はこの事実を認めたくはないようでした。

そして東エルサレムに住むイスラエル国籍のアラブ人たちは壁の向こうのパレスチナ側には行きたくはないのでしょう。彼らはイスラエル国籍のアラブ人のジャーナリストに、どうしたらユダヤ人の住む地区に家を買うことができるのかと尋ね、ユダヤ人の地区に住居を購入し、そのジャーナリストに「住居を売ってくれたユダヤの人や近所の人たちは、アラブ人が近所に住む事についてなんら否定的な反応はなかった」と伝えました。そしてまだ壁の建設の始まっていない村々からは、数千というアラブの人々がエルサレム周辺に引っ越しをして来ています。

イスラエルのベストセラー作家で平和運動家でもあるアモス・オズは数週間前に、「この過去1、2年でイスラエルとパレスチナの大衆の間では、お互いの国家を持つことについて受け入れる姿勢が見えてきている。まだこのことがお互いの将来を確実に保障したいう訳ではないにしろ、非常に大切な変化である。そうやって僕たちは毎日一歩一歩進んで行くのだ。」と語っています。 (大桑)


*¹:一般成人の男性は、約一年に一度、ミロイムと呼ばれる3週間ほど兵役につく制度があります。この兵士は過去3年間のミロイムを拒否したと言う事です。

木曜日, 9月 16, 2004

絶望までたどりつき。これも理解の一歩か。(D)

2回にわたる大桑さんの長文のテキストをポストされた時点で読み、その後プリントして読み、これを書く前にまた読み直し、としてみて、わたしの中に澱のように溜まっていき、そこでうごめいていること、そのことについて今回は書いてみようと思います。それは実りの少ないがっかりさせられる事実です。

結局のところ、少なくとも政治(家)レベルで言うと、パレスチナにしろ、イスラエルにしろ、和平など今のところどちらも望んでいないのだ、ということがよくわかりました。またこの土地を取り囲む重要なキーを握る(あるいは当事者としての)アラブ諸国にしても、和平とは水と油の思惑があるのだな、ということが。

誰にも望まれず、誰にも利益をもたらさない「和平」という思想、考え方。

あまりに悲観的、あまりに絶望に満ちた結論でしょうか。

いえ、これをまだ結論とは呼びたくありません。ここに、この絶望に今、わたしがたどり着いたこと、それはもしかしたら、大桑さんが立ち続けてきた地平やそこから見ている風景に、少しだけ近づいたということなのかもしれない、そんな風に思ってみたりします。

実際、この対話を始める前のわたしはと言えば、お決まりのように「パレスチナ、イスラエル双方の歩み寄りによって、和平は実現するはず。なのに両方とも歩み寄ろうとせず、それぞれより多い利益を手にするために、妥協をしようとしない」という風に、思ってきたのです。

今回、大桑さんの長い長い詳細にわたる(大桑さんによれば、ごくかいつまんだ粗筋となるのですが)解説を読んで感じたのは、それとは少し違う想いでした。上に書いたことがまったく間違ったこととは思いませんが、このような書き方、思い方ではあまりに単純すぎる、理想論すぎる、ということが少しではありますがわかってきたということです。そうわたしを思わせた記述の中から、パレスチナ難民に関するものを上げてみたいと思います。

●パレスチナ難民の創出に関するアラブ諸国の責任について:
わたしはこれまで、パレスチナ難民とは、主としてイスラエル軍の侵攻、入植によって生み出された事態と思っていた。しかし以下のような事実を知ると、この問題はアラブ諸国の思惑なしには起こりえなかったことがわかる。

1)
1948年のイスラエル建国直後(正確には宣言のその日)に、アラブ諸国6ヵ国がイスラエルに攻め入り第一次中東戦争がはじまる。当時のイスラエルのアラブ人の多くが、この軍隊に参加。その後この戦争の間、70万人のアラブ人が国外に逃れ出る。
2)
400万人に達したパレスチナ難民は、アラブ諸国が難民創出プランを実行し、イスラエル国家の存続を揺るがすために、国連の関与する難民救済機関への援助を拒否することで生まれた。

アラブ諸国にとって、パレスチナ難民という存在は、なくしてはならない、自己の正当性をプロパガンダしていくためにも、必要な存在であった(ある)という想像ができる。難民によって利益を得るものがいる限り、その存在をなくすことは難しいだろう。

●パレスチナ難民の創出に関するイスラエルの責任について:
イスラエルの右派政治家たちは、もし300万人のパレスチナ難民を受け入れるなら、この国がもはやユダヤ人国家として存在し得ないことを恐れている。

ユダヤ人のみによる純粋国家を強く望む、という排他主義があることは否定できない。この考え方は、過去のもの、つまり今の世界にとってはもう実現不可能な思想ではないかと思えるのに。ユダヤ人だけでなく、どこの国にとっても。ただ心情としてはわからなくはない。今の日本人だって、中国から5000万人くらいの移住がここ何年間の間にあって、人口の半分近くが中国人となった場合、平安な気持ちではいられないだろうし、多分、中国人を第2級市民として扱うだろう。イスラエルのパレスチナ人への扱いのように。

以上がパレスチナ難民の問題について、今回理解したことです。
もうひとつ、強く感じたことのひとつに、メディアの問題がありました。
メディアを通じて発信されるさまざまなニュース、そのソース、そこにもさまざまな思惑にまみれた情報や使いわけされた声明があり、わたしたちはテレビや新聞のニュースさえ、まともに受け取っていては目をくらまされるという現実があるのだ、ということに改めて、強く、気づかされました。

たとえば、パレスチナの政治家たちのメディア戦略として、英語による欧米への訴えかけとしては「和平」を、アラブ語によるアラブ諸国への呼びかけとしては「イスラエル破滅」を、という使い分けを実行している、というような例です。こういうことはイスラエル側の報道にも多分にあることでしょう。

独自の情報網などもたない(言語に長けていれば、インターネットを通じて、個別に情報に当たりそれを総合的に見て判断し、その中にあるウソを見抜き、とできるかもしれませんが)、普通の人間にとっては、もう信じるに足るものを見つけることや信じるに足るか判断すること、そのこと自体が難しく、絶望してテレビや新聞から目をそらすしかないのかもしれません。それがいやだったら、第一歩として、自分で少しでも各情報に当たれるよう、アラビア語からヘブライ語、ペルシア語など中東の各言語、さらにヨーロッパの諸言語も含めて、できるだけ多くの言葉を身につけて、翻訳を通さなくとも情報にアクセスできるよう武装(!)することを考えた方がいいのかもしれません。

1948年のイスラエル建国宣言にはじまったと思われる、現在のこの土地の紛争には、世界の国々が「世界」という認識を俯瞰としてはっきりと持ち、国際関係の中における自国の位置づけや優位性を一大重大事として、国家主義を強力に押し進めてきたことと無縁ではないだろうという気がしています。イスラム教徒のもともとの考え方とは別に、現在のアラブ諸国のイスラム国家主義のもとにおいては、排他主義が横行しているように。あるいは、イスラエル国家(とくに右派政治家)にとって、何百万というパレスチナ難民をかかえ込まなければならない自国は、ユダヤ人国家として態(体)をなさないし、イスラエルとは言えない、というようにこれまた強力な排他思想のように。双方がこのように思っている間は、二つの国家を新たに創出することさえ、難しいことのように思えてしまうのです。

ここまで来て、もう一度、グロスマンの本にもどってみようかと今思っています。最初に読んだときと、どう印象が変わるのか。最初に読んだときに感じたグロスマンの苦悩が、今、どう感じられるのか。そんなことを検証しつつ。(大黒)

水曜日, 9月 01, 2004

それぞれの思惑 (O )

私がはじめてイスラエルの地に足を踏み入れてから、すでに15年近い時間が過ぎました。ここ6年ほどの在イスラエルで、しかもここ数年のイスラエル国内での争いを身をもって感じる生活の中で、これまでに書いてきたこと、または個人的には、アラブまたはイスラエル側と、どちらか一方の政治的な立場はとってきていません。ここまでここで、大黒さんと一緒に書いてきたことの意味は、アラブ・イスラエルのどちらが良い悪い、また非があるかないか、卵が先か鶏が先かというような水掛け論的なものではなく、この問題の解決の方向付けには何を正しく理解することが必要か、そしていかにしてそられを解決できるのかに焦点を当てています。

この過去の120~130年間、この土地では、統治者の交代や多くの争いが起こりました。もしこれらの起こったこと全てを書こうと思えば、非常にたくさんの時間と紙が必要になります。ですから、ここでは読み手に解りやすいようにそのなかでも最も重要な事に絞っていく事にします。

1948年の独立戦争によってアラブ・イスラエルの難民の問題が初めて発生しまし、そして1967年の6日間戦争では入植地(Yesha)の問題が起こりました。 ダニエルさんが先日の手紙に書かれたYeshaというこのヘブライ語の言葉は、Judea(ユダ)とSamaria(サマリア)を省略したもので、この6日間戦争の結果、イスラエル政府は東エルサレム、イェシャ、ガザ地区、北部のゴラン高原、そしてエジプトのシナイ半島を攻め落とし、それぞれを違った目的の為にコントロールしたのですが、その中でも東エルサレムはイスラエルの一部となり、そこに住むアラブの人々は個人の自由選択によって、イスラエル国籍を取得できその国民としてのすべての権利を得ることができました。

イェシャとシナイ半島ではイスラエル政府は入植地を建設をしはじめ、ゴラン高原は軍事的にとても重要な場所としてイスラエル国防軍(IDF)の基地などが設置されました。今日の欧米の政治家や多くの人々は、イェシャの入植地が中東和平の鍵を握っていると思っているようですが、果たして本当にそうなのでしょうか。入植地は左派によって建設がはじめられ、それを右派が引き継ぎ、そして右左両派のイスラエル政府は、このイェシャやガザ地区がイスラエルの一部になることはあり得ないと解っていました。それはつまり、イェシャやガザ地区をイスラエルの一部にすることによって、約300万人のパレスチナ難民を受け入れなければならない訳で、現在、西ヨルダンから地中海にかけての土地には、ほぼ同じ数のパレスチナとユダヤの人々が住み、もし仮に西岸地区(ウェスト・バンク)がイスラエルの一部になった場合、イスラエルの右派の政治家たちは、この国がユダヤ国家として存在しい得ないことを、非常に恐れているからなのです。

このようなイスラエルのユダヤ国家としての存在の継続の重要性が、パレスチナの人々との分離フェンス(または壁)の建設、そしてガザ地区からの撤退などシャロン首相らが一方的に行っている理由とも言えると思います。またこの分離フェンスの建設やガザ地区撤退のその他の理由としては、米国のブッシュ大統領が提案したロード・マップ計画など、米国からのかなりの圧力があり、このロード・マップ計画はイスラエルがエルサレムの大部分と軍事的重要地を失うことになる、1967年当時の国境へ戻すというものでした。ちなみに、世界中でイスラエルだけがはっきりとした国境を持たない国だということを知っている人は少ないでしょう。イスラエル国議会はこれまでに、東イスラエルの国境が一体どこであるかということを、公に発表したことはありません。壁の建設が1967年の国境地区より外側にされているという理由として挙げられるのはもちろんセキュリティーですが、それと同時に政治的理由としてはアラブ諸国とパレスチナ側との将来的な交渉ための既成事実として、すでに存在する国境を持つということが目的と言えると思います。

そして、イスラエル政府が西岸地区とガザ地区に入植地を建設する理由は、土地を和平と交換すること、これらの地区をパレスチナの人々に返還することによって和平を得るということだと言えます。イスラエルの右左両派の政府はこれらの地区を返還するつもりは多分にありますが、この問題においての右左両派の考え方の違いは、これらの地区のどれほどの面積を返還し、またその引き換えに何を受け取るかです。左派は和平のためには、これらの地区の全てを無償で返還してもよいという態度で臨んでいますが、右派はできる限り少量の土地ならば返還してもよいが、その引き換えに完全なるセキュリティーの確保、つまり、パレスチナ側がすべてのテロリストを逮捕するということを条件として望んでいます。ガザ地区の入植地には7500人のユダヤ人入植者しか住居していないのでそれほどの問題もなく入植地から去り、それについて一世帯あたりに支払われる補助金で彼らは新しい土地に移転することは容易なことです。しかし、西岸地区やイェシャの入植地では27万人の入植者を抱え、彼らの多くは宗教的シオニズムのイデオロジーの夢と共に、アメリカなどの海外から移住して来たのです。「ここを去るよりも、戦って殺されるほうがましだ」と、彼らはよく口にします。そのような信念を持った彼らをその土地を去るようにするということは、なかなか容易なことではありません。そこで、恐らくイスラエル政府は、西岸地区のこれらの入植地の一部分をパレスチナ側に返還し、残った入植地の主な部分と同面積の土地を他の場所に与える方法をとるだろうと思われます。

グロスマンが言うように、パレスチナ・イスラエルの双方が妥協するということが和平への道なのですが、イスラエル側はこれまでに過去において、そして現在においても妥協をする準備がある程度できていますが、パレスチナまたはアラブ側には、過去にも、そして現在にもそのつもりが見受けられないのではないでしょうか。誰か相手がいて対話する時に、まず最初にしなければならないことは、相手の存在を認めるということだと思います。そして相手の生きる権利をも。しかし、現在までほとんどのアラブ諸国、そしてパレスチナ側はイスラエルの持つ権利というものについて認めたことがありません。

多くの人々が中東問題という言葉から、パレスチナ・イスラエルの争いを思い浮かべると思いますが、果たしてそんな小さな事ではなく実際には全アラブ諸国とイスラエルの問題と言えるでしょう。ここ数年においてはこの問題はどんどんと大きくなりつつあり、現在の主な争いはイスラム原理主義と日本を含む欧米世界との争いなのではないでしょうか。

ここで、中東と北アフリカの地図を見てみましょう。イスラム教の国を緑色、イスラエルを赤色で塗ってみます。するとどうでしょう。イスラエルはこれらのアラブ諸国の背中に突き刺さったナイフのように見ることができ、これがアラブ諸国が考えるイスラエルの存在と言えます。宗教としてのイスラム教では、常に他の一神教(主にキリスト教やユダヤ教)の人々がイスラム教の土地の一部に、同等レベルではなくしかしセカンド・クラスの市民として住むことを認めてきています。しかし、これらのキリスト教徒やユダヤ教徒が、かつて過去において、または現在においてイスラム教徒の土地であった場所に国を持つことを許可していません。

イスラム哲学においては、世界は二つに分けられています。その一つはイスラムが支配する土地、そしてもう一つは非イスラムの土地であり、それらの土地はいずれはイスラム教徒の土地になる運命にあるというもので、その成功への道はジハッド(イスラム聖戦)と呼ばれるものです。そして、このジハッドにおいてイスラム教徒の人々が行える最大の事とは、自らの命を捧げて殉教者となるという事です。そしてかつてイスラムの支配下であった土地に非イスラムの国を作ることは、神の加護を失ってしまうことと信じられているために、それは到底許されることではありません。これらの理由によって、すべてのアラブ諸国(つまりイスラム教徒の国々)はイスラエルの存在を認めることはありません。もしも、あるアラブの国の政治家がイスラエルの存在を認めてしまえば、もはや彼の生命の保証はされないといってもよいでしょう。1978年、エジプトのサダト首相はイスラエルとキャンプ・テービッドの合意調印をしますが、それを理由にサダト首相はあるイスラム原理主義者によって暗殺されています。また、ヨルダンの王も同じ理由で亡くなっていますし、1993年にはそれと同じことがイスラエルのラビン首相の身にも起こりました。ラビン首相は極右派のユダヤ人青年に暗殺されています。

イスラム教徒の人々は他の宗教徒、特にキリスト教徒やユダヤ教徒の人々に対し敵対心を持っているという訳ではなかったとすでに書きましたが、現在のアラブとイスラム教徒の国家主義においては、キリスト教徒やユダヤ教徒の人々がイスラムの世界に住むことを認めてはいないのです。ちなみにイスラム教の法では、イスラム教徒は非イスラムの国に住むことはできますが、それにあたってはその国をゆくゆくはイスラムの国にするということが前提に置かれてのみです。 ここまで書いたイスラム教とアラブ諸国の価値観は、実際にはもっと非常に複雑なものですが、今回はできるだけ簡潔にしました。

世界中のメディアはパレスチナ・イスラエルの争いを大々的に取り上げますが、西岸地区とレバノンから追放されたキリスト教については、ほとんど誰も取り上げていません。1993年のオスロ合意以前にイスラエルが管理していたベツレヘムは、80%がキリスト教徒の町でしたが、オスロ合意以後にパレスチナ側がこの町を管理し始めてからは、キリスト教徒の数は20%以下にまで減ってしまいました。彼らはイスラム教徒たちによる圧力、そして、同じキリスト教徒として手を差し伸べないバチカンや欧米のキリスト教諸国の、どこからも見放されてしまったという気持ちからベツレヘムを去りました。もし誰かが西岸地区へ行ったとしたら、彼は廃墟となったキリスト教徒の村に現在イスラム教徒が住み付き、村の名前をアラブ語に変えてしまったことを目にするでしょう。そしてそこにかつてはキリスト教徒が何世紀にも渡り住んでいた証としての空っぽの教会が、今ではただモニュメントのようにぽつんと佇んでいます。また、レバノンのキリスト教徒たちは、ベツレヘムのキリスト教徒たちと同じようにイスラム教徒からの圧力に耐えられず、その多くがアメリカとカナダに移住して行きました。 この事実について、世界中の欧米諸国のメディアが全くといっていいほど取り上げないことに、とても疑問に感じています。そして、カトリック教会もこのことについてはできるだけ触れないように、または口を重く閉ざしてしいます。欧米諸国が石油をできるだけ低価格で購入するためには、数年前にアフガニスタンのバーミヤンの仏教遺跡破壊に見られるように、黙って見過ごさなければならないことがかなり沢山あるようです。

1968年7月17日、PLO(パレスチナ解放機構)は、「イスラエルは存在権利がまったくなく、すべてのアラブ諸国はイスラエルの完全破滅まで戦う」と国家の書類に記しました。イスラエルが独立してから、イスラエルはこれらのアラブ諸国と和平を結ぼうとしてきましたが、こういった書類に書かれたことに見られるように、それが受け入れられたことはありません。1978年には、エジプトとイスラエルのキャンプ・テービッドの合意調印において、イスラエルはシナイ半島の返還にあたりそこに建設されていた入植地の全てを撤去しました。そして、シリアにもゴラン高原を除くすべての占領地を返還しました。1993年、長い交渉の末にPLOとイスラエルはオスロ合意に調印し、パレスチナ自治政府がパレスチナ独立国家への第一歩として西岸地区とガザ地区を管理することになります。このオスロ合意のきっかけになったのが、ガザ地区で起こり西岸地区へと広がった第一次インティファーダで、その後その争いは3年間続きました。この時に、現在ではすっかりシンボルの様になった、パレスチナの子供がイスラエル軍戦車に向かって投石している姿がテレビで初めて映し出されました。

1991年11月、マドリードでイスラエル対シリア、レバノン、ヨルダンとの和平会議(マドリード中東和平会議)が設けられ、その結果として1993年にオスロ合意が実現し、翌1994年にはイスラエルとヨルダンの間で平和条約調印が行われました。オスロ合意ではイスラエルはパレスチナ自治政府の管轄下になる西岸地区とガザ地区からの撤退、さらにはパレスチナ自治政府への援助資金と自治警察への武器の供給を課せられました。ダニエルさんが仰ったイスラエル政府によるパレスチナ・テロリストの補助というのはこの事を指しています。現在までイスラエル政府は補助金と武器の供給を続けていますが、PLOは、テロ活動の停止、反ユダヤまたは反イスラエル主義のプロパガンダの停止、イスラム原理主義の児童教育カリキュラムの変更、そして、1968年7月17日の書類に記した「イスラエルの完全破滅」という部分を消去するとオスロ合意にて調印したのにも拘らず、これらの公約のどれをも未だに見直されることなく、ましてや停止には至っていません。

現在までに、パレスチナ側の政治家達は彼ら戦略方法として、欧米のメディアに対しては和平を英語で訴えること、そして、アラブ語でのアラブのメディアではイスラエルの破滅と憎しみを語りかけるということを繰り返してきています。アラファト議長のお決まりの台詞は「パレスチナの少年が、パレスチナの旗を、パレスチナの首都となるエルサレムの、教会、モスク、そして旧市街の壁に翻すこと」で、実際に彼は2000年の夏、前イスラエル・バラク首相がパレスチナ側に西岸地区とガザ地区の96%、そして旧市街を含む東エルサレムを譲歩すると申し出た時に、その夢を実現するチャンスがあったにも拘らず、アラファト議長はその申し出を拒否し、その代わりに第二次インティファーダを起こしました。 アラファト議長が和平を受け入れない理由としては、過去のイスラエルのラビン首相やエジプトのサダット首相のように、彼の部下によって命を絶たれることを望んではいないからなのです。 とても有名な前イスラエル外務大臣アバ・エバンは「アラブ人は交渉するよりも戦争を選ぶ」と発言しました。前バラク首相がアラファト議長とのピース・プロセスの数ヶ月前にレバノンから撤退したことを、アラブ側はイスラエルの弱さとして受け止め、インティファーダの勃発による圧力でさらに広い部分の土地を手に入れられるだろうと考えたのです。

今、この記事を書いている最中ですが、テレビの画面には、今日、南イスラエルのベル・シェバという町でバスが二台吹き飛ばされ15人のも死傷者を出したというニュースが流れています。

このインティファーダが始まってから4年が過ぎ、約5千人という死者が両者から出て、パレスチナ側ははじめて彼らの負けを自覚したようですが、すでにパレスチナ社会は崩壊する一歩手前まで来てしまいました。人々は飢え、絶望し、社会の建て直しを切望しています。しかし、現時点ではパレスチナの政治家達はインティファーダを停止するなどの改革を行うつもりは毛頭ありません。しかしそれでも和平への希望はまだ残されています。パレスチナ側はテロ攻撃では勝ち目がないことにとっくに気が付いていますし、彼らは軍事的に勝利を収めることは到底できませんが、政治的に勝利することは可能なのです。つまり、世界は彼らに独立した国が必要だと認識しているからです。しかしその反対にイスラエルは軍事的勝利はあり得ますが、政治的勝利はほぼあり得ません。なぜなら世界はイスラエルに対抗しているからです。

グロスマンは双方が妥協しなければらない、そして必要ならば国際的な援助もあり得るだろう言いますが、彼らが正しい和平解決への道を示すことの可能性はとても低いだろうと思います。それらの国々は和平への彼ら自身のアイディアをこの土地に持ち込んでくるでしょう。この土地では、実際に歴史的に常に国際統治者が入れ替わっていたのですが、誰の援助も解決には至らなかったのです。それは近年にヨーロッパで起きたコソボやボスニアの戦争においても同じことが言えました。

永久的な和平を実現させるには、アラブ諸国、そしてパレスチナ社会に大きな変化が必要となります。仮にアラブやパレスチナ側の政治家達が和平協定に調印したとしても、その若い世代にはすでに憎しみがしっかりと植え付けられ、それを取り除くにはまた数世代の時が必要となるでしょう。そして現在女性たちは全く相手にされずに隅に置かれ、平等の権利としてあるのは死に対してのみ、つまり自爆テロになるということ。殉教者としての死ということが美化され、すばらしいものとして語られ、小学校などでは小さな幼い児童は、それがどんなにかすばらしいヒーローのような行いかと教育されている。そのような社会では若者がその以外の夢や希望とする目標は見つけられず、自爆テロになることが残された道となる。その行為によって彼らは社会的に認められ、遺族には多額の慰謝料が支払われる。世界がこういったことに対してパレスチナ側に何らかの徹底的な働きかけをし、彼らの社会を変えること、例えば民主主義社会にすること、それなしにして本当の意味での和平を実現させる基礎でさえ固められないのではないでしょうか。  (大桑)


参考文献:
『Battleground: Fact & Fantasy in Palestine 』-- by Samuel Katz

『Six Days of War : June 1967 and the Making of the Modern Middle East 』-- by MICHAEL B. OREN

『A History of the Jews 』-- by Paul M. Johnson

『O JERUSALEM 』-- by Larry Collins, Dominique Lapierre

『The CLASH OF CIVILIZATIONS AND THE REMAKING OF WORLD ORDER 』-- by Samuel P. Huntington

『Diaspora: The Post-Biblical History of the Jews 』-- by Werner Keller

『From Time Immemorial: The Origins of the Arab-Jewish Conflict over Palestine 』-- by Joan Peters

水曜日, 8月 25, 2004

パレスチナ難民問題の発端 (O)

前回の大黒さんのポストから10日経って、やっと今日になって何とかできるだけ簡単にまとめることができました。長い歴史の中で起きている(しかも現在進行形の!)、とてもこんがらがったことについてなので、できるだけ気長にお願いしますね。では前回の私のポストの、英国の統治によってパレスチナと呼ばれるようになったこの土地のその後について、続けていきます。

第一次世界大戦後、1919年にパリ講和会議においてイギリスやフランスによってトルコ帝国の領地だった中東を分割統治されることが決められ、それはこの土地の99%はアラブの人々へ、そして残りの1%をユダヤの人々のホームランドにするというものでした。1920年、当時の米国の大統領ウィルソンが提唱した国連の前身とも言える国際連盟(LEAGUE OF NATION)によって、それまでパレスチナ(その当時はヨルダンも含まれていました)と呼ばれていたこの土地は、英国が委任統治することになりますが、英国はスエズ運河などを含む重要なこの土地を我が物にしたいだけであって、ここに住む人たちの為の統治には無関心で、特別何も行いませんでした。

そして、英国統治時代のこの土地は1929年に起きたアラブ側からのユダヤ側への攻撃のヘブロンの大虐殺、その反対では、ユダヤ側の攻撃で起きた1948年のディル・ヤシン事件。そしてそのお返しの様に起こったアラブ側による4日後のハダッサ事件とエチオンブロックの虐殺(これらの二つの事件はなぜか事実として取り上げられない事が非常に多い)に見られるように、アラブとユダヤの人々の争い・いざこざの時代と言えます。ヘブロンの町はユダヤの人々が3000年という長い期間に置いて住み続けていた土地でしたが、その2日間続いたアラブ側の武装勢力での虐殺に関して英国は全く見て見ぬふりをして、その代わりになんとか生き延びたユダヤ人には、「安全のために」という名目でヘブロンから去るように命令したのでした。当時、こういった惨事がこの土地のいたるところ(一晩で200人近くのユダヤの人が虐殺されたエルサレムの旧市街を含む)で行われましたが、それでも英国はユダヤの人々を保護すること、また保護しないにしてもアラブ側の攻撃を止めさせるなどの仲裁は一切行いませんでした。

1936年後、アラブ側の大蜂起、ユダヤの人々に対する攻撃はどんどんとエスカレートし、ついに英国にはその混乱は手に負えなくなり、この土地の統治能力を失ってゆきます。

1939年5月17日、英国政府はアラブ側のリーダー達の反ユダヤの圧力に負け、ユダヤの人々のパレスチナへの移住を限定するという白書を発し、のちにはユダヤの人々の移住を完全に禁止してしまいます。またこの白書のために第二次世界大戦時にヨーロッパからナチの手を逃れようとしたユダヤの人々はこの土地へ移住することができず、そして第二次世界大戦後にホロコーストを奇跡的にも生き延び、しかしもはや帰る家族も家も失った彼らはこの土地へと航路でやってきますが、入国は許可されずにまたヨーロッパへ送り返されるということが何度も起きました。1947年7月に起きた移民船エクソドス号の話は1960年にアカデミー賞を受賞した『栄光への脱出』という映画のモデルにもなった有名な話です。

話が前後しますが、英国はこの白書を発する前に、この土地をアラブとユダヤとの両方に分けることを計画していましたが、アラブとそして世界中からの圧力が英国に掛かり、そこで英国はユダヤの人々にいかにこの土地の少しだけを与えるかという事に基づいてこの白書を発行します。

1947年11月29日。国連議会ではパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国境を持つ国を建設するという、パレスチナ分割に関する決議が総会で採択されます。そしてエルサレムはどちらの国にも属さない、国際管理下に置くインターナショナル・ゾーンとされることになります。これに対してユダヤ側は同意をしますが、アラブ諸国はこの決議前に国連に参加している国々にかなりの圧力をかけて、この計画を阻止しようとします。そしてさらに決議後には、パレスチナ全土のユダヤの人々を攻撃をしますが、これが現在まで続いている争いのはじまりでした。そして英国が引き上げる瞬間までには、アラブ・ユダヤの双方が、どちらがどれだけより利益のある道と肥沃な土地を自分のものにするかの奪い合いが続きました。そしてユダヤの人々のたった一つの聖地、そして後にイスラムの人々もユダヤとは別の理由から彼らの聖地と呼ぶようになったエルサレムも、その最大のターゲットとなります。

1948年5月14日、ユダヤのリーダーでイスラエル初代首相となったダヴィッド・ベングリオンは、この困難な状況下でイスラエル国家独立を宣言します。そしてそのまったく同じ日にエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、サウジアラビア、そしてイラクの6カ国の軍隊が一気に建国したてのイスラエルへ攻め込み、第一次中東戦争が勃発して、当時のイスラエルにいたアラブの人たちの多くはこのアラブ側の軍隊へ参加しました。そして8ヵ月後の1949年1月までにイスラエルはこの軍隊を後退させますが、それでもエルサレムの旧市街を失い、そこにあった一軒残らずユダヤ教の会堂・シナゴーグの全て、そしてユダヤの人々の家々も全て破壊され、さらには彼らは旧市街から出て行くことを余儀なくされました。

と、長々と書いてきましたが、ここまでは現在パレスチナ難民と呼ばれている人たちの発端についての説明の序説といったところでしょうか。

1948年の4月から12月までの戦争中のこの土地から、70万人のアラブの人が逃げ出したと国連は見ています。そのうちのいくらかの人たちはこのアラブとユダヤの争いを避けるために避難し、また他の人たちはアラブ側の攻撃に対するユダヤ側による報復を恐れたためだと言われています。しかし当時のこの土地のアラブの人々の多くは、彼らの政治リーダーから、「すぐにイスラエルは滅ぼされるだろう。そして君たちがこの土地に戻れる日はまたすぐにやってくるのだから、今は一旦ここから去るように。」と言われました。しかしその理由のはっきりとしたことはわかっていません。そしてそういった状況の中で16万人のアラブの人々が、そのままこの土地に残り、逃げ出した人々のほとんどは国連がアラブの国を設立すると約束した土地へ移りましたが、ガザは当時エジプトに占領され、ヨルダンは東エルサレムと西岸地区を占領した後にヨルダンの一部として合併してしまいます。

そして国連はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)を設け、パレスチナ難民をシナイ半島やヨルダン、そしてシリアに住むための援助協力しますが、アラブ諸国の政府はパレスチナ難民を難民キャンプに留めるために、そしてそれによってイスラエル国家の存在を揺るがすために、この計画を、そして国連の関与するその他のパレスチナ難民援助を拒否します。現在は約400万人のパレスチナ難民と呼ばれる人々が存在し、パレスチナ・イスラエル問題の主な交渉ポイントは、双方の国境をどこに引くか、入植地(Yesha)の問題、そしてこの難民の問題なのです。エジプトからやって来たアラファト議長(ちなみに彼はパレスチナ人ではありません。)やアラブ諸国は、この400万人いるパレスチナ難民の帰還についてイスラエルに対し圧力をかけますが、しかし実際のところそれだけ多くのアラブの人々がイスラエルに住むということは、すなわちイスラエルがイスラエルとしての国家でなくなるということであり、それをイスラエル側がすんなりと受け入れるということは、絶対と言っていい程に考えられないことだと思います。

1948年のイスラエル独立当時、約90万人のユダヤの人々がアラブ諸国に住んでいましたが、その大多数の人々がそれぞれの住んでいた国から無一文で去るようにと、イスラエルの独立に憤慨した政府によって言い渡され、現在ではたったの20万人のユダヤの人々が、それほど反イスラエルではないモロッコなどの北アフリカに留まっているに限られています。そして残りの70万人のユダヤの人々はイスラエルへ裸同然でたどり着きました。現在リビアとイラクは、これらの無一文で去ることを余儀なくされた元自国民であったユダヤの人々に対して、彼らの所有財産の返還を申し出ています。そしてこの土地を去らずにイスラエルに残った16万人のアラブの人々はイスラエル国民となり、現在ではイスラエル国籍のアラブ人は約120万人いますが(現在のイスラエル国民数は6百万人です。)、 しかし彼らはアラブ諸国のリーダー達によって裏切り者と見なされ、エルサレムの旧市街のモスクへ礼拝に行くこと、そしてその他のアラブ諸国に住む家族との連絡を持つことを一切禁止されています。

この後から1967年までの戦争の歴史は、今回のポストでは特に重要ではないので省きますが、1967年6月9日に起きた6日間戦争ではイスラエルはシリア、ヨルダン、そしてエジプトを攻撃します。これはアラブ側の見方では、イスラエルはこの戦争によってガザと西岸地区、そして東エルサレムとシナイ半島を占領したとされていますが、その反対にイスラエル側の見方ではガザとシナイ半島を占領し、東エルサレムと西岸地区をヨルダンから解放して東エルサレムをイスラエルの一部としました。

さて、ここからいよいよ入植地(Yesha)について、そして前回の大黒さんの質問について、次回に続きます。(大桑)


参考文献:
『The Routledge Atlas of Arab-Israeli Conflict: The Complete History of the Struggle and the Efforts to Resolve It (Routledge Historical Atlases) 』
by Martin Gilbert
     
『A History of the Israeli-Palestinian Conflict (Indiana Series in Arab and Islamic Studies)』
by Mark A. Tessler

土曜日, 8月 14, 2004

何と何がこの土地では本当に対立しているのか (D)

大桑さんの説明による、「パレスチナと呼ばれてきたもの」の実体、そして紀元前1000年にまでさかのぼるその語源について、わたしにとってはまったく未知の内容でした。中でもローマ帝国が、ユダヤの名残りをこの土地から消し去るために、「イスラエル」を「パレスチナ」と呼び改めたこと、それが世界史的に最初のパレスチナの登場だったという事実には驚かされました。さらには、その「パレスチナ」という言葉の元々の意味が、その昔この土地でユダヤ人に敵意を抱く人々を指すユダヤ人側からの言葉(ヘブライ語)のラテン語読みだということを聞いて、頭の中が混乱しました。何重にもよじれ、ひねられ、ひっくりかえされた歴史基盤の上に置かれた人々、ユダヤ人とこの土地。

そして現在「パレスチナ人」と一般に呼ばれている人々、イスラエルのアラブ人たちとの対立関係は、19世紀の終わり頃に起き始めたことのようだということがわかります。それが今回投稿メールを送ってくれたダニエルさんの言う、ヨーロッパからのユダヤ人たちが「故郷へ戻るため」にこの地に移住し、メソポタミア、シリア、エジプトからアラブ人たちが「労働のため」に移住した、その時期と一致していることに気づかされます。つまり、その頃に、それぞれの理由によって、現在イスラエルと呼ばれている土地のあたりに、ユダヤ人、アラブ人双方の人々がたくさん押し寄せ移り住むようになったのだということがわかってきます。ということは、パレスチナとイスラエルの問題は、大掛かりで長期にわたる移民問題、ということができるのでしょうか。移民というからには、普通、移民される側の主体となる国があるわけですが、それに当たるのが帝国時代のトルコであり、植民地体制でのイギリスとするなら、これら宗主国が去ったあと、移民同士が直接にぶつかりあうという事態が起きていると考えることもできそうです。ユダヤの人々にとっては、「移民」という考え方ではなく、「故郷へ戻る」ということではあると思いますが。

ダニエルさんの発言からも、いろいろ考えさせられました。いくつかを上げてみたいと思います。まず、問題の中心となっている地域イェシャ(Yesha)のユダヤ人にとっては、日本で「パレスチナ問題」と呼ばれているものは「イスラエル政府問題」として捉えられているという指摘です。わたしの理解では、今起きている問題は、よく言われているような単純な二項対立(ユダヤ人入植者対パレスチナ人先住民のような)ではないということ。ダニエルさんが兵役拒否をした理由は、イスラエル政府への反発、不服従の気持ちからと書かれています。イスラエル政府は結局のところテロリストたちを擁護しているのではないか、という疑問をお持ちのようです。もしそうだとしたら、そこにはどんな政治的な思惑あるのでしょうか。あるいはなんらかの妥協なのでしょうか。ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府であるとしたら、それはどんな理由からなのでしょう。

話は少し飛びますが、最近こんな記事を読みました。イスラエルのユダヤ人社会にはヒンドゥー社会におけるカースト制度のような階級がある、という話しです。つまりユダヤ人社会の中にもいくつかの対立事項が存在する、ということなのでしょうか。その階級とは、東欧からの移住者をトップに、イベリア半島からの移住者、そして最下層に北アフリカやイスラム文化圏からの移住者、というような順序づけがされているそうです。違う階層の男女が結婚するときのてん末をあつかった映画が「ブーレカ映画」と呼ばれて一ジャンルをなすくらい、この階級差は自明のことのようです。とすると、ユダヤ人とひとことでくくるには困難な民族集団としてのユダヤ人とその社会が見えてきます。出自や文化的背景、利害関係において、あまりにも立場が違うという意味で。こうしたことも、パレスチナ、イスラエル問題を複雑にしている要素のひとつなのでしょうか。(参照:「新潮」9月号/四方田犬彦『メラーの裔/モロッコ系ユダヤ人をめぐる6つの断章』)

もうひとつ、ダニエルさんの記述の中で、「Yeshaを発達して」良い土地にする、という箇所が気になりました。イェシャというのは問題となっているヨルダン川西岸とガザ地域のことです。ここを発達(発展)させる、といはどうことを指しているのでしょう。この地域で、イスラエル政府によって擁護されている「アラブ人テロリスト」を排斥して、ユダヤ人とアラブ人の共存関係の可能性を探り、それを育てていくということなのでしょうか。それともユダヤ、パレスチナの間にきっちりと境界を引き、今後問題の根となるようなものが残らないよう、合理的、公平に分離していくということなのでしょうか。

グロスマンの本を読んでいて印象的だったことは、この本の著者自身の考え方としては、さまざまな辛い妥協に双方が従わなくてはならかったとしても、二つの民族国家としてパレスチナ、イスラエルという別の主権国家をつくる道筋が必要であり、そのために具体的で集中的な交渉を重ねるべきであるということがはっきり書かれていることでした。パレスチナ人、イスラエル人両方にその解決能力がないなら、国際社会の介入も、国際的な軍隊の派遣もふくめて、求めたいということも2001年6月の日誌には書かれています。これが長年の戦争状態とテロの恐怖の中で日常を送ってきた、イスラエルに住むユダヤ人の一作家にとっての結論なのだということです。(大黒)

水曜日, 8月 11, 2004

読者からの手紙-京都在住のダニエルさんより。(8月6日)

今回コメントを寄せていただいたダニエルさんについて。

ダニエルさんとはエルサレムで数年前に出会い、それ以来京都出身の私はエルサレムに、そしてその入れ替わりのようにエルサレム出身の彼は京都に住みつつ交流が続いています。ダニエルさんは東京大学を経て現在は京都大学で物理を学んでいます。驚くことに、彼はこれまで日本語は一度も誰からも教わったことはなく、すべて独学だそうです。またダニエルさんには過去にエルサレムで2度もテロに遇ったというとても痛ましい経験があり、そういう方の声を聞けることは大変に貴重だと思っています。現在、彼は物理のほかにはユダヤ教の教えも勉強しつつ、日本の社会に生きながらも、きちんと安息日などを守りながら正統派ユダヤ教徒の生活をしています。(大桑)

下記はダニエルさんからの手紙です。 


「始めまして。ダニエルと申しますが、日本に住んでいるユダヤ人です。大桑さんと大黒さんが書いた意見を興味深く読みましたが、ちょっとコメントしたいと思います。

まず、「テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります」と大黒さんが書きましたけど、私も兵役拒否しました。偽の「平和」を作るためにテロリスト国を作りたいためではなく、イスラエル政府の政策には反対ですから、何年間刑務所にいてもその政策に協力することは断じてしないです。結局運良く刑務所に入る必要がありませんでしたけど。

Yesha*¹(ユデア、サマリア、とガザ、つまり西岸とガザ)のユダヤ人にとっては、PLOやHamasとの戦争は「パレスチナ問題」よりも「イスラエル政府問題」として考えられています。テロリストが使っている武器は、Oslo Accordsの後にイスラエル政府がアラファットに与えたものだとか、TunisからPLOを誘ったのがイスラエル政府だとか、ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府だとか、「パレスチナ問題」と思われることがすべてイスラエル政府自体の所為だという考え方もあります。

ユダヤ教のなかに、「lasheker ein raglayim(レシェケール エイン ラグライム)」、つまり「偽りに足がない*²」というイメージがあります。ヘブライ語だと、「Sheker」という「偽り」という意味の文字(シン・クフ・レシュ)の一つ一つには、足が一本*³ しかありません。反対に「Emeth(エメット)」という「真実」という意味の文字(アレフ・メム・タフ)の一つ一つには、足が二本あります。イスラエルにいるアラブ人がアラファットの偽りをまじめに信じていると思えないです。大黒さんが仰った通り、「パレスチナ」という国が1918-1948年にしか存在していなくて、そのときの「パレスチナ」人はアラブ人だけではなくて、イスラエルに住んでいた人たちのみんなさんでした。却って、アラブ人が自分のことを「アラブ人」と呼びましたので、自分のことを「パレスチナ人」と言ったのはユダヤ人だけでした。私の祖父は三十年代に、「パレスチナ人」のためのでもに参加しました。その「パレスチナ人」の意味は、イスラエルに住んでいるユダヤ人でした。

大黒さんが仰った通り、ユダヤ人とムスリムが平和に暮らすことができると私も思います。「宗教的対立が問題の根」ではないとは確かだと思います。問題の由来は、1920年代でのIslamist Movementの時代に始まりました。1929年に戦いを始めたのは、エルサレムのGrand MuftiのHaj-Amin al-Husseiniでした。詳しいことはhttp://www.freerepublic.com/focus/news/846987/postsとかで読むことができます。十九世紀の前に、イスラエルの人口は数万人しかいませんでした。十九世紀と二十世紀の始まりに、ヨーロッパからのユダヤ人と、メソポタミア・シリア・エジプトからのアラブ人がたくさんイスラエルに移民しました。ユダヤ人は「故郷へ戻る」ために来て、アラブ人が労働のために移民しました。そして、1929年に「ヘブロン虐殺」とかがあって、争いが始まりました。現代の偽りに対立している人が少ない理由は、アラブ人がそれを信じているからだとは思いません。「偽りに足がない」から、それを支えることがなければ、今の理不尽な状態は成り立てないと思います。PLOの偽りも支えているのがイスラエル政府の政策です。ユダヤ人がテロリストに殺されているときに、犯罪者が二人いる。その人を殺したアラブ人、とテロ組織を強めたイスラエル政府です。みんなが平和がほしいと思いますけど、平和になるために、偽りを支えてアラブ人のみのテロリスト組織が支配している国を作るのではなくて、真実を認めてユダヤ人を全イスラエルに自由にするのが正しいです。テロ組織に武器を与えるんじゃなくて、テロリストを逮捕する。

ユダヤ人の夢を砕くんではなくて、Yeshaを発達して、みんなが誇りに思われるような素敵な土地にすることが正しいだと思います。アラファットに捨てるんじゃなくて、イスラエルの大事な大事な部分として道・水道・電気構造を作りましょう。聖書から約束された国ですから。ダニエルより 」



訳注(大桑):
*¹ Yeshaはイェシャと発音します。

*² ユダヤ教神秘主義のカバラではヘブライ語の一字一字が漢字のように意味を持つとされていてます。足のように支えになる部分のない文字から成っている言葉は立っていることができずに倒れてしまいます。

*³  足が一本とは、この文字の足があるような形のヘブライ語文字のことを表しています。



金曜日, 8月 06, 2004

パレスチナとはなにを指すのか (O)

先日の大黒さんのポストから、このあたりの土地についての歴史的なことを一挙に駆け足でザザザーッと、見てみます。

まずは、このパレスチナという言葉について。

このパレスチナという名前は、紀元前1000年ごろのガザあたりのごくごく限られた地域のことを指していました。当時そこに住んでいた住民は常にイスラエル王国を攻撃し、そのためにユダヤの人たちは彼らをヘブライ語で「侵入者」という意味に当たる「プリシティン」という名で呼びました。そして、このあたりの土地はプリシティン、侵入者が住む土地という意味の「ペレシャット」と呼ばれるようになりました。

この「プリシティン」と呼ばれる人たちは、元々はギリシャからレバノンとそしてガザあたりに移り住んで来た人たちのことで、現在パレスチナ人と呼ばれているアラブ民族ではありませんでした(現にパレスチナまたはプリシティンという言葉のはじめのPの発音はアラブの言語にはなく、そこからもこの名前が元々彼らの言葉から来たのではないことが伺えます)。そして数百年にわたりユダヤ人たちは侵入を繰り返すこのプリシティンたちと戦い、紀元前900年に、遂にユダヤのダビデ王はそのプリシティン達とその土地を滅ぼしました。

西暦150年には、ローマ帝国よって滅ぼされたイスラエル王国の名残のエルサレムはアエリア・キャピタリーナという新しい名で呼ばれ、イスラエル王国は彼らによってプリシティンのラテン語読みであるパレスチナという名前を与えられました。ローマ帝国は、ユダヤ人たちが常にローマ帝国に反抗してきたことで、イスラエルそしてエルサレムという名をユダヤ人たちから完全に消し去ることによって、ユダヤ人たちを制覇しようとしたわけです。そしてその当時は、この土地にはアラブ人はまだ住んでいなかったのですが、622年にモハメッドが創めたイスラム教を広めるために、636年になって初めてアラブ人がアラビア半島のメッカやメディナからパレスチナの地域にやってきました。そしてアエリア・キャピタリーナは、やって来たアラブ人によって、今度はアルクッズと呼ばれるようになりました。

また、352年からアラブ人がやって来る636年までの284年間は、この土地はビザンティン帝国の一部としてキリスト教の国でしたが、11世紀の終りになり十字軍がこの土地に進出して、多くのユダヤ人たちとイスラム教徒を殺し、その後この土地を200年に渡りキリスト教の国として支配し、アルクッズは再びエルサレムという名に戻ります。

1291年、今度はイスラム教徒のマメルックスと呼ばれる人たちが十字軍と戦い、彼らからこの土地を奪い取り、キリスト教の国からイスラムの国となります。そしてサラディンというこのマメルックスのリーダーは、イスラムの聖典であるコーランには神はこの土地をユダヤ人たちに与えたと記されているため、世界中のユダヤ人たちにこの土地に帰還するように言い渡します。その為、1世紀から2世紀にかけてローマ軍によってこの土地から追い出されヨーロッパに移り住み、キリスト教徒によって迫害されていたほんの一握りのユダヤの人々がこの土地に帰還しました。

1517年、トルコ帝国がイスラム教徒の国を支配します。その中には当時イスラムの国であったこの土地も含まれていました。サラディン時代からトルコ帝国時代の終わりの1880年まで、主にトルコ帝国の支配によってユダヤ人とアラブ人は問題なく共存していましたが、1880年、トルコ帝国支配下のアラブ人は彼らの国を持つということに目覚めだします。そして時を同じくして、ロシアと東ヨーロッパのユダヤ人が、キリスト教徒による弾圧から逃れるための新天地を求め、この土地に移住しはじめます。

移住してきた彼らは、荒れた土地、沼地、そういった誰も欲しくないような土地をアラブ人とそしてトルコ人から買い取ります。移住してきたユダヤの人々には手に職があったりと、当然アラブ人はヨーロッパからのユダヤの移民の数が増えていくことによい顔はせず、反シオニズム社会を形成し、トルコ帝国にユダヤの移住を禁止するように訴えます。そして1886年に、ペタハ・ティクヴァやレホヴォットという開拓されていた町が、はじめてアラブ人たちによって攻撃されますが、それでもユダヤ人たちはヨーロッパから(特にロシアから)の移住をやめず、1909年には、ユダヤ人はテル・アヴィヴ(ヘブライ語で春の丘という意味)という、初めてのユダヤ人だけの町を建設します。ちなみに1880年から1914年にかけて、6万5千人のユダヤの人々がこの土地に移住してきました。

1914年、第一次世界大戦が勃発します。トルコ帝国は敵国・英国と戦います。1915年、英国はトルコ帝国に住んでいたアラブ人たちに、英国に寝返ることによって勝利の暁には彼らに独立した国を与えると約束します。かの有名な映画『アラビアのロレンス(あの若き日のピーター・オトゥール!)』のモデルになった英国の陸軍将校ロレンスは、アラビア半島にやって来てアラブのいくつもの部族(反乱軍)を指揮し、トルコ帝国の軍隊を攻撃したのです。

1917年、英国はユダヤの富豪から第一次世界大戦の戦費調達を得るために、ユダヤの人々にこの土地に国を持つ権利がある、というバルフォア宣言を発します。そして、その権利はアラブの人々にもまた同じく約束されていました。しかし、勿論、英国はこの公約を守らない。

1918年、英国が勝利し終戦し、英国はアラブとユダヤの両方についてその約束を守らずに、英国はフランスと密約を交わしていたので、アラブに対してはサウジアラビアなどのアラブ諸国を直線的に国境を引いて建設しますが、ユダヤには何も与えませんでした。1920年、サン・レモ会議において、この土地は英国の委任統治領と認められ、再びパレスチナと呼ばれます。

西暦150年にローマ帝国によってこの土地がパレスチナと呼ばれてから1770年間という月日を越えて、1920年から1948年のイスラエル建国までの28年間、この土地は再びパレスチナと呼ばれていました。  (大桑)

月曜日, 8月 02, 2004

トルコ時代のパレスチナ人、ユダヤ人の平和 (D)

本題に入る前に:
大桑さんの前回のポストにイスラエルの徴兵制のことが出てきました。歴史的な場所マサダの丘で行なわれる入隊式の話、そこから喚起されるのかもしれない若者の国民意識のことなど。そういえば、1、2年前だったか、テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります。そして最近は、兵役拒否をする若者たちが孤立しないよう、外国人が外側からその行動を支援するという活動についても聞いたことがあります。入隊する者が数として減ることで、あるいはイスラエル国内にも戦闘をしたくない者がいるということの表明で、平和への道を探ろうとしているのでしょうか。国家にとってはこれは困った問題でしょうし、その時期を迎えた若者たちにとっては命にかかわる、無自覚ではいられない切実な選択のときであることは間違いないでしょう。そして自分という個人と国家の関係を、入隊するにしても兵役拒否するにしても、はっきりと意識するきっかけとなるのかもしれません。

さて、前回、パレスチナについてのわたしの理解を書くと予告したので、今回はそれについて以下に書こうと思います。

パレスチナがいつどのように存在するようになったのか、わたしはこのプロジェクトを始める前にはよく知りませんでした。そこで「世界史年表・地図」(1998年版/吉川弘文館)というものを取り出して、世界史地図のページを繰っていきました。まず現在の西アジア・南アジア地域を確認すると、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプトなどに囲まれた地域にパレスチナの名前はありません。次に第二次大戦中(1943-1945)のヨーロッパの地図を見ます。パレスチナ、あります。次にヴェルサイユ体制下のヨーロッパ(1918-1937)の地図に目をやります。シリア、イラク王国、ネジト王国(現サウディアラビア)、エジプト王国などに囲まれてパレスチナの名前があります。次に第一次世界大戦中のヨーロッパ(1914-1918)の地図のページを繰ったとき、さっき見ていた地域にはシリアもイラクもヨルダンもなく、そしてパレスチナもなく、ただ大きく広がるトルコ帝国があるのみでした。1914年といえば、100年にも満たない過去のことです。イェルサレム、ベイルート、バグダード、そしてメソポタミアなどの文字が散らばる、大きな帝国がそこにはありました。その時期はヨーロッパにしても、イスパニア王国であり、オーストリア・ハンガリー君主国であり、ドイツ帝国であり、イギリス王国であったわけですが。

地図を見ていて思ったのは、パレスチナが国として存在していた期間はずいぶんと短い期間だったのだな、ということ。1918年以降、イスラエル建国の1948年までのたった30年間だけ存在した国だったということになります。では1918年以前、トルコ帝国時代のパレスチナ民族はどのように暮らしていたのでしょう。四方田犬彦氏によれば、オスマン・トルコ帝国下で、大シリア地方南部の一地方として漠然とパレスチナと呼ばれていたそうです。十字軍の侵略のときを除けば、「イスラム教徒とユダヤ教徒、ドルーズ教徒、さらにさまざまな宗派のキリスト教徒でさえもが、同じ帝国の臣民として、のんびりと暮らしていた」そうです。ここでは西洋諸国では一般的だったユダヤ人差別もなく、ユダヤ人も日常にアラビア語を用いて、平和的に共存していたとのことです。(「サイードとパレスチナ問題」)

ここから汲み取らなければならないこと、それは何でしょう。たとえば、パレスチナ人とユダヤ人は100年前には、同じ国の国民として、言語を共有し、宗教は違っても平和的に共存して暮らしていたという理解ができます。宗教のことにはうとい日本人は何でもすぐに、宗教的対立が問題の根と思い込むところがあるように思いますが、必ずしもそうではないんだ、ということがこのことからもわかります。では本当の問題は何なのでしょうか。あらゆる紛争がそうであるように、政治の、それも国際政治の問題がここでも最大の対立の根、ということなのでしょうか。(大黒)

マサダでの誓い (O)

あまりにも日本の現実とかけ離れた時点で書いてきたようなので、とてもわかりにくい、または、なんだかピンとこない話(または対話)、になってしまった気がするので、もう少しイメージの湧いてきそうな話をひとつ。


マサダの砦にて。

エルサレムから海抜をどんどん下がって、マイナス400メートルあたりに来ると、左手に世界最古の町、エリコが見えて来ます。そこからTの字の道をエリコとは反対の左に折れて死海を横手にさらに南下して行くこと約20分。左側のぼーっと暑く霞のかかった、波もなくただ静かに広がる死海とは裏腹に、反対の右手側には赤茶けたゴツゴツした岩肌の山々が太陽に照らされて雲ひとつない、真っ青な空の下にそびえ立つ砦があります。

マサダの砦。

1世紀の初めにローマ軍がエルサレムを奪い、そこから逃げ延びたユダヤの人々が、ヘロデ王が残したこのマサダの砦に立てこもりました。そして、ローマ軍に降伏することを最後まで抵抗したという、歴史的な砂漠の中の砦です。ここには当時1000人ほどのユダヤの人々が没落したエルサレムから逃れ、水を蓄え、町を作り、砦の下から攻めてくるローマ軍との戦いに挑みました。そして西暦73年、3年という長い月日をこの荒野のマサダで生き延びたユダヤの人々は、遂に最後の時を迎えました。山の裾野からどんどん押し寄せるローマ軍は、今にもこの高くそびえる砂漠の赤茶けた砦を攻め落とそうとしています。それを悟った9960人のユダヤの人々は、互いにくじを引きあい、誰がどの順で誰を殺すかを決めてゆきました。彼らはローマ軍に降伏してユダヤの誇りを捨てるよりも、ユダヤの誇りと共に死ぬことを選び、敵の手にかかる前にマサダの住人の960人全てが、身内によって誰がどういう順序で亡くなっていくかの、そのくじを引いたのです。

現在マサダの砦は、イスラエルでもエルサレムに次ぐ人気の遺跡観光地となっています。死海近くの山のすそからはロープウェイが砦のある山頂まで人々をあっという間に運び、ループウェイから見下ろす足元はるか下には、当時ユダヤの人々が砦まで登った「蛇の小道」やローマ軍が野営していた跡地があちこちに点々と見えます。頂上の砦跡には、宮殿のテラスや住人の使用したサウナやシナゴーグの遺跡などがあり、そこからの景色はまさに絶景といわんばかり。見渡す限り生き物の気配のない赤い乾いた砂漠と、それを照りつける太陽。そして、じっとただ横たわる幻のような死海。


イスラエルの若者は18歳になると男子は3年から4年、女子は2年間に渡って徴兵されますが、軍隊のユニットによって、その入隊式がこのマサダの砦にて行われます。そして、このマサダで敵に降伏することなく、誇り高く死んでいった彼らの先祖の魂を忘れまい、そして二度とその悲劇を繰り返さないように「Masada shall not fall again」と胸に誓います。 もしもそれまでに一度たりとして、イスラエルの土地やユダヤの民に属するということを考えたことなどなかった若者がいたとしたら、マサダの砦の入隊式は、この土地に対する思いやユダヤとしてのアイデンティティを考えるきっかけのひとつになるのかも知れません。  (大桑)

土曜日, 7月 31, 2004

今日を生きる自分、過去とのつながり (D)

まずはわたし自身への問いかけとして。今、ここ、にいるこのわたし、この人間はどのようないきさつでここに存在し何を(目的と)して生きつづけているのか。考えます。考えます。考えます。うーん、でてこない。つかみどころがみつからない。生まれた場所、育った場所、父と母、祖父母。それぞれの地名や名前を思い浮かべても、それは自然のなりゆきと家族のことに収斂していくだけで、それ以上の広がりをもって横につながっていったり、過去に深くさかのぼっていったりはしそうもないのです。

大桑さんの前回のポストに、ユダヤの人々にとって過去は記憶ではなく、現在もひとりひとりが個々の生の中に具体的に取り込んで生きる指針としているもの、その背景には歴史的事実がある、というような記述がありました。だから多くのユダヤの人々は、わたしの言う「彼らの故郷とは、幻想としての故郷ではないのか」という見方を受け入れられないだろうと指摘しています。これはもう想像力を働かせて、働かせて、彼らの言う意味を知ろうとするしかないのですが、最初に書いたように、それを考える土台がわたし(という日本人)には持ち合わせがないのです。

これはわたしが日本人として少し特別なのか、それとも多くの日本人がこのような状態なのか、はっきりとは言うことはできませんが、わたしの想像ではおおむねの日本人は、今の日本人は、そうはわたしと変わらない気持ちで生きているのではないかと思うのです。(いや、それは違う、という方がいたら、ぜひ教えていただきたいです。皮肉でもなんでもなく) つまり、日々生きる個人としての自分と、日本というコミュニティ(国)に属する、現在までの長い歴史を共有する日本人としての自分を、重ね合わせ照らし合わせて暮らしているかどうか、そのことに現実感があるのか、というようなことです。実際にはそうではないのですが、わたしたち日本人は、国家という外皮をぼんやりと意識はしているものの、自分は自分であって自分は自分の意思で生きている、のように思って生きているような気がします。そして国家がその外皮を変化させたときは、またその中で、自分は自分であって自分の意思で生きている、と感じることができるのです。それは本当のことではないのですが、実感としてそのように(受け入れ)感じて生きていくことができるということです。

そのような土台をもつ(として)日本人は、パレスチナとイスラエルのことを考えるとき、それぞれのたどってきた歴史と、その解釈によって起こる激しい対立について、立ち入ることができないと感じるか、ただ単に嫌悪感を感じるか、のどちらかに落ち着いてしまうように思います。

さて、ここまで書いてきてふと、これを読んでいる人は、おまえはユダヤ人と日本人の違いには再三ふれているけど、パレスチナはどこへいった、と思うかもしれないな、と思いました。ユダヤのことについては、日本人というアイデンティティをもちながらそれについて深く学んだガイド役の大桑さんがいるから、こうして対話を通じて少しでも近づくことができるけれど、パレスチナについてはどのように知っていけばいいのか。正直なところです。この対話を始める前に、パレスチナの成り立ちを知るために手にとった参考書は、「世界史年表・地図」(吉川弘文館)。これは紀元前3000年から現在にいたる世界史対照年表(世界の各地域が縦軸に、年代が横軸に配されて、時代ごとの各国、各地域がどのような状態だったかひと目でわかるようにしたもの)と、おおまかな時代ごとの世界史地図から成っています。わたしは人と話をしていて、本を読んでいて、テレビを見ていて、わからないことがあると、この本を取りだして事実関係を調べます。わたしの持っているのは1998年度版で少し古くなってしまいましたが、1300円という値段のわりには、とても重宝する参考書です。これを見て、パレスチナについて、どのような理解を得たかについては、次回ゆっくり書くことにします。(大黒)
 

月曜日, 7月 26, 2004

一人一人の生きた故郷としての記憶 (O)

ユダヤの人々の思う故郷は、実在する記憶としての故郷ではなく幻想としての故郷ではないかと大黒さんは仰います。それはある意味では確かにその通りなのかも知れません。前回のポストで書いたことを読み返してみると、やはりそういうふうに受け取れてしまうことにも気がつきました。これまでエルサレムとNYとに住み、様々なユダヤの人々と故郷エルサレムについて話をする機会を幾度となく持ちました。しかし、これまでユダヤの人々から故郷エルサレムは幻想の故郷だという意見を一度も聞いたことがなかったので、大黒さんのご指摘にはいい意味で驚かされたというか、新しい発見と言ってもいいかも知れません。そして実際、多くのユダヤの人々はこの意見を受け入れられないことも間違いではないでしょう。

ユダヤの暦は、私たちが日常使っているキリスト誕生を紀元とした西暦とは異なり、本日の日付は日本や他の国のように「2004年7月26日」ではなく「5765年アヴの月の8日」にあたります。そして実は、翌日のアヴの月の9日は、ユダヤの人々にはとって非常に悲しい記念日です。紀元前586年にはバビロニア人により、そしてさらに紀元70年にはローマ人によって、ユダヤの人々の生活の中心だったエルサレムの神殿が二度破壊されました。その日が偶然にも二度ともアヴの月の9日(ティシャ・ベ・アヴ)でした。その神殿の破壊以来、ユダヤの人々は、神殿の破壊と異邦人によってエルサレムから追い出され離散したことの悲劇を悲しみ続けています。神殿の破壊は決して過去だけではなく、たった今起こったかのように悲しみ、毎年このアヴの月の9日(ティシャ・ベ・アヴ)には、カラカラに乾いた炎天下の中、水一滴も飲まずに24時間の断食を行い、喪に服します。それだけではなく、その日の3週間前からは、肉類の使った贅沢な食事や散髪と髭の手入れは禁止され、人々は暑さと切なさと共に日増しに髭ボウボウのやつれた人相になってゆき、悲壮感が漂います。そして、かつて神殿の建っていたエルサレムでは、音楽演奏や祭りなどの娯楽は一切行われず、当時の神殿崩壊と離散の悲しみを街と人とが一体になり身をもって感じようとします。

ユダヤの教えの中には、過去の記憶をただ残してゆくだけではなく、その記憶を実際に現実のものとして、一人一人の生に取り込んで生きなければならないと言われます。例えば、毎年4月頃に訪れる出エジプトを祝う過ぎ越しの祭りでは、ユダヤの人々は各家庭で祭りの初夜の夕食に一家して出エジプトのしきたりに則り祈りや歌を歌い、かつてはエジプトで奴隷だったこととエジプトを後にしてから砂漠を40年の間彷徨った事などを話し合います。夕食の最後には「来年はエルサレムで」と必ず皆で歌います。その歌はエルサレムに現在住んでいる人によっても歌われ、彼らはそうして毎年エジプトからの脱出を経験します。つまり単なる過去の歴史話しでは終わらずに、先祖たちの経験は今を生きるユダヤの人々もまた経験した事実のものとして一人一人の中に生き続けます。

しかし、それでもそれは単なる疑似体験のようなものであり、実際に経験したことにはならないとも言えるでしょう。しかし、ただ単に幻想的に想像した故郷をノスタルジックに心に思い描くだけと、こうして疑似体験的経験ではあっても、かつてはそこに住みそして追われたことを一人一人の人生で起こったこととして受け止める。このふたつは異なるように思えはしないでしょうか。  (大桑)