<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978</id><updated>2011-08-03T11:41:45.509+09:00</updated><title type='text'>グロスマンを読みながら　(対話への対話)</title><subtitle type='html'></subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://grossman.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>38</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-8004410392669500816</id><published>2010-05-30T12:51:00.004+09:00</published><updated>2010-06-02T00:51:02.066+09:00</updated><title type='text'>「宗教と和平の対話」in マケドニア（O）</title><content type='html'>先日ふとしたきっかけで、インターネット上でとある短い北朝鮮旅行記をいくつか読むことがありました。これまで北朝鮮に行ったこともなければ、一般的な日本のメディアによる情報（拉致問題や軍事問題など）ぐらいしか接点がなかったわたしには、旅行記に登場する平壌の地下鉄、しかも市民がふつうに毎日使用している、そんなふつうのことすら知らなかったと自覚したことが「平壌を走る地下鉄」の事実と同じぐらいにかなり衝撃的でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、話は変わりますが、５月初旬に欧州バルカン半島中央に位置するマケドニア共和国（Република Македонија）の、オフリドという大きな湖のそばの赤い瓦屋根の小さな町を訪ねて来ました。バルカンのエルサレムと呼ばれるその町のモスクの塔や古いイコンが壁にびっしりと描かれた正教会、修道院、真っ青な空とまばゆい太陽の光に、久しぶりにイスラエルを感じました。そして世界でももっとも古い湖のひとつだと言われているオフリド湖は深く静かで碧く輝いていました。今回、このオフリドを来訪したのにはちょっとした理由がありました。ユネスコ支援でマケドニア政府主催で３年毎に行われる「&lt;a href="http://www.worldconferenceohrid.kultura.gov.mk/index.php"&gt;THE SECOND WORLD CONFERENCE ON INTER-RELIGIOUS AND INTER-CIVILIZATION DIALGOUE&lt;/a&gt; 」という、宗教と文明との対話、和平への宗教と文化的貢献、相互の尊重と共存を主題としたカンファレンスに出席するためでした。このカンファレンスでは世界各国から集まった様々な宗教家たち（キリスト教各宗派司教、ユダヤ教ラビ、イスラム教シェリク、他）や学者たちのスピーチを２日間に渡り聴講しましたが、わたしの関心はやはりイスラエルとパレスチナの問題についてでした。発表者の中には予想以上に多く（といっても両手の指の数よりも少ないですが）のユダヤ人がいたのですが、その中でも印象的だったのはエルサレムのオリーブ山在住のイスラエル国籍アラブ人（イスラム教スフィー派指導者）とユダヤ人の二人が供に手を取り合い和平を訴えたスピーチで、彼らはイスラエルでも同じようにして人々に共存と和平を訴えているということでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これまで２００４年から（気がつけばもう６年です！）大黒さんとわたしはここで主にイスラエルとパレスチナについて語って来たわけですが、わたしが何百回同じことを（または似たようなことを手を替え品を替え）言うよりも、そこに住むまたはそれに関わる他の人たちの声が必要なのかもしれないと思っていたので、この機会を逃す手はないと、先述のエルサレム在住のスフィーのシェリク（指導者）で平和活動家、カイロのユダヤ教教授（エジプト人）、イスラエル在住のユダヤ人、米国在住ユダヤ人学者など異なるバックグラウンドの５名にイスラエルとパレスチナ問題の解決法について、その答えの核心だけを簡潔に話してもらいました。以下、５名の答えです。（＊ハッサン・マナスラ氏とモハメド・ハワリ教授はムスリム、他３名はユダヤ）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（１）ハッサン・マナスラ（Ghassan Manasra） イスラム教スフィー派指導者（シェリク）/ イスラエル国ナザレ市 アンワル・イル・サラアム・ムスリム平和センター所長 （The director of Anwar il-Salaam (Lights of Peace), a Muslim peace center in Nazareth promoting tolerance and interfaith dialogue）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「解決法は二つの国家に分けることですが、諸外国からの援助金が個人資産として消え失せ、汚職まみれの政府、デモクラシーなどまったく存在しないパレスチナ側での生活を強いられるなどまっぴらごめん。居住するなら？と聞かれれば断然イスラエル側だと即答しますよ。自分たちだけでなくこれからの子供たちの将来的な希望や可能性という点で考えても、パレスチナに住むなど考えられないこと。それについては私だけではなく、私と同じ多くのイスラエル国籍のアラブ人と、そしてパレスチナ人すらも同じようにイスラエル国内で普通の生活をしたいと切に願っています。事実、壁が建設される前には多くの裕福なアラブ人たちは壁の向こうになることを避けてイスラエル側に購入した家に住まいを移しているのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はアラブ人であり、またイスラエル人であり、イスラエルがわが祖国です。しかしこの土地の和平について私がユダヤ人と対話することが必ずしも自分と自分の家族にとって良いこととは言えない。ハマスはイスラムの主流でなはいスフィー派の指導者である私を敵対視し、ユダヤ人をここから排除したいパレスチナ人からは裏切り者として袋だたきにされたこともある。息子の命をも奪うと脅されることもある。しかしそれでも自分の信念を変えるつもりなどないのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（２）マーク・ゴーピン教授（Marc Gopin）/ 米国ワシントンD.C. ジョージメイソン大学（George Mason University’s Institute for Conflict Analysis and Resolution (ICAR)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「イスラエルとパレスチナの独立した二国家が現実的な解決だが、一つに統合した国家という方法もまったくないわけではない。一国家にイスラエルとパレスチナ両方の警察（セキュリティーシステム）を儲ける、またはユダヤとパレスチナの連合（同盟）、連立政府を設けることも一国家案の実現に繋がる。いずれにしろ、現状問題としてはイスラエル国内に居住するアラブ人（イスラエル国籍）に対するイスラエル政府（左派）の扱いであり、その女性の多くは男性（アラブ人）と平等の権利、デモクラシー社会を求めているが、それを実現させるのは厳しい現状。またイスラエル国内のアラブ人の若者（〜５０歳代）は抑圧により非常に過激化している。従ってアラブ人たちに適合した住みよい社会へとイスラエル政府は大変革を行う責任がある。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（３）&lt;a href="http://www.worldjewishcongress.org/about/bio_weinbaum.html"&gt;ロウレンス・ウェインバウム博士&lt;/a&gt;（Laurence Weinbaum）/ イスラエル国エルサレム市 ワールド・ジューイッシュ議会リサーチ研究所及びイスラエル協議会外交事務長（The World Jewish Congress and The Israel Council on Foreign Relations）、The Israel Journal of Foreign Affairs 編集長&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ゴーピン教授の一国家案は賛成できない。一国にまとめることで起こる人口数移動（ユダヤ人・アラブ人）などによって引き起こる社会的な大混乱は明白であり、その他様々な理由より現実的な解決法ではない。アラブ人の若者の過激化については、仮にイスラエルが彼らの望む状況に変わったとしても、覆水盆に帰らず、一度ある状況に陥ってしまった人々をそうなる前の状態に戻すことはほとんど不可能に近く、またアラブ人女性のデモクラシーについてはアラブ人社会（男性社会）がそれを認めないことにはどうにもならないため、イスラエル社会の変化により改善されるとするのは非現実的でナイーブな見解。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエル・パレスチナ問題の解決法はイスラエルとパレスチナの二つの独立した国を作ることだが、将来的にそうなるかどうかはまったく別問題。そして、互いをtolerate（耐える）だけでは十分ではなく、respect（尊重）できるように向うべき。「耐える」ということは例えば、キッチンに出没するゴキブリにはどうしようもないが耐えている、そういうことで、「耐える」とは嫌いなものを嫌いな状態のままで受け入れているわけで、私は他人に「あなたの存在を耐えてあげましょう」とは言われたくない。それを越えたレベル、つまり「あなたを尊重します」と言われることを望む。パレスチナとイスラエルも互いにそうなる道を進むべきでしょう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（４）モハメド・ハワリ教授（Mohamed Hawary）/ エジプト国カイロ市 アイン・シャムス大学ヘブライ・ユダヤ教理学（Ain Shams University）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「イスラエルの歴代首相たちはこの問題を終結させようとは思っていないわけで、パレスチナ側がなにを提案しても満足しない。先のわからない将来に期待するよりも現時点で解決することが重要でしょう。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（５）&lt;a href="http://institute.jesdialogue.org/about/staff"&gt;レイセル・ウェイマン博士&lt;/a&gt;（Racelle Weiman）米国フィラデルフィア市 テンプル大学・ダイアログ研究所グローバル・エデュケーション＆プログラム開発副主任（Dialogue Institute Temple University）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「二つの国に分ける以外に方法はあり得ないでしょうね。イスラエルという国はユダヤ人が暮らせる唯一の国であり、そのためユダヤ人にとってなくてはならない国。イスラエルではこれまでもそこに居住するアラブ人たちとは混ざりあう部分とそうではない部分を保ちつつ共存して来たし、これからも共存して行けるはず。個人的な経験では、イスラエルで息子を出産した際、ユダヤ人である私、ドゥルーズ、そしてアラブ人の３人の女性が同じ病室にてベッドを並べ、その病院にはユダヤ人たちに混ざり多くのアラブ人医師も勤務していてたなど、それほど社会的な問題は感じられない。もちろん地域によって異なることもあるだろうが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;各国で問題として取り上げられている防御壁について。この壁の存在でこの５年間ただの一人も自爆テロの犠牲者が出ていないことがその結果といってよいが、決して壁が最終的な手段ではなく現状で必要性があってのことであり、将来的にその必要性がなくなれば取り壊せばよい。自治区の難民について。確かにそういうことになってしまったことには胸が痛むが、なぜ他のアラブ諸国が彼らの移住拒否するのか、そういったことなども考えてみるとこの問題がさらに見えて来るのでは。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上です。ここでわたしの意見を入れるべきかそのまま各自で考えてもらうか迷うところですが、少しだけ補足しておこうと思います。（１）のハッサンの意見は過去に「&lt;a href="http://grossman.blogspot.com/2004/10/blog-post.html"&gt;大衆の思いと混乱、そして光&lt;/a&gt;」のお終いで書いたこととほぼ同じです。（２）ゴーピン教授とイスラエル人作家ディヴィッド・グロスマンの考え方になんら違いは見いだせず、イスラエル批判が主の左派の典型的意見でしょう。そして（３）でもウェインバウム博士も話しているように、わたしにもゴービン教授の意見は現実的なものとは受け取れませんでした。（「&lt;a href="http://grossman.blogspot.com/search?updated-max=2004-09-16T11%3A34%3A00%2B09%3A00&amp;max-results=1"&gt;それぞれの思惑&lt;/a&gt;」の最終段落参照）。（４）エジプト人のハワリ教授の言葉はごくごく一般的なアラブ諸国民の意見であって、まあそんなところしょうという以外にありません。（５）レイセル・ウェイマン博士のイスラエルでの経験について補足しておきますが、彼女の住んでいたのはイスラエル北部のハイファというキリスト教系アラブ人も多く住む街であり、ハイファの状況がイスラエル全土に渡り同じということでもない。例えばエルサレムでは、アラブ人とユダヤ人の二つの街（社会）が個々に存在しているように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;オフリドでの「宗教と和平の対話」という場でのスピーチにどんな意味があるのか、スピーチを聴けば聞くほど「だから？そこから先、現実的にはどうするのか？」との疑問が大きくなっていたところ、この学会役員でもありインタヴューにも答えてくれたレイセル（ウェイマン博士）が壇上から「この学会後に和平について何らかの行動を起こしたりいくらかの結果を得られなかった方は、次回、３年後のこの学会へは戻って来ないで。そういう人には参加しないでほしい」と訴えたことが心に残りました。オフリド滞在中、レイセルやロウレンス（ウェインバウム博士）たちと食事を供にし毎晩夜中すぎまで語り合い、別れ際にレイセルが「これからザグレブに戻ってまずなにをするのかしら？」とこちらのモチベーションを上げてくれたことに感謝しつつ、この先、どういった行動に移るべきなのかを考えています。（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-8004410392669500816?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/8004410392669500816'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/8004410392669500816'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2010/05/in-o.html' title='「宗教と和平の対話」in マケドニア（O）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-2673211008346189591</id><published>2009-08-17T16:26:00.001+09:00</published><updated>2009-08-17T16:28:41.546+09:00</updated><title type='text'>報道と民意（D）</title><content type='html'>この対話ブログを読まれた福嶋直次さんと大桑さんとの２回にわたるやりとりがポストされましたので、わたしの考えを今度は書いてみようと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初の福嶋さんのメールでは、報道のあり方と事実関係についての疑問が中心として書かれていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;報道と事実関係の問題については、パレスチナ／イスラエル問題にかぎらず、長らく関心をもってきました。そしてこの問題を追究していって、最後に行き着くところが想像できるようになってくると、力が抜けるというか、かなり絶望的な領域に足を踏み入れそうで、今はかろうじてその境界線の手前で踏みとどまっている状態です。その一線を越えることはすべてをあきらめることかもしれず、現実として自分にできることはほとんどない、という結論に至ってしまうかもしれないからです。そうなれば、あとは仙人か世捨て人のように生きるしかありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今、その一線を越えないで、境界のところで踏みとどまっている理由は、自分以外にも、物事を「言われている」一面からだけ理解して満足しているのではない人々が、世界には少なからずいるからです。大桑さんもそうですし、疑問を感じ続けている福嶋さんもそうだと思います。さらに、学者や評論家、作家、活動家などの人々のなかに、地道に長い期間かけて、状況を調査、観察したり分析してその成果を本や映像などで伝える人々がいます。このような人々がいるかぎり、その数が全体として10％、５％、１％、、、それ以下だったとしても、この立ち場を放棄する理由はないと思っているのです。希望はある、と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近わたしが経験したことでこんなことがありました。それは「和歌山カレー事件」と言われている、1998年に起きた夏祭りでの殺人を含む毒物混入事件についてのことです。今年の５月にこの事件は、最高裁が被告からの上告を棄却したことによって、死刑が確定しました。わたしは夕刊の一面トップでそのことを知り、この事件を久々に思い出したのでした。その感想は、「ああ、死刑判決だったのだ」という以上のものではありませんでした。なぜなら、この事件についてわたしの持っている情報はごく一般的なもので、ソースはテレビのニュースと新聞報道に限られていました。ただしそれ以外の情報といっても、テレビのワイドショーや週刊誌のようなものをどれだけ熱心に見たり読んだりしても、新らたな視点が持てたとは思えませんが。事件に関するインターネットのサイトや事件にまつわる著作（があったとして）を読んだこともありませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;その後、ごく最近のことですが、Days Japanというフォトジャーナリズム誌（2009年６月号）を読む機会があって、和歌山の毒物カレー事件に触れたコラムを読みました。書き手は斎藤美奈子氏（文芸評論家）、タイトルは「和歌山カレー事件から考えた冤罪を生み出す日本の風土」というものでした。何気なく読みはじめてわたしは驚きました。「物証なし、動機も不明。状況証拠だけで下された異例の死刑判決」とのことだったからです。「目撃証言書には不審、不可解な点があまりに多く」という斎藤さんの指摘や、犯人として可能性の考えられる他の関係者の調査、吟味も行なわれていない、という記述を読んで、遅ればせながらインターネットで裁判の経緯などを読んでみました。そして裁判や判決には大きな落ち度、非合理性があったのではないか、と感じました。それは容疑者、被告となった林真須美さんが真犯人かどうか、という問題以前に、こんな審議の進め方が日本では普通に行なわれているのだろうか、という驚きでした。またわたし自身が、この事件に関して一般報道しか知らなかったことにより（きちんと読めば物証なしの事実に気づいたかもしれないのに）、「林真須美さんが真の犯人であるということ」以外の視点をまったく持ち合わせていなかったことへのショックでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;普段から報道の意図的偏向やプロパガンダまがいの表現方法に嫌悪感をもっているわたしも、刑事事件については、あるいは関心外の出来事に関しては、これほどあっさり報道の手のうちに取り込まれていたのです。では報道の手のうち、あるいはマスメディアの手のうちとは何でしょう。テレビ局や新聞社は、判決のはるか前から林さんを犯人と決めつけるような報道を流すことで、いったいどういうメリットがあったのでしょうか。そのような報道をするよう、何らかの団体の圧力とか、一般人には知り得ない裏の理由があったのかもしれませんが、そうではないのかもしれません。だとすれはそれは何？　視聴率？　報道に活気をもたらし、紙面や画面を賑わし、報道の存在をアピールするため？　それともメディアの無思想性のなせるわざ？　警察発表など一部の情報源だけに頼って記事や番組をつくっている受け身の姿勢のせい？　独自の調査や取材をしないから？　あるいはやったとしても警察発表を裏付けるものしか材料として扱うつもりがないから？　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;仮にこれらの複合的な理由から、無責任で道義的にも許されない野放し報道がなされているとしたら、情報の受け手である視聴者や購読者はどういう立ち場に立たされるのでしょう。民主主義国であると自負する日本国にあっては、「民意」というものはもちろん、政治や社会問題などあらゆる場面で都合よく利用もされてきました。選挙はひとつの典型です。特に最近では民意を反映しない発言をしたり、民意に反論したり、叱咤したりすることは政治家にとって命取りな行為。当選確率の高いポピュリスト（政治家）にはなれないでしょう。「KY」であっては今の時代政治家にはなれない、そのため空気ばかり読んでいるように見える政治家もいるくらいです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ということは、政治も、報道も、民意を反映することを一大使命としているならば、その民意の発信者であるわたしたちの思想がどこに一番現われているかと言えば、、、、それは他ならない政治の状況であったり、報道に現われている、ということになりそうです。この二つの川の流れの間には重大な断絶があって、現われていることは民意の反映ではない、と言えるのかどうか、わたしにはその自信がありません。カレー事件の林さんをあのような報道の表現の中に置くことを、そして部外者として無責任にそれを見て論評することを、「残忍な容疑者」を報道がこれでもかと繰り返したたく場面を、視聴者は潜在的に望んでいた、のかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ことはパレスチナ／イスラエルのように、あるいは日本の「民意」にとってここ最近の最大の敵である「北朝鮮」のように、歴史や政治が絡んでいる場合は、様々な見方や解釈が成り立ち、意見を言うのにも気をつかいます。合理的な解釈、公平な視点に努めて語ろうとしても、「それはあなたが○○だから味方するのでしょう」とか「○○に住んでいるから一方的な情報しか知らないのでしょう」と言われてしまうかもしれません。そういう意味で、刑事事件というのは、政治や宗教や歴史とは離れたところから語れる素材です。それだけに、最初に書いた福嶋さんの疑問である「報道と事実関係」の問題が、様々な立ち場を外して、人間の問題として、法治国家の問題として語れるのではないかと思いました。そしてそこで何らかの解答が得られたなら、それはパレスチナ／イスラエルや北朝鮮の報道のあり方についても新たな視野をもたらすはずです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分の「民意」を表わす方法というのは、選挙に行って投票したり、裁判員として裁判に加わっていれば達成できるものではありません。では何をどうすればいいのでしょう。わたしにも結論はありません。考えつづけること、くらいしか思い浮かびません。それは子供もまじえた夕飯の席で、ニュースから流れるイスラエル報道、北朝鮮報道に対して、「あんな国があるからこの世はひどくなる」などと軽率に発言することを思いとどまらせ、友人同士のカフェの会話で「林真須美って極悪そうな人相だよね」などという意味も根拠もない中傷を口ごもらせるにはある程度役立つはず。さらに、「何でそう思うの？」「何でそんな根拠のないことを平気で言うの？」と相手に口に出して言うことができれば、その人の「民意」は自立できるかもしれない。ただし、友人の何人かを失うことになるかもしれないけれど。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どんな問題であれ、報道の受け手が自分の思い込みや偏見をまず点検し、信頼にたる根拠を探し、合理的な思考、判断をしようと努力すること。そういうことによってしか報道と事実関係の溝は埋まらないでしょう。報道の問題はある意味受け手の問題だと思います。わたしの観察からは、日本で「民意」として提出されているものには、「合理的な思考」がかなり欠けているように見えることが多いです。そこのところに、わたしは大いなる距離を感じている今日この頃です。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-2673211008346189591?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/2673211008346189591'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/2673211008346189591'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2009/08/d.html' title='報道と民意（D）'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-6397188186721716709</id><published>2009-07-12T00:31:00.035+09:00</published><updated>2009-07-14T10:35:51.585+09:00</updated><title type='text'>読者からの手紙 ー DJのNaojiさんより②　</title><content type='html'>昨年１０月の投稿から随分と時間がたってしまいましたが、その前回の「読者からの手紙ーDJのNaojiさんより」へ今年始めにいただいたNaojiさんから返事です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#339999;"&gt;&lt;b&gt;Naojiさん&lt;/b&gt;&lt;/span&gt;：大桑千花さんへ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんばんは。西暦において新年を迎えました。&lt;br /&gt;大桑さんにとって良いお年になることを願っております。&lt;br /&gt;ご迷惑でなければ今年も宜しくお願いいたします。&lt;br /&gt;まず最初に大桑さんからのメールへの私からの返事が&lt;br /&gt;およそ三か月もかかってしまったことをお詫び申し上げます。&lt;br /&gt;ちなみに１０月２３日から少しずつですがお返事を書いていたのですが&lt;br /&gt;やはり三か月経過するとその文章は時系列のずれが生じています。&lt;br /&gt;以下　途中まで作っていたメールです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「大桑千花さんへ&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こんばんは。そちらは今夕方でしょうか？&lt;br /&gt;お身体回復しつつあるとのことなによりですね。&lt;br /&gt;そして私の質問を大桑さんたちのブログで利用してくださり有り難く思っています。グロスマンを読みながらの過去ログを読ませていただこうと思っているのですが夜に四時間ほどアルバイトを始めたこともあり他に時間を使ってしまいましてなかなか見させていただくことが出来ない状態です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;先日、私の地元の図書館でグロスマンさんの本を借りてきたのですが&lt;br /&gt;それも読むことができぬまま返却期限が来てしまいました。&lt;br /&gt;読める時間が作れないのに大桑さんに気軽にブログを読ませていただきますと書いてしまったことを申し訳なく思っています。どうしても自己収入に繋がるものを優先してしまいまして。。。すみません。私自身が私の遺志で大桑さんたちの”グロスマンを読みながら”を読むことを望んでいますので私は私が読める時間を作れる機会が訪れると思っています。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、ここまで少しずつ変更しながら書いていた次第です。&lt;br /&gt;でもこれはもう効力を持っていませんです。&lt;br /&gt;言い訳がましいのですがセカンドジョブを持ったことと&lt;br /&gt;私自身が引越をしたのと大桑さんの”グロスマンを読みながら”にて&lt;br /&gt;僕の疑問について取り上げていただいた記事にあった&lt;br /&gt;大桑さんがピックアップされた三つの対話記事を読んで理解してから&lt;br /&gt;私の思うことをまとめてメールにてお返事しようと考えていまして&lt;br /&gt;数回その記事を読もうと試みていたのですが&lt;br /&gt;世界史実に疎い僕にとってそれらを記憶するというか&lt;br /&gt;自分の知識内に追加しようと試みることがちょっと難しかったようです。&lt;br /&gt;ですから私は今日あきらめ半分で流し読みというか理解できなくてもいいや。。。などと思いながら読んでみました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span"  style="color:#FF6600;"&gt;&lt;b&gt;→大桑&lt;/b&gt;&lt;/span&gt;：Naojiさん、こんにちは。&lt;br /&gt;こちらこそお返事に長い時間がかかってしまい、すみません。&lt;br /&gt;この対話の場で進んでゆく時間の流れも非常にゆっくりなので&lt;br /&gt;どうぞ気長におつきあいください。&lt;br /&gt;図書館でグロスマンの本を借りられたこと、&lt;br /&gt;読んでみようと行動に移されたこと、&lt;br /&gt;それだけでもNaojiさんはもちろんのこと、&lt;br /&gt;大黒さんそしてわたし、みんなが一歩前進したように思います。&lt;br /&gt;少しでもこれまでとちがった新しい意識を持ち始める事が&lt;br /&gt;この対話の目的の一つだと思っていますので、&lt;br /&gt;時間がかかっても、ほんの小さな一歩でも、&lt;br /&gt;仮にその時はそれで終ってしまっても、&lt;br /&gt;時間と供に忘れてしまっても、&lt;br /&gt;またいつかなにかの機会に「ああそういえば、」と、&lt;br /&gt;この問題についてそれまでとはちがうなにかが見えてくれれば、と思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="color: rgb(51, 153, 153); font-weight: bold; "&gt;Naojiさん&lt;/span&gt;：大桑さんのレポートを見る限りイスラエルの地は&lt;br /&gt;元々ユダヤの民が暮らしていたのかなぁと思ったりしたのですが&lt;br /&gt;私が思うに現代においてはもう先住者がユダヤ人、&lt;br /&gt;パレスチナ人であるかという事よりも&lt;br /&gt;お互いが似通った一人間であると考えて争わないようにすることが&lt;br /&gt;ベターだと感じます。&lt;br /&gt;大桑さんのレポートでパレスチナーイスラエル問題が多くの国の関与で&lt;br /&gt;現在の問題へと引き継がれていることを少しだけ理解しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="color: rgb(255, 102, 0); font-weight: bold; "&gt;→大桑&lt;/span&gt;：はい、そういった過程があっての現状だというご理解、&lt;br /&gt;どうもありがとうございます。&lt;br /&gt;今回Naojiさんがこれまでとちがった視点に気がつかれたということで、&lt;br /&gt;これまでここで大黒さんと対話して来たことが&lt;br /&gt;少しでも実りつつあるのかもと思えました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本（または日本語）で目にするイスラエルとパレスチナ問題に関する情報はまだまだ一方的で、&lt;br /&gt;歴史的な事にしてもよくてここ１００年ぐらい過去のこと、&lt;br /&gt;それ以前、英国統治以前についてまではなかなか話しに登る機会も知る機会もない。&lt;br /&gt;この問題を考える時に１９２０年の英国統治後からか、&lt;br /&gt;それともそれ以前の何千年前に存在したイスラエル王国、&lt;br /&gt;または神がイスラエルの民にこの土地を授けた視点からなのかによって、&lt;br /&gt;まったく異る意見が出て来るわけです。&lt;br /&gt;しかし誰の土地なのかということをメインとして&lt;br /&gt;現在のイスラエルとパレスチナの問題を論議すると、&lt;br /&gt;もうただただどこまでも平行線で、&lt;br /&gt;建設的な解決への道へは繋がらず、&lt;br /&gt;論点としてはもう外してしまったほうががいいとさえ思います。&lt;br /&gt;だけど一つ言えるのは&lt;br /&gt;英国統治以前を知らずに、&lt;br /&gt;この土地が元々はパレスチナの土地なのだという情報のみを&lt;br /&gt;基にして考えるのではなく、&lt;br /&gt;ひょっとすればここはイスラエル、&lt;br /&gt;ユダヤ人の土地でもあったのではないか、&lt;br /&gt;そんな視点も交えて捉えていくと&lt;br /&gt;現在、一般に語られているような善と悪の物語のような&lt;br /&gt;単純なものではないことも気がつくでしょうし、&lt;br /&gt;これまでとは異なった視界が開けていくと思えるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そしてNaojiさんも仰るように、&lt;br /&gt;今そしてこれからしていかなければならないのは、&lt;br /&gt;そのどちらの土地なのかを宣言するための争いではなく、&lt;br /&gt;互いの存在を認め、どこに境界線、つまり国境を引くのか、&lt;br /&gt;そしてパレスチナを一国としてイスラエルから経済的、&lt;br /&gt;精神的に独立させる、それしかないのではないでしょうか。&lt;br /&gt;もう何度もこの場で言って来ているので、&lt;br /&gt;またか、と思われるかもしれませんが、&lt;br /&gt;パレスチナを一国として独立させる、それしかないと。&lt;br /&gt;欧米社会はイスラエルのやり方がアパルトヘイトだとかナチ同様だとか、&lt;br /&gt;そんな否建設的なことを言い合っている場合じゃない。&lt;br /&gt;現実的にパレスチナ単独での独立が不可能なのであれば、&lt;br /&gt;欧米諸国とアラブ諸国とが団結して独立させてあげればいい。&lt;br /&gt;故アラファト氏が活動していた頃から&lt;br /&gt;これまでもうとてつもない額と量の資金や物資が&lt;br /&gt;投資されているわけですから。&lt;br /&gt;（それがどこに消えてしまったのかという問題もありますが）&lt;br /&gt;もちろんこのパレスチナの独立という案に賛成するアラブ諸国はないわけですけれど。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;独立に関して、例えばですが、&lt;br /&gt;イスラエルでは周知の事としてこんなことがあります。&lt;br /&gt;パレスチナ自治区の人たちの多くは携帯電話を一つのみならず&lt;br /&gt;二つぐらいは所持していますが、&lt;br /&gt;それはどこから供給されているのか。もちろんイスラエルからです。&lt;br /&gt;イスラエルが彼らにそういったものを無料提供し続ければ、&lt;br /&gt;自治区の人たちは独立して自力でやっていこうなどと思わない。&lt;br /&gt;自分たちの国を作り自立し、自分たちで何もかも始めるよりも&lt;br /&gt;このまま施しにすがっている方がある意味楽なわけですから。&lt;br /&gt;そういうと&lt;br /&gt;「何言ってんだ！そんなことがあるか！みんな自立したいに決まってる！」&lt;br /&gt;と思われるかもしれませんが実際にはそういうもの、&lt;br /&gt;長年の環境からの影響もあり、&lt;br /&gt;そういったメンタリティーが蔓延っていることは否めない。&lt;br /&gt;だからこそ、本当にこのパレスチナとイスラエルの和平を願うのであれば、&lt;br /&gt;世界各国はパレスチナを独立を実現させるように動くしかないのだと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="color: rgb(51, 153, 153); font-weight: bold; "&gt;Naojiさん&lt;/span&gt;：大桑さんが言われるように&lt;br /&gt;これは二国間で解決できる問題では無いと感じます。&lt;br /&gt;なぜならこれまでの経緯においてイギリス、トルコ、シリア、&lt;br /&gt;イラク、エジプト、など、いやそれだけでなく、&lt;br /&gt;当時の世界情勢などが関与して現代につながっているようだからです。&lt;br /&gt;僕には守りたくなるほどの人種意識があまりないかもしれません。&lt;br /&gt;そのように考えると日本のアイヌ民族やアメリカのネイティブアメリカン&lt;br /&gt;の所有地を奪われてからの生活方法にある意味のリスペクトを感じます。&lt;br /&gt;ひとところにいないで移動して暮らす遊牧民にもリスペクトを感じますが&lt;br /&gt;僕自身、自宅でひとところに落ち着いて作業をしたい人間ですので&lt;br /&gt;パレスチナーイスラエルの人々の気持ちもなんとなくですが理解できます。&lt;br /&gt;私を含めた多くの人々が自分の家を持ちたいでしょうね。&lt;br /&gt;うーむ、やはり僕は意思が弱いようです。具体案が浮かびません。&lt;br /&gt;ただ武器によって人を殺す行為は痛いと思います。&lt;br /&gt;私のエゴにおいて殺害はやめてほしいです。&lt;br /&gt;具体案もなくまとまりのないお返事となっていますがご了承ください。&lt;br /&gt;それでは。福嶋直次ことNaojiより&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="color: rgb(255, 102, 0); font-weight: bold; "&gt;→大桑&lt;/span&gt;：特に日本人には民族とナショナリティーについて&lt;br /&gt;なかなか理解しにくいのが現実です。&lt;br /&gt;日本に生まれれば日本人、だけどそれがナショナリティーなのか、&lt;br /&gt;民族としてのことなのか、それすらもどこか曖昧ですよね。&lt;br /&gt;またそこに宗教が関わって来るともうこんがらがってしまって、&lt;br /&gt;どう処理していいのかわからない。&lt;br /&gt;そういう基本的な認識がとても曖昧になっているため、&lt;br /&gt;他国や他国民、他民族の問題を理解するのはとても難しいですね。&lt;br /&gt;結局は人は自分が同じような立場だったり&lt;br /&gt;似たような体験をしたりしない限りは、&lt;br /&gt;なかなか他人のましてや他国の問題など&lt;br /&gt;理解できないのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルとパレスチナの双方の国民が&lt;br /&gt;安心して住める家を持つこと、&lt;br /&gt;それにはやはり何度も言いますが&lt;br /&gt;彼らが二つの別々の国家として存在すること、それしかないでしょうね。&lt;br /&gt;ですが、イスラエルもパレスチナも、&lt;br /&gt;彼らの中東的なメンタリティーとしては、&lt;br /&gt;相手への妥協は負けと見なしますから、&lt;br /&gt;何がなんでもまずは自己主張の一点張りです。&lt;br /&gt;これは政治だけではなく隣近所の口喧嘩ですらそうなので、&lt;br /&gt;政治という晴れ舞台ではさらにいかにどれだけ自己主張したか、&lt;br /&gt;そんなくだらない子供の喧嘩のようなものにさえ思えます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;とは言うものの、&lt;br /&gt;ここ近年のイスラエルはかなり妥協案を打ち出したり&lt;br /&gt;ガザ撤退に見られるようにそれを実行したりして来ましたが、&lt;br /&gt;それでも自治区政府は手を打つ事はせずにもっと妥協しろと、&lt;br /&gt;結局なんの解決へも結びつきませんでした。&lt;br /&gt;そういったことでも少しでも変れば、&lt;br /&gt;いつかは平和に暮らせる日が来るのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ちなみに、ミュージシャンのNaojiさんにはひょっとしたら&lt;br /&gt;興味のある話題かもしれないのですが、&lt;br /&gt;欧州では毎年春にユーロヴィジョン・コンテストという歌の祭典、&lt;br /&gt;東欧、中欧、北欧、ロシアからマルタ共和国まで&lt;br /&gt;欧州の様々な国の歌によるお国自慢合戦が行われるのですが、&lt;br /&gt;中東のアラブ諸国に拒否されアジアの一国として認められてない&lt;br /&gt;イスラエルもそのコンテストに参加しています。&lt;br /&gt;（ちなみにサッカーのワールドカップでもイスラエルは欧州リーグです）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今年のイスラエル代表は、&lt;div&gt;&lt;div&gt;イスラエルではアヒノアム・ニニという名で知られ、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;８０年代後半から人気の実力派イェメン系ユダヤ女性シンガー、&lt;a href="http://www.blogger.com/www.noasmusic.com"&gt;Noa&lt;/a&gt;（ノア。日本でもCDをリリースしています）と、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;イスラエル国籍のアラブ人女性シンガーMira Awad（ミラ・アワッド）のデュオが登場し、&lt;div&gt;&lt;div&gt;「There Must Be Another Way」というヘブライ語とアラブ語、&lt;br /&gt;英語が混合した歌詞で会場を湧かせました。&lt;br /&gt;このユーロ・ヴィジョンというお国自慢歌合戦、&lt;br /&gt;欧州の各国が自国の名誉をかけたコンテストのステージで、&lt;br /&gt;イスラエルというユダヤ国家がアラブ系国民を&lt;br /&gt;国の代表者の一人として出場させ、&lt;br /&gt;しかもユダヤ人とアラブ人がヘブライ語で歌うだけでなく、&lt;br /&gt;もう一つの公用語でもありながらマイノリティーな感が拭えない&lt;br /&gt;アラブ語でも歌うというのは今回が史上初めての試みです。&lt;br /&gt;当然、イスラエル国内では知的人（この呼び方が好きではないですが）&lt;br /&gt;と呼ばれる人たちの間ではアラブ人を出場させることについて&lt;br /&gt;偽善的だと言う声も多く、賛否両論でしたが。&lt;br /&gt;これが欧州では評判の悪いイスラエルによる戦略的なアピールなのか、&lt;br /&gt;それともなにかもっと純粋なものなのかわたしにはわかりませんが、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「泣いているのは自分のためだけじゃない。&lt;br /&gt;あなたのためにも泣いている。&lt;br /&gt;痛みに名などあるはずもない。&lt;br /&gt;そして無情な空に向かって泣きながら言う。&lt;br /&gt;ほかに道はあるはずと」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういうサビの部分があります。&lt;br /&gt;つまりどちらかだけが悲しんでいるのではない、&lt;br /&gt;イスラエルでも自治区でもこれまでたくさんの人々の命が&lt;br /&gt;犠牲になってきたけれど、&lt;br /&gt;その失望と痛みと悲しみは&lt;br /&gt;自分たちだけでなく相手も同じなんだと、&lt;br /&gt;そこに敵も見方もない。&lt;br /&gt;これまでのやり方ではなく新しい方法があるはずだから、&lt;br /&gt;もう互いを憎しみ合うのは終りにしよう。&lt;br /&gt;そんなことを比喩しているのではないかと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いずれにしても現実は甘くないわけで、&lt;br /&gt;これは音楽パフォーマンスであり、&lt;br /&gt;NoaとMiraの二人が歌うこの歌が、&lt;br /&gt;イスラエルとパレスチナ問題のWake up callとなり、&lt;br /&gt;実際にユダヤ人とパレスチナ人がこのステージ上の二人ように&lt;br /&gt;手を取り合う可能性もなければ、&lt;br /&gt;世界がこれまでの過去の過ちのくり返しをストップすることも、&lt;br /&gt;世界が新しい方向に動き出すこともなかったわけですが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「これまで長く辛い道を、&lt;br /&gt;手に手を取り合って来たけれど&lt;br /&gt;涙は空しくこぼれ落ちる。&lt;br /&gt;痛みに名などあるはずもない。&lt;br /&gt;ただ明日という日が来るのを、わたしたちは待っている」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下、この歌の歌詞とYoutubeの動画です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;object width="425" height="344"&gt;&lt;param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/l7SSNTbiUb4&amp;amp;hl=ja&amp;amp;fs=1&amp;amp;"&gt;&lt;param name="allowFullScreen" value="true"&gt;&lt;param name="allowscriptaccess" value="always"&gt;&lt;embed src="http://www.youtube.com/v/l7SSNTbiUb4&amp;amp;hl=ja&amp;amp;fs=1&amp;amp;" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"&gt;&lt;/embed&gt;&lt;/object&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Einaiych (Your eyes)&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another&lt;br /&gt;Must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;עינייך, אחות / Einaich, achot&lt;br /&gt;כל מה שלבי מבקש אומרות / Kol ma shelibi mevakesh omrot&lt;br /&gt;עברנו עד כה / Avarnu ad ko&lt;br /&gt;דרך ארוכה, דרך כה קשה יד ביד / Derech aruka, derech ko kasha yad beyad&lt;br /&gt;והדמעות זולגות, זורמות לשווא / Vehadma’ot zolgot, zormot lashav&lt;br /&gt;כאב ללא שם / Ke’ev lelo shem&lt;br /&gt;אנחנו מחכות / Anachnu mechakot&lt;br /&gt;רק ליום שיבוא אחרי / Rak layom sheyavo acharey&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;عينيك بتقول / Aynaki bit’ul&lt;br /&gt;راح ييجي يوم وكل الخوف يزول / Rakh yiji yom wu’kul ilkhof yizul&lt;br /&gt;بعينيك إصرار / B’aynaki israr&lt;br /&gt;أنه عنا خيار / Inhu ana khayar&lt;br /&gt;نكمل هالمسار / N’kamel halmasar&lt;br /&gt;مهما طال / Mahma tal&lt;br /&gt;لانه ما في عنوان وحيد للأحزان / Li’anhu ma fi anwan wakhid l’alakhzan&lt;br /&gt;بنادي للمدى / B’nadi lalmada&lt;br /&gt;للسما العنيدة / l’sama al’anida&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another&lt;br /&gt;Must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;דרך ארוכה נעבור / Derech aruka na’avor&lt;br /&gt;דרך כה קשה / Derech ko kasha&lt;br /&gt;יחד אל האור / Yachad el ha’or&lt;br /&gt;عينيك بتقول / Aynaki bit’ul&lt;br /&gt;كل الخوف يزول / Kul ilkhof yizul&lt;br /&gt;And when I cry, I cry for both of us&lt;br /&gt;My pain has no name&lt;br /&gt;And when I cry, I cry&lt;br /&gt;To the merciless sky and say&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;והדמעות זולגות, זורמות לשווא / Vehadma’ot zolgot, zormot lashav&lt;br /&gt;כאב ללא שם / Ke’ev lelo shem&lt;br /&gt;אנחנו מחכות / Anachnu mechakot&lt;br /&gt;רק ליום שיבוא אחרי / Rak layom sheyavo acharey&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another&lt;br /&gt;Must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（English Translation）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another&lt;br /&gt;Must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Your eyes, sister&lt;br /&gt;Say all that my heart desires&lt;br /&gt;So far, we’ve gone&lt;br /&gt;A long way, a very difficult way, hand in hand&lt;br /&gt;And the tears fall, pour in vain&lt;br /&gt;A pain with no name&lt;br /&gt;We wait&lt;br /&gt;Only for the next day to come&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Your eyes say&lt;br /&gt;A day will come and all fear will disappear&lt;br /&gt;In your eyes a determination&lt;br /&gt;That there is a possibility&lt;br /&gt;To carry on the way&lt;br /&gt;As long as it may take&lt;br /&gt;For there is no single address for sorrow&lt;br /&gt;I call out to the plains&lt;br /&gt;To the stubborn heavens&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another&lt;br /&gt;Must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;We will go a long way&lt;br /&gt;A very difficult way&lt;br /&gt;Together to the light&lt;br /&gt;Your eyes say&lt;br /&gt;All fear will disappear&lt;br /&gt;And when I cry, I cry for both of us&lt;br /&gt;My pain has no name&lt;br /&gt;And when I cry, I cry&lt;br /&gt;To the merciless sky and say&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;And the tears fall, pour in vain&lt;br /&gt;A pain with no name&lt;br /&gt;We wait&lt;br /&gt;Only for the day to come&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another way&lt;br /&gt;There must be another&lt;br /&gt;Must be another way&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ありがとうございました。（大桑）&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-6397188186721716709?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/6397188186721716709'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/6397188186721716709'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2009/07/djnaoji.html' title='読者からの手紙 ー DJのNaojiさんより②　'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-8288622924911890340</id><published>2008-10-22T06:37:00.025+09:00</published><updated>2009-07-11T23:34:25.715+09:00</updated><title type='text'>読者からの手紙 ー DJのNaojiさんより</title><content type='html'>先月の9月に読者さんのNaojiさんというDJをされている方から届いた手紙です。TBSで放送されたイスラエルとパレスチナの関係を取り上げた番組を観られての疑問です。Naojiさんと同じように何らかの疑問をもたれた方が他にもいらっしゃるかもしれないし、そうではないかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下、Naojiさんの質問と大桑の返答です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,153,153)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;Naojiさん&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,51,51)"&gt;始めましてこんばんは。&lt;br /&gt;福嶋直次といいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;コメントなどはしたことが無いのですが&lt;br /&gt;以前から大桑さんのBlogを読ませていただいております。&lt;br /&gt;僕は自分自身を怪しいものでは無いと思いたいのですが&lt;br /&gt;確固たる自信がありませんのでその判断は大桑さんにゆだねます。&lt;br /&gt;身元不明も不安材料になるかもですので&lt;br /&gt;始めに僕のこと紹介しておきます。&lt;br /&gt;下記のリンクが私が管理しているプライベートスペースです。&lt;br /&gt;http://djnaoji.ddo.jp/&lt;br /&gt;http://us.myspace.com/djnaoji&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここから本題に入らせていただきます。&lt;br /&gt;先日私は日本のTBSのNews23を見ていたのですが&lt;br /&gt;その番組内でイスラエルとパレスチナの関係について&lt;br /&gt;20分ほどの放送がされました。&lt;br /&gt;私にとってその番組はパレスチナサイドからの視点に感じられたのですが&lt;br /&gt;実際に過去イスラエルで過ごされていた方は&lt;br /&gt;どのように感じられるのか知りたいと思いメールしてみました。&lt;/span&gt; &lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(255,102,0)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;→大桑&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：Naojiさん、こんにちは。&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: italic"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: normal"&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: italic"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: normal"&gt;こちらからその番組が観られるようにと&lt;br /&gt;Naojiさんが設定してくださったのですが、&lt;br /&gt;残念ながらこちらからは観られなかったため、&lt;br /&gt;イスラエルとパレスチナの問題を扱った報道の裏側について少々。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしをはじめ在イスラエルの邦人は、&lt;br /&gt;各々様々な理由でイスラエルに住んでいるわけですから、&lt;br /&gt;イスラエルという国に対する思いも様々だと思いますが、&lt;br /&gt;こういった報道に対する意見の多くは&lt;br /&gt;「現状とはかなりちがうのでは」というものです。&lt;br /&gt;例えば、以前にも他のブログなどでも書いたのですが、&lt;br /&gt;よくニュースなどで映し出される&lt;br /&gt;パレスチナの少年たちが&lt;br /&gt;イスラエル軍に向かって投石する姿すらも、&lt;br /&gt;報道カメラマンたちがずらりと待ち構えるところで&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: italic"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: normal"&gt;指示に従って少年たちが「ハイ、いっせーのーで！」&lt;br /&gt;遠くに向かって石を投げ、&lt;br /&gt;向こう側はIDF（イスラエル軍）の兵士がいるように&lt;br /&gt;あとで編集する。&lt;br /&gt;それが事実として報道される。&lt;br /&gt;そこには報道側とアラブ諸国やパレスチナとの&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: italic"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: normal"&gt;なんらかの利害関係があるのかもれません。&lt;br /&gt;もちろんこういう作られたものがすべてではないですし、&lt;br /&gt;実際に目に当たりでもすれば失明しかねるほど思いきり&lt;br /&gt;IDFの兵士目がけて投石している場合もあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、ラマッラというパレスチナ自治区の街では、&lt;br /&gt;テレビで見る悲惨な土地とは思えないほど裕福で、&lt;br /&gt;豪邸が建ち並んでいる一郭に&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: italic"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: normal"&gt;瓦礫の山の場面用の場所が作られている。&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: italic"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-STYLE: normal"&gt;そんなこともあります。&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;この土地に関する報道の何をどこまで信じていいのか、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;まずそこに疑問が起きますね。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,153,153)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;Naojiさん&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(102,102,102)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,51,51)"&gt;報道されていることは真実の一面であるとは思っているので&lt;br /&gt;それらが完全な嘘だとは思えないのですが&lt;br /&gt;国などの争いの場合お互いの主張で争いの理由が&lt;br /&gt;複雑な場合が多いと思います。&lt;br /&gt;しかしながら僕にはそのNews23の報道がイスラエルが&lt;br /&gt;酷いことをしていると報道しているように感じるのです。&lt;br /&gt;実際にイスラエルがワンサイドで殺害などをしているのでしょうか？&lt;br /&gt;パレスチナの人々はいわれのない虐待を受けているのですか？&lt;br /&gt;その報道では60年前にフォーカスが当てられているようなのですが&lt;br /&gt;それらの問題は60年前以前については重要視されないのでしょうか。。。&lt;br /&gt;僕個人はTV Newsがディレクターの一思想を&lt;br /&gt;民衆に一方向的に押し付けるものではないと信じたいので&lt;br /&gt;大桑さんに感想を聞かせていただけたらと思いました。&lt;br /&gt;図図しいですね。僕、、、&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(255,102,0)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;→大桑&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：いえいえ、本当に図々しい人は&lt;/div&gt;&lt;div&gt;自分で図々しいとはいいませんから大丈夫です（笑）。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;世界の視線を集めたいパレスチナ側は&lt;br /&gt;イスラエルによる虐待などを&lt;/div&gt;&lt;div&gt;まったくの事実だと主張するでしょうし、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;国家としてのイスラエルはそれは事実ではないと言うでしょう。&lt;br /&gt;だけどもしかしたら、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;イスラエルの左派はパレスチナ側と同じく&lt;br /&gt;それは事実だと言うかもしれません。&lt;br /&gt;どこまでなにが本当なのかは&lt;br /&gt;外からでは非常にわかりにくいのも事実です。&lt;br /&gt;どちら寄りのメディアが伝えるのかによって&lt;br /&gt;まったく事実ではないことが&lt;br /&gt;まるで事実かのように伝わることはよくあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしはIDF（イスラエル軍）の行動の&lt;br /&gt;すべてが正しいとは言いません。&lt;br /&gt;正直言ってなんてバカなことをしてと&lt;br /&gt;呆れることも多々ありますし、&lt;br /&gt;イスラエルに対して「もっとかしこくなれ」と言いたい時も&lt;br /&gt;たくさんあります。&lt;br /&gt;ですが、とどのつまり「軍」というもの、&lt;br /&gt;アメリカにしても国連にしても、&lt;br /&gt;かつての日本軍にしても、&lt;br /&gt;かなり身勝手でバカなことをするものだと。&lt;br /&gt;ですが、イスラエル側による自治区の民間人を殺害せよという&lt;br /&gt;指令はないと思っています。&lt;br /&gt;軍を退職した友人などからもそういったことは&lt;br /&gt;聞いたことはありませんし、&lt;br /&gt;現役で兵役に就いている20代の男の子に聞いても&lt;br /&gt;そんなことはないと言います。&lt;br /&gt;ですが、人生経験の少ない若い兵士たちの行動は未熟で、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;間違いも多いでしょう。&lt;br /&gt;（沖縄で起こる様々な事件をみてもお分かりだと思います）&lt;br /&gt;戦闘中に民間人を巻き込んでしまうこと、&lt;br /&gt;思い違いはあるでしょう。&lt;/div&gt;&lt;div&gt;敵の主要人物を暗殺する、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;その時に民間人が巻き添えになったりする、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;戦争や紛争とはそういうものだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;虐待について。&lt;br /&gt;番組を観ていないので&lt;br /&gt;何をどう虐待と言っているのかわかりませんが、&lt;br /&gt;例えばガザ地区などのゲート封鎖による物資断絶、&lt;br /&gt;仕事の激減などによって起きる&lt;br /&gt;自治区の生活苦などの問題ですが、&lt;br /&gt;これをイスラエル側による虐待と非難するのか、&lt;br /&gt;それとも自治区が独立して経済を立て直してゆけるように&lt;br /&gt;サポートするのか、そのどちらが大切なのかと。&lt;br /&gt;イスラエル非難ではなく、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;どうしたらそんな自治区が独立してゆけるのか、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;そういった視点で語られなければいけないのではと。&lt;br /&gt;そしてこういった封鎖が起きるには、&lt;br /&gt;その前にハマスなど自治区側による&lt;br /&gt;イスラエルに対する攻撃やテロがあるということ、&lt;br /&gt;そのリアクションであるということ、&lt;br /&gt;しかしそれらはニュースにもならなかったり、&lt;br /&gt;語られないことも多いということ。&lt;br /&gt;そして、もう一つ踏み込んで言えば、&lt;br /&gt;なぜ他のアラブ諸国は&lt;br /&gt;それほど酷いという自治区の立て直しをサポートしないのか、&lt;br /&gt;なぜ彼らは同じ宗教を持つ者として、&lt;br /&gt;せめてムスリムのパレスチナ人の受け入れをしないのか&lt;br /&gt;（パレスチナ人にはキリスト教徒もいます）。&lt;br /&gt;そのことはなぜ誰も指摘しないのか。&lt;br /&gt;（このブログでは過去にそれについて触れていますが）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;&lt;br /&gt;60年前以前について。&lt;br /&gt;イスラエル建国前後のこの60年以前を持ち出すと&lt;br /&gt;一方的にイスラエルを非難するのに都合が悪くなるわけで、&lt;br /&gt;それでたいていは無視されています。&lt;br /&gt;もし誰かがこのイスラエルとパレスチナの問題について語るとき、&lt;br /&gt;私個人としてはそこをきっちりと見直す必要があると&lt;br /&gt;思っています。&lt;br /&gt;この対話ブログでも&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「&lt;a href="http://grossman.blogspot.com/2004/08/blog-post_06.html"&gt;パレスチナとは何を指すのか&lt;/a&gt;」（大桑）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「&lt;a href="http://grossman.blogspot.com/2004/08/d_14.html"&gt;何と何がこの土地では本当に対立しているのか&lt;/a&gt;」（大黒）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;「&lt;a href="http://grossman.blogspot.com/2004/08/o.html"&gt;パレスチナ問題の発端&lt;/a&gt;」（大桑）&lt;/div&gt;&lt;div&gt;で、60年前よりもっと前の、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;この土地の歴史について書いていますので、&lt;/div&gt;&lt;div&gt;ご興味があればぜひ読んでみてください。&lt;br /&gt;いかにねじ曲げられたかということが少しは見えて来ると思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,153,153)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;Naojiさん&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,51,51)"&gt;ただ不思議なのがTV Newsなどで頻繁に言論について&lt;br /&gt;責任を持つべきであると言っているTV局関係者が&lt;br /&gt;自分たちが世界に向けて発信しているNews発言について&lt;br /&gt;その議題の番組を再確認しながら討論する機会を&lt;br /&gt;民に与えていないのが理解できないところがあります。&lt;br /&gt;（有料ならば可能なのでしょうが、&lt;br /&gt;多くの民衆は映像使用料金や制作費を作ることが出来ないでしょう。）&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(255,102,0)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;→大桑&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：そうですね、&lt;br /&gt;本当に解決に向けてのための報道であれば&lt;br /&gt;一方的な視点でなく、&lt;br /&gt;様々な角度や過去の時代からの視点も含めるべきではないかと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですが、中東問題についての報道は複雑ですね。&lt;br /&gt;イスラームの石油大国のスポンサーや&lt;br /&gt;その他様々な利害関係がバックにあるなど、&lt;br /&gt;外国の大手、BBCやCNNにしても&lt;br /&gt;「真実を伝えるための報道」ではないと思っています。&lt;br /&gt;TBSのくわしい立ち位置はわかりませんが、&lt;br /&gt;日本の報道の90％もしくはそれ以上が親パレスチナの視点、&lt;br /&gt;「かわいそうなパレスチナとイスラエルの悪事」&lt;/div&gt;&lt;div&gt;にスポットにあてての報道でしょうね。&lt;br /&gt;そのほうが視聴率も上がるし、&lt;br /&gt;番組のコンセプトとしてはおもしろいのかもしれません。&lt;br /&gt;そういった報道の意味とゴールがわかりませんし、&lt;br /&gt;わたしからすれば、パレスチナ自治区のあり方の問題定義をして、&lt;br /&gt;そこからの改善をしていく時期だと思っています。&lt;br /&gt;いくらイスラエルを非難しパレスチナの&lt;br /&gt;お涙ちょうだい物語を語っても&lt;br /&gt;堂々巡りなだけではないでしょうか。&lt;br /&gt;パレスチナ自治区を立て直すことを目的として&lt;br /&gt;自治区の一部の市民の悲惨な状況を世界に知らせるのであれば、&lt;br /&gt;それはそれでよいと思いますが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,153,153)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;Naojiさん&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(51,51,51)"&gt;極端に言うと&lt;br /&gt;放送が終わったらその映像について知りませんのようなのは&lt;br /&gt;なんとなく私にとって不可解なのです。&lt;br /&gt;そのような勝手な理由でメールいたしましてすみません。&lt;br /&gt;怪しいものかどうか判断してご対処ください。&lt;br /&gt;それでは宜しくお願いいたします。&lt;br /&gt;長文失礼いたしました。&lt;br /&gt;ふぅ疲れた。。。僕は何をしているのでしょう。。。&lt;br /&gt;すみません。&lt;br /&gt;Naojiより&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="COLOR: rgb(255,102,0)"&gt;&lt;span class="Apple-style-span" style="FONT-WEIGHT: bold"&gt;→大桑&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;：テレビ局の報道も以前のように&lt;br /&gt;真実を伝えるための物ではなくなりつつありますし、&lt;br /&gt;責任ある報道は少ないのではないでしょうか。&lt;br /&gt;報道だけに限らず、視聴率をあげるために&lt;br /&gt;おもしろおかしく構成される番組も少なくはないでしょうね。&lt;br /&gt;いま自分たちはそういう時代に生きているわけですから、&lt;br /&gt;その番組を観られて、それをそのまま鵜呑みにされず、&lt;br /&gt;こうして疑問を持っていただけるのはよいと思います。&lt;br /&gt;ただ、Naojiさんのように疑問を抱いても、&lt;br /&gt;それを解いてゆく手だてがあまりにも限られているため、&lt;br /&gt;どうしようもないことも多いのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;どうもありがとうございました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/div&gt;&lt;div&gt;（大桑）&lt;/div&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-8288622924911890340?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/8288622924911890340'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/8288622924911890340'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2008/10/djnaoji.html' title='読者からの手紙 ー DJのNaojiさんより'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-259431939578583651</id><published>2008-10-22T05:43:00.012+09:00</published><updated>2008-10-22T20:27:30.273+09:00</updated><title type='text'>大黒さんへの返信　(O)</title><content type='html'>6月30日の大黒さんのポストを読んでいくと「たくさんの宿題を出された夏休み」そんな気分です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、まずは個人的なわたしの気持ちの変化について少々。今年の冬の終りにエルサレムを出てから半年以上過ぎたわけですが、予想どおり、これまでの「生活の場としてのイスラエル」で見失っていたものが見え始めた、大げさにいえば汚れを取り除いてきれいになった石みたいなものでしょうか。今こうしてイスラエルとの距離を少し置くことによって、イスラエルのよい面がふたたび光りはじめて来ました。そしてイスラエル人でもアメリカ人でもないちがうタイプのユダヤの人たちや、そういったユダヤのコミュニティーを知ること、それによってさらにグローバルでダイナミックなユダヤ世界とその他の世界の関わりが見えて来るのでは、そんなことを思っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ザグレブに来てからここしばらく、わたしはクロアチアの一政党の党首でもある友人の話しから考えさせられることが多く、「過去の歴史を忘れ、互いを尊重しあい、そこから共存が生まれる」とその彼は言います。たしかにそうだと思います。わたしもこのブログで似たようなことをイスラエルとパレスチナの解決策として言って来たと思います。世界が、いかにイスラエルがくだらない悪事をし続けているかを声を大にして非難し続ける結果は解決には結びつかないでしょう。それよりもさらに憎しみが生まれると。しかし過去を謝罪し互いを認めあう、これは現実として可能なのか。人はなかなかそう簡単に自分や家族に対して行われたことは忘れませんし、墓場まで持って行ってもまだ足りない。子や孫、子孫にその憎しみを受け継がせる。身近なところでは日本と韓国と中国の関係、国内では部落問題、在日韓国人や中国人への差別など、過去に基づいたそれを双方が引きずっての今ではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;クロアチアのユダヤ人たちをみていても、彼らはまだゲットーに住んでいる、時々そんな気がします。ファシスト思想のウスタシェ（一般的に英語や日本語ではウスタシャですが、クロアチア現地の言葉ではウスタシェが組織の総称。ウスタシャは単数個人を指す）の色濃いクロアチアで、戦後60年以上たってもユダヤ人はホロコーストを忘れず、ホロコーストをテーマにした学会や展示会、家族を自民族を虐殺された記憶はいまだに薄れることなく語り継がれます。それまで存在していたユダヤ社会と文化、家族を失った側とすればそれは当然のことなのかもしれませんが。また、90年はじめにユーゴスラヴィアから独立したクロアチアの人たちの隣国セルビアの人たちへの排除の念もいまだに沈下することなく燻り続けています。きっかけさえあれば、また同じことがくり返すされるでしょうね。自己の利益やエゴ、憎しみ、痛み、それらを乗り越えてまで本気でその紛争を終えようとしている人たちはいるのか。以前、戦争のない世界は来ると思うかと尋ねられたことがありましたが、来ないでしょうというのがかなり楽観的な人間であるわたしの答えでした。くり返される人の歴史からも隣近所のいざこざからも、それははっきりしています。文明は進化しても人は進化しない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、今回の投稿はすでにあれこれ詰め込み過ぎですが、前回大黒さんが書かれた「イスラエル/パレスチナ問題についてのリベラルな発言」と「アメリカと日本のイスラエル/パレスチナ問題の受け止め方のちがい」について。もしかしたらわたしが呆れ顔かと言われますが、そんなことはないですよ。誰にでも「ピン！」とくる話しとタイミングがあると思いますから。大黒さんが聞かれたオバマ氏のスピーチは聞いていませんが、ニュースの記事には目を通しました。イスラエルではアメリカの政治家のイスラエルに対しての発言がテレビで放送されることがあったり、イスラエルの英字新聞 Jerusalem Post ではそれらの発言がよく取り上げられていて、大黒さんが驚かれたという彼らの視点はそれほど珍しくもなく耳にします。それよりも、そういったアメリカの発言が新鮮であるということが、わたしにとっては新鮮で興味深かったです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「日本のリベラルな発言」というもの一般について、実はわたしはそれがどういうものなのかよくわかりません。大江氏のサイードに対する理解も「ピン！」とこず、リベラルと言われる報道やジャーナリズムも偏りが目につくだけで「これだ！」と思うものに出会ったことがない。2000年あたりのイスラエルとパレスチナのきな臭い頃、同じ事件をいくつかの新聞で読み比べても、朝日新聞は意図的なフィルターがかかり過ぎていてとにかく在イスラエルの邦人の間では不評でしたし、客観的で中立とも言えそうなのは読売、それよりもさらに事件の詳細のみを伝えるのに徹底しているロイター、そんなところでした。イスラエルに住む者からすれば、日本は他人の火事を横で冷やかし楽しんでいるような、どこかの夫婦げんかにわざわざ首を突っ込み感情的にそのどちらかだけに加担しているような、そんな気がします。もし日本にもユダヤの人が多く住んでいたり政治家にいたりすると現状とはまたちがった報道や意見が出るのでしょうけど。少し前にひとりの読者から日本の報道に対し疑問を感じられるという手紙をいただきました。まさに大黒さんとのこの対話の意図するところの一つだと思うので、わたしの返答と供にまたのちほどこちらに掲載しますね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、一方では賞賛され、もう一方では歴史をねつ造しているとんでもない嘘つきであるとすら言われることもあるサイード。彼が日本でそれほど賞賛されている間は、このイスラエルとパレスチナの問題を理解することは無理ではないかとも思えます。誰が誰を賞賛してもかまいませんが、そこからどう真の和平に繋がるのか、そこから生まれるものは何なのか。これから大黒さんとサイードの本を読んでいくうちに、もっとなにか具体的にそういうことが見えてくればおもしろいと思います（この対話をはじめてからサイードの本を実は一冊読みました。今手元にないのでどの本だったか題名は忘れましたが、自伝のような一冊でした）。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大黒さんはサイードとグロスマンはちがった立場だと言われますが、わたしからするとサイードもグロスマンも同じサイドの人間だといっても過言ではないと。というのは、グロスマンはイスラエルの左派、しかも極右という言葉に対しての極左、つまりパレスチナ側にかなり近い意見の持ち主であるといってもいいかもしれません。2年前にグロスマンの息子さんがレバノンで戦死した後、果たしてグロスマンはそこからどう変わるのか、そこに興味がありましたが、テル・アヴィヴで（だったと思いますが）行われた息子さんの追悼スピーチではむしろさらに反イスラエル、イスラエル否定の思いが強まったように映りました。今年はイスラエル建国60周年ということで、わたしもそれにちょっとだけ参加させていただきました。いま生活しているクロアチアの首都ザグレブでイスラエルの写真展「No Concept 60」を5月〜10月まで行いました。しかし主催側の左派のユダヤ人女性とのイスラエル建国と現在に対する意見の違いから、写真の選択は主催側に任せたのですが、左派の反イスラエルの主張は理解に苦しみます。グロスマンの時にも思ったように、その時も今後イスラエル国内の分裂はさらに拍車がかかるだろうなと思わずにはいられなかった。長くなるので詳細はまた他の機会にでもお話ししますが、建国60年が過ぎて、かなりの数のユダヤ人ではないロシア人の移住や年々進むユダヤ人の世俗化によって、イスラエル＝ユダヤ国家というコンセプトは過去のものになる可能性すらある。今のイスラエル、これからのイスラエルがどうなるのか、ユダヤのアイディンティティとその混乱という意味もあって未来展望がNo Conceptなイスラエルとしたのですが、ユダヤ人国家としてまたは単にイスラエルというひとつの国の100周年は来るのか、どうでしょうか。40年後のその時、誰かがこのブログを読み返すことがあったらおもしろいでしょうね。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-259431939578583651?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/259431939578583651'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/259431939578583651'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2008/10/o.html' title='大黒さんへの返信　(O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-5776318240493594515</id><published>2008-06-30T09:50:00.003+09:00</published><updated>2008-06-30T10:07:38.507+09:00</updated><title type='text'>大桑さんの旅、わたしの旅、答えではなく（D）</title><content type='html'>前回の大桑さんのポスト「終りは新しい始まり」を読んで、その率直な書きぶりに少なからず驚き、心うたれた。自身のユダヤへの道のりについての気づき、そしてイスラエルの現状と未来についての考え、最初に大桑さんに出会ったときから聞いてみたかったこと（でもそんなに簡単に聞くことも、答えることもできるものではない、とも思っていた）、それがこうして今、率直に誠実に語られている。そのことに驚きもしたし、何かひとつ突き抜けたような、あるいはふと気づいたらそこにあった山を越えてその向こう側の景色を眺めていた、というような気分になった。終りは新しい始まり。エルサレムを離れたことで、新たな視点が引き寄せられたのかもしれないと思った。人は自分が足を置いている地面、地形、風景、気候、地理条件、それらのものから思っている以上に影響を受け、木や草や野生動物同様、土地の一部として存在しているのかもしれない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それと大桑さんの今回のポストを読む前になるが、わたしの方にも変化があった。ここでも何回か書いてきた自分の「無神論」あるいは「非宗教」的指向に対して、顧みる機会があった。それはその思考の内容そのものに対してというよりは、そう「宣言」する自分の態度、考えの示し方に小さな疑問をもったのだ。何らかの信仰を持つ人々に対して、もともと否定する気持ちはなかったけれど、理解があったかと問われれば、それもなかったように思う。ことさら「わたしは無神論者である」と「宣言」しなければならない理由はどこにあったのか。そう言わずにおれない気持ちというものがはっきりあるとするなら、神の存在や宗教をめぐるもろもろのことをおおまかに括って、おおざっぱに否定し嫌っていた、という可能性もある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このことに思い至ったのは、ある本を読んでいるとき、シカゴの黒人教会に触れた部分があり、教会というものがその地域の中で担っている役割に目を開かされたからだ。社会の最下層で暮らし、貧困や慢性的な差別の中でかろうじて日々を送っているアフリカ系アメリカ人の人々の面倒をなんであれまるごと引き受けている、それが地域の黒人教会ということであった。そこでは個人的救済と集団的救済をわけて考えられるような贅沢はなく、精神生活だけでなく食料や着るものなど日々の生活や生命維持に欠けているものを埋め合わせていた。こんなことは初めて聞くことではないし、そのこと自体に驚いたわけではない。日本という環境の中で、「自分の自由意志」で信仰を否定したり、信仰にのめり込んだりすることとは決定的に違うものが存在するのではないかと思ったのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;宗教一般に対する自分の敬遠や拒否的な気持ちは、もしかしたら子ども時代、家に病人が出たときどこから聞きつけたか宗教関係の勧誘者が次々やって来て、入信を勧め、迷惑を顧みず居座り、日参する、その執拗さや人の弱みにつけこむ精神の貧しさに呆れ、怒りを感じたことが元になっているのかもしれない。自分の宗教観について今回考える過程でふと思い出したことで、一要素にすぎないかもしれないが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんと東京でお会いしたとき、大桑さんのパーソナリティとその基本的な考え方に触れ、そのこととユダヤの思想を結びつけて考えることはなかったが、前回のポストを読んで納得がいった。そして、たとえば物質（文化）との希薄な関係性（物欲のなさ）、人と争うことへの絶望感、拒否的な気持ち、が違った価値観の世界への旅の始まりになっていたのだと知った。濃度は別にして、どこの国の人であれ多くの現代人が空気のようにまとっている物質主義、競争社会、そういった逃れられない環境に対して異議を唱えることから始まった旅なのだということがわかった。そしてわたしも、葉っぱの坑夫を始めた理由の根本を思い返せば、市場至上主義や日本社会の一様性、排他性への拒否感が強くあり、違う道を探したい、オルタナティブな可能性を見つけたいということから始まったものだった。文学やアートそのものから出発したのではない。いやそうではなくて、文学やアートの中に光が、道が、可能性があると感じたのだ思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;信仰のあるなしや宗教観の違いは、根本の違いとはならないのかもしれない。どっちを向いて歩いているのか、何を探し求めているのか、そのことが問題なのだ。そう考えると、今更だけれど、何年か前に大桑さんが葉っぱの坑夫を見つけてくれたこと、メールを送ってくれたこと、作品を送ってくれたこと、そのことと今はしっかり繋がっていると感じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＊　＊　＊&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、大桑さん、６月初旬にアメリカのユダヤ人ロビイストの前で、アメリカ大統領候補バラク・オバマ氏がやったスピーチを聞かれましたか？　あるいはそちらのユダヤ人社会の中で、この演説が話題になったりはしていませんか？　わたしはたまたまテレビで見る機会があったのですが、アメリカからみたイスラエルという国、イスラエル／パレスティナ問題、周辺アラブ諸国についての考えがわかって興味深かったです。もちろん政府見解ではなく、オバマ氏という大統領候補、民主党上院議員の語ったことですが。オバマ氏独自の話法というものもあり、またユダヤ人ロビイスト（AIPAC＝アメリカ・イスラエル公共問題委員会）の前でのスピーチということもあって、そこに照準を合わせて話していることは間違いないですが、それを差し引いても、全体として非常に面白かったです。イスラエル建国の正当性や現在のイスラエル国民の置かれている状況と安全確保の重要性、そしてこの問題の解決法と将来の青写真について耳にすることが、こんなにも衝撃的であるとは自分でも驚きでした。いかに日本では違った側面からこの問題が語られているか、ということなのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエル建国60年ということで、日本でも新聞などに関連記事が掲載されることも少なくないですが、朝日新聞では少し前に「歩く／パレスチナ60年／シャティーラの記憶」というシャティーラ難民キャンプを訪ねてインタビューしたコラムが15回に渡って載りました。一般に、そしてリベラルと日本で見られているメディアや知識人、それを信望する読者にとっては、この視点こそがパレスチナ／イスラエル問題を見るとき語るときの、唯一といっていい「ジャーナリスティックな」ものと思われている節があります。そういう日本に住むわたしだから、オバマ氏のスピーチが不思議な響きをもって聞こえてきたのでしょう。これだけこの対話ブログで話し、学んできたはずのわたしがこんなことを今更言うなんて、大桑さんはさぞかし呆れ顔をされているでしょうね。でも日本に住んでいるということがどういうことなのか、それを知っていただきたくて正直に書きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;朝日新聞に限らず、日本でリベラルとされている主流の論調を紹介すると、日本でそこそこまっとうと思える発言をしたり、本を書き、記事をメディアに載せているリベラルな人々、わたも一読者であったりする作家や学者、批評家たち、その人たちの多くが絶対的信望を寄せているのが、パレスチナ系アメリカ人批評家エドワード・サイードです。四方田犬彦や姜尚中、大桑さんも読者という大江健三郎もサイードの賞賛者であり、友人でもありました。「グロスマン」を始めるとき、大桑さんにサイードについて聞いたら、まだ読んだことがないと言われていましたね。わたしは何冊か本は持っており、イスラエル問題に関する部分も読んではいますが、いまだ汲み取れるものを得ていません。もともとこの対話ブログでイスラエルのユダヤ人作家、平和活動家のグロスマンを選んだのも、サイードとは違った立ち場でこの問題について語れる知性、ということがありました。この対話のきっかけのひとつでもあるデイヴィッド・グロスマンの「死を生きながら／イスラエル1993ー2003」は出版後４年たっていますが、日本ではそれほど話題にもなっていませんし、グロスマンの名前もメディアで見ることがほとんどありません（２年前、グロスマンの息子がレバノンで戦死したとき小さな新聞記事になりましたが）。そこで思ったのですが、グロスマンをいっしょに読んでから４年、サイードを読んでみるというのはどうでしょう。適当な著書があるか少し探してみて、もし見つかれば日本語版をクロアチアにお送りしますが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この対話ブログを読んでいるかたは、この書き手二人は、二人の真意はいったいどこにあるのか、いったい何派なのか、と疑問に思われているかもしれません。何か発言する人は、ある目的があって、ある立ち場があって、それにそって論理を展開し、その正当性を訴えるものだからです。でもわたしたちは（大桑さんもそうではないかと思うので）、さまよい、さすらい、横道へもときにそれ、ときに勘違いも起こし、でもそうやって問いを発しながら考えるということをやっているのだと思うのです。問いをもち、考えつづけることが、答えを得て安心することより大切ではないかと思っているのです。間違った発言をすることにも、それほど大きな恐れは抱いていません。ただし間違ったと気づいたら、その考えの経緯を書き、なぜそう思うに至ったかを書くと思います。それは自分一人に起こる間違いではなく、他でも、他の人の中でも起こりうる考え、理解の仕方だと思うからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;野次馬的な興味をひとつ。バラク・オバマ氏は日本でも著書が翻訳され、リベラルな知識人、論客、そして朝日新聞の記者などからも、かなり好意的な支持を得ているように見えます。しかし上にも書いたように、オバマ氏はアメリカ大統領候補であり、アメリカ人という立ち場から常にものを語ります。イスラエル問題への発言のように、それは日本のリベラルな知識人のこれまでの考え方の基本とはかなり違ったものが含まれています。その亀裂を論客たちはどうやって埋めながら話しを展開していくのか、もしオバマ氏が大統領になったときには、注意深く観察していきたいと思っています。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-5776318240493594515?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/5776318240493594515'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/5776318240493594515'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2008/06/d.html' title='大桑さんの旅、わたしの旅、答えではなく（D）'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-962808868247163793</id><published>2008-03-26T08:18:00.013+09:00</published><updated>2008-10-21T23:33:59.645+09:00</updated><title type='text'>終りは新しい始まり　(O)</title><content type='html'>*3月26日に一度投稿したのですが、どうにも未完成だったため、勝手ながら下記のものに差し換えさせていただきました。（3月28日）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前回の大黒さんが仰っているように、大黒さんとわたしは同じ日本人とはいえ明らかに異なる世界の住人かもしれない。しかし、だからこそこの対話プロジェクトに意味があるのではないかと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私個人としては「異なる世界の住人の話を聞くこと＝様々な気づき」であり、そういう機会を持てること自体すらとても興味深いのだが、しかしみながみなそういうわけでもないらしい。たいていは対話相手を客観的に見れなかったり、どちらかが（または互いに）自分の価値観を押し付けようとしたり、または、「こんなおかしな人とは二度と話すもんか、こんちくしょう！」と憤慨したりする。その個人レベルの延長線が、この世界全体で起きている民族や宗教の争いなのだろう。そういう意味でも、これも大黒さんが仰っているように、ほとんど違和感を感じることなく、しかももっと時間があればとさえ思えたあの青山のカフェで、無神論者であると言われる大黒さんと過ごした時間は、その後、信仰の街エルサレムに戻ってからも非常に有意義なものとして継続していた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エルサレムに住むようになってから、会う人ごとに「なぜイスラエル、なぜユダヤの世界なのか」と問われ、その度に「なぜでしょうね？」と冗談ではなく自問自答してきたのだが、あの日の大黒さんとの対話の向こうに、ゆっくりとその霧が晴れはじめた。子供のころから寺という、物質や競争社会とはほとんど関りのない世界で生きてきたのだが、20代で惹かれ、その後の人間形成に大きく影響したのは他から見れば特異にすら映るユダヤの思想と価値観を礎にした社会であり、人々だった。現代社会では失われつつある多くのもの、例えば十戒に見られる基本的モラル、が厳粛に守られ、これからも守られようとしている世界とその住人たちとでもいえばいいのだろうか。このことについて話すと長い長い話になってしまうのだが、早い話、かくあるべき人間社会を探す旅の途中で見つけたのが、そんなユダヤの世界だったのだろう。と、そういうことが青山以来、ようやく言葉として表現できるに至った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、2008年2月に、その約9年間のエルサレムのお山のほぼ隠遁生活に、とりあえず一つの終止符を打つことになった。その主な理由は、世俗化、欧米化、競争社会化が急速に進むイスラエルに、かつて見い出した輝きと方向性を失ってしまったことにある。ここ数年そのことに悩みながらようやくこの結論に至ったのだが、イスラエル、そしてエルサレムと少し距離を置くことで再び見えて来るものに出会いたい、とここらで惰性の生活に区切りを打ち、思い切って拠点を変えてみることにした。そんな過程で旧ユーゴスラヴィアのクロアチアの首都ザグレブに移ったのだが、しばらくここでホロコーストとその生存者であるユダヤ人のお年寄りの話を記録していきたいと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このクロアチアという国もまたイスラエルに負けず劣らず民族紛争が激しく複雑なのだが、クロアチア人の知人たちに、隣国のセルビアやセルビア人の長所を少しでも言おうものなら、瞬時に苦虫をつぶしたような表情をされる。ユダヤ系イスラエル人にパレスチナ人を褒める（またはその反対）のがタブーに近いのと同じように、それも口にしてはならないタブーということなのだろう。また、在クロアチア・ユダヤ人に対するクロアチア人の反応は様々で、しかし本音はいまだにヨーロッパに根付く反ユダヤの文化、そして第二次大戦で勢力をふるっていたウスタシェというクロアチアのナチズムからも「このユダヤ人め！」と思っている人も少なくないのではないかと感じることがある。しかしこれらの土地に限らず、「他者または隣人の排除、差別」というのは、世界中で起きているわけで、身近な日本でも在日韓国人や中国人に対する偏見、また関西圏ではそれに加えて部落問題などもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、その民族と紛争の中心のひとつでもあるイスラエル / パレスチナの近況はというと、相変わらず一歩進んで一歩下がり、そしてまた半歩進む、といった状況ではあるものの、一応、パレスチナ自治政府が「イスラエル抹消派」のハマスを抑えて独り立ちする方向へと向かっているように見える。以前から言っているのだが、現状で「卵が先か鶏が先か」を争っても解決にはならず、アラブ諸国が声を荒げている「イスラエルを抹消しパレスチナのみ存在」という選択肢も非現実的でしかない。互いから完全に手を引くこと、そしてパレスチナが完全に独立した一国となることでこの延々と続く無意味な争いを終わらせ、そこから双方に新しい始まりが訪れるだろう。そう思っている矢先にまた、3月にエルサレムのユダヤの宗教学校でアラブ人による乱射事件が起きているし、イスラエルもガザへの攻撃を行っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;本を読むことについて。本は知識であり、知識は酸素と同じほど人の成長に欠かせないエレメント。昨年の春の帰国時には、雑誌ともなんともいえないいわゆる情報誌が大半を占める店舗が圧倒的になっていた本屋の様変わり、そして京都の四条河原町にあった丸善など大手の書店の閉店など、かなりその状況に驚いたのだが、これからもその中から良い本を選択し、それを糧にしていきたいと思っている。昨年読んだ本の中に「四季（李 恢成著）」という、在日朝鮮人としての「私」を描いた一冊があるのだが、残念ながらなぜか途中で挫折してしまった。大黒さんが前回の投稿でも触れられている内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」は以前から気になっていたので、今度Amazonで購入してみようと思う。ぶらりと本屋に寄って本（特に日本語で書かれた）を買うのは、外国に住むわたしには夢のような話になりつつある。&lt;br /&gt;（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-962808868247163793?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/962808868247163793'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/962808868247163793'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2008/03/o.html' title='終りは新しい始まり　(O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-6560373380742791620</id><published>2007-10-08T15:05:00.000+09:00</published><updated>2007-10-12T17:01:54.574+09:00</updated><title type='text'>書く糸口、考える立ち位置を探しながら</title><content type='html'>ここに自分の考えたことを投稿をしていなかった間も、ユダヤについて、イスラエル／パレスチナについて、異なるものの間の対話について、世界各地で起きている紛争について、考えていなかったわけではない。ただ、書くのが最初の頃より難しいと感じることが多くなってきた。自分の得たわずかな知識や情報をもとになにほどのことが語れるのか。そういう疑問もつねに沸く。ただ書くことは、考えることであり、この企画にはその考えを聞いてくれる対話者がいる。また開架式で公開しているので不特定多数の読み手もいる。なにほどのことがたとえ書けなくても、まったく無駄というわけではない、そうも思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そもそもこの企画を始めたのは、ユダヤというもの、イスラエル／パレスチナが抱える問題、そのことにどのように自分がアクセスしていったらいいのかという関心からだった。きっかけとなったのは、このプロジェクトの対話者である大桑千花さん（ユダヤという生き方、その思想やあり方に関心と共感をもち、ベルリンやニューヨークをへて現在はエルサレムに住む）と知り合ったこと。その世界をよく知る一人の人間を介して、なんとか未知の世界へ近づきたいと思った。普段の気楽なメールのやりとりの中では必ずしも話題にならない、しかし大桑さんにとって核心の問題を、真面目に正面から話し、何か汲み取りたいという思いだった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今年の５月には、帰国した大桑さんにお会いする機会ももった。青山のカフェで、いくつかの、大桑さんが身をもって体験した心の漂流と旅の軌跡のエピソードを聞いた。それは初めての話ばかりだったけれど、この何年間のあいだにインターネットを通じてやりとりした書面と地続きのものであることを実感した。そして別々の地に住む今後も、大桑さんの話をもっと聞いていきたいという思いを強くもつ機会ともなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんとわたしはしかし、かなり異なる人間であることも確か。大桑さんがユダヤの世界に惹かれて旅立ったのに対し、わたしは日本の中に暮らし何とか外部の目をもって日本を見たいと願ってきた者だ。またそれなりに徹底した無神論者でもあり、具体的に無宗教であるだけでなく、日本において風俗や慣習、習慣の中で混然一体となっている祭事や文化行事にもめったに参加しない。宗教にかわるものとして、精神の支柱として、生きていくときの夢として、アートというものと長年かかわってきたように思う。このように大桑さんとは大きく立ち場を異にしているが、書面でも対面でも、少なくともわたしの側からは大きな違和感を感じることは少なく、まだ知り得ていない大きな謎を感じながらも人間として魅力を感じ、信頼を寄せている。大桑さんとの真摯な対話の可能性を信じている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;書かなかった間も本を読むことはしてきた。この対話とは直接関係のないテーマのものであっても、直接間接にユダヤについて、イスラエルについてのトピックが登場することも多く、世界で起きている問題はひとつとして互いに無関係なことはなく、大きくは地続きではないのか、という思いにもなった。最近読んだ本の中で強く印象に残ったものに、次のような言葉がある。&lt;br /&gt;「人は祖先を誇りに思う権利はない」　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アメリカの黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンと文化人類学者マーガレット・ミードの対話集「怒りと良心／人種問題を語る」（1973年出版）でのミードの発言。わたしはこのフレーズに、訳者である作家の大庭みな子の個人全集のエッセイの中で出会った。以来この言葉の意味するところを考え続けている。「祖先」とは何か。「誇りに思う」とはどういう状態か。中でも一番気になったのは「権利」というところだ。「義務」ではなく「権利」と言っているところにこのフレーズの尋常ならざるところが見えているように感じる。その後まったく別のテーマの10冊を超える本を読んでいるが、このフレーズになんらかの光をあてているように感じた文章が少なからずあった。たとえばどんな本かというと、「ホノルル、ブラジル／熱帯作文集」（管啓次郎著）、「驢馬とスープ」（四方田犬彦著）、「北朝鮮へのエクソダス」（テッサ・モーリス-スズキ著）、「トオイと正人」（瀬戸正人著）、「瞬間の山」（港千尋著）、「ごく普通の在日韓国人」（姜信子著）、「愛国心を考える」（テッサ・モーリス-スズキ著）、「ディア・ピョンヤン」（梁英姫著）、「チャイナタウン発楽園行き」（林巧著）、「Borderlands / La Frontera」（Gloria Anzaldua）、このような本である。これらの本に何か共通するものがあるとするなら、個人とその人間が属している（いた）集団や社会との関係性について何か述べられている、ということが言えるかもしれない。最後にあげた「Borderlands」とは境界地域のことだが、チカーナ（メキシコ系アメリカ人）の作家アンサルドゥーアは地理としてのボーダーのみを指しているのではなく、言語、性、宗教などによる集団間のボーダーランズについても書いている。そしてその書く言語も、英語とスペイン語のミックスだ。詩や散文の中でアンサルドゥーアはこの二つの言語をスイッチしながら書いていく。このcode-switchingという手法を（そう呼ぶのだとこの本で初めて知った）、その後、在日朝鮮人に関する文章の中に見つけ、やはり一つの問題は、特にある集団とその境界域に触れる問題は、他の似た状況の問題と地続きだと思った。去年葉っぱの坑夫が出版した「ぼくのほっぺのちいさなあざ/ The little mark on my cheek」も、code-switchingによる本ということになる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ところで、後に上記の引用フレーズに導かれて、「怒りと良心」の本を手にしたが、その中でユダヤとイスラエルに関することが熱心に語られていて印象的だった。中でも、イスラエル建国について、イギリスが自国の利益のために進めたことがシオニズムと合致して建国となったというくだりに興味をもった。また詳しくは書かれていなかったが、ミードは建国に賛同の意を、ボールドウィンは反対の考えを述べていた。ミードがどのような理由と論理で賛同していたのかは興味ある。著書を探せば、詳しく触れられているものが出てくるのではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また季刊雑誌「考える人」の最新号に、小林秀雄賞を受賞した内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」の紹介とインタビュー記事、未来＆歴史学者ローレンス・トーブとの対話が掲載されている。大変興味深い内容だった。本はまだ手に入れていないが、近いうちに読んでみたいと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;読むことから、また考えることを続けていきたいと思っている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-6560373380742791620?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/6560373380742791620'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/6560373380742791620'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2007/10/blog-post.html' title='書く糸口、考える立ち位置を探しながら'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-114761109383422387</id><published>2006-05-14T21:07:00.000+09:00</published><updated>2006-09-06T06:00:26.633+09:00</updated><title type='text'>マイノリティー・リポート (O)</title><content type='html'>「光陰矢のごとし」とは本当によくいったもので、学なりがたしの私にはとても追いつけないほどの速度で、びゅんびゅんと時間が過ぎ去ってゆきます。前回の大黒さんのポストが、まだ冬のあいだだったということにすら驚いています。日本では桜の季節も終わり、そろそろキャンパスや社内に5月病が訪れる頃でしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、私はといえば、イスラエルの短い雨季の冬の終わり、3月末に行われた総選挙の直後にエルサレムを抜け出して、東欧の小国クロアチアへ。一ヶ月ほどの旅をしてきました。ユネスコの世界遺産に指定されている、中世イタリアの宮殿跡の壁に作られたアドリア海の街や、100ほどもある滝と湖で有名なプリトヴィツェ湖群国立自然公園。豊かな自然がとても美しいクロアチアを含む旧ユーゴ・スラヴィア、南スラヴ民族の国。ここもまた、イスラエルまたはパレスチナと呼ばれる土地と同様に、異なる民族と宗教の共存が大変難しい土地ではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1980年に、ユーゴ・スラヴィアのティトー大統領（日本語ではチトーとなりますが、本来の発音はTito 《ティトー》 なので、ここではあえてそう呼ぶことにします）が亡くなって、その後、どんどんと民族同士の対立が表面化し、争いが激しくなりました。それまでは、ティトー大統領によって統一されていたユーゴ・スラヴィア。南スラヴ民族の国という名の、ひとつの国家のもとで共存していたいくつもの民族の人々。彼らはもはや同じ町に隣人として住むことなど、到底できない状況になってしまいました。そして「Ethnic Cleansing　民族の浄化」という言葉によって、美しい自然に囲まれたプリトヴィツェ周辺では、隣人同士だったセルビアとクロアチアの人々は、何世紀にも渡り住み続けてきた互いの家を焼き払い、破壊しいのちを奪い合い、相手にそこから立ち退くことを強いました。そしてクロアチアでは、民族としてだけではなく宗教においても、悲惨な争いが続きました。カトリックとセルビア正教が対立し、異なる者の存在を認めるのではなく、その反対に他者を否定し排除することによって。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回、2年ぶりで訪れたクロアチアの旅の途中の道々で出会った、あの当時の爪あとや、その土地の宗教を主張するいろいろなもの。首都のザグレブから南へ、プリトヴィツェ国立自然公園に向かう旅の途中で通り過ぎた町では、あの当時、とても激しい争いが繰り広げられていました。走り行く車の窓からでもはっきりとわかるほど、今でも民家の壁一面にはびっしりと銃弾の跡が刻まれたまま。そこに不自然に、新しい窓が取り付けてあったりしました。おそらく窓は銃撃によって割れて壊れてしまったのでしょう。そして当時のことを忘れないようにと、茶色く錆びた戦車の残骸などのオブジェがその町の広場に残されていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;車がさらにプリトヴィツェ国立自然公園に近づくと、道の両脇にはおとぎ話のような、とてものどかで牧歌的な田園風景が続きます。畑のきれいな緑色のグラデーション。羊の群れ。ブーフーウーの子豚物語で見たような、赤いレンガの家の脇に咲いているのは、白い桜の花や色彩豊かなチューリップ。名もない野の小さな花々。イワン・ラブジンなど、ナイーヴアートが生まれた土地。なんともやさしく響いてくるその風景を、うっとりと車の窓から眺めていると、ぽつん、ぽつん。道の脇や遠くの丘の上に空き家があることに気がつきます。壁の一部だけを残して、屋根もなにもかもが見事に崩れ落ち、見すてられて廃墟となったレンガの家々。この土地で激しい争いがあったことを知らなければ、他の国でも見られるように、ただ、近代化によって村の生活を捨てた人たちが多い国だと思ってしまうことでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして隣国のスロヴェニアに近いクロアチア北部では、時間はゆるやかに流れていました。白鳥がのんびりと水面をすべる美しい湖のほとりや、村の高台には古城がそびえ、まるでドイツかどこかのような優雅さえも。そのあたりの村々をつなぐ街道の分かれ道では、扉のない小さな小屋のようなものをたびたび見かけました。その小屋には、大きな十字架に架けられたキリスト像や、ベールをかぶったマリア像がおかれ、それらはそこを通る異国からの旅人にさえ、その土地の人々の宗教がなにであるかを語りかけます。日本でいえば、国道沿いのお地蔵さまのような感覚なのかもしれませんが、土着したカトリック文化にあまりなじみがなければ、多少の戸惑いと威圧感を与えるかもしれません。または、この土地の人々はなんと信心深いのだろうかと感銘するかもしれません。しかし、「Ethnic Cleansing　民族の浄化」という名目でこの土地を追われた、それとは異なる宗教と民族の人々がその象徴を目にしたときに、いったいその象徴がもたらすのは何か。そんなことなどがぼんやりと、心をよぎりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第二次世界大戦のころへと時代をさかのぼってみると、クロアチアにはウスタシュと呼ばれるナチ主義の人々がいました。このウスタシュによって、多くのセルビアとユダヤの人々、そしてロマ（ジプシー）と呼ばれる人々が、異民族であるという理由によっていのちを失ってしまいました。この土地の80％とも90％とも伝えられているユダヤの人々が、そのホロコーストによって亡くなり、現在のクロアチアでは、ほんの2000人ほどのユダヤの人々がマイノリティー（少数民族）として認識されています。そして認識されていない残りの1000人ほどのユダヤの人々は、自分の子供たちや隣人が気付かないように、ユダヤとわかる名をクロアチアの名前に変えて生きています。そしてクロアチアの大きな街に生きるセルビアの人々も、また同じように。とある民族がその土地から消え失せたあと、そこに生きながらえた人々は、その過去の記憶になにを学んだのでしょうか。彼らは、自分たちの民族の伝統も宗教も、そしてそのアイデンティティそのものをまるで否定し、または隠すかのようにして、異なる宗教と民族であるクロアチアの人々と同化することによっての共存、という道を歩いています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これまでの人生で、自分の持つアイデンティティや宗教において危機的な迫害をされたことも、それに対していのちをかけて戦った経験もない。そんな外国人である私には、その土地で起きたすべてを短時間で理解すること、ましてやそこに住む友人たちと気軽にそれらについて話すことすらも、とても難しいと思われました。そして、ティトー亡きあとにこの土地で起こったこと。武力によってのその争いは終わっても、人々のこころの中ではそれらの争いと葛藤はいまだに終止符が打たれていないという現実。そんな現実とはまったく別の世界であるかのような、クロアチアの豊かで美しい自然に、なんともアイロニーを感じてしまった旅でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;プリトヴィツェの森を一日かけて探索しました。美しい自然に感嘆をあげる観光客に疲れて、あまり旅人の歩くことのない山道へと逸れました。人気のない静かな森の透き通った清流には、蕗が伸び花が咲き、のんびりと鴨が泳いでいます。今ではもう使われていない古い水車小屋も。そして山道の脇には、すっかり雑草におおわれて朽ちかけたレンガの家が一軒、ぽつん、と誰に知られることなく残されていました。玄関も窓もないその廃墟に足を踏み入れると、かつてキッチンだった、ああ、きっとリビングだったんだろうと思える部屋、そんな記憶がそこにありました。かつて、ここで生活を営んでいたのがクロアチアの人だったのか、またはセルビアの人だったのは、もう誰にもわかりません。そして、争いが終わってからも長いあいだ、セルビアの人がこのあたりへ踏み入ることは、できませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;すると、廃墟の脇の山道を一台の車が走り去りました。ゆっくりと走り去る車のバックに見たのは、驚いたことにセルビアのナンバー。ひょっとすると、未来への明るい光はもう挿しはじめているのかもしれないと、森に落ちる光と陰の矢がそう伝えたような気がしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-114761109383422387?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/114761109383422387'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/114761109383422387'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2006/05/o.html' title='マイノリティー・リポート (O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-113834104688794565</id><published>2006-01-27T14:50:00.000+09:00</published><updated>2006-01-27T18:31:23.450+09:00</updated><title type='text'>シオニズムとユダヤ教。黒豆と無宗教。（D）</title><content type='html'>前回の大桑さんのポストからずいぶんと日がたってしまいました。間があいてしまったことで、さらに書くきっかけがつかめず、またこの５ヶ月間この問題について書くことから離れていた分（書くことは考えることなので、考えることから離れていたことにもなります）、回りからの情報がわたしの中に入りこみやすくなり、自分の中でこの問題に関する焦点のあれこれに、巻き戻しが起きているような気がしていました。それがまた、書くことに向かうことを遠ざけていたように思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前回大桑さんは、入植者のガサ撤退にあたってメディアがいかにご都合主義にふるまうか、日本の報道関係者や学者や知識人もふくめた寄稿者、著者、出版社たちがいかに安易にこの問題について発言しているかについての焦燥感を書かれていました。「巻き戻し」と書いたのは、日本にいて新聞、テレビ、雑誌などのメディアに日常接していると、そして能動的に考える態度を少しでもゆるめ、受ける一方の状態になっていると、流れて来る情報に自分が侵食されそうになるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初にわたしがこの対話ブログをはじめたいと思い、大桑さんに声をかけた理由も、あまりに日本語で流れている情報や発言がどのメディアでも、一方的かつ一種類しかない、ということが一番にありました。わたしにとっては、ユダヤ系イスラエル人作家のこの問題に関する著書が訳された、というだけでトピックであり貴重でした。違う視点に触れられると思ったからです。（前回のポストで大桑さんが書いているように、グロスマンにも問題があったとしても、です）　その当時も今も、パレスチナ系アメリカ人批評家エドワード・サイードの日本の知識人への影響力は絶大に見えます。この問題に関する日本の知識人の拠り所はサイードの発言とその著書のみにあるのではないかとさえ思えるほどです。大桑さんが指摘するように、あの人が、と思われるような（進歩的と見られているような、海外の大学で教鞭をとったり西欧知識人との対話を本にしているような）知識人たちでさえ、「圧倒的な軍事力でパレスチナを虐待するイスラエル」という単純な構図からしか発言していないこと、それも詳細がない発言であること（その定型文だけを繰り返すというような）は、事実に近いとわたしは感じています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ポストがあいてしまったしばらくの間、繰り返し（と言っても取り上げられる機会は少ないですが）これらの見方に接し続けていると、大桑さんとの対話を１年以上にわたりしてきたわたしでさえ、問題の見方に揺らぎが起きる瞬間があるのです。それほど日本で得られる発言や情報は単一です。自分自身にしっかりとしたものの見方や、メディアに接するときの能動性（書かれていることの背景や、記事の公表の意味なども含めて情報を受け取ろうとする）がなければ、いとも簡単に（多分意図されているであろう）同一性指向の渦に巻き込まれ、「自分」を見失います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな中、２、３週間前のことですが、四方田犬彦著「見ることの塩 - パレスチナ・セルビア紀行」（作品社）を手にしました。2004年に数カ月間、イスラエルに滞在してテルアヴィブ大学で教鞭をとっていたときのことが前半約半分に書かれています。最初の方で、サイードの名前があがったことや、中東問題でよくメディアに登場する酒井啓子による朝日新聞の書評で首をかしげる部分はあったものの、またとない最近の現地レポートなので読んでみることにしました。四方田氏のまえがきには、自分のまわりには「パレスチナ人とイスラエル人の錯綜した物語について充分な知識をもっている者は皆無」であり、自分もふくめて「支配者であるユダヤ人と悲惨な犠牲者であるパレスチナ人によって、きれいな形で二項対立が構成されているものだと漠然と信じているだけで、それ以上のことは知らなかった」との記述があり、日本の、未知の社会に対する閉鎖的かつステレオタイプな認識を感じていたようで、それがイスラエル滞在を選択するきっかけとなっていたとのことでした。そのあたりの動機を信じて、でも批評的に読むことは忘れずに、とそんな心づもりで、少しずつ読み進んでいるところです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;読んでいていくつかの未知のことにぶつかり、そのあたりを大桑さんの口から話を聞いてみたいという好奇心が沸いてきました。そのひとつは「正統的なユダヤ教とシオニズムが歴史的に対立してきた」と書かれていたことです。前回の大桑さんの記述の中にも「世俗と宗教社会というふたつの相容れないグループのギャップは深く」とありました。「見ることの塩」では、現在のイスラエルで世俗派（日常的にシナゴーグに行かない人々）が全体の７割を超えているとありました。つまりユダヤ教徒として宗教的な生活を送る人は、イスラエルの中でむしろ少数派ということになります。教会（シナゴーグ）に行かない世俗派が主導する国家がイスラエルとするなら、世俗派の人々はいかにしてユダヤ人なのでしょう。グロスマンも確か無宗教つまり世俗派の一員だと思いますが、このあたりはもうひとつ理解しにくい点です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;シオニズムというのはユダヤ人の国家をどこかにつくるという思想と理解していますが、この本の中では、イスラエル建国のきっかけとなったヘルツルという活動家の考えを「西欧文明を代表するエリートのユダヤ人のみからなる国家を地球上のどこかに建設すること」として記述していました。またヘルツルは「ユダヤ教徒の退嬰的な映像を払拭し、従来のユダヤ人をめぐるステレオタイプから解放されるために懸命であった」とのことで、このあたりがシオニストとユダヤ教徒との対立のあらわれの一つなのかもしれないと想像しています。ユダヤ教徒の中には、宗教上の教義と相容れない現在のイスラエル国家を否認する傾向もある、とこの本には書かれており、そのあたりのことも大桑さんの考えをぜひ聞いてみたいと思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この年頭、ぼんやりと国家と家族の関係について考えていました。わたしは無宗教ですが、お正月をどのように過ごすかについては気まぐれです。ここ何年かは神社にも行っていませんが、おせち料理は習慣で少し食べます。今年は気まぐれついでに、圧力鍋というものの成果を試したくて、黒豆を煮てみたりもしました。それが宗教的な気分とどれくらいリンクしているのか、考えてもよくわかりません。たぶん、強い否定はないのでしょう。でも近所の神社のお正月のチラシに厄よけに関する記述がずらずらと書かれているのを見るのは、気分を害されます。そういうものに対して大きな距離を感じるからです。ふと、デュシャンもシェーンベルク（あるいはケージ）もないんだろうな、厄よけの世界に生きていたら、と思いました。でも厄よけで神社に通いつつデュシャンを熱心に論じる人だっているだろうな、それが現実だろうな、とも。もしわたしが、確信犯的に無宗教で、ナショナリズム的国家幻想に直結する伝統的な家族観を全否定していたら、お正月をはじめとするさまざまな季節行事のときは、日本人内異邦人として「無味乾燥」に過ごすはめになることでしょう。人の生活とはそういうものなのだな、と思うから。でも、それでもいいではないか、そこから先には何があるのか、そこから先にたとえばどんなものが建設できるのだろうか、という好奇心もあります。ひょっとしてそれを考えるのは、原理主義者のすることかもしれませんが。（大黒）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜ノート＞&lt;br /&gt;デュシャン, マルセル：1887-1968。フランス出身で後にアメリカ定住。既製品の便器に署名した『泉』などの作品で知られる。&lt;br /&gt;シェーンベルク, アルノルト：1874-1951。ハンガリー出身のユダヤ人で後にアメリカ移住。調性を放棄した作品をつくり、後に12音音楽を発明。&lt;br /&gt;ケージ, ジョン：1912-1992。アメリカ生まれの音楽家。何も音を発しない作品など。南カリフォルニア大でシェーンベルクの教えを受けている。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-113834104688794565?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/113834104688794565'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/113834104688794565'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2006/01/d.html' title='シオニズムとユダヤ教。黒豆と無宗教。（D）'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-112507325312538531</id><published>2005-08-27T00:48:00.000+09:00</published><updated>2006-01-29T21:28:40.663+09:00</updated><title type='text'>メディアと対話と和平と　－ガザ撤退にあたって－　(O)</title><content type='html'>日本ではもうお盆も過ぎて、夏の終わりが近づきつつあるのでしょうか。イスラエルはまだまだ夏真っ盛り、11月の末まで雨粒の一滴も空からは落ちてこない、長い長い夏です。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ここしばらくはヨーロッパへと話が流れてゆきましたが、ここらでちょっと方向をイスラエルへともどして見ましょう。イスラエルでは、先週からのガザ地区撤退でごったがえしていましたが、ユダヤの住民とIDF（イスラエル国防軍）の両方があの土地から撤退するという話は、遠い日本でも様々なメディアを通して耳にすることもあったのではないでしょうか。そのお陰で私の頭と心はかなり憔悴しました。私の憔悴の理由のひとつは、今回のことを通して改めて感じた「いかに人というものは都合の良いものか」ということで、そこにはメディアという避けがたいものがありました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;インターネット上の数々のウェブで、そして本屋の棚にも、イスラエルとパレスチナ問題に限らず、真実と題されてはいるものの、どう見ても自分たちに都合の良いように書かれたものが恥ずかしげもなく並んでいる。しかも、それなりに名の知れたジャーナリストと称した方ですら、言ってしまえばまるで偏ったゴシップ並みの記事を、それらしく発表されている。そういうものを書く側もそれを出版または報道する側も、自分の名を上げたり何かの利益に繋がればそれでよいということなのでしょうか。個人の求める様々な情報が、インターネットなどで簡単に手に入る時代といえば、一見とても豊かな時代のように聞こえますが、実際はなんだかとても混乱しやすい難しい時代になったように思います。一昔前まではオブジェクティヴだったメディアがサブジェクティヴとなったご都合主義の情報のあふれる現代では、情報を与える側にはもう期待は出来ず、情報を与えられるこちら側の目を養うしかないなのでしょうか。出版に携わっていらっしゃる大黒さんは、そのあたりの裏の世界はよくご存知でしょうし、そういうメディアのプロパガンダにある程度免疫のある私でも、このような状態を目の当たりにすればするほど、がっくりと気が萎えてしまうのです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルとパレスチナの問題では、日本を含めた世界中で、メディアと政治の思惑によってイスラエルという国や入植地と呼ばれるものは、イスラエルがパレスチナから奪い取り占領している土地なのだから、当然パレスチナの人々に返還するべきだと謳われます。そして例に漏れず、イスラエル国内のメディアも、自分たちに都合よく振舞います。1970年ごろでは、イスラエル政府は国民にガザの入植地への居住を勧め、それにあたり様々な面でのサポートを行いました。当時、それに賛成していた左派のメディアは、それから1993年のオスロ合意までの20年間以上に渡り、入植地の住民をまるで国のヒーローのように扱いました。しかしオスロ合意が失敗に終わると、左派のメディアは入植地は政府の提案だったことすらをあやふやにし、入植者をまるで和平の障害物のように書き立て、その思惑通りに国民の多くは入植者たちを非難します。このようにこの土地ですら、メディアによって事実を見極める目を人々は失い、混乱しているのですから、それらを情報源とする日本のメディアやジャーナリストと称する人たちの発信する情報は、さらに偏ったものとなって日本の人々に伝わるのは、ある意味どうしようもないのかもしれません。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本などでも見られるイスラエルとパレスチナに対する多くの意見では、1948年のイスラエル建国以前のことは一言も触れません。その理由が何であれ自分たちには都合が悪いので、1948年以降だけを拾い集めて事実として、この土地はイスラエルがパレスチナから奪った土地だとします。そこにイスラエルは悪者で、パレスチナはかわいそうという白黒のイメージが出来上がってゆきます。それをニュースで見たり何かで読んだ人々は、それ以外の異なった意見を聞く機会が少なければ、盲目的またはほぼ自動的に「なるほど」とそう思い込みます。この土地に住むすべてのパレスチナの人々は、占領者イスラエルの圧力に日々苦しめられ追い詰められた状態の、かわいそうな難民なのだろうと。覆面をして銃を取りマーチングし、まだ何もわからない小さな子供たちにも、侵入者イスラエルを憎めと銃を持たせ、ジバクするのがすばらしいと教えることは、もっとも理解できることだと涙を浮かべます。同じように、先週に撤退をはじめたガザの入植地についても、あの土地はもともとイスラエルがパレスチナの人々を追い出した奪った土地なのだから、パレスチナの人々に返還するのが当然だとも思い込んでしまいます。しかし、それほどこの土地の現実は、短絡的なことではないのではないでしょうか。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もし仮に、パレスチナについてのこのような日本の意見が現実ならば、エルサレムの近辺のパレスチナ自治区内の町に住む、難民でもなく武器も取らない多くのパレスチナの人たちは、暑さでボケた私が見る砂漠の中の幻想なのでしょうか。また、イスラエルによって圧迫されているとされる、追い詰められたパレスチナの人々が、小さな子供たちと共に武器を取ることやジバクはすばらしいと教えることへの賛成が、イスラエルとパレスチナのふたつの民族の和平と共存にはつながらないと思うのはおかしなことなのでしょうか。それよりも、パレスチナ自治区に住む人々がこれまで以上に保障された生活を送れるように、ヨーロッパや日本からの巨額の寄付金が、するりと当たり前のように政治家のポケットへと消えてゆく自治区政府を建て直すことのほうが、遥かに意味のあることなのではないかと思う私がおかしいのでしょうか。プロパガンダをそのまま思い込んでいる人たちと、そうではないのでは？と思っている同じ日本の人との間でさえ対話は果たして可能なのか、そんなことを思いました。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ガザ撤退にあたり、日本では未だにプロパガンダにうまく乗せられたパレスチナに同情する意見が大多数なのだと思い知らされて、ちょうど一年ほど前にこのブログで書いた&lt;a href=http://grossman.blogspot.com/2004/08/o.html&gt;「パレスチナ問題の発端」&lt;/a&gt;と&lt;a href=http://grossman.blogspot.com/2004/09/o.html&gt;「それぞれの思惑」&lt;/a&gt;、そこからの私と大黒さんの一年はまったく無駄だったのかと、またまたここでがっくーんと落ち込んでしまったわけです。もちろん、大黒さんと私がインターネットとメディアの大海の片隅でちょこちょこと、でもがんばって、意見を述べ合ったところでどうだというのだ、と言われればそれまでなのですが・・・。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、以前には左派と右派のメディアの特色がはっきりと分かれていた、イスラエル国内のメディアを追ってみました。今回のガザ撤退と共に、左派のメディアはイスラエル社会の価値を探すことに、フォーカスを当てているように思います。そこでまたまたグロスマンの登場となりました。現在のイスラエル社会は傷つき、国民はしばらくの間は喪に服すべきであるとメディアで語りはじめた第一人者のグロスマンと、左派のその他の作家たちは、左派のスポークスマンとして、今回のガザの入植者たちと右派の負けを祝う必要があるようです。しかし、そこで他の左派の作家とグロスマンが異なるのは、8月15日の「The Jerusalem　Post」に彼が投稿した文中（このポストの一番下にあります）に見られるように、グロスマンは入植者たちについて、一言すらも理解を示してはいないことです。グロスマンはイスラエルの世俗社会と共に、家を追い出される同じユダヤの入植者たちに対して同情するでもなく、“頭のよい”入植者たちは、ユダヤの人々が祖国を持てなかったことや、その離散の歴史を都合よく使う、イスラエル社会のパラサイトであると冷たく非難しています。これまでのユダヤの人々の歴史では、常に彼らは他民族の政府によって住んでいた土地を追い出されて来ましたが、今回のガザ撤退ではユダヤが同じユダヤを追い出すという、ユダヤの歴史上初めて起きたことであり、そして自国の政府によってその自国民を自国の軍隊を用いて撤去させるという、世界史上でも初めての出来事について、他の左派の作家たちとは異なりグロスマンは明確な意見を述べていません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グロスマンは、入植者たちを政治と和平プロセスの邪魔者としてではなく、「人」として扱うように、そしてこれまで数十年に渡って作り上げてきたイスラエル社会の傷つき－これから入植者たちが引きづりながら生きてゆくであろう壊れされた夢と、グシュカ・ティフなどの入植地を作り上げた危険性、そしてそのような状況に陥ったこと、同じユダヤ人同士が対立してしまったことなど－に対して喪に服すようにとイスラエル国民に伝えました。そして、すべてのイスラエルの国民のひとりひとりが、デモクラシーとして、入植地を撤去する責任を担い喪に服すべきだと。それがイスラエルがこれからもひとつになって生き残る方法なのだと。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このグロスマンの意見は、一見すばらしいとも思えますが、これを深く掘り下げていくと、実はこの意見はとても混乱したものだということが見えてきます。まさに方向を失い、混乱したイスラエル社会そのものを反映しているように。グロスマンは「イスラエル社会の深刻な疾患」と文中で繰り返しますが、それが一体何かは明確にしていません。しかし、他の左派の作家（またはジャーナリスト）たちは、そのことについてはっきりと考えを述べています。例えば左派の作家の中でも著名なアリ・シャヴィットは、グロスマンと同じように、入植地の撤去については賛成ですが、入植地の建設はパレスチナに対してフェアではなく、イスラエル史上でもっとも間違った行動だったと指摘します。しかしガザの入植地撤退が完了し、それが入植者と兵士たちの双方に、そしてイスラエル社会と人々に一体どのような傷と影響を与えたのかは、誰にもわかないと、イスラエルの世俗社会の入植者たちに対する冷たく蔑むような扱いには彼は同意していません。そして、さらにシャビットは、自国民である入植者の危機の時に対して、何の同情や少しの慰めをも示さなかったグロスマンなどのイスラエルの知的エリート層の人々を非難し、イスラエル社会は入植者たちから何かを学ぶべきだといいます。イスラエル社会で失われてしまったコミュニティー、または自治体としての絆、友情、目標や理想、努力など、日本でもおそらく失われてしまったものたち。グロスマンの言葉を借りるならば、これがイスラエル社会の深刻な疾患ではないかと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、何よりも今回のガザの撤退が露にした事は、イスラエルという国は、異なる二つのグループの祖国だということではないでしょうか。左派と右派、または世俗と宗教社会というふたつの相容れないグループのギャップは深く、まるで異なる二つの民族のようにさえ映ります。そして、これが現在のイスラエルという国の本当の悲劇ではないのかとさえ思えてしまいます。イスラエルのメディアを徘徊してみて、もうひとつ決定的なことに気がつきました。政治家やグロスマンなどの和平を唱える人たちは「なぜ将来建国されるであろうパレスチナという国に、ひとりとしてユダヤの人は住むことが許されないのか」という問いについては、まったく触れていないのです。ガザの入植者たちは、ガザの家に残れるのならば、そこがもはやイスラエルでないのならばパレスチナの住民となってもよいとまで表明しました。しかし、パレスチナ政府はこれを拒否しました。もし、本当にふたつの国の実現と和平を現実にするつもりがあるのであれば、なぜパレスチナには一つの民族しか住んではいけないのか、EUのように多国籍に多文化が謳われる時代になったにもかかわらず、本当にこの土地の和平をみな願っているのだろうかと問わずにはいられません。現在、この地球上には約200近い国が存在しますが、そのどの国を取っても単一民族の国は見当たりませんが、将来のパレスチナという国だけはそうなるということです。今、こうしている間にも、この土地ではまた、イスラエルとパレスチナの双方に新たな死者が増えました。もう一度聞き返さずにはいられません。人々は、そして世界は、この土地についてのどのような和平をめざして対話しているのでしょうか。　（大桑）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下は8月１５日のイスラエルの英字新聞「The Jerusalem Post」のグロスマンの記事です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「Something to mourn   By David Grossman  Last Update: 15/08/2005 14:21 &lt;br /&gt; &lt;br /&gt;For decades, the settlers have excelled at finding the weak points and illnesses within Israeli society and exploiting them to their own advantage. With a keen intuition, they operated in the gray areas of the Jewish-Israeli soul, in the places where fears, past nightmares, the urge for revenge and hopes for redemption are intertwined. They succumbed to the temptation - usually suppressed - of being drunk with power after thousands of years as a humiliated people. They indulged the human desire to bend rational considerations and the demands of reality to the unyielding concepts of messianic religious faith. Above all, they shined at exploiting the deep wound of the Jewish experience - that of the sacrificial victim - and convinced many into believing that sacrifice itself justified any action or injustice. &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;The lawless struggle being waged by West Bank settler activists against the disengagement plan, and their dismissive attitude toward what is dear to the majority of Israelis undoubtedly makes it more difficult to respond to the evacuation itself, to the violent uprooting, and sometimes obstructs the natural tendency simply to identify with the pain of those who are being uprooted. &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Perhaps this is also because the settlers have often turned themselves into a kind of monolithic, impersonal body. They do not even hesitate to use their children as accessories to their protests and provocations. Nevertheless, supporters of the withdrawal and all those who for years have struggled against the settlers would be erring if they were to deny the human and ideological complexity of their political rivals in their most difficult hour and treat them like political and religious arguments rather than human beings. That would only aggravate the serious illness of Israeli society, the overwhelming and mutual dehumanization process that is the necessary precondition for any confrontation - and, God forbid, for war.&lt;br /&gt; &lt;br /&gt;We should all take a deep breath right now and remind ourselves that, in the final analysis, the days to come are days of mourning for all Israelis. Mourning for the personal and ideological pain of the settlers whose dreams have been shattered; mourning for the fact that Israel was drawn into such a dangerous and unrealistic adventure like the creation of Gush Katif; mourning for the fact that the state brought itself to the place where it was forced to do such a violent, warlike and brutal thing to thousands of its citizens; mourning for the abyss that is being created inside our home, and for the disaster that could befall us very soon; mourning for the situation in which we are trapped, Jew against Jew with a foreign, naked hostility that stands in complete, existential contradiction to our own interests. &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Both "blue" and "orange" Israelis can mourn today for the passion, the pioneering spirit, the purposefulness that for years pulsed through Gush Katif and which will soon dissipate like smoke, and for the fabric of life there that will be shredded come tomorrow. Mourn, too, for the enormous energy that could have achieved so much had it been directed toward reality and not illusion; for the evacuees whose lives have been changed forever and who will probably always bear the scars of what will be done to them tomorrow; for the men and women and children who gave their lives for their faith - or for their naivete; and for the hundreds of soldiers who were killed defending the hopeless settlement enterprise. We should all mourn bitterly for the terrible human and material cost to the entire nation. &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;At the end of the day, the uprooting of the settlements and the people is an act in which all Israeli citizens have a role and responsibility, whatever their beliefs. Anyone who is part of the democratic system that made this decision is a signatory to it. Perhaps the most humanitarian and ethical way for any Israeli to participate is to expose himself to these feelings of mourning, to attempt to confront them in all their unbearable contradictions. Maybe that is the way to enable us to continue together in this painful and irreversible process, to heal some of the wounds and to save ourselves from the landslide whose boulders are perched just above our heads.」&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-112507325312538531?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/112507325312538531'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/112507325312538531'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2005/08/o.html' title='メディアと対話と和平と　－ガザ撤退にあたって－　(O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-112046869364013814</id><published>2005-07-04T17:53:00.000+09:00</published><updated>2006-05-17T11:40:04.350+09:00</updated><title type='text'>ヨーロッパの反ユダヤ伝承文化 (O)</title><content type='html'>ここしばらくガザ撤退の賛否で揺れているイスラエルですが、さて、大黒さんの前回のポストでは、文化価値の異さから起こる各国への知的移住の話でしたが、これをＥＵに当てはめてみるとどうなるのでしょうか。ＥＵ移民の層をピラミッドでたとえるなら、知的移住者は上部のほんの一握りであって、大半の移民つまりピラミッドの下部は、おそらく、生きるためには切っても切れない金銭、つまり経済的な問題での移住なのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在、ＥＵ統一後のヨーロッパではそのような移民とＥＵの住人との問題を抱えています。そこには政治問題はもちろんのこと、経済問題、アイデンティティー問題、そして宗教問題が右往左往している状態で、しかもそれらの問題の一つ一つがバラバラなのではなく、互いにリンクしあっています。たとえば、トルコのＥＵ加入反対の理由としては、彼らがヨーロッパには馴染まない（つまり彼らがキリスト教文化とは異なるイスラームであること）、男女不平等、そして彼らの加入によってＥＵに起こりうる経済的なダメージの問題、移民の流入の問題などでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;オランダで2004年11月に起きたある事件は、ある意味でその象徴的なものでした。画家のヴィンセント・ヴァン・ゴッホの遠縁にあたるテオ・ファン・ゴッホ映画監督の製作した、イスラム社会を批判した映画に反発したムスリムの若者が、アムステルダムの路上で監督を殺害するという事件がおこりました。それを期に、ヨーロッパの大衆は、増え続けるムスリムと相容れることのできないイスラームの価値観に対してようやく目を覚まし、異民族そして異教徒であるムスリムとの共存、そしてトルコの加入を、キリスト教のＥＵでは快く受け入れるムードではなくなってしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さらにＥＵ憲法の批准への反対理由を見ても、オランダはＥＵの中でも他国より多文化共存の道を説いて来たにもかかわらず、オランダとフランスの両国では国民の55～60％がＥＵ憲法の批准を反対しています。その一番の理由はオランダのEU拠出金が高くなることでした。そして、オランダの政治が自分たちのものでなくなること、EUへの依存度が高まること、オランダのアイデンティティーがなくなることなどが挙げられました。アイデンティティーと経済問題としては、ドイツやイタリアではユーロではなく各々の通貨を復活させる動きが盛んになってきています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では、大黒さんの前回のこの質問、&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「ヨーロッパでの反ユダヤ人感情が、第二次世界大戦以降では最悪の状態と大桑さんのポストを読んで、驚いています。それはどのような経緯で強まってきているのでしょうか。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ですが、これを説明するには一体どこからはじめたらよいのかと、思わず、うーむ、と小さな頭を抱えてしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そもそも、今また、どうしてヨーロッパでの反ユダヤの感情は起こるのか、そしてそれがどうしてこれまで以上に高まっているのか、この疑問の明確な答えというのは、実は正直なところ私にはわかりません。でも、それは私がヨーロッパの文化やアイデンティティーに馴染みのない異邦人、アジアの人間、であるからではなく、むしろヨーロッパに住む反ユダヤの運動に賛成する人々に「なぜ今また反ユダヤなのか」と突き詰めてみたところで、実際その答えや理由はかなり曖昧で根拠のはっきりしないものではないのだろうか、と思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;では、なぜヨーロッパで昔もそして現代においても、このように反ユダヤが深く染み込んでいるのか。それを少し明らかにするには、歴史をずっと昔にさかのぼってみましょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;キリストがこの世を去ってから2000年ほどもの間、ヨーロッパではユダヤの人々がキリストを受けいれなかったことへの憤慨、そして彼らを「キリスト殺し」と呼び、常に宗教差別の対象としてきました（実のところ現在においてもそのようにユダヤの人々を呼び、キリストを受け入れなかったことはバチカンがイスラエルを国として認めない理由ともなっています）。そしてユダヤの人々は彼らのいう「この世界の王」である神に対しては頑なまでの忠誠心を見せても、その土地の権力者や王などには易々と平伏すことはない。そうなると、やはり王やその家臣や他の民衆はおもしろくありません。そして多くの民衆や農夫などが字も読めずに学もなく生きていた時代にも、ユダヤの人々は聖書を読み、そこから様々な知識を学んでいました。中世では教会によって定められた法において、ユダヤの人々は普通の職業に就くことや土地を所持することを禁じられていました。また、キリスト教徒同士が金貸しをしてはいけないという理由から、シェイクスピアの著書「ベニスの商人」にあるように、ユダヤの人々が商人や金貸しのような職業に就くしかなかったのですが、往々にしていつの時代でも金貸しとは嫌われるものです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここまでサッと少し挙げただけでも、ヨーロッパでユダヤの人々はキリスト殺しと呼ばれて以来、嫌われる要素をたくさん持っていたのがわかります。ヨーロッパに根付いたキリスト教文化の生活の中で、このように彼らは常に妬み嫌われ、蔑まれ、ことあるごとに迫害する格好の的になりました。そして今からさほど遠い昔ではない60年ほど前、現代になって、ヒトラーがヨーロッパで受け継がれてきたこの反ユダヤ文化にとどめを刺し、大衆に対して「ユダヤ＝それだけで嫌うもの」というホロコーストを成し遂げるための完璧な方程式を打ち出しました。そしてそれは驚くことに、決して忘れ去られた、または過ちであったと認められた過去のものではなく、現在のドイツなどでもいまだ生き続けています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1998年に私がベルリンに住んでいた時ですら、あるドイツ人の友人の祖母は、ヒトラーが消えアウシュヴィッツが解放され、ベルリンに大きなユダヤ博物館が建てられてすらも、いまだに反ユダヤを当たり前のように唱えていました。その理由はいうまでもなく、彼らがユダヤだから、という以外の何でもなく、私の友人である孫に「くれぐれもあの角の店で買い物をしないように。あそこはユダヤだからね」といつも言うのです。彼の祖母にしてみれば、そういう観念の中に育ち、戦後半世紀が過ぎた今でも変わらず、そこにいちいち深い理由づけはいらないのでしょう。そしてドイツ人には珍しくどこかユダヤの風貌をした若い女性の友人は、ネオナチらしい数人の若い男性のグループを通りの向こうに見かけると、「ユダヤにまちがわれるから鼻を隠さなくちゃ！」と慌てて言いました。もちろん大多数のドイツの人々がこうだとは思いませんが、大衆の日常生活のレベルでこのような観念がいまだに続いているということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;前回のポストでも書いたように、どれだけＥＵが多文化国のスローガンを掲げていても、ヨーロッパという土地は、やはりキリスト教とその文化が奥深く根ざした土地だということは紛れもないことでしょう。そこでこのようにヨーロッパの人々が彼らのアイデンティティーと経済と文化を保持しようとする時に、当然のことながら、排除する対象になるのは常に異邦人であり異教徒であり、これまではイスラームとのかかわりが少なかったために、いつもその矛先はその土地に共存してきたユダヤの人々となってしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして現代では、そこには政治の絡んだマスコミの思惑も見え隠れし、2002年4月にフランスで起こったシナゴーグ襲撃事件では、メディアは1938年に起きた「クリスタルナハトの前触れ」との物々しさで伝え、大衆はそれにうまく踊らされてしまいました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ＥＵの統一により起こっている諸問題と、そして今回は触れませんでしたがイスラエル・パレスチナ問題に関するヨーロッパのかけ引きにおいても、ヨーロッパで2000年ほども受け継がれてきた伝承文化ともいえる大衆の反ユダヤの感情を利用し、それに加えてヨーロッパに移住したムスリムによる反ユダヤ主義が拍車をかけ、またもや歴史はくり返している。人はいい加減ここらで未来に向けて過去から学ばなければならないのですが、なかなかそうは行かないのが人というものなのかもしれません。　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-112046869364013814?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/112046869364013814'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/112046869364013814'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2005/07/o.html' title='ヨーロッパの反ユダヤ伝承文化 (O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-111856094904431297</id><published>2005-06-12T16:21:00.000+09:00</published><updated>2005-06-12T16:32:52.953+09:00</updated><title type='text'>アイデンティティの行きつく先とは・・・　(D)</title><content type='html'>ヨーロッパでの反ユダヤ人感情が、第二次世界大戦以降では最悪の状態と大桑さんのポストを読んで、驚いています。それはどのような経緯で強まってきているのでしょうか。またEUの基本的な考え方が、一方で多文化を標榜しながらも、実情はキリスト教文化を根強く残し、移民などに対して排他的な側面を持ち続けていることも知り、異なる文化的背景を持つ国々の共同体が、そうそう簡単にまとまるわけもなく、理想主義だけでうまくいくはずもないことを改めて思いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ふと思い出したのは、スウェーデンのことです。スウェーデンという国は、移民に対して非常に排他的で、外国人が居住を許可されるのは難しいという話です。スウェーデンに対して豊かで、福祉先進国で、自由な思想を持つ、（伝統に根ざした）ヨーロッパ諸国とは少し違った価値観をもつ国、という未来的イメージがあったので、この話は意外な感じがしました。話をよく聞けば、いわゆる保守的思想（植民的な？あるいは人種差別的な？）の持ち主ということではなく、国民が高い税金を払って自国の社会のシステムを整え支えているのだから、他から来る者に邪魔されたくない、仕組を壊されたくない、ということのようでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;EUを拡大しつある今、法律や政治まで含めた超国家的な存在に発展させていこうという過程にも、どことどこを入れて（囲い込んで）どこを外すか、のような問題として、スウェーデンの排他性と同じようなことが起きているのでしょう。また各国々にとっても、自国の文化性とEUのそれとの間で、相容れないことがたくさんあって、先日のフランスとオランダの憲法草案否決という国民投票の結果に結びついたりもするのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;国としてのアイデンティティや排他性、ということでもうひとつ思い出したのは、フィンランドに40年近く住んで演奏活動をしているピアニストの館野泉さんの話です。音楽大学を卒業してすぐの20代初めに、文化的に日本や西欧諸国がもっているような伝統や歴史認識から自由な国だからと、フィンランドという国を選んで移り住んだ人です。フィンランドの作曲家シベリウスの他、現代日本の作品も弾いていますし、またブラジルの作曲家ナザレーの日本への紹介者でもあります。20才代で、しかも今から40年も前にそのような選択をした館野さんの自発性と見識には驚かされます。フィンランドという国は調べてみれば、700年以上スウェーデンなどに支配され続けて1917年にやっと独立した国、とのこと。そういう国が、何のゆかりも持たない外国人が、「歴史や伝統に惹かれて」ではなく、「歴史や伝統から自由である」という理由で移り住む国になっているのは興味深いことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そしてもう一つ、オーストラリアに移住したイギリス人と日本人のカップルの話。妻はイギリス出身で大平洋アジア関係の研究で知られる人文社会領域の研究者、テッサ・モーリス-スズキ。夫はばくち打ち兼作家兼主夫の森巣博。この二人は、オーストラリアは他国と比べて国家の管理や文化的押しつけの壁が低そう、ということで家族三人で移住してきたそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうして見ると、昔ながらの価値観の中に住む人々の間では、ある国の文化や伝統が留学や移住のときの理由づけになっていたりするわけですが（旅行にしてもそうでしょうが）、そうではない逆の発想、つまり「いかに文化的、歴史的押しつけを受けずにすむか」の基準で、学びの場や生活圏を選ぶという思想がありうることがわかってきます。極論すれば、基本にそのこと（押しつけがないこと）がなければ、どんな「立派な」文化も、どんな「誇りある」歴史も、意味が薄れるということかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんも書いているように、アイデンティティ（国家にしろ、個人にしろ）を語る難しさは一筋縄のことではないと思います。自国のアイデンティティを強く語れば、ナショナリズムとの境界を問われるでしょうし、個人のアイデンティティにしても、その基本要素となるものは何なのか、国籍なのか、言語なのか、肉体的特徴なのか、性格や能力なのかを仔細に詰めていっても、その先には何もない可能性もあります。最後に行きつくのは、DNA鑑定かもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;自分のアイデンティティを探して納得しようとするよりも、個人とアイデンティティの関係性について考えていく方が、実用的な気はします。自分という、他と区別される個があって、それが他者やコミュニティと、さらにはコミュニティの外の世界と、どのような結びつきをしていくことが望ましいのか、ということを考えていくことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ユダヤという独自性も、キリスト教という独自性も、イスラムという独自性も、自己の独自性が、他者の独自性とどのように関係を結んでいくべきかの思想が完結した時点で、真のアイデンティティを獲得できるのではないか、とこれを書きながら思いました。&lt;br /&gt;（大黒）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-111856094904431297?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/111856094904431297'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/111856094904431297'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2005/06/d.html' title='アイデンティティの行きつく先とは・・・　(D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-111830897989093910</id><published>2005-06-09T18:01:00.000+09:00</published><updated>2005-06-09T19:33:41.883+09:00</updated><title type='text'>ＥＵ村の多文化共存とアイデンティティー　(O)</title><content type='html'>まずは私から謝らなければならないことがあります。一月、そう、今年の初めに大黒さんが「国という垣根の低くなった後の世界では・・・」を書かれてから、気がつけばなんともう６月。５ヶ月もの月日が経ってしまいました。私事（仕事？）でごたごたしておりまして、今まで頭をクリアにできずこんなにもの時間が経ってしまったことをお詫びいたします。歳を重ねるにつれて時間がどんどんと早く加速されるよう過ぎていくように思います。本当に申し訳ありませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、前回の大黒さんがおっしゃる二重的アイデンティティーと共同体についてですが、確かに国と国という垣根は昔と比べると非常に低くなっているように思います。私が子供のころでは考えられないほど毎日たくさんの飛行機が世界各国の空を飛び、アジアへ南アフリカへノルウェーへと人々は地球上をあっちへこっちへと移動しています。ちょうど大黒さんが前回の記事を投稿されてからすぐに、私自身も中東からヨーロッパを経由してアジアの日本まで３０時間以上の旅をしました。毎回何年ぶりかで自分の国に一歩足を踏み入れる途端に、まちがいなく日本人であるのにもかかわらずクラクラと目眩がするくらいの文化のギャップにぶつかります。思いっきり、カルチャーショックです。まるで外国の人が映画に見る「Ｊａｐａｎ」というどこか滑稽なものを見ているような、そんな感覚に襲われて、長い間他の国で暮らしている自分はいったい何者になってしまったのか、日本人としてのアイデンティティーが薄れてしまったのかと不安にさえなります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アイデンティティー。そこで、はたと、自分とは一体なんなのだろう、そしてアイデンティティーってなんなのだろう、と思うのです。ぼんやりとはわかるのですが、それは故郷というもの（それが物理的なものであっても精神的なものであっても）から来るものなのか、しかしそれすらもうつろいで行くようなものなのか、またはその他にも色々なエレメントを含んでいるのか。アイデンティティーという言葉はよく使われますが、なかなか手ごわい相手のようにも思います。おっと、少し話がずれてきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話を元に戻しますが、昔のように村から一度も出たことのないような時代、おなじ土地のおなじ言葉のおなじ文化や価値観を共用しあう共同体（コミュニティー）に生きていたのであったなら、そこに他人とはまったく異なる確固たる自分を見出す必要はなかったかもしれませんし、反対にそうすることは共同体に生きるには面倒なものですらあったのではないでしょうか。しかしそういった社会体系が変わりつつある現代に生きる私たちは、大黒さんもおっしゃるように、ひょっとすると各自のアイデンティティーを問い直す必要に否応でも迫られているのかもしれません。こう考えてみると、他との異なりによって見出す「自分とはこういうものだ」というアイデンティティーは、異なる目の色の隣人同士、または生まれ育った以外の他の土地で暮らし、国と国との垣根が低くなればなるほどさらに重要になってくるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ＥＵにおいても、国境を取り払うというアイデアはすばらしいと思いますし、ＥＵ村の共同体の一員としてはこれまでの国籍や民族などはあまり意味を持たないものになるとも言えるかもしれません。しかし、もともと異なる文化を持つヨーロッパの国の人々が、ＥＵという大きなひとつの新しい垣根の中に吸収されて生きていく時に、互いの異なりを認め合い理解して共存してゆくのは大変な時間も努力も必要なわけです。それよりも、異なる文化の隣人と同化するのではなく、反対に各自の文化とアイデンティティー、それぞれのテリトリーを確保したいのではないかと思うのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ヨーロッパのユダヤのアイデンティティーという面から見てみれば、歴史的に見てもドイツなどのユダヤの人たちの間でも、他の人々とのアイデンティティーを区別するためにユダヤの言葉であるイディッシュ語などが生まれましたし、例えばオーストリアに育ったフロイトは、そこに生きながらもヨーロッパの文化や思考とは異なるユダヤとしてのアイデンティティーをしっかりと自覚していたようです。そして現在、ヨーロッパでは、その政府はMulti-culture（多文化）を説きながらも、ＥＵに移住する人たちはキリスト教に則ったヨーロッパ文化を認めることを条件とされ、オランダとデンマークではオランダとデンマークの文化を受け入れない人には永住権を与えないという新しい法律を発表しました。また、同性結婚を公で認めたオランダではそれに反対する人々による同性愛者への暴力が恐れられ、ドイツでは若者の間で再びネオナチのムーブメントが怪しくうごめき、外国人やユダヤの人々を襲い、ロシア、セルビア、フランス、英国などでの反ユダヤの感情は第二次大戦以後では最悪の事態となりつつあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここ数年のイスラエルでは、ユダヤに対して圧力のかかっているフランスからの移民が増大する一方です。確かに、以前のシオニズム概念はもう過去の意識でしかないとも言えますが、やはりそれでもＥＵの統一が行われた今日において、それによって起こりつつある新しい危機をユダヤの人々は感じています。この土地でユダヤと他者とがどう共存していくかももちろん別の大きな問題点ですが、やはりヨーロッパのように他者を恐れる必要が少ないイスラエルという土地への帰属を願うのではないでしょうか。これからもユダヤの人々のイスラエルへの帰還への思いは続いていくのではないでしょうか。　さて、大黒さん、どうでしょうか。　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-111830897989093910?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/111830897989093910'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/111830897989093910'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2005/06/o.html' title='ＥＵ村の多文化共存とアイデンティティー　(O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-110646716623762089</id><published>2005-01-23T16:58:00.000+09:00</published><updated>2005-01-23T17:25:44.666+09:00</updated><title type='text'>国という垣根が低くなった後の世界では・・・(D)</title><content type='html'>自分のルーツについて考えること（そしてそれに沿って生きること）と、ルーツの違う人々と共存して生きていくこと、この二つには矛盾や相容れないことがたくさんあるのでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世界標準で言うところの年も改まったことでもあるので、こんなところから始めてみたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今の時代に生きている人間はみんな少なからず、二重的なアイデンティティのもとに身を置いているのではないかと思います。たとえばヨーロッパの人間は、EU成立後、それぞれの属する国家の市民である意識と同時に、ヨーロッパ市民であるという気持ちが強まっているといいます。とくに若い層では、ヨーロッパ人であるという意識が自国への帰属意識より優先されているという話しも聞きました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あるいは世界各地の移民の人々。彼らは自分の出身国というルーツをもちつつ、言語や文化の違う国外で生活を営む二重的なアイデンティティをもつ人々です。人の移動は、20世紀終盤になって個人レベルにおいても非常に活発になり、昔は旅行するのも難しかったような国も、自分の意志で生活圏として選びとれるようにもだんだんなってきています。また、仕事や学業などを目的に国外の何ヵ国かを生活圏として選び、そこに定住するのではなく、状況や目的によって移動していく人々も珍しくありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして自国で暮らす人にとっても、自分の国に多くの外国人が訪れたり暮らしたりすることで、社会の構成要員が変わり、国内の状態や境界が少しずつ変質していくのを経験しています。自分はじっと同じ場所で自分のアイデンティティを守って生きているつもりでも、その地盤自体が変化しているのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえ自国にいて母語で暮らしていたとしても、自分のアイデンティティを問い直さなければならない時代、それが今という時代なのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こういう変化の多くの部分が、経済の論理によるものだったとしても、（そのことも含めて、良くも悪くも）総体としての人間という生き物の意志の方向性のようなものを感じます。個人レベルでも、国家レベルでも、人間は豊かな経済の方にむかって動き、移動していくという法則があるということなのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近読んだ新聞のシリーズ記事に、旧東欧圏でユダヤ人街が復活しているというものがありました。ユダヤ人の生き方の選択肢として、「イスラエルに帰る」こと以外に、イスラエルの外で共同体を復活させそこでユダヤ人として暮らすこともありえるとの考えが出てきているということのようです。東ベルリン、ブタペスト、プラハ、クラクフ（ポーランド）、ビリニュス（リトアニア）などで戦前のユダヤ人街が復活し始めているのだそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それもひとつには経済が関係していて、EUが東欧圏にまでひろがってきていて、ユダヤ人街が復活している都市も豊かさの恩恵を受けられる見込みがあるからかもしれません。長らく問題を抱え、解決のめどがたたないイスラエルに帰るより、より現実的な幸せに近い場所で生きることを考えても不思議はありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;またそれとは別に、EUという超国家的共同体のモデルが育ちつつあるヨーロッパ諸国では、国、言語、民族などの違いが、よそ者と自分とを隔てるものではなくなりつつあり、その結果、差別や偏見も徐々に無化されつつあるのかもしれない、という想像もできます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そういう経済をベースに置いた共同体の中では、ユダヤ人にかぎらず、何国人、何民族、ということがそれほど大きな意味を持たなくなるのは、ありえることだと思えます。そうであれば、ユダヤ人にとっても、そこがイスラエルでなくとも、ユダヤ人として生きるのに満足の得られる地域社会が存在するのなら、他のローカルグループ（他の宗教、他の言語など）ともども、共存して幸せを築いていく道があると考えるのは自然なことかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世界的な民族移動の傾向は今後も強まるでしょうし、民族間の出生率や労働人口などの違いからも、民族分布が大きく塗り替えられていく国があらわれることも想像できます。国という枠組とその構成要員の関係が、民族や言語というものではくくりきれなくなったとき、国家という思想も後退していくのでしょうか。そして国という思想が世界的な傾向として今後後退していくとしたら、ユダヤ人たちのシオニズム運動にも変化があらわれてくるのか、それとも変わることなく約束の地、故郷イスラエルに帰ることを願い、親から子、子から孫へとその思想は受け継がれ続けていくのでしょうか。&lt;br /&gt;（大黒）&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-110646716623762089?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/110646716623762089'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/110646716623762089'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2005/01/d_23.html' title='国という垣根が低くなった後の世界では・・・(D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-110016337699505101</id><published>2004-11-11T17:44:00.001+09:00</published><updated>2004-11-11T18:16:20.436+09:00</updated><title type='text'>イランに留学している清水さんからの投稿。(D)</title><content type='html'>ずいぶんとポストの間があいてしまいました。ひとはやはり、自分の周囲半径何メートルのことに追われだすと、努力しないと想像の及ばない遠い国や人々の間で起きていることに対して、気がまわらない状態におちいってしまうということなのでしょうか。日々のいくらやっても終わらない仕事の数々、私的な心配ごと、あるいは逆にお祭り騒ぎの興奮などが、今日明日に直接影響を及ぼすことのない遠くの出来事への思考を遠ざけます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんの前回のポストに、今年の夏、イスラエルに投獄されているパレスチナ人たちによるハンガー・ストライキがあったけれど、世界はアテネ・オリンピックに夢中で、なんの注目も集めなかったとありました。ひとりの人間が抱えこめる問題の種類と総量の限度、日常でつながっていない事柄への興味の持続と切実感。一筋縄ではいかないことだと思います。もし自分が、自分の暮らす社会にたいして関心（や不満）を持てなくなったら、良い悪いの判断を停止したら、その時点で、イスラエルやパレスチナ、あるいはイラクやチェチェンで起こっていることに対しての関心も跡形もなく消えることでしょう。世界で起きていることへの反応や関心は、その人が日常をどのように生きているかの反映でもあると思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、前回の大桑さんのポストからは、パレスチナの人々はグロスマンが本を書いた時点（最後の部分の２年前）から、ずいぶん変わったのではないか、という意見が書かれていました。それが状況を改善できない自分たちの政府への不満から起きていることだったとしても、少なくとも生活レベルでは、イスラエルへの対立感情が弱まっているのではないか、という見方だったと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今日、アラファト氏が亡くなったという正式のニュースが流れました。パレスチナの人々は自分たちの行く末を心配しているのか、それともホッとしているのでしょうか。アラファト後のパレスチナは和平の方向に動いていきやすい状態になっていくのでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このページに設けた専用メールアドレスに、イランに留学生として住んでいる清水さんから投稿をいただきました。いただいたのは９月中旬のことで、掲載が大変遅れましたが、今回やっとご紹介することができます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;清水さんのメールを読んで印象的だったのは、イスラムは基本的には旅の宗教であり、ムスリムたちは土地への執着が少ない人々ではないか、という視点でした。（土地への執着については、わたしと大桑さんの間でも、最初のころに随分議論された問題でした。）そういうムスリムたちが、なぜパレスチナにおいては、民族国家の設立にこだわるのか、その原因はどこからくるものなのか、そのように考えておられるようでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;清水さんは、メールの中で、イランという同じムスリムの世界に住んでいるとはいえ、イランの人々はアラブの人々とは異なるメンタリティーを持っていること、パレスチナで起きている戦闘状態はテレビで見ているけれど、やはりイランとイスラエル／パレスチナでは、どこか遠い出来事として受けとめていること、などの注釈を加えています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以下に清水さんの了承を得て、投稿のテキストを転載しますので、お読みください。（大黒）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　ずっと以前から気にかかり、しかし目の前にある忙しさに取り紛れ、調べることをしていなかった問題に、大桑さんのブログに接したことでもう一度目を向けることができました。そして、「グロスマンを読みながら」を興味深く読ませていただきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜ、アラブ人がパレスチナに執着しなくてはいけないのか、平和的な共存は可能なのかという問題は、中東に関わるようになった大学生の頃からずっと頭の片隅にこびりついていました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私は現在イランに留学生として住み、暮らしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以前から不思議に思っていたこと、そして私の個人的な印象と疑問についてお話しさせてください。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラームがジハード＝神の道において戦うことがムスリムの義務であるとしているために、ムスリムが住み着いた土地をイスラーム化する傾向にあったことはその通りだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私はイランで、１３世紀にイスラーム世界を広く旅して回った一人の神秘主義者が残した作品を元に、イラン人の倫理観について分析しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この研究を通して、また実際にイランという国に住んでみて思うのは、イスラームは基本的に旅の宗教なのではないかということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;古典文献に出てくるムスリム（アラブ非アラブを問わず）たちも、また現代のイランに住むムスリムたちも、実に気軽に他の土地へ移住し、あるいは長期の旅に出て行きます。こうした文献と実際のイラン人を見ていると、土地に対する執着はムスリムにとって本来、非常に薄いものなのではないかと思われてなりません。もちろんこれは、都市部の住人にとっての話で、土地に縛られる農民はまた別なものかもしれませんが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼らの書くものから、あるいは今を生きるイラン人からは、自分の故郷は故郷として愛しているが、そこは何が何でも帰らなくてはならない土地ではない。帰りたくなったら帰るし、それができなければそれはそれで仕方がない。そういう考え方が随所に見られるのです。滞在した先でもムスリムであり続ければ良いだけ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;十字軍の当時、エルサレムをその手にしていたアラブ人たちが、なぜキリスト教徒が攻めてくるのか理解できずにいたことも、文献の中からは読み取れます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼らは書いています。「巡礼に来たいなら来ればいいじゃないか。どうしてエルサレムがキリスト教徒だけのものでなければないのだ？どうしてムスリムを閉め出さなければならないのだ？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マジョリティーとしての傲慢さと、イスラームがそう規定しているということから、同じ町に住むキリスト教徒やユダヤ教徒に対してさほど親切ではなかったであろうことは、文献からも、そして実際にイスラーム世界に住んでいて容易に想像できます。しかし、基本的に、彼らが一緒に住むことは、あるいは国境を接して住むことはイスラームの教義の上からは何の障害もないはずです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;こうした文献上、イスラーム教義の上からの理解と、本来ムスリムが持っている性質を考えると、今、イスラエルあるいはパレスチナの地で起こっていることに理解しがたい部分を感じるのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ユダヤ人とユダヤ教徒の歴史や思想については初歩的なことしか知りませんので、ここでは触れませんが、イスラエルが出してきた妥協案を振り払ってまで、なぜアラブ人がそこまで一片でも多くの土地をイスラエルからせしめなくてはならないのか、私には理解しがたいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在難民となっている人々の多くは、出稼ぎ労働者としてやってきた人々であることはご指摘の通りです。農民ではない彼らには、経済的理由を除けば、土地に執着する理由はないように感じるのです。彼らは本来、そこに住む権利と働く権利、信仰の自由を保障されれば、統治者がどの民族でありどのような宗教を持っているかはそれほど重視しないはずでもあります。もちろんムスリムであれば最も良いのですが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラームが本来持っていた自由な気風をゆがめてしまったナショナリズム、あるいは原理主義に名を借りたイスラーム至上主義を恨めしく思わずにはいられません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それほど豊富ではない体験と文献からの印象記のようになってしまい申し訳ありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、なぜ、彼らが「民族国家」の設立にこだわらなければならないのか、その概念を植え付けたのがいったい何ものなのか世界全体が考えてみなければならない問題であるように思うのです。これはパレスチナを超えて、世界各地で起こっている紛争を考えてみることでもあると思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;お聞きしてみたいことは次の点です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在のイスラエルでは、大きく右派と左派の間で対アラブ政策に対する見解が大きく違っているということですが、この右派と左派の間での歩み寄りは可能なのでしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;首相暗殺という手段に出てしまうくらい両派の溝は深いように見えるのですが、もし、万が一にでもアラブ側が妥協をしてきた場合、イスラエル国内の意見をまとめることはできるのでしょうか？&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在の状況ではアラブ側が妥協してくるとは思えないのですが、是非この点をお聞きしたいのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここからは全く、私と友人の個人的な話です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;私には宗教的に、非常にまじめな友人が何人もいます。彼らに聞いてみたことがあります。「現在イスラエルで起こっていることをどう思うか」と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼らのほとんどは、ばかばかしいの一言に尽きると言っています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼らはイラン人ですので、アラブのやっていることに対して批判的ということもありますし、アラブがエルサレムを手に入れたところで、自分たちが自由に巡礼できるようになると思っていません。（メッカへの巡礼を見れば明らかです）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;彼らの一人が私に言いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「預言者は、聖戦に参加するには両親の許可が必要だと言っているのよ。まず父親が賛成しなくてはいけない。父親が亡くなっているのなら母親が賛成しなくてはいけない。こう言っているわ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「でも、周囲の状況で賛成せざるを得ないんじゃないの？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「それは確かだと思う。でも、誰かがそれを教えなきゃいけないんじゃないかしら。今、彼らに必要なのは、武器じゃなくて教育だと思うのよ。イラン政府はパレスチナに武器やお金を援助したと宣伝しているけど、そんなことでこの状態が終わるわけがないってことは私たち自身が体験しているわ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「イラクとの戦争のこと？」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「そうよ、あの戦争末期、子供たちが民兵として戦争に行って、イラクの戦車に自爆攻撃を仕掛けたりしたわ。でも、そんなことで戦争なんて終わらなかった。ホメイニー師が決断をすることで終えることができたのよ（※）。彼は国民がうんざりしていることや、国自体がもう限界に来ていることを分かってそうしたんだと思うの。アラファトでも誰でも、ホメイニー師を見習うべきだわ」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;理想論にすぎず、優等生的な意見かもしれません。しかし、誰かがパレスチナの指導者たちに「苦杯を飲む」決断をするよう勧めるべきだという彼女の言葉に、私は納得しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（※）戦争末期、現在のイラク国内に占領地を持ち、多少なりとも有利な条件を持っていたにもかかわらず、国際社会の調停を受け入れ、占領地を全て手放し、戦争を終えることに同意した。その際に「苦杯を飲む決断をした」と述べている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;つたなく、長い文章になってしまい申し訳ありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、毎日のように、パレスチナの殺し合いの映像を見ていると、いらいらと心の片隅が落ち着かないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;戦闘が終わったところでそれは終わりではなく、始まりにすぎないのだと思います。それでも、始まりに至るため、イスラームにおける数少ない「妥協」が行われるよう願ってやみません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラーム倫理を研究する者として、イスラーム原理主義者たちの唱えるイスラームが、預言者の唱えたイスラームだとは思えないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;お二人の対話がこれからどのように発展するのか、楽しみにしております。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;清水直美&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-110016337699505101?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/110016337699505101'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/110016337699505101'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/11/d.html' title='イランに留学している清水さんからの投稿。(D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109721117472589345</id><published>2004-10-08T13:51:00.000+09:00</published><updated>2004-10-10T13:11:27.913+09:00</updated><title type='text'>大衆の思いと混乱、そして光　（Ｏ）</title><content type='html'>グロスマンはこの本の終わりに、国際社会の介入も国際的な軍隊の派遣をも含んだ援助によって、イスラエルとパレスチナの和平を実現とすることもありえると書いています。しかし、イスラエルの先日のテレビでは、イスラエル軍のヘリコプターから撮影された国連の救急車へとミサイルのようなものがパレスチナ人によって運ばれている映像が繰り返し流れ、こちらではかなり大々的に取り上げていました。イスラエル軍の専門家はこれはミサイルだと認識しましたが、当然国連はそんな事はあり得ないと反論し、一個人の私には実際にこれがミサイルなのかどうなのかは解りかねてしまいます。でも、ハマスなどのイスラエルへの攻撃を国連が補助しているのではないかとの疑惑をイスラエルが訴えたことは過去にも度々あり、それに加えてこれまで国連はイラク、イラン、スーダン、北朝鮮などの大量殺戮のあった他のどの国よりもイスラエルの行為に対して批判的で、したがってイスラエルの多く人々はこの土地の問題への国連の介入を望んではいません。そして他の仲介役になれる国々、ＥＵやロシアなどはこの土地の解決に関与する意味が見当たらず、米国に反発するためにアラブ諸国に対してほほ笑みかけます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルが現在考えなくてはならないのは、ガザ地区からのイスラエルの町に向けられたミサイル攻撃に対してであり、イスラエル側にとってはこの国連の救急車の一件は非常に重要な事だったのでしょう。シャロン首相の一方的なガザ地区からの撤退の決断の結果、イスラエルとパレスチナ問題の焦点をガザ地区に当てる事となって、パレスチナ側はシャロン首相のガザ地区撤退の決断を受け入れて交渉を始めることよりも、さらにイスラエルを攻撃する道を選んだように思います。彼らはオスロの後でも同じようにバスに自爆犯を送り込み、またキャンプ・ディビッドの後にはインティファーダを起こしました。パレスチナ側はイスラエルの行為には、すべて暴力によって答えるという道をとってきたこと、そして正直言ってそれについてイスラエル側はとても混乱しているようにさえ感じられます。そしてイスラエルがその存在を保つためにはパレスチナの町や村に兵士を置き、チェックポイントを置いて道を遮断し、しかしそのためにパレスチナの大衆の生活を苦しめる事になりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルの大衆はこの状態をどう思っているのか、私自身そのことについて常々疑問に思ってきましたが、先週のエルサレム・ポスト紙（イスラエルの英字日刊紙）である記事を見つけました。エルサレム・ポスト紙のトップ・ジャーナリストであるカロリン・グリック氏は、西岸地区のサマリアにいるイスラエル軍の指揮官（彼女の近しい友）が個人的に行なったあるミロイムの兵士*¹とのインタヴューについて語っていたのですが、以下がその兵士の発言です。（エルサレム・ポスト紙の原文を日本語訳しました。）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「私は西岸・ガザ地区はパレスチナ側に渡すべきだと主張するために、自分のユニットがガザ地区に設置されていた過去の３年間は兵役を拒否しましたが、その後パレスチナ側はイスラエル側がどういう行為をとろうともイスラエル人を殺すのだということに気がついたのです。このことに気がついてからは何をどう考えていいのか悩み、妻はイスラエルから他の土地へ移住したいと嘆きましたが、私は今は戦う時だと決断したのです。私はイスラエルはパレスチナに国家を与えるべきだと思う反面、キャンプ・デイビッドでそれを一度提案したにもかかわらず、受け入れるどころかイスラエルを攻撃に掛かった事実から、パレスチナ側はそれを本心からは望んでいないと思っています。でも、イスラエル軍が西岸・ガザ地区に駐屯する事が、彼らの正気を失わせるのかもしれないとも。それでも彼らは私たちが何をしようとも関係なく、私たちを殺すでしょう。だからこちらも戦い続けなければならないのです。彼らは決して私たちをほおっておきはしないでしょう。私は混乱しています。ここへ戦いに来ました。それが私のしなければならない事だから。でも実際にはそれが正しいかどうかは私にはわからないのです。」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ケレン・イェダヤというイスラエルの映画監督はカンヌで賞を受賞した際のスピーチで、「イスラエルは３００万人のパレスチナ難民を奴隷のように留めている責任があり、とても恥ずかしく思う」と発言しました。そして一般の左派の人々は入植地に住む入植者を見るとパレスチナの子供たちを思い浮かべ、彼らが入植者を毛嫌いすることへと導きます。またしても、混乱、と言うべきでしょうか。この映画監督や左派の人々は、彼らもまたこのイスラエル・パレスチナ問題の一部を担っていると考えがちです。ケレン・イェダヤが現在安心して自由にこの土地で映画を製作できるのは、彼女が言うパレスチナの奴隷をイスラエルの兵士がそこに留める事によってではないのか、左派の人は兎にも角にも入植者を非難する事で、彼らの住む家がもしかするとこの土地にかつて住んでいたアラブ人の家だと言う事実に目を伏せているのかもしれない。パレスチナ難民の問題は最初の入植地が建てられる２０年前に起こっているにも関わらずに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、入植者には二つの考え方があります。一方のグループは宗教シオニストのグループで、彼らはイスラエル政府や軍が立ち退きを申し立てても、神に守られていると言う理由を持ち出して、入植地から去ることはないでしょう。そのもう一方のグループはもう少し柔軟な考え方で、イスラエル政府が立ち退きに当たっての補助金を支払うのを、そしてどこか新しい場所で再出発する事を今か今かと待ち望んでいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グロスマンは２年前にこの本の最後の部分を書いていますが、今その部分を読み返してみると、それが２年前ではなくてまるで２日前に書かれたような感覚に襲われます。つまり、あれから何も変わってはいないのと言う事なのでしょうか。グロスマンはあの当時、希望を見出せませんでしたが、でも私は希望の光はトンネルの向こうに見えていると思うのです。それがほんのかすかな光であったとしても。パレスチナの大衆はあれから変化してきたように感じます。４年も続く争いで、彼らは疲れています。そしてごくごく普通の生活を取り戻したいと切望しています。今年の夏にイスラエルに投獄されているパレスチナ人は、世界から注目を集めるためにハンガー・ストライキを起こしたのですが、これまたタイミング悪く、世界はアテネ・オリンピックに夢中で、パレスチナの人々はストライキにはほとんど関心を示さずに、あるアラブの国のテレビ局が行ったアラブ版スター誕生に出演したパレスチナ青年が優勝するかもしれないと、スター誕生物語に夢中になっていました。そこで、パレスチナ政府とハンガー・ストライキを起こした人たちの家族は、このストライキに人々の関心を集めようと躍起になりましたが、大衆はもうそんな事には無関心で、そのテレビ番組のために西岸地区の町々には巨大なスクリーンが設置され、人々はその前に集まりました。さらに２週間前に西岸地区では、パレスチナ政府によってインティファーダ４周年記念を祝う集会が計画され、主催者は何万人という大勢の人が集まるだろうと予想していましたが、実際に集まったのはたったの１００人足らずでした。パレスチナの大衆が政府の汚職や、政府が彼らの生活をいつまでたっても向上させない状況にうんざりしているのことの表れではないでしょうか。それでも肝心のパレスチナ政府はこの事実を認めたくはないようでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして東エルサレムに住むイスラエル国籍のアラブ人たちは壁の向こうのパレスチナ側には行きたくはないのでしょう。彼らはイスラエル国籍のアラブ人のジャーナリストに、どうしたらユダヤ人の住む地区に家を買うことができるのかと尋ね、ユダヤ人の地区に住居を購入し、そのジャーナリストに「住居を売ってくれたユダヤの人や近所の人たちは、アラブ人が近所に住む事についてなんら否定的な反応はなかった」と伝えました。そしてまだ壁の建設の始まっていない村々からは、数千というアラブの人々がエルサレム周辺に引っ越しをして来ています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルのベストセラー作家で平和運動家でもあるアモス・オズは数週間前に、「この過去１、２年でイスラエルとパレスチナの大衆の間では、お互いの国家を持つことについて受け入れる姿勢が見えてきている。まだこのことがお互いの将来を確実に保障したいう訳ではないにしろ、非常に大切な変化である。そうやって僕たちは毎日一歩一歩進んで行くのだ。」と語っています。　（大桑）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;*¹：一般成人の男性は、約一年に一度、ミロイムと呼ばれる３週間ほど兵役につく制度があります。この兵士は過去３年間のミロイムを拒否したと言う事です。&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109721117472589345?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109721117472589345'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109721117472589345'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/10/blog-post.html' title='大衆の思いと混乱、そして光　（Ｏ）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109530212219982759</id><published>2004-09-16T11:34:00.000+09:00</published><updated>2004-09-16T11:46:12.966+09:00</updated><title type='text'>絶望までたどりつき。これも理解の一歩か。(D)</title><content type='html'>２回にわたる大桑さんの長文のテキストをポストされた時点で読み、その後プリントして読み、これを書く前にまた読み直し、としてみて、わたしの中に澱のように溜まっていき、そこでうごめいていること、そのことについて今回は書いてみようと思います。それは実りの少ないがっかりさせられる事実です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;結局のところ、少なくとも政治（家）レベルで言うと、パレスチナにしろ、イスラエルにしろ、和平など今のところどちらも望んでいないのだ、ということがよくわかりました。またこの土地を取り囲む重要なキーを握る（あるいは当事者としての）アラブ諸国にしても、和平とは水と油の思惑があるのだな、ということが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;誰にも望まれず、誰にも利益をもたらさない「和平」という思想、考え方。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;あまりに悲観的、あまりに絶望に満ちた結論でしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;いえ、これをまだ結論とは呼びたくありません。ここに、この絶望に今、わたしがたどり着いたこと、それはもしかしたら、大桑さんが立ち続けてきた地平やそこから見ている風景に、少しだけ近づいたということなのかもしれない、そんな風に思ってみたりします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実際、この対話を始める前のわたしはと言えば、お決まりのように「パレスチナ、イスラエル双方の歩み寄りによって、和平は実現するはず。なのに両方とも歩み寄ろうとせず、それぞれより多い利益を手にするために、妥協をしようとしない」という風に、思ってきたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今回、大桑さんの長い長い詳細にわたる（大桑さんによれば、ごくかいつまんだ粗筋となるのですが）解説を読んで感じたのは、それとは少し違う想いでした。上に書いたことがまったく間違ったこととは思いませんが、このような書き方、思い方ではあまりに単純すぎる、理想論すぎる、ということが少しではありますがわかってきたということです。そうわたしを思わせた記述の中から、パレスチナ難民に関するものを上げてみたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●パレスチナ難民の創出に関するアラブ諸国の責任について：&lt;br /&gt;わたしはこれまで、パレスチナ難民とは、主としてイスラエル軍の侵攻、入植によって生み出された事態と思っていた。しかし以下のような事実を知ると、この問題はアラブ諸国の思惑なしには起こりえなかったことがわかる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1）&lt;br /&gt;1948年のイスラエル建国直後（正確には宣言のその日）に、アラブ諸国６ヵ国がイスラエルに攻め入り第一次中東戦争がはじまる。当時のイスラエルのアラブ人の多くが、この軍隊に参加。その後この戦争の間、70万人のアラブ人が国外に逃れ出る。&lt;br /&gt;2）&lt;br /&gt;400万人に達したパレスチナ難民は、アラブ諸国が難民創出プランを実行し、イスラエル国家の存続を揺るがすために、国連の関与する難民救済機関への援助を拒否することで生まれた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;アラブ諸国にとって、パレスチナ難民という存在は、なくしてはならない、自己の正当性をプロパガンダしていくためにも、必要な存在であった（ある）という想像ができる。難民によって利益を得るものがいる限り、その存在をなくすことは難しいだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;●パレスチナ難民の創出に関するイスラエルの責任について：&lt;br /&gt;イスラエルの右派政治家たちは、もし300万人のパレスチナ難民を受け入れるなら、この国がもはやユダヤ人国家として存在し得ないことを恐れている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ユダヤ人のみによる純粋国家を強く望む、という排他主義があることは否定できない。この考え方は、過去のもの、つまり今の世界にとってはもう実現不可能な思想ではないかと思えるのに。ユダヤ人だけでなく、どこの国にとっても。ただ心情としてはわからなくはない。今の日本人だって、中国から5000万人くらいの移住がここ何年間の間にあって、人口の半分近くが中国人となった場合、平安な気持ちではいられないだろうし、多分、中国人を第２級市民として扱うだろう。イスラエルのパレスチナ人への扱いのように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;以上がパレスチナ難民の問題について、今回理解したことです。&lt;br /&gt;もうひとつ、強く感じたことのひとつに、メディアの問題がありました。&lt;br /&gt;メディアを通じて発信されるさまざまなニュース、そのソース、そこにもさまざまな思惑にまみれた情報や使いわけされた声明があり、わたしたちはテレビや新聞のニュースさえ、まともに受け取っていては目をくらまされるという現実があるのだ、ということに改めて、強く、気づかされました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば、パレスチナの政治家たちのメディア戦略として、英語による欧米への訴えかけとしては「和平」を、アラブ語によるアラブ諸国への呼びかけとしては「イスラエル破滅」を、という使い分けを実行している、というような例です。こういうことはイスラエル側の報道にも多分にあることでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;独自の情報網などもたない（言語に長けていれば、インターネットを通じて、個別に情報に当たりそれを総合的に見て判断し、その中にあるウソを見抜き、とできるかもしれませんが）、普通の人間にとっては、もう信じるに足るものを見つけることや信じるに足るか判断すること、そのこと自体が難しく、絶望してテレビや新聞から目をそらすしかないのかもしれません。それがいやだったら、第一歩として、自分で少しでも各情報に当たれるよう、アラビア語からヘブライ語、ペルシア語など中東の各言語、さらにヨーロッパの諸言語も含めて、できるだけ多くの言葉を身につけて、翻訳を通さなくとも情報にアクセスできるよう武装（！）することを考えた方がいいのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1948年のイスラエル建国宣言にはじまったと思われる、現在のこの土地の紛争には、世界の国々が「世界」という認識を俯瞰としてはっきりと持ち、国際関係の中における自国の位置づけや優位性を一大重大事として、国家主義を強力に押し進めてきたことと無縁ではないだろうという気がしています。イスラム教徒のもともとの考え方とは別に、現在のアラブ諸国のイスラム国家主義のもとにおいては、排他主義が横行しているように。あるいは、イスラエル国家（とくに右派政治家）にとって、何百万というパレスチナ難民をかかえ込まなければならない自国は、ユダヤ人国家として態（体）をなさないし、イスラエルとは言えない、というようにこれまた強力な排他思想のように。双方がこのように思っている間は、二つの国家を新たに創出することさえ、難しいことのように思えてしまうのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここまで来て、もう一度、グロスマンの本にもどってみようかと今思っています。最初に読んだときと、どう印象が変わるのか。最初に読んだときに感じたグロスマンの苦悩が、今、どう感じられるのか。そんなことを検証しつつ。（大黒）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109530212219982759?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109530212219982759'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109530212219982759'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/09/d.html' title='絶望までたどりつき。これも理解の一歩か。(D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109401225583022977</id><published>2004-09-01T13:57:00.000+09:00</published><updated>2004-09-09T19:29:44.276+09:00</updated><title type='text'>それぞれの思惑　（O ）</title><content type='html'>私がはじめてイスラエルの地に足を踏み入れてから、すでに１５年近い時間が過ぎました。ここ6年ほどの在イスラエルで、しかもここ数年のイスラエル国内での争いを身をもって感じる生活の中で、これまでに書いてきたこと、または個人的には、アラブまたはイスラエル側と、どちらか一方の政治的な立場はとってきていません。ここまでここで、大黒さんと一緒に書いてきたことの意味は、アラブ・イスラエルのどちらが良い悪い、また非があるかないか、卵が先か鶏が先かというような水掛け論的なものではなく、この問題の解決の方向付けには何を正しく理解することが必要か、そしていかにしてそられを解決できるのかに焦点を当てています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この過去の120～130年間、この土地では、統治者の交代や多くの争いが起こりました。もしこれらの起こったこと全てを書こうと思えば、非常にたくさんの時間と紙が必要になります。ですから、ここでは読み手に解りやすいようにそのなかでも最も重要な事に絞っていく事にします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1948年の独立戦争によってアラブ・イスラエルの難民の問題が初めて発生しまし、そして1967年の6日間戦争では入植地（Ｙｅｓｈａ）の問題が起こりました。 ダニエルさんが先日の手紙に書かれたＹｅｓｈａというこのヘブライ語の言葉は、Ｊｕｄｅａ（ユダ）とＳａｍａｒｉａ（サマリア）を省略したもので、この6日間戦争の結果、イスラエル政府は東エルサレム、イェシャ、ガザ地区、北部のゴラン高原、そしてエジプトのシナイ半島を攻め落とし、それぞれを違った目的の為にコントロールしたのですが、その中でも東エルサレムはイスラエルの一部となり、そこに住むアラブの人々は個人の自由選択によって、イスラエル国籍を取得できその国民としてのすべての権利を得ることができました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イェシャとシナイ半島ではイスラエル政府は入植地を建設をしはじめ、ゴラン高原は軍事的にとても重要な場所としてイスラエル国防軍（ＩＤＦ）の基地などが設置されました。今日の欧米の政治家や多くの人々は、イェシャの入植地が中東和平の鍵を握っていると思っているようですが、果たして本当にそうなのでしょうか。入植地は左派によって建設がはじめられ、それを右派が引き継ぎ、そして右左両派のイスラエル政府は、このイェシャやガザ地区がイスラエルの一部になることはあり得ないと解っていました。それはつまり、イェシャやガザ地区をイスラエルの一部にすることによって、約300万人のパレスチナ難民を受け入れなければならない訳で、現在、西ヨルダンから地中海にかけての土地には、ほぼ同じ数のパレスチナとユダヤの人々が住み、もし仮に西岸地区（ウェスト・バンク）がイスラエルの一部になった場合、イスラエルの右派の政治家たちは、この国がユダヤ国家として存在しい得ないことを、非常に恐れているからなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このようなイスラエルのユダヤ国家としての存在の継続の重要性が、パレスチナの人々との分離フェンス（または壁）の建設、そしてガザ地区からの撤退などシャロン首相らが一方的に行っている理由とも言えると思います。またこの分離フェンスの建設やガザ地区撤退のその他の理由としては、米国のブッシュ大統領が提案したロード・マップ計画など、米国からのかなりの圧力があり、このロード・マップ計画はイスラエルがエルサレムの大部分と軍事的重要地を失うことになる、１９６７年当時の国境へ戻すというものでした。ちなみに、世界中でイスラエルだけがはっきりとした国境を持たない国だということを知っている人は少ないでしょう。イスラエル国議会はこれまでに、東イスラエルの国境が一体どこであるかということを、公に発表したことはありません。壁の建設が1967年の国境地区より外側にされているという理由として挙げられるのはもちろんセキュリティーですが、それと同時に政治的理由としてはアラブ諸国とパレスチナ側との将来的な交渉ための既成事実として、すでに存在する国境を持つということが目的と言えると思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、イスラエル政府が西岸地区とガザ地区に入植地を建設する理由は、土地を和平と交換すること、これらの地区をパレスチナの人々に返還することによって和平を得るということだと言えます。イスラエルの右左両派の政府はこれらの地区を返還するつもりは多分にありますが、この問題においての右左両派の考え方の違いは、これらの地区のどれほどの面積を返還し、またその引き換えに何を受け取るかです。左派は和平のためには、これらの地区の全てを無償で返還してもよいという態度で臨んでいますが、右派はできる限り少量の土地ならば返還してもよいが、その引き換えに完全なるセキュリティーの確保、つまり、パレスチナ側がすべてのテロリストを逮捕するということを条件として望んでいます。ガザ地区の入植地には7500人のユダヤ人入植者しか住居していないのでそれほどの問題もなく入植地から去り、それについて一世帯あたりに支払われる補助金で彼らは新しい土地に移転することは容易なことです。しかし、西岸地区やイェシャの入植地では27万人の入植者を抱え、彼らの多くは宗教的シオニズムのイデオロジーの夢と共に、アメリカなどの海外から移住して来たのです。｢ここを去るよりも、戦って殺されるほうがましだ｣と、彼らはよく口にします。そのような信念を持った彼らをその土地を去るようにするということは、なかなか容易なことではありません。そこで、恐らくイスラエル政府は、西岸地区のこれらの入植地の一部分をパレスチナ側に返還し、残った入植地の主な部分と同面積の土地を他の場所に与える方法をとるだろうと思われます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グロスマンが言うように、パレスチナ・イスラエルの双方が妥協するということが和平への道なのですが、イスラエル側はこれまでに過去において、そして現在においても妥協をする準備がある程度できていますが、パレスチナまたはアラブ側には、過去にも、そして現在にもそのつもりが見受けられないのではないでしょうか。誰か相手がいて対話する時に、まず最初にしなければならないことは、相手の存在を認めるということだと思います。そして相手の生きる権利をも。しかし、現在までほとんどのアラブ諸国、そしてパレスチナ側はイスラエルの持つ権利というものについて認めたことがありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;多くの人々が中東問題という言葉から、パレスチナ・イスラエルの争いを思い浮かべると思いますが、果たしてそんな小さな事ではなく実際には全アラブ諸国とイスラエルの問題と言えるでしょう。ここ数年においてはこの問題はどんどんと大きくなりつつあり、現在の主な争いはイスラム原理主義と日本を含む欧米世界との争いなのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで、中東と北アフリカの地図を見てみましょう。イスラム教の国を緑色、イスラエルを赤色で塗ってみます。するとどうでしょう。イスラエルはこれらのアラブ諸国の背中に突き刺さったナイフのように見ることができ、これがアラブ諸国が考えるイスラエルの存在と言えます。宗教としてのイスラム教では、常に他の一神教（主にキリスト教やユダヤ教）の人々がイスラム教の土地の一部に、同等レベルではなくしかしセカンド・クラスの市民として住むことを認めてきています。しかし、これらのキリスト教徒やユダヤ教徒が、かつて過去において、または現在においてイスラム教徒の土地であった場所に国を持つことを許可していません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラム哲学においては、世界は二つに分けられています。その一つはイスラムが支配する土地、そしてもう一つは非イスラムの土地であり、それらの土地はいずれはイスラム教徒の土地になる運命にあるというもので、その成功への道はジハッド（イスラム聖戦）と呼ばれるものです。そして、このジハッドにおいてイスラム教徒の人々が行える最大の事とは、自らの命を捧げて殉教者となるという事です。そしてかつてイスラムの支配下であった土地に非イスラムの国を作ることは、神の加護を失ってしまうことと信じられているために、それは到底許されることではありません。これらの理由によって、すべてのアラブ諸国（つまりイスラム教徒の国々）はイスラエルの存在を認めることはありません。もしも、あるアラブの国の政治家がイスラエルの存在を認めてしまえば、もはや彼の生命の保証はされないといってもよいでしょう。1978年、エジプトのサダト首相はイスラエルとキャンプ・テービッドの合意調印をしますが、それを理由にサダト首相はあるイスラム原理主義者によって暗殺されています。また、ヨルダンの王も同じ理由で亡くなっていますし、1993年にはそれと同じことがイスラエルのラビン首相の身にも起こりました。ラビン首相は極右派のユダヤ人青年に暗殺されています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラム教徒の人々は他の宗教徒、特にキリスト教徒やユダヤ教徒の人々に対し敵対心を持っているという訳ではなかったとすでに書きましたが、現在のアラブとイスラム教徒の国家主義においては、キリスト教徒やユダヤ教徒の人々がイスラムの世界に住むことを認めてはいないのです。ちなみにイスラム教の法では、イスラム教徒は非イスラムの国に住むことはできますが、それにあたってはその国をゆくゆくはイスラムの国にするということが前提に置かれてのみです。 ここまで書いたイスラム教とアラブ諸国の価値観は、実際にはもっと非常に複雑なものですが、今回はできるだけ簡潔にしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;世界中のメディアはパレスチナ・イスラエルの争いを大々的に取り上げますが、西岸地区とレバノンから追放されたキリスト教については、ほとんど誰も取り上げていません。1993年のオスロ合意以前にイスラエルが管理していたベツレヘムは、80％がキリスト教徒の町でしたが、オスロ合意以後にパレスチナ側がこの町を管理し始めてからは、キリスト教徒の数は20％以下にまで減ってしまいました。彼らはイスラム教徒たちによる圧力、そして、同じキリスト教徒として手を差し伸べないバチカンや欧米のキリスト教諸国の、どこからも見放されてしまったという気持ちからベツレヘムを去りました。もし誰かが西岸地区へ行ったとしたら、彼は廃墟となったキリスト教徒の村に現在イスラム教徒が住み付き、村の名前をアラブ語に変えてしまったことを目にするでしょう。そしてそこにかつてはキリスト教徒が何世紀にも渡り住んでいた証としての空っぽの教会が、今ではただモニュメントのようにぽつんと佇んでいます。また、レバノンのキリスト教徒たちは、ベツレヘムのキリスト教徒たちと同じようにイスラム教徒からの圧力に耐えられず、その多くがアメリカとカナダに移住して行きました。 この事実について、世界中の欧米諸国のメディアが全くといっていいほど取り上げないことに、とても疑問に感じています。そして、カトリック教会もこのことについてはできるだけ触れないように、または口を重く閉ざしてしいます。欧米諸国が石油をできるだけ低価格で購入するためには、数年前にアフガニスタンのバーミヤンの仏教遺跡破壊に見られるように、黙って見過ごさなければならないことがかなり沢山あるようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1968年7月17日、ＰＬＯ（パレスチナ解放機構）は、｢イスラエルは存在権利がまったくなく、すべてのアラブ諸国はイスラエルの完全破滅まで戦う｣と国家の書類に記しました。イスラエルが独立してから、イスラエルはこれらのアラブ諸国と和平を結ぼうとしてきましたが、こういった書類に書かれたことに見られるように、それが受け入れられたことはありません。1978年には、エジプトとイスラエルのキャンプ・テービッドの合意調印において、イスラエルはシナイ半島の返還にあたりそこに建設されていた入植地の全てを撤去しました。そして、シリアにもゴラン高原を除くすべての占領地を返還しました。1993年、長い交渉の末にＰＬＯとイスラエルはオスロ合意に調印し、パレスチナ自治政府がパレスチナ独立国家への第一歩として西岸地区とガザ地区を管理することになります。このオスロ合意のきっかけになったのが、ガザ地区で起こり西岸地区へと広がった第一次インティファーダで、その後その争いは3年間続きました。この時に、現在ではすっかりシンボルの様になった、パレスチナの子供がイスラエル軍戦車に向かって投石している姿がテレビで初めて映し出されました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1991年11月、マドリードでイスラエル対シリア、レバノン、ヨルダンとの和平会議（マドリード中東和平会議）が設けられ、その結果として1993年にオスロ合意が実現し、翌1994年にはイスラエルとヨルダンの間で平和条約調印が行われました。オスロ合意ではイスラエルはパレスチナ自治政府の管轄下になる西岸地区とガザ地区からの撤退、さらにはパレスチナ自治政府への援助資金と自治警察への武器の供給を課せられました。ダニエルさんが仰ったイスラエル政府によるパレスチナ・テロリストの補助というのはこの事を指しています。現在までイスラエル政府は補助金と武器の供給を続けていますが、ＰＬＯは、テロ活動の停止、反ユダヤまたは反イスラエル主義のプロパガンダの停止、イスラム原理主義の児童教育カリキュラムの変更、そして、1968年7月17日の書類に記した「イスラエルの完全破滅」という部分を消去するとオスロ合意にて調印したのにも拘らず、これらの公約のどれをも未だに見直されることなく、ましてや停止には至っていません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在までに、パレスチナ側の政治家達は彼ら戦略方法として、欧米のメディアに対しては和平を英語で訴えること、そして、アラブ語でのアラブのメディアではイスラエルの破滅と憎しみを語りかけるということを繰り返してきています。アラファト議長のお決まりの台詞は｢パレスチナの少年が、パレスチナの旗を、パレスチナの首都となるエルサレムの、教会、モスク、そして旧市街の壁に翻すこと｣で、実際に彼は2000年の夏、前イスラエル・バラク首相がパレスチナ側に西岸地区とガザ地区の９６％、そして旧市街を含む東エルサレムを譲歩すると申し出た時に、その夢を実現するチャンスがあったにも拘らず、アラファト議長はその申し出を拒否し、その代わりに第二次インティファーダを起こしました。 アラファト議長が和平を受け入れない理由としては、過去のイスラエルのラビン首相やエジプトのサダット首相のように、彼の部下によって命を絶たれることを望んではいないからなのです。 とても有名な前イスラエル外務大臣アバ・エバンは｢アラブ人は交渉するよりも戦争を選ぶ｣と発言しました。前バラク首相がアラファト議長とのピース・プロセスの数ヶ月前にレバノンから撤退したことを、アラブ側はイスラエルの弱さとして受け止め、インティファーダの勃発による圧力でさらに広い部分の土地を手に入れられるだろうと考えたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今、この記事を書いている最中ですが、テレビの画面には、今日、南イスラエルのベル・シェバという町でバスが二台吹き飛ばされ15人のも死傷者を出したというニュースが流れています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このインティファーダが始まってから4年が過ぎ、約5千人という死者が両者から出て、パレスチナ側ははじめて彼らの負けを自覚したようですが、すでにパレスチナ社会は崩壊する一歩手前まで来てしまいました。人々は飢え、絶望し、社会の建て直しを切望しています。しかし、現時点ではパレスチナの政治家達はインティファーダを停止するなどの改革を行うつもりは毛頭ありません。しかしそれでも和平への希望はまだ残されています。パレスチナ側はテロ攻撃では勝ち目がないことにとっくに気が付いていますし、彼らは軍事的に勝利を収めることは到底できませんが、政治的に勝利することは可能なのです。つまり、世界は彼らに独立した国が必要だと認識しているからです。しかしその反対にイスラエルは軍事的勝利はあり得ますが、政治的勝利はほぼあり得ません。なぜなら世界はイスラエルに対抗しているからです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グロスマンは双方が妥協しなければらない、そして必要ならば国際的な援助もあり得るだろう言いますが、彼らが正しい和平解決への道を示すことの可能性はとても低いだろうと思います。それらの国々は和平への彼ら自身のアイディアをこの土地に持ち込んでくるでしょう。この土地では、実際に歴史的に常に国際統治者が入れ替わっていたのですが、誰の援助も解決には至らなかったのです。それは近年にヨーロッパで起きたコソボやボスニアの戦争においても同じことが言えました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;永久的な和平を実現させるには、アラブ諸国、そしてパレスチナ社会に大きな変化が必要となります。仮にアラブやパレスチナ側の政治家達が和平協定に調印したとしても、その若い世代にはすでに憎しみがしっかりと植え付けられ、それを取り除くにはまた数世代の時が必要となるでしょう。そして現在女性たちは全く相手にされずに隅に置かれ、平等の権利としてあるのは死に対してのみ、つまり自爆テロになるということ。殉教者としての死ということが美化され、すばらしいものとして語られ、小学校などでは小さな幼い児童は、それがどんなにかすばらしいヒーローのような行いかと教育されている。そのような社会では若者がその以外の夢や希望とする目標は見つけられず、自爆テロになることが残された道となる。その行為によって彼らは社会的に認められ、遺族には多額の慰謝料が支払われる。世界がこういったことに対してパレスチナ側に何らかの徹底的な働きかけをし、彼らの社会を変えること、例えば民主主義社会にすること、それなしにして本当の意味での和平を実現させる基礎でさえ固められないのではないでしょうか。 　（大桑）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;参考文献：&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0929093135/qid=1094000527/sr=ka-1/ref=pd_ka_1/002-0724115-2123250"&gt;Battleground: Fact &amp; Fantasy in Palestine&lt;/a&gt; 』-- by Samuel Katz&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0345461924/qid=1094000616/sr=ka-1/ref=pd_ka_1/002-0724115-2123250"&gt;Six Days of War : June 1967 and the Making of the Modern Middle East&lt;/a&gt; 』-- by MICHAEL B. OREN&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0060915331/qid=1094000651/sr=ka-1/ref=pd_ka_1/002-0724115-2123250"&gt;A History of the Jews&lt;/a&gt; 』-- by Paul M. Johnson&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0671662414/qid=1094000701/sr=ka-2/ref=pd_ka_2/002-0724115-2123250"&gt;O JERUSALEM&lt;/a&gt; 』-- by Larry Collins, Dominique Lapierre&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0684844419/qid=1094000760/sr=ka-1/ref=pd_ka_1/002-0724115-2123250"&gt;The CLASH OF CIVILIZATIONS AND THE REMAKING OF WORLD ORDER&lt;/a&gt; 』-- by Samuel P. Huntington&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0156260336/qid=1094000817/sr=1-1/ref=sr_1_1/002-0724115-2123250?v=glance&amp;amp;s=books"&gt;Diaspora: The Post-Biblical History of the Jews&lt;/a&gt; 』-- by Werner Keller&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0963624202/qid=1094000873/sr=ka-1/ref=pd_ka_1/002-0724115-2123250"&gt;From Time Immemorial: The Origins of the Arab-Jewish Conflict over Palestine&lt;/a&gt; 』-- by Joan Peters&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109401225583022977?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109401225583022977'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109401225583022977'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/09/o.html' title='それぞれの思惑　（O ）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109340639353833355</id><published>2004-08-25T12:53:00.000+09:00</published><updated>2004-09-01T13:32:32.743+09:00</updated><title type='text'>パレスチナ難民問題の発端　（O）</title><content type='html'>前回の大黒さんのポストから１０日経って、やっと今日になって何とかできるだけ簡単にまとめることができました。長い歴史の中で起きている（しかも現在進行形の！）、とてもこんがらがったことについてなので、できるだけ気長にお願いしますね。では前回の私のポストの、英国の統治によってパレスチナと呼ばれるようになったこの土地のその後について、続けていきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第一次世界大戦後、１９１９年にパリ講和会議においてイギリスやフランスによってトルコ帝国の領地だった中東を分割統治されることが決められ、それはこの土地の９９％はアラブの人々へ、そして残りの１％をユダヤの人々のホームランドにするというものでした。１９２０年、当時の米国の大統領ウィルソンが提唱した国連の前身とも言える国際連盟（LEAGUE OF NATION）によって、それまでパレスチナ（その当時はヨルダンも含まれていました）と呼ばれていたこの土地は、英国が委任統治することになりますが、英国はスエズ運河などを含む重要なこの土地を我が物にしたいだけであって、ここに住む人たちの為の統治には無関心で、特別何も行いませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして、英国統治時代のこの土地は１９２９年に起きたアラブ側からのユダヤ側への攻撃のヘブロンの大虐殺、その反対では、ユダヤ側の攻撃で起きた１９４８年のディル・ヤシン事件。そしてそのお返しの様に起こったアラブ側による４日後のハダッサ事件とエチオンブロックの虐殺（これらの二つの事件はなぜか事実として取り上げられない事が非常に多い）に見られるように、アラブとユダヤの人々の争い・いざこざの時代と言えます。ヘブロンの町はユダヤの人々が３０００年という長い期間に置いて住み続けていた土地でしたが、その２日間続いたアラブ側の武装勢力での虐殺に関して英国は全く見て見ぬふりをして、その代わりになんとか生き延びたユダヤ人には、「安全のために」という名目でヘブロンから去るように命令したのでした。当時、こういった惨事がこの土地のいたるところ（一晩で２００人近くのユダヤの人が虐殺されたエルサレムの旧市街を含む）で行われましたが、それでも英国はユダヤの人々を保護すること、また保護しないにしてもアラブ側の攻撃を止めさせるなどの仲裁は一切行いませんでした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９３６年後、アラブ側の大蜂起、ユダヤの人々に対する攻撃はどんどんとエスカレートし、ついに英国にはその混乱は手に負えなくなり、この土地の統治能力を失ってゆきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９３９年５月１７日、英国政府はアラブ側のリーダー達の反ユダヤの圧力に負け、ユダヤの人々のパレスチナへの移住を限定するという白書を発し、のちにはユダヤの人々の移住を完全に禁止してしまいます。またこの白書のために第二次世界大戦時にヨーロッパからナチの手を逃れようとしたユダヤの人々はこの土地へ移住することができず、そして第二次世界大戦後にホロコーストを奇跡的にも生き延び、しかしもはや帰る家族も家も失った彼らはこの土地へと航路でやってきますが、入国は許可されずにまたヨーロッパへ送り返されるということが何度も起きました。１９４７年７月に起きた移民船エクソドス号の話は１９６０年にアカデミー賞を受賞した『栄光への脱出』という映画のモデルにもなった有名な話です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話が前後しますが、英国はこの白書を発する前に、この土地をアラブとユダヤとの両方に分けることを計画していましたが、アラブとそして世界中からの圧力が英国に掛かり、そこで英国はユダヤの人々にいかにこの土地の少しだけを与えるかという事に基づいてこの白書を発行します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４７年１１月２９日。国連議会ではパレスチナの土地にアラブとユダヤの二つの国境を持つ国を建設するという、パレスチナ分割に関する決議が総会で採択されます。そしてエルサレムはどちらの国にも属さない、国際管理下に置くインターナショナル・ゾーンとされることになります。これに対してユダヤ側は同意をしますが、アラブ諸国はこの決議前に国連に参加している国々にかなりの圧力をかけて、この計画を阻止しようとします。そしてさらに決議後には、パレスチナ全土のユダヤの人々を攻撃をしますが、これが現在まで続いている争いのはじまりでした。そして英国が引き上げる瞬間までには、アラブ・ユダヤの双方が、どちらがどれだけより利益のある道と肥沃な土地を自分のものにするかの奪い合いが続きました。そしてユダヤの人々のたった一つの聖地、そして後にイスラムの人々もユダヤとは別の理由から彼らの聖地と呼ぶようになったエルサレムも、その最大のターゲットとなります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４８年５月１４日、ユダヤのリーダーでイスラエル初代首相となったダヴィッド・ベングリオンは、この困難な状況下でイスラエル国家独立を宣言します。そしてそのまったく同じ日にエジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、サウジアラビア、そしてイラクの６カ国の軍隊が一気に建国したてのイスラエルへ攻め込み、第一次中東戦争が勃発して、当時のイスラエルにいたアラブの人たちの多くはこのアラブ側の軍隊へ参加しました。そして８ヵ月後の１９４９年１月までにイスラエルはこの軍隊を後退させますが、それでもエルサレムの旧市街を失い、そこにあった一軒残らずユダヤ教の会堂・シナゴーグの全て、そしてユダヤの人々の家々も全て破壊され、さらには彼らは旧市街から出て行くことを余儀なくされました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;と、長々と書いてきましたが、ここまでは現在パレスチナ難民と呼ばれている人たちの発端についての説明の序説といったところでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４８年の４月から１２月までの戦争中のこの土地から、７０万人のアラブの人が逃げ出したと国連は見ています。そのうちのいくらかの人たちはこのアラブとユダヤの争いを避けるために避難し、また他の人たちはアラブ側の攻撃に対するユダヤ側による報復を恐れたためだと言われています。しかし当時のこの土地のアラブの人々の多くは、彼らの政治リーダーから、「すぐにイスラエルは滅ぼされるだろう。そして君たちがこの土地に戻れる日はまたすぐにやってくるのだから、今は一旦ここから去るように。」と言われました。しかしその理由のはっきりとしたことはわかっていません。そしてそういった状況の中で１６万人のアラブの人々が、そのままこの土地に残り、逃げ出した人々のほとんどは国連がアラブの国を設立すると約束した土地へ移りましたが、ガザは当時エジプトに占領され、ヨルダンは東エルサレムと西岸地区を占領した後にヨルダンの一部として合併してしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして国連はUNRWA（国連パレスチナ難民救済事業機関）を設け、パレスチナ難民をシナイ半島やヨルダン、そしてシリアに住むための援助協力しますが、アラブ諸国の政府はパレスチナ難民を難民キャンプに留めるために、そしてそれによってイスラエル国家の存在を揺るがすために、この計画を、そして国連の関与するその他のパレスチナ難民援助を拒否します。現在は約４００万人のパレスチナ難民と呼ばれる人々が存在し、パレスチナ・イスラエル問題の主な交渉ポイントは、双方の国境をどこに引くか、入植地（Yesha)の問題、そしてこの難民の問題なのです。エジプトからやって来たアラファト議長（ちなみに彼はパレスチナ人ではありません。）やアラブ諸国は、この４００万人いるパレスチナ難民の帰還についてイスラエルに対し圧力をかけますが、しかし実際のところそれだけ多くのアラブの人々がイスラエルに住むということは、すなわちイスラエルがイスラエルとしての国家でなくなるということであり、それをイスラエル側がすんなりと受け入れるということは、絶対と言っていい程に考えられないことだと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９４８年のイスラエル独立当時、約９０万人のユダヤの人々がアラブ諸国に住んでいましたが、その大多数の人々がそれぞれの住んでいた国から無一文で去るようにと、イスラエルの独立に憤慨した政府によって言い渡され、現在ではたったの２０万人のユダヤの人々が、それほど反イスラエルではないモロッコなどの北アフリカに留まっているに限られています。そして残りの７０万人のユダヤの人々はイスラエルへ裸同然でたどり着きました。現在リビアとイラクは、これらの無一文で去ることを余儀なくされた元自国民であったユダヤの人々に対して、彼らの所有財産の返還を申し出ています。そしてこの土地を去らずにイスラエルに残った１６万人のアラブの人々はイスラエル国民となり、現在ではイスラエル国籍のアラブ人は約１２０万人いますが（現在のイスラエル国民数は６百万人です。）、 しかし彼らはアラブ諸国のリーダー達によって裏切り者と見なされ、エルサレムの旧市街のモスクへ礼拝に行くこと、そしてその他のアラブ諸国に住む家族との連絡を持つことを一切禁止されています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この後から１９６７年までの戦争の歴史は、今回のポストでは特に重要ではないので省きますが、１９６７年６月９日に起きた６日間戦争ではイスラエルはシリア、ヨルダン、そしてエジプトを攻撃します。これはアラブ側の見方では、イスラエルはこの戦争によってガザと西岸地区、そして東エルサレムとシナイ半島を占領したとされていますが、その反対にイスラエル側の見方ではガザとシナイ半島を占領し、東エルサレムと西岸地区をヨルダンから解放して東エルサレムをイスラエルの一部としました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ここからいよいよ入植地（Yesha）について、そして前回の大黒さんの質問について、次回に続きます。（大桑）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;参考文献：&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0415281172/ref=pd_sim_books_4/103-0220745-1515010?v=glance&amp;s=books"&gt;The Routledge Atlas of Arab-Israeli Conflict: The Complete History of the Struggle and the Efforts to Resolve It (Routledge Historical Atlases)&lt;/a&gt; 』&lt;br /&gt;by Martin Gilbert&lt;br /&gt;　　　　　&lt;br /&gt;『&lt;a href="http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0253208734/ref=pd_sim_books_3/103-0220745-1515010?v=glance&amp;amp;s=books"&gt;A History of the Israeli-Palestinian Conflict (Indiana Series in Arab and Islamic Studies)&lt;/a&gt;』&lt;br /&gt;by Mark A. Tessler&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109340639353833355?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109340639353833355'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109340639353833355'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/08/o.html' title='パレスチナ難民問題の発端　（O）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109245145062547870</id><published>2004-08-14T11:43:00.000+09:00</published><updated>2004-08-14T11:52:03.790+09:00</updated><title type='text'>何と何がこの土地では本当に対立しているのか (D)</title><content type='html'>大桑さんの説明による、「パレスチナと呼ばれてきたもの」の実体、そして紀元前1000年にまでさかのぼるその語源について、わたしにとってはまったく未知の内容でした。中でもローマ帝国が、ユダヤの名残りをこの土地から消し去るために、「イスラエル」を「パレスチナ」と呼び改めたこと、それが世界史的に最初のパレスチナの登場だったという事実には驚かされました。さらには、その「パレスチナ」という言葉の元々の意味が、その昔この土地でユダヤ人に敵意を抱く人々を指すユダヤ人側からの言葉（ヘブライ語）のラテン語読みだということを聞いて、頭の中が混乱しました。何重にもよじれ、ひねられ、ひっくりかえされた歴史基盤の上に置かれた人々、ユダヤ人とこの土地。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そして現在「パレスチナ人」と一般に呼ばれている人々、イスラエルのアラブ人たちとの対立関係は、19世紀の終わり頃に起き始めたことのようだということがわかります。それが今回投稿メールを送ってくれたダニエルさんの言う、ヨーロッパからのユダヤ人たちが「故郷へ戻るため」にこの地に移住し、メソポタミア、シリア、エジプトからアラブ人たちが「労働のため」に移住した、その時期と一致していることに気づかされます。つまり、その頃に、それぞれの理由によって、現在イスラエルと呼ばれている土地のあたりに、ユダヤ人、アラブ人双方の人々がたくさん押し寄せ移り住むようになったのだということがわかってきます。ということは、パレスチナとイスラエルの問題は、大掛かりで長期にわたる移民問題、ということができるのでしょうか。移民というからには、普通、移民される側の主体となる国があるわけですが、それに当たるのが帝国時代のトルコであり、植民地体制でのイギリスとするなら、これら宗主国が去ったあと、移民同士が直接にぶつかりあうという事態が起きていると考えることもできそうです。ユダヤの人々にとっては、「移民」という考え方ではなく、「故郷へ戻る」ということではあると思いますが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダニエルさんの発言からも、いろいろ考えさせられました。いくつかを上げてみたいと思います。まず、問題の中心となっている地域イェシャ(Yesha)のユダヤ人にとっては、日本で「パレスチナ問題」と呼ばれているものは「イスラエル政府問題」として捉えられているという指摘です。わたしの理解では、今起きている問題は、よく言われているような単純な二項対立（ユダヤ人入植者対パレスチナ人先住民のような）ではないということ。ダニエルさんが兵役拒否をした理由は、イスラエル政府への反発、不服従の気持ちからと書かれています。イスラエル政府は結局のところテロリストたちを擁護しているのではないか、という疑問をお持ちのようです。もしそうだとしたら、そこにはどんな政治的な思惑あるのでしょうか。あるいはなんらかの妥協なのでしょうか。ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府であるとしたら、それはどんな理由からなのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;話は少し飛びますが、最近こんな記事を読みました。イスラエルのユダヤ人社会にはヒンドゥー社会におけるカースト制度のような階級がある、という話しです。つまりユダヤ人社会の中にもいくつかの対立事項が存在する、ということなのでしょうか。その階級とは、東欧からの移住者をトップに、イベリア半島からの移住者、そして最下層に北アフリカやイスラム文化圏からの移住者、というような順序づけがされているそうです。違う階層の男女が結婚するときのてん末をあつかった映画が「ブーレカ映画」と呼ばれて一ジャンルをなすくらい、この階級差は自明のことのようです。とすると、ユダヤ人とひとことでくくるには困難な民族集団としてのユダヤ人とその社会が見えてきます。出自や文化的背景、利害関係において、あまりにも立場が違うという意味で。こうしたことも、パレスチナ、イスラエル問題を複雑にしている要素のひとつなのでしょうか。（参照：「新潮」９月号／四方田犬彦『メラーの裔／モロッコ系ユダヤ人をめぐる６つの断章』）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もうひとつ、ダニエルさんの記述の中で、「Yeshaを発達して」良い土地にする、という箇所が気になりました。イェシャというのは問題となっているヨルダン川西岸とガザ地域のことです。ここを発達（発展）させる、といはどうことを指しているのでしょう。この地域で、イスラエル政府によって擁護されている「アラブ人テロリスト」を排斥して、ユダヤ人とアラブ人の共存関係の可能性を探り、それを育てていくということなのでしょうか。それともユダヤ、パレスチナの間にきっちりと境界を引き、今後問題の根となるようなものが残らないよう、合理的、公平に分離していくということなのでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グロスマンの本を読んでいて印象的だったことは、この本の著者自身の考え方としては、さまざまな辛い妥協に双方が従わなくてはならかったとしても、二つの民族国家としてパレスチナ、イスラエルという別の主権国家をつくる道筋が必要であり、そのために具体的で集中的な交渉を重ねるべきであるということがはっきり書かれていることでした。パレスチナ人、イスラエル人両方にその解決能力がないなら、国際社会の介入も、国際的な軍隊の派遣もふくめて、求めたいということも2001年６月の日誌には書かれています。これが長年の戦争状態とテロの恐怖の中で日常を送ってきた、イスラエルに住むユダヤ人の一作家にとっての結論なのだということです。（大黒）&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109245145062547870?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109245145062547870'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109245145062547870'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/08/d_14.html' title='何と何がこの土地では本当に対立しているのか (D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109218045399527481</id><published>2004-08-11T07:04:00.000+09:00</published><updated>2004-08-11T08:51:53.856+09:00</updated><title type='text'>読者からの手紙－京都在住のダニエルさんより。（８月６日）</title><content type='html'>今回コメントを寄せていただいたダニエルさんについて。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ダニエルさんとはエルサレムで数年前に出会い、それ以来京都出身の私はエルサレムに、そしてその入れ替わりのようにエルサレム出身の彼は京都に住みつつ交流が続いています。ダニエルさんは東京大学を経て現在は京都大学で物理を学んでいます。驚くことに、彼はこれまで日本語は一度も誰からも教わったことはなく、すべて独学だそうです。またダニエルさんには過去にエルサレムで２度もテロに遇ったというとても痛ましい経験があり、そういう方の声を聞けることは大変に貴重だと思っています。現在、彼は物理のほかにはユダヤ教の教えも勉強しつつ、日本の社会に生きながらも、きちんと安息日などを守りながら正統派ユダヤ教徒の生活をしています。（大桑） &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;下記はダニエルさんからの手紙です。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「始めまして。ダニエルと申しますが、日本に住んでいるユダヤ人です。大桑さんと大黒さんが書いた意見を興味深く読みましたが、ちょっとコメントしたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まず、「テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります」と大黒さんが書きましたけど、私も兵役拒否しました。偽の「平和」を作るためにテロリスト国を作りたいためではなく、イスラエル政府の政策には反対ですから、何年間刑務所にいてもその政策に協力することは断じてしないです。結局運良く刑務所に入る必要がありませんでしたけど。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;Yesha*¹（ユデア、サマリア、とガザ、つまり西岸とガザ）のユダヤ人にとっては、PLOやHamasとの戦争は「パレスチナ問題」よりも「イスラエル政府問題」として考えられています。テロリストが使っている武器は、Oslo　Accordsの後にイスラエル政府がアラファットに与えたものだとか、TunisからPLOを誘ったのがイスラエル政府だとか、ガザのユダヤコミュニティーを破壊したがっているのがイスラエル政府だとか、「パレスチナ問題」と思われることがすべてイスラエル政府自体の所為だという考え方もあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ユダヤ教のなかに、「lasheker ein raglayim（レシェケール　エイン　ラグライム）」、つまり「偽りに足がない*²」というイメージがあります。ヘブライ語だと、「Sheker」という「偽り」という意味の文字（シン・クフ・レシュ）の一つ一つには、足が一本*³　しかありません。反対に「Emeth（エメット）」という「真実」という意味の文字（アレフ・メム・タフ）の一つ一つには、足が二本あります。イスラエルにいるアラブ人がアラファットの偽りをまじめに信じていると思えないです。大黒さんが仰った通り、「パレスチナ」という国が１９１８－１９４８年にしか存在していなくて、そのときの「パレスチナ」人はアラブ人だけではなくて、イスラエルに住んでいた人たちのみんなさんでした。却って、アラブ人が自分のことを「アラブ人」と呼びましたので、自分のことを「パレスチナ人」と言ったのはユダヤ人だけでした。私の祖父は三十年代に、「パレスチナ人」のためのでもに参加しました。その「パレスチナ人」の意味は、イスラエルに住んでいるユダヤ人でした。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大黒さんが仰った通り、ユダヤ人とムスリムが平和に暮らすことができると私も思います。「宗教的対立が問題の根」ではないとは確かだと思います。問題の由来は、１９２０年代でのIslamist Movementの時代に始まりました。1929年に戦いを始めたのは、エルサレムのGrand MuftiのHaj-Amin al-Husseiniでした。詳しいことは&lt;a href="http://www.freerepublic.com/focus/news/846987/posts"&gt;http://www.freerepublic.com/focus/news/846987/posts&lt;/a&gt;とかで読むことができます。十九世紀の前に、イスラエルの人口は数万人しかいませんでした。十九世紀と二十世紀の始まりに、ヨーロッパからのユダヤ人と、メソポタミア・シリア・エジプトからのアラブ人がたくさんイスラエルに移民しました。ユダヤ人は「故郷へ戻る」ために来て、アラブ人が労働のために移民しました。そして、１９２９年に「ヘブロン虐殺」とかがあって、争いが始まりました。現代の偽りに対立している人が少ない理由は、アラブ人がそれを信じているからだとは思いません。「偽りに足がない」から、それを支えることがなければ、今の理不尽な状態は成り立てないと思います。PLOの偽りも支えているのがイスラエル政府の政策です。ユダヤ人がテロリストに殺されているときに、犯罪者が二人いる。その人を殺したアラブ人、とテロ組織を強めたイスラエル政府です。みんなが平和がほしいと思いますけど、平和になるために、偽りを支えてアラブ人のみのテロリスト組織が支配している国を作るのではなくて、真実を認めてユダヤ人を全イスラエルに自由にするのが正しいです。テロ組織に武器を与えるんじゃなくて、テロリストを逮捕する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ユダヤ人の夢を砕くんではなくて、Yeshaを発達して、みんなが誇りに思われるような素敵な土地にすることが正しいだと思います。アラファットに捨てるんじゃなくて、イスラエルの大事な大事な部分として道・水道・電気構造を作りましょう。聖書から約束された国ですから。ダニエルより 」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;訳注（大桑）：&lt;br /&gt;*¹　Yeshaはイェシャと発音します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;*²　ユダヤ教神秘主義のカバラではヘブライ語の一字一字が漢字のように意味を持つとされていてます。足のように支えになる部分のない文字から成っている言葉は立っていることができずに倒れてしまいます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;*³　 足が一本とは、この文字の足があるような形のヘブライ語文字のことを表しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;strong&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109218045399527481?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109218045399527481'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109218045399527481'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/08/blog-post_11.html' title='読者からの手紙－京都在住のダニエルさんより。（８月６日）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109172369430611834</id><published>2004-08-06T01:32:00.001+09:00</published><updated>2008-10-22T11:21:13.128+09:00</updated><title type='text'>パレスチナとはなにを指すのか　（Ｏ）</title><content type='html'>先日の大黒さんのポストから、&lt;span style="color:#000000;"&gt;こ&lt;/span&gt;&lt;span style="color:#000000;"&gt;のあ&lt;/span&gt;たりの土地についての歴史的なことを一挙に駆け足でザザザーッと、見てみます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;まずは、このパレスチナという言葉について。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このパレスチナという名前は、紀元前1000年ごろのガザあたりのごくごく限られた地域のことを指していました。当時そこに住んでいた住民は常にイスラエル王国を攻撃し、そのためにユダヤの人たちは彼らをヘブライ語で「侵入者」という意味に当たる「プリシティン」という名で呼びました。そして、このあたりの土地はプリシティン、侵入者が住む土地という意味の「ペレシャット」と呼ばれるようになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この「プリシティン」と呼ばれる人たちは、元々はギリシャからレバノンとそしてガザあたりに移り住んで来た人たちのことで、現在パレスチナ人と呼ばれているアラブ民族ではありませんでした（現にパレスチナまたはプリシティンという言葉のはじめのＰの発音はアラブの言語にはなく、そこからもこの名前が元々彼らの言葉から来たのではないことが伺えます）。そして数百年にわたりユダヤ人たちは侵入を繰り返すこのプリシティンたちと戦い、紀元前900年に、遂にユダヤのダビデ王はそのプリシティン達とその土地を滅ぼしました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;西暦150年には、ローマ帝国よって滅ぼされたイスラエル王国の名残のエルサレムはアエリア・キャピタリーナという新しい名で呼ばれ、イスラエル王国は彼らによってプリシティンのラテン語読みであるパレスチナという名前を与えられました。ローマ帝国は、ユダヤ人たちが常にローマ帝国に反抗してきたことで、イスラエルそしてエルサレムという名をユダヤ人たちから完全に消し去ることによって、ユダヤ人たちを制覇しようとしたわけです。そしてその当時は、この土地にはアラブ人はまだ住んでいなかったのですが、622年にモハメッドが創めたイスラム教を広めるために、636年になって初めてアラブ人がアラビア半島のメッカやメディナからパレスチナの地域にやってきました。そしてアエリア・キャピタリーナは、やって来たアラブ人によって、今度はアルクッズと呼ばれるようになりました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;また、352年からアラブ人がやって来る636年までの284年間は、この土地はビザンティン帝国の一部としてキリスト教の国でしたが、11世紀の終りになり十字軍がこの土地に進出して、多くのユダヤ人たちとイスラム教徒を殺し、その後この土地を200年に渡りキリスト教の国として支配し、アルクッズは再びエルサレムという名に戻ります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1291年、今度はイスラム教徒のマメルックスと呼ばれる人たちが十字軍と戦い、彼らからこの土地を奪い取り、キリスト教の国からイスラムの国となります。そしてサラディンというこのマメルックスのリーダーは、イスラムの聖典であるコーランには神はこの土地をユダヤ人たちに与えたと記されているため、世界中のユダヤ人たちにこの土地に帰還するように言い渡します。その為、1世紀から2世紀にかけてローマ軍によってこの土地から追い出されヨーロッパに移り住み、キリスト教徒によって迫害されていたほんの一握りのユダヤの人々がこの土地に帰還しました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1517年、トルコ帝国がイスラム教徒の国を支配します。その中には当時イスラムの国であったこの土地も含まれていました。サラディン時代からトルコ帝国時代の終わりの1880年まで、主にトルコ帝国の支配によってユダヤ人とアラブ人は問題なく共存していましたが、1880年、トルコ帝国支配下のアラブ人は彼らの国を持つということに目覚めだします。そして時を同じくして、ロシアと東ヨーロッパのユダヤ人が、キリスト教徒による弾圧から逃れるための新天地を求め、この土地に移住しはじめます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;移住してきた彼らは、荒れた土地、沼地、そういった誰も欲しくないような土地をアラブ人とそしてトルコ人から買い取ります。移住してきたユダヤの人々には手に職があったりと、当然アラブ人はヨーロッパからのユダヤの移民の数が増えていくことによい顔はせず、反シオニズム社会を形成し、トルコ帝国にユダヤの移住を禁止するように訴えます。そして1886年に、ペタハ・ティクヴァやレホヴォットという開拓されていた町が、はじめてアラブ人たちによって攻撃されますが、それでもユダヤ人たちはヨーロッパから（特にロシアから）の移住をやめず、1909年には、ユダヤ人はテル・アヴィヴ（ヘブライ語で春の丘という意味）という、初めてのユダヤ人だけの町を建設します。ちなみに1880年から1914年にかけて、６万５千人のユダヤの人々がこの土地に移住してきました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1914年、第一次世界大戦が勃発します。トルコ帝国は敵国・英国と戦います。1915年、英国はトルコ帝国に住んでいたアラブ人たちに、英国に寝返ることによって勝利の暁には彼らに独立した国を与えると約束します。かの有名な映画『アラビアのロレンス（あの若き日のピーター・オトゥール！）』のモデルになった英国の陸軍将校ロレンスは、アラビア半島にやって来てアラブのいくつもの部族（反乱軍）を指揮し、トルコ帝国の軍隊を攻撃したのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1917年、英国はユダヤの富豪から第一次世界大戦の戦費調達を得るために、ユダヤの人々にこの土地に国を持つ権利がある、というバルフォア宣言を発します。そして、その権利はアラブの人々にもまた同じく約束されていました。しかし、勿論、英国はこの公約を守らない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;1918年、英国が勝利し終戦し、英国はアラブとユダヤの両方についてその約束を守らずに、英国はフランスと密約を交わしていたので、アラブに対してはサウジアラビアなどのアラブ諸国を直線的に国境を引いて建設しますが、ユダヤには何も与えませんでした。1920年、サン・レモ会議において、この土地は英国の委任統治領と認められ、再びパレスチナと呼ばれます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;西暦150年にローマ帝国によってこの土地がパレスチナと呼ばれてから1770年間という月日を越えて、1920年から1948年のイスラエル建国までの28年間、この土地は再びパレスチナと呼ばれていました。 　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109172369430611834?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109172369430611834'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109172369430611834'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/08/blog-post_06.html' title='パレスチナとはなにを指すのか　（Ｏ）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109142909973474642</id><published>2004-08-02T15:44:00.000+09:00</published><updated>2004-08-02T15:58:16.116+09:00</updated><title type='text'>トルコ時代のパレスチナ人、ユダヤ人の平和　(D)</title><content type='html'>本題に入る前に：&lt;br /&gt;大桑さんの前回のポストにイスラエルの徴兵制のことが出てきました。歴史的な場所マサダの丘で行なわれる入隊式の話、そこから喚起されるのかもしれない若者の国民意識のことなど。そういえば、１、２年前だったか、テレビのドキュメンタリー番組で10代のイスラエル人の男の子が兵役拒否をして、刑務所に入るてん末を追ったものを見た覚えがあります。そして最近は、兵役拒否をする若者たちが孤立しないよう、外国人が外側からその行動を支援するという活動についても聞いたことがあります。入隊する者が数として減ることで、あるいはイスラエル国内にも戦闘をしたくない者がいるということの表明で、平和への道を探ろうとしているのでしょうか。国家にとってはこれは困った問題でしょうし、その時期を迎えた若者たちにとっては命にかかわる、無自覚ではいられない切実な選択のときであることは間違いないでしょう。そして自分という個人と国家の関係を、入隊するにしても兵役拒否するにしても、はっきりと意識するきっかけとなるのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、前回、パレスチナについてのわたしの理解を書くと予告したので、今回はそれについて以下に書こうと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;パレスチナがいつどのように存在するようになったのか、わたしはこのプロジェクトを始める前にはよく知りませんでした。そこで「世界史年表・地図」（1998年版／吉川弘文館）というものを取り出して、世界史地図のページを繰っていきました。まず現在の西アジア・南アジア地域を確認すると、シリア、レバノン、ヨルダン、エジプトなどに囲まれた地域にパレスチナの名前はありません。次に第二次大戦中（1943-1945）のヨーロッパの地図を見ます。パレスチナ、あります。次にヴェルサイユ体制下のヨーロッパ（1918-1937）の地図に目をやります。シリア、イラク王国、ネジト王国（現サウディアラビア）、エジプト王国などに囲まれてパレスチナの名前があります。次に第一次世界大戦中のヨーロッパ（1914-1918）の地図のページを繰ったとき、さっき見ていた地域にはシリアもイラクもヨルダンもなく、そしてパレスチナもなく、ただ大きく広がるトルコ帝国があるのみでした。1914年といえば、100年にも満たない過去のことです。イェルサレム、ベイルート、バグダード、そしてメソポタミアなどの文字が散らばる、大きな帝国がそこにはありました。その時期はヨーロッパにしても、イスパニア王国であり、オーストリア・ハンガリー君主国であり、ドイツ帝国であり、イギリス王国であったわけですが。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;地図を見ていて思ったのは、パレスチナが国として存在していた期間はずいぶんと短い期間だったのだな、ということ。1918年以降、イスラエル建国の1948年までのたった30年間だけ存在した国だったということになります。では1918年以前、トルコ帝国時代のパレスチナ民族はどのように暮らしていたのでしょう。四方田犬彦氏によれば、オスマン・トルコ帝国下で、大シリア地方南部の一地方として漠然とパレスチナと呼ばれていたそうです。十字軍の侵略のときを除けば、「イスラム教徒とユダヤ教徒、ドルーズ教徒、さらにさまざまな宗派のキリスト教徒でさえもが、同じ帝国の臣民として、のんびりと暮らしていた」そうです。ここでは西洋諸国では一般的だったユダヤ人差別もなく、ユダヤ人も日常にアラビア語を用いて、平和的に共存していたとのことです。（「サイードとパレスチナ問題」）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここから汲み取らなければならないこと、それは何でしょう。たとえば、パレスチナ人とユダヤ人は100年前には、同じ国の国民として、言語を共有し、宗教は違っても平和的に共存して暮らしていたという理解ができます。宗教のことにはうとい日本人は何でもすぐに、宗教的対立が問題の根と思い込むところがあるように思いますが、必ずしもそうではないんだ、ということがこのことからもわかります。では本当の問題は何なのでしょうか。あらゆる紛争がそうであるように、政治の、それも国際政治の問題がここでも最大の対立の根、ということなのでしょうか。（大黒）&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109142909973474642?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109142909973474642'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109142909973474642'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/08/d.html' title='トルコ時代のパレスチナ人、ユダヤ人の平和　(D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109138764144710667</id><published>2004-08-02T03:56:00.000+09:00</published><updated>2005-11-06T17:10:16.726+09:00</updated><title type='text'>マサダでの誓い　（Ｏ）</title><content type='html'>あまりにも日本の現実とかけ離れた時点で書いてきたようなので、とてもわかりにくい、または、なんだかピンとこない話（または対話）、になってしまった気がするので、もう少しイメージの湧いてきそうな話をひとつ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マサダの砦にて。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;エルサレムから海抜をどんどん下がって、マイナス400メートルあたりに来ると、左手に世界最古の町、エリコが見えて来ます。そこからTの字の道をエリコとは反対の左に折れて死海を横手にさらに南下して行くこと約20分。左側のぼーっと暑く霞のかかった、波もなくただ静かに広がる死海とは裏腹に、反対の右手側には赤茶けたゴツゴツした岩肌の山々が太陽に照らされて雲ひとつない、真っ青な空の下にそびえ立つ砦があります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;マサダの砦。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１世紀の初めにローマ軍がエルサレムを奪い、そこから逃げ延びたユダヤの人々が、ヘロデ王が残したこのマサダの砦に立てこもりました。そして、ローマ軍に降伏することを最後まで抵抗したという、歴史的な砂漠の中の砦です。ここには当時１０００人ほどのユダヤの人々が没落したエルサレムから逃れ、水を蓄え、町を作り、砦の下から攻めてくるローマ軍との戦いに挑みました。そして西暦７３年、３年という長い月日をこの荒野のマサダで生き延びたユダヤの人々は、遂に最後の時を迎えました。山の裾野からどんどん押し寄せるローマ軍は、今にもこの高くそびえる砂漠の赤茶けた砦を攻め落とそうとしています。それを悟った9９６０人のユダヤの人々は、互いにくじを引きあい、誰がどの順で誰を殺すかを決めてゆきました。彼らはローマ軍に降伏してユダヤの誇りを捨てるよりも、ユダヤの誇りと共に死ぬことを選び、敵の手にかかる前にマサダの住人の９６０人全てが、身内によって誰がどういう順序で亡くなっていくかの、そのくじを引いたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;現在マサダの砦は、イスラエルでもエルサレムに次ぐ人気の遺跡観光地となっています。死海近くの山のすそからはロープウェイが砦のある山頂まで人々をあっという間に運び、ループウェイから見下ろす足元はるか下には、当時ユダヤの人々が砦まで登った「蛇の小道」やローマ軍が野営していた跡地があちこちに点々と見えます。頂上の砦跡には、宮殿のテラスや住人の使用したサウナやシナゴーグの遺跡などがあり、そこからの景色はまさに絶景といわんばかり。見渡す限り生き物の気配のない赤い乾いた砂漠と、それを照りつける太陽。そして、じっとただ横たわる幻のような死海。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルの若者は18歳になると男子は3年から4年、女子は2年間に渡って徴兵されますが、軍隊のユニットによって、その入隊式がこのマサダの砦にて行われます。そして、このマサダで敵に降伏することなく、誇り高く死んでいった彼らの先祖の魂を忘れまい、そして二度とその悲劇を繰り返さないように「Masada shall not fall again」と胸に誓います。 もしもそれまでに一度たりとして、イスラエルの土地やユダヤの民に属するということを考えたことなどなかった若者がいたとしたら、マサダの砦の入隊式は、この土地に対する思いやユダヤとしてのアイデンティティを考えるきっかけのひとつになるのかも知れません。　　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109138764144710667?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109138764144710667'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109138764144710667'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/08/blog-post.html' title='マサダでの誓い　（Ｏ）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109124309018856618</id><published>2004-07-31T12:04:00.000+09:00</published><updated>2004-07-31T17:47:53.676+09:00</updated><title type='text'>今日を生きる自分、過去とのつながり (D)</title><content type='html'>まずはわたし自身への問いかけとして。今、ここ、にいるこのわたし、この人間はどのようないきさつでここに存在し何を（目的と）して生きつづけているのか。考えます。考えます。考えます。うーん、でてこない。つかみどころがみつからない。生まれた場所、育った場所、父と母、祖父母。それぞれの地名や名前を思い浮かべても、それは自然のなりゆきと家族のことに収斂していくだけで、それ以上の広がりをもって横につながっていったり、過去に深くさかのぼっていったりはしそうもないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんの前回のポストに、ユダヤの人々にとって過去は記憶ではなく、現在もひとりひとりが個々の生の中に具体的に取り込んで生きる指針としているもの、その背景には歴史的事実がある、というような記述がありました。だから多くのユダヤの人々は、わたしの言う「彼らの故郷とは、幻想としての故郷ではないのか」という見方を受け入れられないだろうと指摘しています。これはもう想像力を働かせて、働かせて、彼らの言う意味を知ろうとするしかないのですが、最初に書いたように、それを考える土台がわたし（という日本人）には持ち合わせがないのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これはわたしが日本人として少し特別なのか、それとも多くの日本人がこのような状態なのか、はっきりとは言うことはできませんが、わたしの想像ではおおむねの日本人は、今の日本人は、そうはわたしと変わらない気持ちで生きているのではないかと思うのです。（いや、それは違う、という方がいたら、ぜひ教えていただきたいです。皮肉でもなんでもなく） つまり、日々生きる個人としての自分と、日本というコミュニティ（国）に属する、現在までの長い歴史を共有する日本人としての自分を、重ね合わせ照らし合わせて暮らしているかどうか、そのことに現実感があるのか、というようなことです。実際にはそうではないのですが、わたしたち日本人は、国家という外皮をぼんやりと意識はしているものの、自分は自分であって自分は自分の意思で生きている、のように思って生きているような気がします。そして国家がその外皮を変化させたときは、またその中で、自分は自分であって自分の意思で生きている、と感じることができるのです。それは本当のことではないのですが、実感としてそのように（受け入れ）感じて生きていくことができるということです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのような土台をもつ（として）日本人は、パレスチナとイスラエルのことを考えるとき、それぞれのたどってきた歴史と、その解釈によって起こる激しい対立について、立ち入ることができないと感じるか、ただ単に嫌悪感を感じるか、のどちらかに落ち着いてしまうように思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;さて、ここまで書いてきてふと、これを読んでいる人は、おまえはユダヤ人と日本人の違いには再三ふれているけど、パレスチナはどこへいった、と思うかもしれないな、と思いました。ユダヤのことについては、日本人というアイデンティティをもちながらそれについて深く学んだガイド役の大桑さんがいるから、こうして対話を通じて少しでも近づくことができるけれど、パレスチナについてはどのように知っていけばいいのか。正直なところです。この対話を始める前に、パレスチナの成り立ちを知るために手にとった参考書は、「世界史年表・地図」（吉川弘文館）。これは紀元前3000年から現在にいたる世界史対照年表（世界の各地域が縦軸に、年代が横軸に配されて、時代ごとの各国、各地域がどのような状態だったかひと目でわかるようにしたもの）と、おおまかな時代ごとの世界史地図から成っています。わたしは人と話をしていて、本を読んでいて、テレビを見ていて、わからないことがあると、この本を取りだして事実関係を調べます。わたしの持っているのは1998年度版で少し古くなってしまいましたが、1300円という値段のわりには、とても重宝する参考書です。これを見て、パレスチナについて、どのような理解を得たかについては、次回ゆっくり書くことにします。（大黒）&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109124309018856618?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109124309018856618'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109124309018856618'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/d_31.html' title='今日を生きる自分、過去とのつながり (D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109080891989089314</id><published>2004-07-26T11:04:00.000+09:00</published><updated>2005-11-06T17:00:38.366+09:00</updated><title type='text'>一人一人の生きた故郷としての記憶　(O)</title><content type='html'>ユダヤの人々の思う故郷は、実在する記憶としての故郷ではなく幻想としての故郷ではないかと大黒さんは仰います。それはある意味では確かにその通りなのかも知れません。前回のポストで書いたことを読み返してみると、やはりそういうふうに受け取れてしまうことにも気がつきました。これまでエルサレムとNYとに住み、様々なユダヤの人々と故郷エルサレムについて話をする機会を幾度となく持ちました。しかし、これまでユダヤの人々から故郷エルサレムは幻想の故郷だという意見を一度も聞いたことがなかったので、大黒さんのご指摘にはいい意味で驚かされたというか、新しい発見と言ってもいいかも知れません。そして実際、多くのユダヤの人々はこの意見を受け入れられないことも間違いではないでしょう。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ユダヤの暦は、私たちが日常使っているキリスト誕生を紀元とした西暦とは異なり、本日の日付は日本や他の国のように「２００４年７月２６日」ではなく「５７６５年アヴの月の８日」にあたります。そして実は、翌日のアヴの月の９日は、ユダヤの人々にはとって非常に悲しい記念日です。紀元前５８６年にはバビロニア人により、そしてさらに紀元７０年にはローマ人によって、ユダヤの人々の生活の中心だったエルサレムの神殿が二度破壊されました。その日が偶然にも二度ともアヴの月の９日（ティシャ・ベ・アヴ）でした。その神殿の破壊以来、ユダヤの人々は、神殿の破壊と異邦人によってエルサレムから追い出され離散したことの悲劇を悲しみ続けています。神殿の破壊は決して過去だけではなく、たった今起こったかのように悲しみ、毎年このアヴの月の９日（ティシャ・ベ・アヴ）には、カラカラに乾いた炎天下の中、水一滴も飲まずに２４時間の断食を行い、喪に服します。それだけではなく、その日の３週間前からは、肉類の使った贅沢な食事や散髪と髭の手入れは禁止され、人々は暑さと切なさと共に日増しに髭ボウボウのやつれた人相になってゆき、悲壮感が漂います。そして、かつて神殿の建っていたエルサレムでは、音楽演奏や祭りなどの娯楽は一切行われず、当時の神殿崩壊と離散の悲しみを街と人とが一体になり身をもって感じようとします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ユダヤの教えの中には、過去の記憶をただ残してゆくだけではなく、その記憶を実際に現実のものとして、一人一人の生に取り込んで生きなければならないと言われます。例えば、毎年４月頃に訪れる出エジプトを祝う過ぎ越しの祭りでは、ユダヤの人々は各家庭で祭りの初夜の夕食に一家して出エジプトのしきたりに則り祈りや歌を歌い、かつてはエジプトで奴隷だったこととエジプトを後にしてから砂漠を４０年の間彷徨った事などを話し合います。夕食の最後には「来年はエルサレムで」と必ず皆で歌います。その歌はエルサレムに現在住んでいる人によっても歌われ、彼らはそうして毎年エジプトからの脱出を経験します。つまり単なる過去の歴史話しでは終わらずに、先祖たちの経験は今を生きるユダヤの人々もまた経験した事実のものとして一人一人の中に生き続けます。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、それでもそれは単なる疑似体験のようなものであり、実際に経験したことにはならないとも言えるでしょう。しかし、ただ単に幻想的に想像した故郷をノスタルジックに心に思い描くだけと、こうして疑似体験的経験ではあっても、かつてはそこに住みそして追われたことを一人一人の人生で起こったこととして受け止める。このふたつは異なるように思えはしないでしょうか。　　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109080891989089314?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109080891989089314'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109080891989089314'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/o.html' title='一人一人の生きた故郷としての記憶　(O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109033273402668839</id><published>2004-07-20T23:11:00.000+09:00</published><updated>2004-07-20T23:12:53.620+09:00</updated><title type='text'>それぞれが故郷と呼んでいるもの　(D)</title><content type='html'>土地と人をめぐる大黒、大桑の二つの文章を読んで、なんと考えの違う二人が一つの話題をはさんで対話しているのだろうと思われた人もいることでしょう。大桑さんの、よその土地から想う故郷への想い、わたしの、地縁のない土地への移住（再定住）への所感。大桑さんが生まれ育った国を離れて海外に長く住んできたことからくるのか、わたしが特定の土地との深い関係や故郷感というものを持たずに生きてきたからなのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんの書いていたユダヤの人々の望郷の想いについて読んでいて、ふと思い浮かんだことがありました。ユダヤの人々にとっての故郷とは、ひとつのコンセプトあるいは共同幻想に基づく、ひとりひとりが心に抱くイメージの実体のことだった（である）のではないか、と。具体的な細部（風の匂いや空の色など）をもつ場所としての故郷ではなく。あるいは細部（風景やその土地の自然物、気候など）から発想され思い起される、土地の記憶としての故郷ではなく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;たとえば日本に生まれ育った日本人が故郷と言うとき、それは具体的な土地（○○郡○○村など）のことであり、そこでの生活のあり方や言葉や人であり、風景や気候であり、そのことから引き起こさる感情もふくめたイメージの全体をさしています。日本人が具体的な細部なしに、故郷を想うことは不可能に思えます。ところがわたしの思うに、ユダヤの人々にとっての故郷とは、もっと精神や思考の中で純化された「思想」のようなもので、必ずしも細部をもつ具体的な土地そのもの、ということではないのかもしれない、と。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;もともと日本の人は、目の前にある現実や既成事実にしばられやすいところがあって、不可能に思えることに挑んで予測をくつがえす結果を引き出すことや、高い理想をもつことを苦手としているところがあるように思います。不満の多い状況に陥った場合も、ある程度までなら「しかたない」とその現実を受け入れていきます。心の中だけにある（にしか存在しない）イメージや思想を信じ、それに従って生きていく、それを追い求めていくのは難しいと考える人々じゃないかと思うのです。それに対してユダヤの人たちというのは、思想や観念、コミュニティの歴史や記憶といった、無形のものを国家にかわる枠組として心にもち、追い求めつづけることをしてきた人々のような気がします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実在の、細部をもつ故郷（国家）の存在を過去、未来にわたって疑わない日本人。思うことを止めたら消えてしまう、心の中にしか存在しない故郷（国家）を追い求めてきたユダヤ人。故郷という同じ言葉であらわされているものが、中身やあり様においてはかなりちがったものを指している気がしてきました。　（大黒）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109033273402668839?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109033273402668839'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109033273402668839'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/d_20.html' title='それぞれが故郷と呼んでいるもの　(D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109020092610219518</id><published>2004-07-19T10:14:00.000+09:00</published><updated>2005-11-06T16:38:04.066+09:00</updated><title type='text'>土地と人々、それぞれの望郷の思い　（Ｏ）</title><content type='html'>&lt;p&gt;人と土地の結びつき、これは非常に興味深いテーマだと思います。個人的な話をすれば、今から思い返せば日本に住んでいた二十歳頃は、ただひたすらに、がんじがらめの狭苦しい日本という土地から逃げ出したかったような気がします。そして実際には、良くも悪くも当面は日本には住まない道を歩んできたのですが、やっとここ数年になって自分がどれほど日本という国を美しく思い出し、また望郷の念にかられることでしょうか。それの気持ちを例えてるならば、女性が結婚して初めて実家の心地よさとありがたみが身に染みる、というようなことでしょうか。そしてどれだけもがいてみたところでも、結局は自分のルーツは日本であり、生まれ育った家系であり、他の何者でもない日本人でしか有り得ない自分に行き当たる。しかし、日本に住んでた頃はこんなことはまったく考える機会も理由もなくて、日本の外に出てから初めて嫌というほど考えさせられました。&amp;nbsp; &lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;ある時、エルサレムのアパートの寝室で、イギリスの詩人であるW.B.Yeats（ウィリアム・イェーツ）の『Under Saturn』という詩を、大江健三郎氏のある著書と合わせて読んでいた時に、 &lt;br /&gt;　 &lt;br /&gt;『 I am thinking of a child’s vow sworn in vain &lt;br /&gt;　Never to leave that valley his fathers called their home.』 &lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;という詩の最後の箇所を読んで、自分の中で恐らくは帰ることのない故郷に涙が止まらなくなってしまったことがありました。大江健三郎氏もよく、彼の出身の四国の在にいつか戻るはずだったという望郷心を書に書かれいてました。その望郷という共通の思いに、読み物は大江氏一色という時期がしばらく続きました。 &lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;ユダヤの人の望郷の念、これもまたその土地との非常に強い繋がりがあります。彼らはイスラエルの地を去ってから二千年も近くも流浪していたこと、そして何代にも渡って、いつの日にか必ずやイスラエルの地へ帰るという希望を胸に生きてきた人々です。そして歴史のある時点の流浪の過程で、何代にも渡り暮らしていたスペインを追われました。そして東へ東へと流れたユダヤの人々は、追われたスペインのあの我が家へ戻る日を胸に秘め、彼らの子供、そのまた子供たちにその思いを語り伝え、そしてスペインの彼らの家の鍵を今でも大切に保管しています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第二次世界大戦では、ドイツからはじまりその後にはヨーロッパ全域から追われて、彼らが命からがらやっと祖国イスラエルにたどり着いたのは、イスラエルを去ってから二千年という長い長い時間を経てのことでした。しかし、世界中からユダヤの人々がこの土地に帰還したことで、それまでこの土地を祖国として暮らしていたパレスチナの人々が彼らの祖国を失なってしまいました。そのパレスチナの彼らもまた、追われた家の鍵を大切に持っています。彼らの失った故郷への思いは、ごくごく普通の暮らしをしている日本や他の国々の人々の胸に共鳴することはとても難しいでしょう。日本でのロングラン・ミュージカルで｢屋根の上のバイオリン弾き」という物語があります。この物語りは、ウクライナのユダヤ家庭を通して伝統というものの大切さ、そして政治によって突然故郷を追われた彼らの悲しみを語りますが、このミュージカルが世界の中でも日本という国でこれ程までに長い期間に渡り非常に多くの人々の心に響くのには、やはり日本人の心には、ユダヤやパレスチナの人々と同じように、その土地または祖国というものに対しての思いが今でも心の中にしっかりと生きているからではないかと思いたい。　　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109020092610219518?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109020092610219518'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109020092610219518'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/blog-post_19.html' title='土地と人々、それぞれの望郷の思い　（Ｏ）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109013262117160271</id><published>2004-07-18T15:36:00.000+09:00</published><updated>2004-07-18T16:02:04.073+09:00</updated><title type='text'>人と土地の結びつき　(D)</title><content type='html'>大桑さんの中立的解決についての具体的な説明、とてもわかりやすかったです。大掴みにこの問題のポイントが上げられていて、全体を一覧するのに役立ちました。いくつかのことを考えましたが、その中で人と土地の結びつきについて、今回は書きたいと思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ある土地と人との関係に意味や真理があるならば、それは何なんだろうと。今の世の中では、世界的にみても、自分の国（国籍で所属し、そこの標準の母語を話す）ではない国に、さまざまな理由で人が移動し、市民権を得たり、移住して帰化したりということが、そんなに特別なことではなく行なわれるようになってきています。つまり人は、土地と人のあり方において、じょじょに新たな段階に入ってきているのではないか、という気がしているのです。もっと昔であれば、一個人にとって、生まれた土地、言葉を覚えた土地、両親や親戚のいる土地は、絶対だったのではないかと思うのです。ヨーロッパや中東などでは、日本ほど事は単純ではないものの、大雑把にはそのように言える（少なくとも一個人にとっては）のではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人間が生物のひとつである限り、土地との結びつきを生き方の根底に置くのは順当なことだと思います。植物も動物も発芽や繁殖によってある土地に根づきます。そして他の種との競合の中でテリトリー争いをして勝ったり負けたりして生き残ります。ただ人間は、植物や他の動物とはちがって、そのルールの中だけでは生きていない（いけない）ところがあるのでしょう。そこで出てくるのが再定住という考え方です。自分の出自に深く関係した土地から離れ、自分の思想に基づいた土地に、自分の意思で住みつくことです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;詩人の山尾三省は東京・神田に生まれましたが、自分の家族をもった後（インド・ネパール巡礼の旅を経て）、鹿児島県屋久島に定住しました。屋久島に「入植」し、廃村だった村を開墾して田畑を耕し、里づくりをしながら創作活動をして、そこで生涯を終えました。山尾三省の場合は、若いときに社会変革を志すコミューン活動（1960年代後半〜）をしていたとはいえ、「入植」は個人的な移住計画でした。またインドへの旅の前後から生涯にわたって仏教徒だったと思われます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんによれば、イスラエル、パレスチナの人々にとっての土地の考え方は、宗教に根ざした歴史の理解や個々の人生観と強く結びついているとのこと。このことを理解するのは簡単なことではないですが、日本人にとって身近な例で考えると、今の70、80代くらいの日本人の「人と土地の結びつき」を見ると少しは理解できるように思うのです。その年代の人々にとって、自分の故郷（土地の言葉、お祭りやしきたり、風景や自然物、人々の気質など）は自分自身と同じくらい（あるいは自分以上に）大切で価値あるもので、よそものからけなされたり、軽く扱われたりしたら、気分を害して喧嘩にもなりかねないようなものだと思うのです。そこから離れることは痛みをともなうことであり、年をとって子どもの世話になるときも、できれば自分が子どもの住む土地に行くのではなく、自分の土地に子どもを呼び寄せたいと考えます。それがその世代の人々の土地との結びつきです。その子どもの世代（現在の40、50代）は、そういう故郷感に反発して（生まれた土地にしばられるのを嫌って）、若いころ親元を離れ都会へ向かった人々だと思うのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ただおおまかに言えば、こういった昔ながらの故郷感は今でも生きています。夏のお盆、冬のお正月には、どんなに電車や道路が最悪の混雑状況であっても、「お里帰り」の一局集中化、民族大移動はなくならない。それはこういった日本人の故郷感があらゆる世代の人に浸透し、根強く残っているからではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしは両親の元々の故郷のどちらとも無縁の土地で生まれ育った、転勤サラリーマン家庭の子どもでした。また両親とも日本人ではあるものの先に書いたような故郷感を持たない人々であったこともあって、「お里帰り」に見られるような強い故郷感、所属する土地への強い愛（あるいは帰属意識）をずっと理解できないまま生きてきました。正直に言えば、違和感や反発の気持ちさえもっていました。そういう者にとって、たとえば山尾三省がやったような、血縁や出自とは別のところで発想された「再定住」という考えは、人間にとっての、土地との関係を見つめなおす、新たな段階について示唆しているのではないかと思えたのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここで書いた日本人の「故郷感」についての所感が、イスラエル、パレスチナの人々にとっての土地への想いとは違ったものであることは、わたしにもわかっています。ただわからないことを考えるときに、漠然と考えるわけにもいかず、自分の知る例を上げてまずは書いてみました。またイスラエル、パレスチナについて考えを述べる対話者のひとりとして、自分の土地への考えを書いておきたいと思いました。　（大黒）&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109013262117160271?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109013262117160271'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109013262117160271'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/d_18.html' title='人と土地の結びつき　(D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-109011063294897777</id><published>2004-07-18T09:28:00.000+09:00</published><updated>2005-11-06T16:23:40.096+09:00</updated><title type='text'>中立的解決とは　（Ｏ）</title><content type='html'>グロスマンは衝突の導火線が中立的になること、そしてイスラエル・パレスチナの両者がお互いの痛みとともに真理を受け入れることを望んでいる、と述べています。では、ここで言う真理とはどういうことなのか。 &lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;紙の上に｢真理」と、ひとこと書くことはとても容易です。そしてその意味を理解することもとても簡単なことのように思えるかもしれません。この土地に住むものではなく第三者の｢真理｣では、イスラエルとパレスチナのどちらかがこの土地から出て行くことで、この問題は解決される。このようにここでの｢真理」とは白黒のはっきりした単純明快なものに思えるかもしれません。しかしイスラエルとパレスチナの問題とは、５０数年もの長い間に絡まったいくつもの政治的策略や歴史、宗教、そして両者に属するまたは無念にも亡くなった一人一人のこの土地に対する夢、そういったことが奥深くかかわっていると思います。 &lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;簡単にそれらいくつかの｢真理」を挙げてみると、それは｢双方の権利」｢宗教」、｢圧力」、に分けられます。まず、理解しやすい｢双方の権利」から説明すると、イスラエルはこの土地でのパレスチナの存在を認め、それにかなった土地を分けることです。そしてそれと同様に、パレスチナはこの土地でのイスラエルの存在を認め、それにかなった土地を分けること。つまりお互いが、相手も自分達と同様にここで生きる権利を譲歩し、この土地で相手との共存を認めるということです。これは日本のように｢和」を重んじる価値観を持っていれば、とても簡単なことのように思えるのではないでしょうか。 &lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;ではそこに｢宗教」がかかわってくるとどうなるのか。イスラエルではユダヤの人々がその大半を占め、パレスチナではムスリム（イスラム教徒）が大半を占めています。イスラエルとパレスチナの両者が、両宗教の聖地とするエルサレムを相手の国の首都として認めないエルサレム問題でも解るように、まずこの二つの宗教が互いを理解しあうことはとても難しいのです。イスラエルでは、ある人々は宗教上この土地すべてはユダヤのものに（または先祖代々もともとユダヤ人のものと考える）、そしてそれと同様にパレスチナではこの土地すべてがムスリムのものにと、双方が互いの宗教価値観によってイスラエルまたはパレスチナをすべて得ることを夢に見ているのです。そしてその宗教観を妥協することはそれぞれの生き方、または人生を否定するほどに、まったく妥協するわけにはいかない問題なのです。これは宗教に携わった暮らしや人生観の薄い日本の人にはとても理解しがたいコンセプトですが、この土地では、これは非常に重要なことなのです。 &lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;そして、ここでの｢圧力」というのは、パレスチナはこの土地を囲む他のアラブ・イスラーム諸国から、イスラエルという非イスラムの国は認めるべきではないという圧力です。その要因には、白黒はっきりしたイスラムの世界観がかかわっているのですが、イスラームの視点では、この土地はイスラームのトルコ帝国に支配された歴史を持ち、一度はイスラームの土地であったのですから、この土地はイスラームのものとしてのみ存在するのです。それが今になってそのイスラームの土地を他宗教の国にすることは、彼らにとっては決して妥協できない話しです。例えば、２０００年に左派のバラク首相がエルサレムについての妥協案をアラファトに示した時点で、もし互いが受け入れていれば、すでにこの土地の状況に多かれ少なかれの変化が生まれていた可能性は非常に大きかったと言えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、アラファトが頑としてイスラエルの妥協案を受け入れなかったのは、周りのアラブ・イスラーム諸国からの圧力で、このとちをすべて得てのイスラーム・パレスチナ国家を妥協するわけにはいかなかったのではないかと思います。&lt;br /&gt;&amp;nbsp; &lt;br /&gt;イスラエルとパレスチナの両方が、そういったお互いのすべての真理を理解し、妥協し、そして受け入れてこそ、はじめて中立的に問題を解決へ向けることができるのではないでしょうか。　　　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-109011063294897777?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109011063294897777'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/109011063294897777'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/blog-post.html' title='中立的解決とは　（Ｏ）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-108994311983771538</id><published>2004-07-16T10:57:00.000+09:00</published><updated>2004-07-16T11:21:18.196+09:00</updated><title type='text'>中立の意味するもの (D)</title><content type='html'>大桑さんの「癒し」という言葉への違和感、やはりと思いました。実はわたしもこの言葉がどうしてこうも日本人の心をつかむのか、考え続けてきたところがあるからです。最初にこの言葉が現われたのはいつごろだったか。発端は音楽（ニューエイジなどの癒し系）だったかもしれません。そうするともう10年くらいになるのでしょうか。日本ではその発端の中から、特に心地いい部分だけを抽出して「癒し」として拡大してきたところがあるように思います。そして今ではこの「癒し」は、日本のビジネス、消費者会にとって欠くことのできないキーワードとなっています。個人の趣味の範囲ですらなくなっているのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;わたしがこの「癒し」という言葉に違和感（反感）をもつのは、まともにものを考えるのを放棄して、（必要なら）相手と「戦う」覚悟からも逃げて、自分のまっとうな「怒り」を押しつぶし、ひたすら何かに寄りかかろうとする甘えの気持ちを感じるからかもしれません。同じような系列の言葉に「自分にご褒美」（これも非常に好んで使われています／女性専用の言葉）があります。また最近は「自分と向き合う」という言葉も好まれています。つまりどこまでいっても、自分。自分の前に自分、自分の延長線上にも自分しか見えない、という悲劇です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;今、この文章を書いていて二つの言葉に立ちどまりました。「戦う」と「怒り」です。この二つは両刃の剣であるところがあって、怒りをつねに爆発させ、それを暴力によって解決しようとすれば戦争が頻発します。でも自分の「怒り」を飼い馴らし、起きていることの本質に触れないようにすれば、問題はいつまでたっても解決されないでしょう。隠されたままの怒りは、将来もっと大きな不幸につながることもあります。「戦う」というのは必ずしも暴力を意味しません。「怒り」の原因になっている大元の前に自分が進みでて、相手も同じテーブルに引き出して、解決するため全身全霊をかけること、それが本来の「戦い」だと思うのです。それは別の言葉で言えば、「対話」です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グロスマンの本の「序」にこんな文章があります。&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;　　わたしが望んでいるのは、この衝突を起す導火線が次第に中立的になっていくこと、双方が倦怠を感じること、イスラエルもパレスチナも痛みとともに真理を受け入れ、目標を実現するために非暴力的な手段を採用するようになることである。（ⅸ）&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;衝突を起す導火線を中立的にする、とは何を意味するのでしょう。それはイスラエル国内のことで言えば、対立軸（右派と左派）の、背中合わせに立って正反対に向けているベクトルの角度を少しずつでも小さくしていくことなのでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;対立軸をもたない日本人。それが心からの合意でそうであれば、こんなに幸せなことはないでしょうけど、怒りを見えないものし（され）その結果としての一元化だとしたら、その手のつけようのない不幸を忘れるためにさらに強力な「癒し」アイテムが必要とされるのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＊７月14日のポストの中の「現政権に意義をとなえる・・・」は「異議をとなえる」の間違いでした。直しを入れてあります。&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-108994311983771538?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108994311983771538'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108994311983771538'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/d_16.html' title='中立の意味するもの (D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-108989489043927957</id><published>2004-07-15T21:25:00.000+09:00</published><updated>2005-11-06T15:55:24.810+09:00</updated><title type='text'>なぜ軸というものができない、またはできるのか。（Ｏ）</title><content type='html'>先日のポストでも述べたように、エルサレムからでは日本の現状の詳細な事にまではわからないにしろ、最近の日本は「何かがおかしい」ということが海の向こうにいても、あるいは海の向こうだから尚のこと感じられるのかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;ここ近年でよく使われている、あまり好きではない「癒される」や「癒し」という系統の流行言葉。この言葉を耳にする、または目にする度に、これは一体どういうことだろうと思います。多くの人が欲しい物を簡単に手に入ることができ、情報が溢れた非常に物質豊かで平和な日本。そんな日本という国に住む人々は、一体何に不満を持ち、危機を感じて、この「癒し」を求めているのか。この飽食時代に生きる者が見失った社会や伝統、おそらく人々は方向性や価値観を探し出せずにいる、そしてそれらを探す必要性をもまた見出せないでいる、ということに関係しているのではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そのような社会では、国や個々の明確な思想などは、非常に馬鹿げた時代遅れなものなのかもしれません。そんな無駄なことに時間を費やして「考える」くらいならば、インターネットで現実味のないヴァーチャルなチャットやゲームをするほうが遥かに充実感を与えてくれる。仮にそれが一時しのぎであっても、いえ、ひょっとすると、一時しのぎがもてはやされている時代なのかもしれません。しかし、その一時しのぎの充実感とは、本当は虚無の仮の姿なのではないか。そして、その虚無感が「癒し」という言葉を求めさせ、そのどことなく心地よい響きに、なんだかわからないけれど癒されて安心してしまう。その辺りをぐるぐると回っているような、なんともおかしな実感のない世界が構成されているのではないかと思うのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;この中東の端くれのイスラエルで、もし誰かが仮に「癒されたい」と思った時、それは今日本で起こっている「癒し」の現象と同じことなのでしょうか。いいえ、そうは思いません。もしこの国で誰かが癒されたいと願ったとすれば、それは家族の誰かが毎日通勤のために乗っていたバスがある朝突然爆発して亡くなってしまった、または西岸地区でＩＤＦ（イスラエル国防軍）の兵役を務めていた最愛の息子が、軍のオペレーションでの失敗、またはハマスやイスラム聖戦に狙撃されて無念の死を遂げた、そんな喪失の苦しみから回復するための癒しではないでしょうか。または、このいつ自分に降りかかってくるかもしれない死の現実にうんざりして、ほんの少しの安らぎでもいいから得たいと思う。それはパレスチナに住む人々にも同じことが言えるかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;果てしなくくり返される喪失からの悲しみや苦しみ。そういう、非常に現実的でありかつ非現実的な日常では、ヴァーチャルな絵空事のような癒しの世界は成り立たないでしょう。仮に癒されたいと願っても、誰かが助けてくれるわけでもない。まわりもみな、それぞれに喪失があり、苦しんでいるのですから。そうすると、そこから自分を助けられるのは誰でもない自分であって、するといやでも色々なことを考えていかなければならない。その延長線上に、イスラエルのあり方とパレスチナのあり方、その両者の共存、そういったことを身をもって考えざるを得なくなる。この｢考える」ということが、イスラエルの建国後、戦後５０年以上にも渡ってイスラエルで繰り返されている。そしてそれに加えて、第二次世界大戦中にヨーロッパで起きたホロコーストから生き延びた、または生き延びられなかった、その記憶も消えることなく存在しているのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;このイスラエルという土地では、このようにして個人個人の軸というものが作り上げられてきたのではないかと。しかし、ここに来てすっかり物質社会となってしまった平和ボケした日本では、その土台すら固められないのではないでしょうか。大黒さんがおっしゃるように、日本にも昔はそういった「考え」または「軸」というものを持ったご老人や若者がたくさん存在していたのではないでしょうか。　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-108989489043927957?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108989489043927957'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108989489043927957'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/blog-post_15.html' title='なぜ軸というものができない、またはできるのか。（Ｏ）'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-108976018166776021</id><published>2004-07-14T08:08:00.000+09:00</published><updated>2004-07-16T10:57:10.780+09:00</updated><title type='text'>国のなかの対立軸 (D)</title><content type='html'>大桑さんの昨日のポストを見て、二つのことを思いました。ひとつは国の中に対立軸をもつ状況について。背中合わせに立っているかのようなベクトルをもつイスラエルにおける右翼派と左翼派の存在のこと。そしてもうひとつは、起きていることの実感を人はどうやって自分のものにしているのか、について。これは知識人の役割は何かという問題にもつながっていくことかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルの中での右翼派、左翼派の話を聞いて思ったのは、日本にはこういう対立軸はないなということ。今回の参院選の結果で自民、民主の二大政党時代が来た、というような報道がされていますけれど、これはグループの違いではあるけれど、明確な思想の違いによるグループ化には見えないのです。この二つのグループには本質的な対立軸はないでしょう。日本人がよく「選挙に行っても（どこが勝っても）世の中変わらないから」というのも、実はそういうところから来ているのかもしれません。日本に対立軸があるとすれば、既得権や地位をもつ（国の保護下にあったり、大きな組織に属している）人と、そうではない人の対立、いえ、対立はしていませんね、実際は。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルの人々が大きくは右派、左派に分かれていて、まったく反対のベクトルをもっていること、国がまっぷたつに分かれていることが幸せなことかどうかは別にして、本質的な対立軸（違う考え方の可能性）を自分たちの中にもちえない国民も、幸せとは言えないかもしれません。対立軸があってもおかしくない状況なのに、もつことを知らないとしたら。日々生きることと、自分の中に考えをもつことがつながっていない。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日本から離れていると日本で起きていることの実感がつかみにくい。流行やちょっとした言葉のニュアンスなどでも。わかります。これは多分、ものごとというのは事実関係からだけ成立しているのではないからでしょうか。ニュースを読んで起きていることの粗筋らしきことは知っても、何が原因でどういう経緯でそのようになったのか、これからどうなるのか、自分以外の人はどう受けとめているのか、などは簡単にはわかりません。今回の参院選での大方のムード（現政権に異議をとなえるために二番目の政党に票を集める）は、いったい誰が先導したのでしょう。そうしましょう、と口に出して言っている人を見たことはありません。（「異議をとなえるために選挙に行こう」という運動はありましたが。）でも今回の二大政党化への動きをつくったのは、こういう暗黙の了解によるムードだったのではと思います。（まわりの空気を読む、という才能は日本人は非常に長けていますから）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;起こっていることを自分の頭で理解することは簡単なことではありません。でも不可能なことでもないのです。ただそういうときに、自分の頭であれこれ考えているときに、同じように自分の頭でものを考えている人の考えを聞くのは、役にたちます。また希望につながることもあります。知識人の発言に意味があるとしたらそういうことではないのかと思うのです。知識人でなくとも、ものを考える友人が近くにいればそれで事足りますが、それがなかなかいない。そういう話しをまともにできる人がそうはいない、それが現実なのですから。（大黒）&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-108976018166776021?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108976018166776021'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108976018166776021'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/d_14.html' title='国のなかの対立軸 (D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-108966704783962884</id><published>2004-07-13T03:51:00.000+09:00</published><updated>2005-11-06T15:16:34.980+09:00</updated><title type='text'>一人の人間と国をつなぐもの (O)</title><content type='html'>日本では参院選があったとの事ですが、私はイスラエルから在外投票という方法が可能にも拘らず、投票へ参加はしませんでした。イスラエルから毎日のようにインターネットを利用して、日本のニュースを読むことはできます。しかし、政治の細かな流れや日常的な事件、そして現在何が流行っているのかなど、実際に日本に住んでいるように実感することは非常に難しいと感じています。それはおそらく、大黒さんがイスラエルで起きていることを実感できないように。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;しかし、こちらから高みの見物をしている限りでは、実際に今の日本の現状を本当に変えたいと思う人々がいるのでしょうか。大黒さんが仰るように、何か特別な理由がない限りは辺り触らず、自分の範囲の中で生きてゆくのが現代の風潮のようです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;昨日の私のポストでは、イスラエルの人々はそれぞれこの国についての意見があると言いましたが、それではここで少しその説明をします。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;イスラエルでは、大きく分けると左派・右派に分かれます。左派は、前バラク首相や１９９５年に極右のイスラエル人に暗殺されたラビン首相のように、パレスチナ側に土地を譲歩することによりイスラエルの存在が保たれると唱えます。そして、右派は、土地を分けることでパレスチナが満足し和平を結ぶとは信じず、土地を分けることでイスラエルは生存危機に陥り、そのため一切この土地の譲歩をせずに、セキュリティーが確保されたイスラエル国家を存在させようとします。この土地に関する左派と右派の思いは、ベクトルの両端の矢印が反対に向かって進んでいるようなもので、左派と右派の間に同意する地点がまったくありません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜこの左派と右派が協力し合うことなく、それぞれの道を突き進むのか。左派右派に関係なく、イスラエルとパレスチナの人々にも同じことが言えます。イスラエルとパレスチナに住むすべての人々が、この土地に対する様々な思いがあります。例えば、家族の歴史や宗教やその他の何か。そして、彼らはごくごく普通の日々を過ごせる時代が来ることを望んでるのにもかかわらず、そんな何かに囚われて、自己主張に突っ走り、本当に何を優先してゆくべきかをどこか履き違えているような気がします。　　（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-108966704783962884?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108966704783962884'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108966704783962884'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/o_13.html' title='一人の人間と国をつなぐもの (O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-108961794599941830</id><published>2004-07-12T16:37:00.000+09:00</published><updated>2004-07-12T16:43:58.933+09:00</updated><title type='text'>一人の人間と国をつなぐもの（D)</title><content type='html'>日本では昨日、参院選がありました。自分の行為（投票）がどのような役割を果たしているのか、集計結果を見ていて、よくわからなくなりました。もちろんただの１票なんですが、どこにもつながっていっていない、同じように考える人がいないのではという無力感を感じました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大桑さんによれば、イスラエルの人は一人一人自分の国に対して確固たる意見をもっている、ということです。その「確固たる」ところが、譲れない一線や争いごとを生む芽の一つになっていたとしても、それなしには今日も明日も生きられない現実があるのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;それに比べると、日本の多くの人は、自分や家族の歴史と国の歴史を重ね合わせて考えることが少ないように思います。その必要がない、なくても（ないほうが）生きやすいということかもしれませんが。だから70年くらいの人生なら、戦争でもないかぎり、国のことは忘れることにして、自分だけの人生を生きることも可能といえば可能です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;グロスマンの本を読みはじめて思ったのは、対立軸を（その記憶も含めて）持たない日本人を生きるわたしに、イスラエル・パレスチナの問題がわかるのだろうか、と。日本人にとって対立軸になりえるものとして、被害者側としてはアメリカ（敗戦国だから）、加害者側として朝鮮半島や満州での侵略などがありますが、どちらも今では現在の中に埋もれて見えなくなっています。30年くらい前には、日本のおばあさん、おじいさんの中に、「朝鮮人なんたらかんたら」のような言い方で、怨念のこもった民族差別を口にする人はいました。そういう意識が生きていた、対立軸が存在していた時代なのでしょう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;対立軸を持たず、細分化された同質の者どうし集まることを好み、争いごとは避けて通る日本人を、その社会を生きるわたしに、何がわかるんだろう。そうは思うけれど、経験していなくても、その立場になくても、人間には想像力というものがある。少しは何かわかることがあるんじゃないか。大桑さんも手をかしてくれるということだし。（大黒）&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-108961794599941830?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108961794599941830'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108961794599941830'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/d.html' title='一人の人間と国をつなぐもの（D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-108954694887069183</id><published>2004-07-11T20:22:00.000+09:00</published><updated>2005-11-06T14:48:17.523+09:00</updated><title type='text'>なぜこの本を手に取らなかったか(O)</title><content type='html'>まずはじめに。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これからここで大黒さんと私が意見を交換していく上で、どのような意見が出てくるのかはまだ未知のものです。ひょっとすると、日本では少々驚くような、また、今まで受け入れられたことのないような見解も少なからず飛び出すのではないかと思います。そこで、これまでメディアを通して得た頭の中にあるイスラエルとパレスチナの両国についての情報を、一度白紙に近い状態に戻すことが可能であるならば、そのような状態で読んで頂きたいと思うのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;実を言うと、これまで私は一冊たりとも、この手の中東政治関係の書物を完読したことがありません。そして実際に、私と同じように、この手の本を一度も手に取った事のないイスラエルの人々もとても多いのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;なぜこの手の本を読まないのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;これまでに、知識人というジャンルの人達は、ただ彼らの著書の中で中東平和にいかに哲学的な意味合いを持たせるかという事以外には、この何もしていないのではないかと思うのです。ここでの日常的な暮らしの中では、平和についての哲学は必要ではなく、ここに存在するのは毎日のように無意味に奪われる命と目前の死であり、哲学ではない。そして、多くのイスラエルの人々にすれば、彼らの一人一人がこの国について少なからずも意見を持っている。そして、例えば、この本の著者グロスマンの意見は、単にお隣のグロスマンさんの一意見でしかなっく、彼の伝えている日常的に感じる恐れ・悲観・そして希望は、ここに生きる誰もが同じように感じていることなのです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;そんな理由から、これまでこの手の本を手に取る気にはならなかったのです。しかし、この中東のイスラエルから遠く離れた日本に住む大黒さんが、｢読んでみよう」と仰ったことに、なぜか意味があるような気がして、この本を手に取ったのです。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（大桑）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-108954694887069183?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108954694887069183'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108954694887069183'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/o_11.html' title='なぜこの本を手に取らなかったか(O)'/><author><name>chika okuwa</name><uri>http://www.blogger.com/profile/16808032437411873228</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-7594978.post-108951113309986053</id><published>2004-07-11T10:58:00.000+09:00</published><updated>2004-07-17T13:28:32.753+09:00</updated><title type='text'>なぜこの本を手にとったか（D)</title><content type='html'>わたしがグロスマンの「死を生きながら」に興味をもったのには二つくらいの理由がありました。一つは友人の大桑千花さんが住むイスラエルという国について知りたいと思ったこと。大桑千花さんがどんな心情でそこで生きているかも含めて興味がありました。もう一つは、日本におけるイスラエル・パレスチナ問題の受けとめ方への興味です。わたしのそう広くはない体験の中での印象ではありますが、日本では、なんであれ、パレスチナやPLOに対して非難の目を向けることはタブーであるという約束ごとがあるような気がずっとしていました。それは、新聞やテレビなどの報道や知識人のコメントなどを読むたびに、知りたいことの半分しか知らされていない、という気にさせられていたからだと思います。どんな問題であれ、ものごとには両面がある。その両方を見なければ、その問題を知ったことにはならないし、少しでも公平で民主的な考えをもちたいと望むなら両面を見る必要がある、そう思いました。&lt;br /&gt;1954年イスラエル生まれのイスラエル人の作家デイヴィッド・グロスマンの著書を知ったとき、ユダヤ人サイドの考えを知るのに、これほどぴったりの本はないのではと思い手にとりました。政治的には左派の平和運動家で、宗教的には無宗教であるというグロスマン。パレスチナ出身のアメリカ人の学者・作家エドワード・サイードの著書がよく知られている日本において、グロスマンの著書を読むことの意味は小さくないとも感じました。　　（大黒）&lt;br /&gt;●デイヴィッド・グロスマン著&lt;a href="http://www.msz.co.jp/titles/06000_07999/ISBN4-622-07090-1.html"&gt;「死を生きながら／イスラエル1993-2003」&lt;/a&gt;（2004年４月、みすず書房刊／二木麻里訳／ヘブライ語の原典からHaim Watzmanにより訳された英語版を底本に、Bloomsburyによる英国版を参照した全訳＋出版後、著者より送られてきた７章分）&lt;br /&gt;●"DEATH AS A WAY OF LIFE/Israel Ten Years After Oslo" by David Grossman(published by Bloomsbury Publishing Plc. &lt;38 Soho Square, London W1D 3HB Publishsed in association with Farrar, Straus and Giroux Publishers, New York&gt; in 2003)&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/7594978-108951113309986053?l=grossman.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108951113309986053'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/7594978/posts/default/108951113309986053'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://grossman.blogspot.com/2004/07/d_11.html' title='なぜこの本を手にとったか（D)'/><author><name>editor*K</name><uri>http://www.blogger.com/profile/11418405720701316454</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author></entry></feed>
